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さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

野菊の如き君なりき

2016-09-17 | 日記
毎年野菊の咲く季節になるとこの言葉が思い浮かんでくるんです



「野菊の如き君なりき」は明治の代表的な歌人伊藤左千夫の小説「野菊の墓」を木下恵介の脚本監督で作られた映画の題名です。私はこの映画を見てもいないのに何故か心惹かれるのです。たぶん昭和30年(1955)に公開されたこの映画は多くの人の心を捉えこの言葉が人口に膾炙していて当時奥会津の村に住んでいて映画とは縁遠い私の耳にも届いていたのかも知れません。なにしろ心惹く美しい言葉ですから。


「野菊の墓」は15歳の少年政夫と2歳年上の17歳の従姉(いとこ)民子との幼いけど清純で美しくそして悲しい恋の物語です。

政夫の母に実の子のように可愛がられていた民子は、長い煩いで伏せっていた政夫の母の介護と手伝いのために政夫の家にきて同居しておりました。政夫と民子の二人は仲良しでいちも政夫の部屋で話しあったり、一緒の仕事を楽しんだりしていました。政夫が母の薬をもらいに矢切の渡しを舟で渡って遠くの町へ行った時など民子はいつも矢切の渡し近くまでいって政夫の帰るのを待っていました。その姿は人々の噂にもなりました。そしていつか二人の間には幼く清純な恋が生まれやがて深まっていきました。

ある日、二人は政夫の母に言いつけで家か1里ほど離れた山際の綿畑に綿摘みに行きました。赤いたすきかけに前掛け姿で編み笠を持つ民子を政夫は美しいと思いました。山の畑への道々には野菊の花がいっぱい咲いていました。政夫は野菊の花を摘んで左手いっぱいに持ちました。それを見た民子は「私は野菊が大好き、その花を半分下さい」と言いました。政夫「野菊の好きな民さんは野菊のような姿に見えるよ。私も野菊が大好きなんだ」といって野菊の花の半分を民子に渡し二人は心嬉しく山の道を急ぎました。



写真の野菊の花は政夫の思いになっらて私が野菊を摘んでコップにさして採りました。でもやっぱり政夫の思いは出すことが出来ません。残念です。

一生懸命精を出して二人で働いたので午前中の綿摘みの仕事がはかどりました。弁当にしょうと思った時、政夫はちょっと離れた場所に泉があるので水を汲んでくる。待っててくれというと民子は独りでいるのが怖いので一緒にいくというので二人で泉への道を歩きました。道は緑の柴木の中の細い道で急な坂の道も二三あって、政夫は自然と手をのばして民子の手を引いて助けました。手を握りあったのは初めてのことで政夫の心は少しトキメイタけど平然を装いました。

二人は泉のそばに腰を下ろして座り弁当を食べ、政夫の採ってきた野ブドウやアケビながら楽しい時を過ごしました。

綿摘みも終わって二人が摘んだ綿を入れた籠を背負って山の道を下る頃は夕暮れ近くなっていました。道を半分近く下りた頃山際の夕日が美しく輝いていました。二人は切り株に腰掛けて夕日を眺めめながら楽しく話し合いました。

民子は「政さんより私が2歳も年上なのが悲しい」というと政夫は「年の違いなど心が通じ合うならなんの問題もない、ぼくだってまもなく16歳になるんだ。なんの心配もない」としっかりと答えました。

二人が家についた時はもう薄暗く家には灯りがついていて何事かみんなで話し合っていました。二人はどういうわけか入りにくい思いでしたけど政夫はなにもやましいことはしてないんだからと家に入りました。民子はその後ろからうつむいて入りました。すると家の者はぴたりと話を止めて二人に目を向けました。母は短く遅く帰った二人をなじりましたけどそれだけのことでした。でも母の目にはなにか決意のような者が見えていました。

政夫の兄夫婦は母に厳しく言っていたのです。「政夫と民子の睦まじい仲の良さはみんなの噂になっていたでしょうに、一里も離れた山の畑に二人だけ出した母上は軽はずみです。これからのことをしっかりと考えて処置しなければ」と話しっあっていたのです。

二人の間にやましいことはなにもなっかたけれども、母を含めて家族のものは薄暗くなって帰ってきた二人を疑いの目で見、心配していたのはやむを得ないことでした。

政夫の母は二人の間がこれ以上深くならない今のうちに二人をきっぱりと別れさせなければと決意したのです。次の日母は政夫を呼んで、一か月後に町の中学校(今の高校)に入学して寄宿舎に入ることになっていたのを「学問は早いほどよい、しっかりと準備して3日後には学校の寄宿舎に入りなさい」と厳しく言い渡しました。

町の学校に行くには「矢切の渡し」と呼ばれるところを舟で渡って鉄道の駅に行かなければなりません。政夫は民子と手伝いの女の子に送られて矢切の渡しにつきました。分かれることが悲しい政夫と民子は交わす言葉もありませんでした。政夫は心を籠めて書いた手紙を民子に渡して舟に乗りました。民子は政夫の姿が見えなくなるまで見送りました。そしてこれが二人の永遠の別れになったのです。

政夫は学校の寄宿舎に入っても民子のことを思い、会えない寂しさに苦しみましたけどそれを打ち消すためにもと勉強に精を出して励みました。六か月後の休暇に民子に会えることを楽しみに家に帰って見ると民子の姿はありませんでした。誰に聞いてもはっきりした答えは得られず民子が実家に帰ったことしかわかりませんでした。

でもお手伝いの女の子で民子の友達でもあったお増から民子のその後の様子を聞くことが出来ました。正雄が家を出て学校にいったのち寂しがる民子を正雄の母は強く言い諭して実家に送り返しました。泣く泣く実家に帰った民子には可愛そうなことが待っていました。

古い明治時代の旧家といわれるような家では、婚姻は二人の間の心などは軽視され家同士親同士の関係が重視されていました。実家に帰った民子には大変な資産家の家から民子を嫁に欲しいという申し込みがあったのです。しかも当時は17歳の女の子が嫁ぐなどは珍しいことではなかったのです。資産家からの縁談は民子の家としては大変な良縁で、しかも正雄とのことも耳に入っていましたからそれを解消するためにもとこの縁談を強く民子に勧めました。

民子は強く反対していましたけど、政夫の母からもあなたは正雄より二つも年上です。ですからどんなに好きあっていたとしてもあなたは政夫の嫁になることは出来ませんと強くいわれ、ついに涙ながら民子は皆様のいいようにして下さいといってしまったのです。

政夫はそれを聞いてもさほど悲しみませんでした。たとえ民子が嫁にいったとしても民子の心が変わるはずもないし、自分も民子への思いは変わらない。だから悲しむことよりも民子の心を信じ、民子の幸せを祈ろうと思ったのです。

一年ほど過ぎたある日政夫が算術の問題に思考を懲らしているとき寄宿舎の小使いさんから[すぐ帰れ]との家からの電報を渡されました。家に帰って見ると母が「政夫、お前にすまないことをしてしまった。愚かな親の計らいでいやがる民子を無理に嫁にやってしまって、そのために民子は死んでしまった。民子にもお前に本当に悪いことをしてしまった。許しておくれ」泣き崩れるばかりでした。政夫は悲しみに涙が止まりませんでしたけど気丈に母の心を思いしっかりしなければと思いました。

政夫は民子の墓に参ろうと民子の実家を訪れました。実家の人達は政夫が来てくれたことを喜び「政夫さんに本当に申しわけないことをしてしまいました。親の浅はかな思いで無理矢理民子を嫁がせ死なせてしまいました」と涙ながらに話すのでした。

民子は嫁ぎましたけど、心ならず嫁いだ悲しい思いが隠せずやがて疎まれるようになってしまいました。そして身重になった民子は5ヶ月で流産してしまいその後の肥立ちが悪く重い病に伏せるようになり、やむなく実家に引き取られました。そして心を籠めた介護にもかかわらず亡くなってしまったのです。

民子はなくなる前かすかな声で何事か言いましたけど声が低くて聞き取れませんでした。亡くなったあと枕を返そうとすると民子の左手に紅絹(もみ)のきれにつつまれたものをしっかり持っていました。明けて見ると政夫さんから貰った手紙と政夫さんの写真が入っていました。二人の間がこんなに深いものになっていることが分かっていればあんなに強く嫁にいくことを勧めはしなかったものを、悔やんでも悔やんでも悔やみ切れません。政夫さんにも民子にほんとうすまないことをしましたと民子の母親の涙は止まりませんでした。

民子の母に案内されて民子の墓にいって見ると墓の周りは野菊な花がいっぱい咲いていました。政夫は悲しい民子のことを思い野菊の花を摘んで墓に捧げ流れる涙で長い間たちさることが出来ないのでした。


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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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映画館 (sasanoha7920)
2016-09-18 21:15:32
小さく美しい野菊はこの映画の二人に相応しい花、可憐で悲しい秋の花、映画野菊の如き君なりきを新宿の映画館で見たの20歳の青春時代、確か前年に二十四の瞳が封切られて、映画館で見終わった人が涙が止まらずに暫らく席を立てなかった。それほどのヒット作の次の年の封切りでしたか、でも私の脇役に杉村春子、浦部粂子、笠智衆等のベテランを配し、主役の若い二人には全くの新人を起用した木下恵介監督の手腕が発揮された抒情溢れる悲恋の映画で、私も泣いたし銀幕にキラキラ光る江戸川、、田舎の野山の景色が今も思い出されます(カラーでは無かったのかも記憶がありません)。松戸常盤平団地に移ってから夫婦で矢切の渡しを船頭さんがぎっちらこと漕ぐ舟で葛飾柴又へ渡ったのは、もう40年ほど前でしょうか、家内と行ったことを思い出しました、船頭さんの唄った矢切の渡しの歌は野菊の墓の二人とはチョッと違うようですが、これも流行りましたね。
家内と当時の映画館の話、さんたろうさんの話等して週一度の外食を楽しんできたところです。
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sasanoha7920さん (さんたろう)
2016-09-18 22:37:09
感動的なコメントありがとうございました。なんかまるで私も映画「野菊の如き君なりき」を見たような思いになりました。ありがとうございます。

野菊の墓をなんっども読み返して感動して投稿したんですけど、映画も見てみたいとしみじみ思います。
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野菊 (会津マッチャン)
2016-09-20 17:31:19
さんたろうさんと同じ秋です。拙ブログ
http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/m/200810/1


映画の主題歌でしょうか。 いつもお気に入りに入れて聞いています。
 「あゝりんどうの花咲けど」 ちょっと聞いてみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=65BCNBaobhg
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会津マッチャンさん (さんたろう)
2016-09-21 04:08:24
感動的なコメント有り難うございました。

私は映画「野菊の如き君なりき」は見ていないんdす。でもお送り頂いた「ああリンドウの花咲けど」を見て聞いて、感動して、悲しくて、涙が流れました。

本当にありがとうございました。私は映画「野菊の如き君なりき」を見た感動を体験することが出来ました。ほんとうにありがとうございました。
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