
梅雨の晴れ間の美しいタチアオイの赤い花を見ると遠い幼い頃の思い出が甦ってくるんです
80年ほどの昔、私達山の子どもたちは皆洟垂れ小僧でした。貧しい農村の子どもにテッシュなどあろう筈もありません。みんなすすりあげすすりあげしながら洟汁を鼻の下に垂らしていました。洟をかむときは道脇のフキの葉を取ってかむのです。
オモチャと言えば笛も、風車も、刀も、鉄砲も、弓も・・みんな「肥後の守」という安物のナイフで作っていました。だから「肥後の守」はそれぞれの大事な宝でみな自分でピカピカに研ぎあげ切れ味を自慢し合っていました。
家の人に作ってもらうオモチャはサギアシ(竹馬)(これはたいじな竿と板や釘が必要なので父が作ってくれました)と母かばあさまに紡いでもらった麻糸を分けてもらう凧の糸くらいのものでした。
おやつといえば、桑の実、アケビ、河原ぐみ、山葡萄、コクワ(さるなし)・・などみんな山や野から採りました。
今の子どもたちは変速機のついたかっこいい自転車に可愛いヘルメットをかぶって楽しげに遊んでいますし、小学校に上がるまでは幼稚園で、小学校に入れば地域のスポーツ少年団などに入ってその道に優れた大人の人に指導され鍛えられています。幼稚園の運動会やスポーツ小年団の試合などみるとそれはそれは見事で美しいと感動します。幸せそうです。
80年昔の私達子どもは幼稚園などありませんし、小学校に上がっても4年生頃にもなれば家族労働の中でなにがしかの責任を持たされ働いておりましたし、。田植え時期などの忙しい時期には農繁休業といって2週間ほど小学校が休みになり小学校の子どもも家族と一緒に田植えや田植えの手伝いをしておりました。
あの頃はガキ大将を中心にした子どもたちの集団がありました。ガキ大将というとなんか暴力団の親分みたいな[無法者」というような感じをうけますけどもちがうんですよ、思いやりがあって優れた能力と指導力があってみんなから信頼されてるものが自然発生的にガキ大将になるんです。小学校に上がる前の子どもなども可愛がってくれる温かい心を持った者でなければガキ大将にはなれないのです。
子どもたち社会にはルールがあってきちんと守られていました。たとへば山に美味しいものを取りに仲間で行った時に誰かが美味しい山葡萄をみつけ「占めっ」と叫ぶとその山葡萄は最初に見つけたものの権利になるんです。どんなに力のあるもの、たとえばガキ大将であってもその権利を侵すことは出来ないのです。山葡萄がたくさんあるときはその権利者がみんなでとることを許すのです。
集落に綺麗な流れの川がありました。その流れが少しばかりよどんで深い淵になっているところが子どもたちの水浴び場と決められていました。深い淵ですし急な流れの場所もありますので決して安全な場所ばかりではありません。今のお父さんおかあさんたちならそんな危険な場所は「危険ですから立ち寄ってはいけません。PTA」と立て札を立てると思います。
そんな場所が子どもたちの水遊び場(水泳ぎ場)になっていたんです。そこには子どもたち仲間の伝統があって、ガキ大将とその側近たちが子どもたちの能力を判定してグループ分けし遊んだり泳いだりする場所が決められていたんです。大人たちの口出しなど全くありません。大人たちは子どもたちを信頼して安心し切っていたんです。ガキ大将を中心にしてルールを守り事故の恐れなど全くありませんでした。幼い子どもたちは自分のランクを上げて認めてもらうために泳ぎを練習し努力するのでした。またガキ大将とその側近たちは溺れた者の救助方法も先輩から教わっていました。溺れたものの正面からは絶対に近づかないこと、前から近づいて抱きつかれたら二人とも溺れること、後ろに回って体を静にを持ち上げてやること、私は今でもしっかりとその教えを覚えています。
そんな子どもたちの世界でしたけど、小学校に上がる前の子どもたちにはそれなりの楽しい遊びがありました。タチアオイの赤い花を見つけるとその花びらを摘んでその根元を薄く裂くとねばねばとするんです。それを鼻の頭につけると私達はたちまち変身してたくましく美しい雄鶏になってしまうんです。そしてそれぞれに大きな声で「コケコッコー」と叫び合うのです。それはそれは楽しい夢の遊びの時間でした。
その頃あちこちの家では鶏を飼って卵を売って現金収入の足しにしていました。
それは今のような養鶏事業、狭いゲージに鶏をいれ前に餌、後ろに産んだ卵を集めるベルトコンベアーをつけるというような飼い方ではなくて昼間は家の後ろに放し飼いをして自由に餌を取らせ、夜は鳥屋に入れて眠らせるそんな飼い方でした。その頃の鶏は少しなら飛べたんです。猫などの襲撃などがあっても襲われることはなかったのです。うちで飼っている猫なら同じ家族として意識しあい敵対することなどなかったのです。
10か20羽の黒や白の雌鳥の中にたくましく見事で美しい雄鶏が1羽いました。だから卵はすべて有精卵でした。温和な性格の雌鳥が撰ばれて卵を抱いて孵化させました。孵化したばかりの雛鶏が親鶏の羽の下に出入りする様子などは本当に可愛いものでした。
群れを守るたくましく美しい雄鶏は子どもたちのあこがれでもあったのです。
老いてボケが進み我ながら耄碌して来たなと思う近頃ですけども、幼い頃の思い出は鮮明に甦るから不思議です。タチアオイの赤い花をみて幼い頃の思いでが甦りくだらない文章を楽しんで長々と書いてしまいました。もしここまでお読み下さった 方がいらっしゃったとしたら心から感謝申しあげます。