goo blog サービス終了のお知らせ 

相模太夫の旅録=Tabi Log

☆ 旅は一枚の写真から始まる!!

☆ 旅先での四季彩々一期一会の被写体を瞬撮!!

熊本「高橋公園」に力強く建つ「横井小楠像」と「維新群像」

2024-04-10 13:52:56 | 石碑・顕彰碑
熊本市中央区千葉城町、熊本城を囲むように流れる坪井川沿いの千葉城橋と厩橋の間に「高橋公園」はある。当園は戦前の第六師団長官舎があった跡地で熊本市の第7代市長で市電の開通や水道の敷設など市の発展の基礎をつくった「高橋守雄」を記念して造られた公園である。熊本城を望む広々とした芝生の公園で市街地の賑やかな場所にありながら、静かな散策を楽しめる公園でその園内の一画に「横井小楠」、彼と親交のあった「坂本龍馬」「勝海舟」「松平春嶽」「細川護久」の5人の銅像が維新の群像として力強く建てられている。「横井小楠」は熊本市内坪井出身の思想家で幕末の動乱期に目指すは「大義を世界に広めることにある」と唱え、日本の進むべき道を示した先駆者で「坂本龍馬」や「吉田松陰」と交流のあった歴史上の人物で「維新群像」は「横井小楠」と「志士」たちの功績を讃えたものである。また、西南戦争の熊本鎮台司令長官だった「谷干城」の銅像もあります。「谷干城」は天保8年(1837)、土佐藩に生まれ、明治10年(1877)の西南戦争で政府軍の熊本鎮台司令長官として少数の兵とともに籠城し、52日間にわたる薩軍の猛攻に耐えたことで名を馳せた人である。以前は熊本城内の天守閣南側にあったが熊本城本丸御殿の復元に伴い、高橋公園に移設された経緯がある。(2403)
 
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「南山古梁禅師顕彰碑」と「舘盛静光氏胸像」を訪撮

2024-03-24 11:14:07 | 石碑・顕彰碑
橋本市上九沢(梅宗寺の右側)に「南山古梁禅師顕彰碑」と20年間相模原市長を務めた「舘盛静光氏の胸像」が建てられている。「南山禅師」は宝暦6年(1756)ここ上九沢村名主笹野政右衛門の次男として生まれ、9歳の時、長徳寺(上大島)で出家し、11歳の時に江戸「東禅寺」で修行する。38歳の時、仙台藩主「伊達重村」公より仙台「瑞鳳寺」14世の住職として迎えられる。54歳の時、京都「妙心寺」に入山し、朝廷より紫衣を賜る。帰藩後瑞鳳寺・覚範寺の両寺の住職、伊達公より顧問格として推重され、その学徳は多くの人々に尊敬されるに至った。「南山」は天保10年「瑞鳳寺支院」(雄心院)にて84歳で遷化した。この碑は「南山禅師」の遺徳を称えるため昭和37年に建碑されたものである。碑文「天下有山水 各擅一方美 衆美帰松州 天下無山水」(天下山水あり おのおの一方の美を擅にす 衆美松州に帰し 天下山水なし)と刻まれている。凡人には難解な五言絶句である。また右側に建てられているのは第5代市長の「舘盛静光市長」の胸像である。題字は書家「長嶋南龍」氏、撰文は第6代相模原市長の小川勇夫氏である。撰文には舘盛静光氏は1914年旧大沢村生まれ、大沢村役場に勤務の後、町村合併・市政施行を経て相模原市教育委員、教育長、助役を経て市長となる。1997年勲二等瑞宝章を受章された。(2403)
 
 
 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火伏の神様、火防の霊験「秋葉大権現」の石碑群!!

2023-08-09 13:50:07 | 石碑・顕彰碑
相模原市緑区橋本に鎮座する臨済宗寺院「香福禅寺」の西門の横(塀外)の道路脇、昔は「山王山」と呼ばれていた所に「秋葉大権現の石碑」と「石祠」、「徳本念仏塔」、柳川先生の碑、「常夜塔」、「出羽三山参詣供養塔」、「山王社」などの石碑が並んでいる。「秋葉権現」は秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神で「火伏せの神様」、「火防の霊験」として信仰されている。「秋葉三尺坊大権現」の三大誓願は「第一我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す」、「第二我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う」、「第三我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う」とされる。約170年前の「橋本の大火」時、橋本宿は大半を焼失したが、この石碑群の前で風向きが変わり死者が一人も出なかったことから今でも崇敬されている。(2308)
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「南山古梁禅師顕彰碑」と「舘盛静光氏胸像」を訪撮!!

2023-06-03 07:28:29 | 石碑・顕彰碑
橋本市上九沢の「梅宗寺」の右側に「南山古梁禅師顕彰碑」と20年間相模原市長を務めた「舘盛静光氏の胸像」が建てられている。「南山禅師」は宝暦6年(1756)ここ上九沢村名主笹野政右衛門の次男として生まれ、9歳の時、長徳寺(上大島)で出家し、11歳の時に江戸「東禅寺」で修行する。38歳の時、仙台藩主「伊達重村」公より仙台「瑞鳳寺」14世の住職として迎えられる。54歳の時、京都「妙心寺」に入山し、朝廷より紫衣を賜る。帰藩後瑞鳳寺・覚範寺の両寺の住職、伊達公より顧問格として推重され、その学徳は多くの人々に尊敬されるに至った。「南山」は天保10年「瑞鳳寺支院」(雄心院)にて84歳で遷化した。この碑は「南山禅師」の遺徳を称えるため昭和37年に建碑されたものである。碑文「天下有山水 各擅一方美 衆美帰松州 天下無山水」(天下山水あり おのおの一方の美を擅にす 衆美松州に帰し 天下山水なし)と刻まれている。凡人には難解な五言絶句である。また右側に建てられているのは第5代市長の「舘盛静光市長」の胸像である。題字は書家「長嶋南龍」氏、撰文は第6代相模原市長の小川勇夫氏である。撰文には舘盛静光氏は1914年旧大沢村生まれ、大沢村役場に勤務の後、町村合併・市政施行を経て相模原市教育委員、教育長、助役を経て市長となる。1997年勲二等瑞宝章を受章された。(2305)
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

布教の始まりの原点「日蓮上人辻説法跡」の「石碑」と「六角堂」!!

2022-06-22 17:39:48 | 石碑・顕彰碑
鎌倉市小町大路に面した一角に布教の始まりとされる場所に「日蓮上人辻説法跡」の石碑と「日蓮腰掛石」がある。この辺は屋敷町と商業町が重なる場所であり日蓮宗(法華宗)を開き建長5年(1253)、鎌倉に移り住んだ日蓮は松葉ヶ谷に草庵をむすび小町大路この辻に立って道行くその民衆、往来する多くの人々に熱心に法華経の訓えを説き、布教に努め「煩悩菩薩」、「生死即涅槃」、「南妙法蓮華経」を唱えていたという。この辻説法跡碑は日蓮信者の田中智学が建てたものである。この一帯周辺は本覚寺、妙法寺など日蓮宗のお寺が数多く残っている。昨年11月完成、12月に落慶式が行われた日蓮宗、全国初の布教施設「立正安国」の額を掲げた「六角堂」、「展示室」できていた。堂内には日蓮聖人像が奉られ参拝できる。今日の日本にも大きな影響を与え続ける鎌倉仏教の巨人・日蓮上人のその布教の始まりの原点がここからであったことを教えられる。(2206)
 
 
 
 
 




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする