「県政オンブズマン静岡(静岡県庁の光と闇)~よりよき未来のために~」管理人のブログ

注)teacupブログから移転の2022年5月以前の投稿には、文字コードの違いから多くの文字化けがあります。

公人と私人

2007-05-11 22:58:41 | 日記
安倍総理が靖国神社春季例大祭に「内閣総理大臣」名で供え物を奉納したことが問題になっている。
私費で行ったそうであるが「内閣総理大臣」という表示があったことが問題になっているらしい。
そもそも、公人であるか私人であるかということにどのような意味があるのだろうか。
一人の人間に2つの人格があるということはないだろう。総理大臣であれ公務員であれ、公人と分別されるのが一般的な解釈であろう。
問題視されるべきは公人か私人かという人格ではなくて公務としての行為か否かではないのか。
もし、総理が余暇活動としてスメ[ツクラブに入会の際に「内閣総理大臣」という表示をしたら特定業者への支援として問題になるだろうか。
塩崎官房長官は「首相の私人としての事柄であり、政府としてコメントすべきではない」と述べたというのも、これは公務ではないという認識を示したものだろう。
一般公務員の場合はわかりやすい。
勤務時間内が公務、時間外は私用。地方公務員法第30条には「すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない」とあり、もし勤務(職務)時間外に入札をせずに任意の店舗で物を買っても良いし、靖国に参拝し県職員という肩書きで記帳をしたとしても問題にならないのと同じである。
要は政治家の場合勤務時間と時間外という境がないためにこういう問題が発生するのであるが、裁判例のように公費で負担したか否かで区別するというのも一理ではないだろうか。
その上で、私用ということなら社会的に問題視したり、ましてや外交問題にしたりというのは全くおかしなことだと気づくべきである。総理大臣や閣僚は思想信条の自由がないというのはナンセンスであるし、そのことについて国民がいちいち賛同を示したり否定したりというのもまたナンセンスである。何も強制されているわけでなし、人は人と捉えればよいだけのことだ。

一方、政治家と違って、現場公務員のジレンマというのは、私的には無駄と分っていることを公務として行わなければならないときに生じる。
公務上の公的義務と私的感情の問題である。
このような問題は管理人あてのメールや直接の質問・相談でも多いが、大体は、勤務(公務)時間内は職責に応じて淡々と職務に従事すればいいだけのことで、個人的にその仕事を支持するしないということとは分けて考えればいいのでは、と答えている。
相手を説得する際にも個人感情としてはできないというのであれば「県としては」と枕詞をつければいいことでしょ、と。実際私も、所として決裁を経た文章を担当の名前で出すのはおかしい虚偽表示だ、として名前の掲載を認めなかったが、個人として拒否できるものははっきりと拒否すべきである。個人携帯の番号やメルアドもしかりである。
そうすることによって、結局は現場支持を経ていない事業の行く末がはっきりすると思うからだ。
企業でも同じであるが、個人のモチベーションが発揮されない事業は大抵失敗するものだ。
だから、事業立案の段階でそういうことも含めて納得いく事業及びスタッフを揃えるのが鍵になるのであるが、今の本県は全くそんなことは考えていない。
その上で、もし複数の仕事があって、うち県民のために必要と考えることがあればそちらに重心を移すことくらいは現場裁量で十分できる。
公務とはいえ人が従事する以上少なからず人間性が反映される。マクドの販売接客とは違うのだ。
現知事のための公務か、目前の人達(県民)のための公務か、現場職員ならそのくらいのことは分るだろう。個人としてできる範囲で、県民の声を、現場の声をもって、机上の空論で仕事をしている役人を動かしていかなければならないという自負をもってがんばってほしい。魂まで売る必要はないのだから。