私には輝いて見える気多宮(けたのみや)の村なんです。
かつては、あの有名な追分石で柳津路が分かれる越後街道の宿場として栄えた村なんですよね。ですから気多の宮の通りを散策して見るとかつての宿場気多宮村の面影や誇りみたいなものが残っているように私には思えるのです。
私たちの町には、考古民俗歴史の調査研究で大きな業績を残されて、文部大臣表彰と瑞宝双光章の叙勲をお受けになられた古川利意(ふるかわとしい)先生がいらっしゃいます。古建築・動植物などににも深い知識造詣をお持ちで、また先生の素朴で温かい味のある版画の年賀状は有名で毎年の年賀状を貴重な宝として大事に所蔵なさっている方も多いと聞いております。卒寿をとうにすぎでいらっしゃるのにかくしゃくとして町のいろんな研修会で考古や民俗や歴史についての講話や版画の指導などで活躍なさっております。
先生にはすばらしい著作があるんです。
日本共産党会津坂下委員会発行の赤旗読者ニュース「あらぐさ」の毎号に町の考古民俗歴史を誰でも興味を持って読めるようにやさしく分かりやすくそして温かい文章で寄稿なさっていらっしゃるんです。
その貴重な文章を町の町史編纂室の園城 泉さんが収集編纂して「会津坂下町の歴史」として自費出版なさっているんです。(非売品)非常に貴重な書籍ですのでのどどから手が出るほど欲しいと思っていたんですけど幸いに園城さんからお譲り頂くことが出来て感謝感激でいっぱいなんです。
その「会津坂下町の歴史」のなかで古川先生は気多の宮村について「気多神を報ずる海洋民俗がはるばるここに移住してきたとも考えられる」と述べていらっしゃいます。先生の許可を頂きましたのでその章の全文を写させて頂きます。
その十七 気多神社 [1992・10]
「塔寺の西に気多宮があります。ここは桁宮とも書きますが、正しくはやっぱり気多の宮のはずです。なぜなら、ここの神社は気多神社だからです。非常に珍しい神社ですが、この前に妙見様が祭られています。気多大社は能登一宮で式内社(延喜式にのっている神社)です。この流れをくむ神社がここにあることは非常に大事な意味があります。気多神を報ずる海洋民族がはるばる此処に移住してきたとも考えられるからです。妙見様は星の神様です。航海には星が頼りです。気多宮と妙見の取り合わせもあまりにもうまく出来すぎています。
気多神を報ずる一族はどこを通ってきたのでしょうか。気多大社には非常におもしろい神事があります。中山の郷鵜浦村でとらえた鵜を毎年十一月中の巳の日に神前に放すと、鵜は神前に跪坐して東に飛び立つという「鵜放し」の神事です。この鵜は決まって越後の国能生の能生神社にたどり着くといいます。
この伝承は海洋民族である気多神を報ずる一族が海流に乗って到達する筋道を示しているのではないでしょうか。」
気多神社を訪ねて見ました。気多神社がどこにあるのか私は知りません、ゆっくりと塔寺から気多の宮の路を散策しました。気多神社は気多の宮集落の西のはずれの追分け石(立派な石の道標)から越後街道を20mほど北に行った所にありました。
有名な追分け石です
気多神社は雪に埋もれた急な石段の上にありました。
わたしは古川先生に教えて頂いたことに思いをはせながら神社を拝し、しばらく社前にただずみました。
そしてすばらしい体験が出来た今日の自分に満足することが出来ました。
古川利意先生、そして園城 泉さんに心から感謝と御礼を申しあげます。
会津坂下・気多神社でWeb検索し訪問しました。
>>気多神を報ずる一族はどこを通ってきたの・・・・・
Q1.概ね何年前頃に、何処からどういう経路で会津坂下に
到達したとお考えでしょうか?
Q2.会津坂下には、気多神社の他にも古墳等の
気多一族の足跡はございますか?
--- SAT. 12:21 2018/05/12
実はこの私の投稿は尊敬する古川利意先生のお考えを紹介させて頂いてだけで私が気多の宮について調査研究をした分けではありません。ですから私には大事なご質問にお答え知識や考えの持ち合わせはございません。申しわけありません。
ですから、この投稿以上のことはお答え出来ませんのでご了承くださるようお願いいたします。
社殿が無くなっていました。
何と申していいのやら・・・・
そうですか、どうしてなんでしょうね
古川利意先生も驚いていらっしゃると思います。