町の鎮守諏訪神社の境内でそんなことをふと思いたった私です。

今日は街中のルートを散歩してみようと午前11時頃家を出ました。歩いているうちにちょっと空腹になったのでコンビニでサンドイッチと牛乳を買って正午すぎにお諏訪様の境内で食べました。そしたらいつも拝礼しているなじみのお諏訪様なのに何故かいつもと違う感覚でお諏訪様が見えてきたんです。
そうです、境内でお昼など食べたからでしょうね、いつも見慣れている神社を旅をしているときの自分の目で見ていたんです。おかしいんですけどなんかとても新鮮な感覚だったんです。
そうだ、自分の町を旅している自分の目で見てみよう。それなりに思い出のある場所もあるし、あまり人の目に着かないけど面白いと思う場所もあるし、そうだ旅をしている目で自分に町をあらためて見てみよう。そう思ったら少しうきうきしてきたんです。
食事が終わったらすぐに近くの「山の祇神社」に行って見ることにしました。
諏訪町の裏通りにひっそりと小さなこんな神社があるんですよ。高い杉の古木をバックに赤い鳥居の神社です。赤い鳥居の神社ですからよく見かけるお稲荷さんかと思ったら違うんですよ。

神社正面の上部にこんな標示が掲げれていました。

大山祇神社改修工事寄付者芳名とあって37人ほどの方の氏名が記されていました。この小さな神社は37人ほど氏子に信仰されている山の神様の神社でした。37人ほどの氏子の神社といえば小さな聚落の鎮守の社に匹敵する神社ですよね。
井関敬嗣先生の「会津坂下町の伝説と史話」によりますとこの神社は、かつて日本有数の銀山として栄えた柳津町軽井沢銀山にゆかりのある神社なんだそうです。
井関敬嗣先生の文章の要約です
「軽井沢銀山が栄えていた頃、坂下町の商人は越後から仕入れた魚介類や塩そして地元の米などを銀山に送って軽井沢銀山とは深い関係がありました。銀山には栄枯盛衰があって銀の鉱脈が枯れ、それに凶作飢饉が重なって閉山同様になって山の人達が離散する事態になった時がありました。そのおりゆかりの深い坂下町の町人たちを頼って300戸の人達が坂下に移住しました。そおり銀山にあった山の神様をここに移して祀った言われています。」
私は数年前になりますけど軽井沢銀山跡を訪ねてみました。山の斜面はずりの山に覆われ、赤い煉瓦の高い煙突が見えていましたけど年月を経て上部が壊れていました。

そして閉ざされいましたけど銀山の坑口も見ることも出来ました。

ネットでウィキペディアなどで調べて視ると、軽井沢銀山は戦国時代後期から明治時代中期にかけて採掘されていた日本屈指の銀山であり、最盛期には1.000戸の家が建ち並び郵便局も遊郭もあって、年産4トンの銀を精錬していたが鉱脈が枯れたんでしょうか明治29年(1896)閉山されその後採掘はされていない。とありました。

写真はネットからお借りしました
年4トンの銀が採れた。それがどんなことを意味するのか私にはさっぱり分かりません。でもこの小さい山の祇様の神社のことから、私達の町のそんなに遠くない場所に日本屈指の銀山があったことを知って驚いている私です。あの山深い軽井沢銀山にお盆の高い櫓が組まれ「月がでたよだ銀山峠さぞや馬子さんあかりかろ」と賑やかに踊りがたったとありました。最盛期には夜でも馬子たちが物資を運んで銀山峠を通っていたんですね。その賑わいを思い浮かべて楽しんでいるわたしでもあるんです。