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さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

きゅうりの神様で思うことありました。

2017-04-06 | 日記
90歳の古老のつぶやですけど聞いていただけますでしょうか。

私は1927年(昭和2年)1月3日の生まれです。大正が昭和に改元されて10日後に私は生まれました。ですから戦前・戦中・戦後の時代を身をもって体験して生きてきた一人なんです。今はもう90歳になった私です。今の日本の中ではでは貴重な体験を持っている数少ない人たちの部類に入る私だと思うのです。ですから戦前・戦中を体験して生き残ってきた者としてその体験を言い残しておくことも私の小さな義務だとも思っているのです。

先に投稿しましたキュウリの神様のお祭りは夏期に流行する疫病から身を守り、家族のあるいは集落の無病息災を祈念するお祭りでした。確かに戦前の昭和初期の時代には恐ろしい病気がたくさんありました。

ハンセン病
らい病とも言われる伝染病で感染力の非常に弱い伝染病でしたけど、罹患すると顔や身体(からだ)が膿み崩れやがて死にいたる治療法などない恐ろしい病気でした。発病すると神に打たれたなどといわれて恐れ嫌われ山あいの深い谷の奥などに小さな小屋などを作って隔離されやがて死を迎えなければなりませんでした。

やがてハンセン病の患者はみんな離れ小島に作られた隔離療養所に強制的に入れられ監禁状態で治療も受けられず死を待つばかりにさせられるようになりました。そんな恐ろしい病気でしたけど、戦後になって特効薬プロミンが開発され完治する病気となり恐ろしいハンセン病は姿を消しました。

結核
当時は肺病といわれ若い人たちが罹患することの多い伝染病で死亡率の高い恐ろし伝染病でした。特別な治療法などなく栄養をとって安静に寝ていることだけの闘病生活でした。伝染を防ぐために家族の中でも別の部屋に隔離されていることが多かったようです。どういうわけでしょうか頭のいいすぐれて優しい若者が罹患して発病していたように私は思います。私の友人の中でも二人ほどが結核で亡くなっています。二人とも頭のいい細やかなセンスを持ったりっぱな友人でした。いまでも残念に思っています。正岡子規も結核から脊髄カリエスの重い病気に進行して苦しみのうちにお亡くなりになったんですね。その恐ろしい伝染病の結核も戦後は特効薬が開発されて完治するようになりました。

腸チブスや赤痢
上下水道が完備しておらず衛星管理状態も充分でなかった当時は夏季になると消化器系統の腸チフスや赤痢が発生しました。腸チフスは高熱を発して苦しみ死亡率の高い恐ろしい病気でした。
1939年(昭和14年)私は小学校高等科1年(現在の中学1年)で、奥会津の古町と言う村に住んでいました。集落の家々は広く長い道路の両側にある用水路に沿って並んでいました。7月の頃、片側の水路の上流の家に旅先で腸チフス菌に感染して帰宅した人がいて間もなく発病しました。腸チフス菌が流れにそって運ばれたんでしょうね、8月から9月にかけてその水路に沿った家々に腸チフスに罹患した患者が続出しました。病院などなくて村には医師が一人いらっしゃるだけ、治療法も確立しておりません。やむなく村では腸チフスにかかった人たちのすべてを村の集会や共同作業などにつかわれていた建物に隔離しました。やがて患者が増加し畳みの間ばかりでなく板の間、しまいには土間にまで筵を敷いて枕をなれべて高熱に耐えて病人は寝ていたと聞いています。治療法などありませんから死亡する人が続出しました。恐ろしい伝染病ですから死亡した人はすべて火葬にされました。毎日のように河原や山沿いの野原で火葬の煙が上がっていました。夕方になると赤々と火葬の火が見えるのです。思いだすといまでも怖くなります。上下水道の設備が完備してなくて衛生状態の悪かった遠い遠い昔のことです。

寄生虫
「はらの虫がおさまらない」なんて言葉がありますね。
ほんとはそんな言葉にはなんの関係もないんですけど戦前の人たちの腹の中には回虫というミミズ似た形の細い虫がいていろいろ体に悪さをしていました。私が子どもの頃腹痛で気持ち悪くなって洗面器に吐いたら洗面器の中で小さな黄色の回虫があばれていました。思い出してもぞっとします。

富山の置き薬の中に「セメン」という回虫の駆虫薬がありました。白い粉薬でしたけど強烈な薬で飲むと少しぼんやりして周りが青く見えました。副作用ですね。翌朝の大便の中には死んだ1-2匹の回虫が混じっていました。

小学校では定期的に海人草という海藻を大き鍋で煎じてその汁を全校の子どもに飲ませました。次の日の朝はセメンを飲んだ時と同じです。みんなの便には回虫が混じっていました。

そのほか風邪とか腹痛下痢とか切り傷の化膿とかいろんな病気がありました。でも私の住んでいた奥会津には病院などなくて医師(医者殿と読んでいました)の方も遠く離れたところにいらっしゃるばかりで特別な重い病気ででもなければ医者殿の診察治療を受けることなどはありませんでした。ほとんど富山の置き薬かゲンノショウコやオトギリソウやチドメグサやドクダミなどの野の薬草を使って自家治療をしていました。なにせ医者殿の診察治療往診料などは全額自己負担ですから当時の貧しい農家では医師の診察治療を受けるのは難しかったのです。

戦前の農村の食事は貧しく労働は激しくそれに衛生状態も悪く治療法も遅れていて、昭和5年頃の平均寿命は46歳前後といわれております。60歳はもう老人隠居の世代なんです。今の私のように90歳の老人がカメラをぶらさげて毎日4kmから5kmの散歩をするなどとうてい考えられない時代でした。

私は今まで幾度か胆管炎や心筋梗塞で入院し治療を受けました。CTとかMRIとかエコーや心電図や内視鏡などの新しい医療機器で検査し最新の治療をして頂いて今の元気を頂いております。

心筋梗塞ではリハビリを含めて2ヶ月の入院でした。会計は息子たちがやってくれましたからよくは分かりませんけど、たぶん1ヶ月7万円程度だったと思います。しかし私は高齢者です治療費の負担は10%です。ですから1ヶ月の実際の治療費の総額は70万円です。2ヶ月で140万円です。これは私のような貧しい老人にとっては大変な高額です。それがわずか14万円の支払いで済ましていただけるのです、しかも支払った一ヶ月7万円のうち5万円を越える部分は高齢者の高額医療と言うことで還付されるのです。

そんなことで私のような者を元気で生かして下さる今の日本の社会が本当に有り難く感謝しても感謝仕切れない思いで私は生きております。

近頃「もう一度日本」という言葉をよく聞きます。その言葉は私には「今の日本の社会の状況に比べると、あの狂った戦中はともかくも戦前の日本は美しく温かく正しく住みよく誇り高い日本であった。もう一度あの美しく誇り高い戦前の日本に返さなければならない。」と聞こえるのです。果たしてそうでしょうか、いま私が書きましたように病気の治療技術や治療費の負担の面から考えると今の日本は戦前の日本に比べるとはるかに進歩し輝いています。

ではほかの面から考えるとどうなんでしょうか。私の体験したことの思い出を書いてみたいと思います。もちろん幼い小学校時代の私の見たこと体験したことなど絶対であろうはずがありません。でも幼いなりに体験した思い出の中には強烈のもの貴重なものもあるんです。

二二六事件という大事件が昔日本にありました。
1936年(昭和11年)2月26日陸軍の若い将校たちが部下の下士官兵1300人余りに重機関銃や武器弾薬を持たせて出動し帝都の1部を占拠し政府要人を襲い殺戮した事件です。

後で書きたいと思いますけど、当時の日本では教育面の根幹に教育勅語があったように、軍隊には軍人勅諭がありました。その根幹のひとつに[上官の命令は朕の命令と心得よ]といううのがありました。つまり2等兵は上官の1等兵の命令は天皇の命令と思って絶対に服従しなければなりませんということです。ですから10人にもみたない若い将校(中尉大尉)の命令で1300余人の下士官兵がこの暴挙にしたがって事件に参加したのです。

最初は陸軍部内の一部で決起した青年将校を思いやる動きなどもありましたが昭和天皇の激しい怒りにあい決起は鎮圧され青年将校は銃殺されました。この事件を機に軍部独裁の動きが強化され戦争への道をひた走るようになったと言われています。

しかし当時小学校4年生の私は全く違った受け止めかたをしていました。銃殺された決起将校たちは貧しい国民のためを思って決起した英雄であり立派な人たちだと思っていました。それは父も母もまた周りの人たちも、「決起将校の部下の兵士の多くは東北の貧しい農村出身でありいつも苦しい出身地の情況を嘆き悲しんでいる。そんな情況では強い軍隊など出来ない。それを解決するために天皇の親政をあおぎ解決しなければと決起したのである。苦しい東北の農村を思う立派な人たちである」と話すのを聞いていたからなんです。すべての農村の人がそう思ったのでないと思いますが私の周りではそうゆう思いがあったのです。それだけ戦前の東北の農村は困窮していたのです。

それが間違っていたことを知ったのは戦後数年たってからなんです。でも子どもの頃の思い込みって恐ろしいです。頭の中では日本の平和への歩む道を模索していた重臣たちを殺戮した青年将校たちを許せないと思いながら、まぶたの奥には凛凛しく立派な姿の青年将校の姿が浮かぶんです。幼い子供の教育は本当に大事だと思います。

さて私の体験した東北の農村の情況です。東北の農村ではそれぞれの地方に○○様といわれる大地主の方あってたくさんの小作人を抱えていました。小作人は僅かの小作の土地を耕してその収穫の中から年貢米を地主に納めていました。

私の家内の実家は自作農で小作農ではありません。でもなにかでお金が必要になって土地の一部のわずかな土地を担保に高利の金をを借り入れその金を返済することが出来ず担保の土地が取り上げられ地主のものとなりその土地は小作になりました。心をこめて栽培し収穫した米の一部を小作料として持って行く地主が憎かったとふと私にいったことがあります。地主といっても地方の小さな地主だったそうですけども。

私の家は貧しいわずか6反歩ほどの小さな自作農でした。どんな情況があったのか分かりませんけど同じ集落の人に乞われて3畝歩ほどの土地を担保にお金を貸しました。でもそのお金は返して頂くことが出来ず、その土地を刈り分けという条件で父の名義になりました。刈り分けといううのはその土地の栽培権は元の地主にあるけれども稲の収穫の時に両方から同じ人数を出し合って刈り取り、刈り取った稲の束を新しい地主と均等に分け合うという方法です。ひとつの小作の方法です。私は父とそして元の地主の方と一緒に苅分けの作業をしました。今の中学2年生の年頃でした。僅か2時間ほどで終わる作業でしたけど私は地主側の立場です、心を尽くして栽培した稲の半分を自分のものにするのです。恥ずかしくて恥ずかしくて苦しくて父が憎くなりました。嫌な思い出のひとつです。

昭和初期の東北地方は度々の冷害に襲われ凶作になりました。寒冷の気候で稲が実らない年があるのです。そんな時私の体験では学校に弁当を持って来られない子、持って来ても弁当箱の片側に赤いかぼちゃの混じったご飯が少しある子がいっぱいでした。子どもたちみんなが空腹に耐えていました。

わずかな土地の小作をしている人たちはたとえ不作であっても小作料は納めなければなりません。納めければ小作地はとりあげられます。昔おしんというテレビ番組がありました。おしんが貧しい農家の生活を救うために遊郭に身をおとしている母に会いに行くシーンがありました。きれいな着物をきてきれいな顔になっている母に会うおしんの姿をおもいだすと胸がじーんとしてしまいます。

昔女衒(ぜげん)という人たちがおりました。密かに貧しい村をまわり困窮している家の女の子を巧言と金で買い取り遊郭に売ったのです。遊郭に身を沈めた娘は自分の父や母や兄弟のためにと思い悲しみながら無残な苦しみに耐えたのです。これを家族を思う美談と言えるでしょうか。悲惨なことです無残なことです。

戦後の日本は主立った都市は爆撃で廃墟にされ農村は戦時中に男達が軍隊に召集され人手不足になり荒廃していました。そんな中から日本は見事に復興しました。その要因のひとつに農地改革でたくさんの小作農が自作農になったことと、女性の人身売買で成り立っていた公娼制度が廃止されたことを上げる人もいました。

また戦前の日本の社会にはしっかりとした身分制度がありました。貴族・士族・平民・です。戦前、私の子どもの頃の戸籍には平民と記されていました。周りの大人たちはあそこは、(えた)と呼ばれる下等な人たちが住んでいるである。と激しいさげすみの言葉で話し、そして自分らは平民で最下等のの身分ではないと誇りに思っていました。子どものわたしなど同級製のなかでいわゆる出身の人たちに優秀な人たちが多いことを知っていてなんかへんだなと思いながらも大人たちに感化されてもいました。いま考えると本当に恥ずかしいことです。

「もう一度日本」
貧しい農村が立ちゆくためにはもちろん心豊かな美しいものもいっぱいありました。冠婚葬祭はみんな自宅に近隣の人たちが集まって準備をし料理を作り家の中を冠婚葬祭の式場に作り飾って式を進めてくれるのです。私は20歳で父を亡くしました。未熟で世間のことなどなにも分からない私です。ただ呆然とするばかりでした。でも父がなくなるとすぐに父の友人だった人たちや近隣の人たちが集まって立派な葬式を取り仕切り父を野辺に送ってくれました。

「ゆい」という制度がありました。結いと書くんでしょうか。
戦前の農家はほとんど茅葺きの屋根でした。どの家でも何年かに一度は茅屋根を葺き替えなければなりません。そのためには膨大な量の茅と人手が必要です。それをお金に換算したら大変な金額になると思いいます。貧しい農家が自分の力だけで葺き替えることなど不可能です。

でも集落には結いという昔から伝わる暗黙の約束ごとがありました。
ある一軒の農家が今年は茅屋根の吹き替えすることを計画し日にちを決めるとそれは集落全体の家に伝わります。そしてそれぞれの家から一名ずつ保管していた茅(暗黙のきめで持ち寄る量は決まっています)を持って集まり屋根葺き職人のてこ(補助の作業)をするのです。葺き替える家では屋根葺き職人には葺き賃を払いますがてこをしてくれる人には昼食と「こびる」といわれる休憩時の軽い食事の餅とかおにぎりを出すけれどもお金は出しません。そうゆう約束ごとで協同作業をしあうことを結いと言っていました。

鎮守のお祭り、お盆、正月や歳の神、など楽しい行事などもたくさんあって村人をたのしませてくれました。これらは「もう一度日本」と言いたくなるそれぞれの集落のすばらしいしきたりです。でもそれらは国の法律であるいは政治でどうこう出来るものでもなくまたどうこうなどして貰いたくない集落のしきたりであり、集落の誇りでもあるんです。

それは家庭のことでも同じだと思うのです。親を大事にして孝行する。兄弟仲良くする、友人は信じあって友情を深める、そんなことは法律でどうこうする、政治でどうこうすることではないと思うんです。「あんた親に孝行しなさいよ」と人に言われてむっとしない人などいないと思うんです。みんな自分の人間としての誇りを持っているんです。それらは人から指示されて行う徳目ではないと思うんです。

私はある幼稚園で毎日園児が、大日本帝国時代の教育の基本聖典である「教育勅語を」を毎日奉唱してりっぱな教育をしていることに感動なさった方がいらっしゃったことを知りました。またそのようにして立派に教育された園児たちが一般の小学校に入学して間違った教育で心がこわされてしまわないように立派な小学校をつくろうとすることに賛同され協力された方もいらっしゃった。そんなこともニュースで知りました。

それに賛同する。あるいはそれに反対する。そんなことを広言する立場に私はありません。

ただ、戦前戦中を生きてきたわたしの教育勅語に関わる体験をのべてみたいと思います。
かつての小学校あるいは国民学校には神社めいた小さいけど厳重な錠前のついた立派な倉庫がありました。奉安殿と言いました。登下校する児童や先生、あるいは学校を訪問する人はその奉安殿の前を通る時深々とお辞儀(最敬礼)をしなければなりませんでした。

奉安殿には御真影(今上天皇陛下のお写真)と教育勅語が納めれていました。小学校では天長節や明治節や紀元節などの祝日には全校児童それに村の主立った人たちが講堂に集まり講堂の正面の祭壇に御真影を飾り祝典を行いました。その式典で校長先生は恭しく御真影の前で教育勅語を奉読されました。祝典に参式したものは皆頭をさげて謹聴しました。

教育勅語は本当にきれいな立派な文章だと私は思います。私はいまでも全文とは言えませんけど大事なところは諳誦できます。

「父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し、恭倹己を侍し博愛衆に及ぼし、学を修め業を習いもって知能を啓発し・・・」
と言うように人間として持たなければならない大事な徳目をあげてしっかり学び立派な人間りっぱな国民になりなさいとのべられています。ほんとほんといいいこといっている。私のようなものでもそうありたいものだと思ってしまいます。

しかし教育勅語のもっとも重要な部分は
「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以って天壌無窮の皇運を扶翼すべし」

文部省による「教育に関する勅語の全文通釈」
「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。」

万一危急の大事とは戦争といううことでしょう。
大義というのは大日本帝国憲法とか教育勅語とか軍人に賜りたる勅語のことでしょう。
一身を捧げとは 命を捧げて死ぬこと恐れずと言うことでしょう。

つまり、「もし戦争が起きたなら帝国憲法に従い教育勅語や軍人に賜りたる勅語の教え守り死を恐れず皇室国家のために尽くせ」ということでしょう。

戦前の小学校の教科の中に修身という教科がありました。今の道徳にあたる教科です。
今でもはっきりと心に残っているのは一年の教科書だったと思うのですが「キグチコヘイハシンデモラッパヲハナシマセンデシタ」とあって敵前に突撃する兵隊の中でラッパを吹く兵卒が敵弾にあたってうしろにのけぞっている挿絵がありました。

勇戦突撃している兵を励ます突撃ラッパの曲を吹いている兵卒が敵弾にあたって倒れたが息を引き取るまでラッパを吹き続けましたといううことです。

先生は感動したことばでそのときの情況を教え、そして爆弾三勇姿の話をして下さいました。「敵が機関銃の陣地の前に深い鉄条網をつくって皇軍の進撃を阻んでいました。そのとき三人の勇敢な兵士が志願して爆弾の筒をもっ鉄条網に近づき自爆して鉄条網を破壊して突撃路を開きました」というお話です。小学校一年の私はすっかり感動してやがては立派な軍人になって死を恐れず勇戦しようと決意し下校後は友達と戦争ごっこを夢中でやりました。

今思うとあの狂ったような太平洋戦争の時日本国民の中には三つのタイプがあったように思います。①国民を義勇公に奉じさせた人たち。②進んで義勇公に奉じた人たち、その最たるものは20歳前後の若者がゼロ戦の機銃をはずし500kgの爆弾をつけ行き分だけのガソリンをいれて飛び立ち敵の空母に体当たりして散った特攻の人たちでしょう。③義勇公に捧じさせられた人たち。先の太平洋戦争の末期には、30歳後半で妻も2人か3人の子どもいて一家の中心になって家族を支えていた男性にある日突然おめでとうございますと役場の軍事係の人が訪れて赤紙と言われていた1枚の軍の召集令状が渡されるのです、召集令状を受けた人は有無を言わせず定められた日に定められた連隊に出頭しなければならかったのです。出征と言いました。出征する前の晩涙を流す妻と最後の別れを過ごし出征する日の朝はバンザイバンザイと励ましてくれる人の前で帝国軍人として立派に働く決意ですと凛凛しくのべて出立したのです。

入隊すれば最低の兵士の二等兵とされ、厳しい下士官に叱られ殴打されて訓練を受けて一等兵になるのです。しかし戦争末期の日本にはもはやその兵士たちを外地の戦線に送る余力はありませんでした。当時の日本の陸軍兵士の主力武器と言えば明治の日露戦争当時使われていた38式歩兵銃という旧式の重い単発銃でした。戦争末期にはその銃さえも不足して新たに補充された新兵には行き渡らず、新兵はもっぱら地面に身を隠す穴を掘り爆薬を抱えて敵の戦車の来るのを待ってそのキャタビラの下に飛び込み戦車を爆砕する訓練をさせられたといいます。陸軍は本土決戦を計画し叫んでいました。残された奥様方は上陸してきた敵と戦うためにと竹槍を持たされ「や~」と奇声をあげて戦う訓練をさせられていました。当時の日本軍の指導部はアメリカの武器が自動小銃であり火炎放射機であり戦車でありジープであることは充分に知っていたと思うんですけど・・・主婦たちが竹槍で自動小銃や火炎放射機のアメリカ軍と戦う、なにを考えていたんでしょうね理解に苦しみます。

阿川弘之の小説「雲の墓標」は京都帝大の学生だった数人の仲間が海軍に召集され海軍予備学生(下級将校の緊急養成訓練生)の航空士官養成訓練隊に入り厳しい訓練ののち特攻隊員となり空の果てに散っていく物語です。その中に海軍には海軍精神注入棒という樫の棒があってそれで海軍に入隊して来た新兵の尻を打って上官の命令に従順そして機敏に戦う海兵に鍛えあげたと書いてありました。戦争末期18歳の私も海軍には恐ろしい海軍精神注入棒があることは誰かに聞いて知っていて恐ろしいと思っていました。。

戦前の日本国民の遵奉しなければならない基本聖典に帝国憲法・教育勅語・軍人勅諭がありましたけど、太平洋戦争が始まるともうひとつの基本聖典が時の陸軍大臣から示達流布されました。「戦陣訓」です。その中に大変に重要なことが書かれていました。

「死して虜囚の辱めを受けず」という一文です。これは軍人に対する訓令でしたけど民間人にもきつく浸透していました。戦争末期サイパン島の戦いで軍人はもちろん民間人もアメリカ軍の投降呼びかけに応じつ全滅しました。みなさんご存じのように投降を呼びかけるアメリカ軍の見ている前で若い母親が高い崖から抱いている子どもを投げ落としすぐに自分も飛び降りて自殺するシーンがありました。崖下の海に漂う子どもと母親の姿を思い出すと涙せずにはいられません。

当時国際法には戦時捕虜の人道的取り扱い定めれていました。戦陣訓はそれを無視して死んでも捕虜になってはいけないと言っているのです。戦時中の私たち国民はもし戦地で病気などで意識を失って捕虜になれば本人はもちろん親類縁者まで非国民として罰しられると信じていました。

 そのため南方のニューギニアなどの戦いでは食料弾薬の補給も途絶え敗残兵になって密林をさまよった兵士が餓死したり病死したりしてその数が戦いで戦死した人の数を超えて何万人もあったと聞いていました。生き残って帰還した人の中には「ニューギニア豚を殺して食べた」という話もありました。私はニューギニアの密林の野生豚がいたとは聞いたことがありません。ですからその話はなにを意味するのかは私には分かりません。

大戦末期フィリピンのレイテ島の戦いで病に倒れ気を失って不覚にも米軍の捕虜になって戦後に帰還した大岡昇平の書いた小説「野火」は食料もつきてレイテの密林をさまよう敗残兵の姿を自分の体験に基づいて書いた小説です。度重なるアメリカ軍の投降呼びかけを無視してさまよい最後に三人になった仲間はやがて銃で殺し合い、残った一人は野火の見える平原にさまよい出ゲリラの銃撃で倒れるのです。映画にもなりました。

また「死して虜囚の辱めを受けず」の思想は自分の軍隊だけでなく敵の兵士にも当てはめて考えられ敵捕虜の人道的取り扱いにも影響したやの声も聞いています。ここで具体的なことはいいたくありませんけど、戦地から帰還して人たちから敵捕虜の非道の扱いを誇らしげに語るのをいくつか聞いている私です。国に帰れば善良な市民も殺し殺される厳しい戦地では狂ってしまうのです。戦争って人を鬼にします。本当に恐ろしいです。

私は哀愁の中に温かい心が伝わってくる島原の子守唄が大好きです。

おどみゃ島原の おどみゃ島原のナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気なしばよ しょうかいな
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼(おん)の池ン久助(きゅうすけ)どんの連れんこらるバイ

早く眠らないと鬼の久助どんが迎えにくるよ。だから泣かないで早く眠りなさい。
私は色気がないので心配ないけども・・っていうような心なんでしょうか。

鬼の久助は貧しい家の娘を求める女衒のことでしょうね。子守唄に歌われるほどに恐れられていたんですね。


帰りにゃ 寄っちょくれんか 帰りにゃ 寄っちょくれんか  
あばら家 じゃけんど
唐芋飯(といもめし)や 粟ん飯 唐芋飯や 粟ん飯
黄金飯(こがねめし)ばよ しょうかいな
嫁ごん 紅(べん)な誰(だ)がくれた
唇(つば)つけたなら 暖ったかろ

唐芋ってサツマイモのことなんだそうです。
貧しい小作農の家はあばらやで、狭い小作の田んぼで作った米は地主に納めなければなりません。ですから山の焼き畑などで栽培したサツマイモや粟を米に混ぜた黄色いご飯を食べてます。ということでしょうか。貧しい農家では食料が足りず口減らしのため幼い女の子を子守奉公に出さなければならなかったんですね。

征くときゃ 兵隊さんで 征くときゃ 兵隊さんで  
帰りは 仏よ
諫早 トンネル越しゃ 諫早 トンネル越しゃ
桐の 箱ばよ しょうかいな
泣けよ 泣け 泣け 泣けよ 泣け 泣け
ハンカチだして 拭いてやろ

この最後の詩は太平洋戦争中に秘やかに歌われていた島原の子守唄の詩なんだそうです。もし公然と歌うのが分かったら、名誉の戦死を遂げた勇姿をこんな詩で歌って厭戦気分をあおる非国民であると特別高等警察(特高と民衆に恐れられていました)逮捕されたでしょうね。

最後の子守唄の部分は美しい島原の子守唄を聞きながら書きました。