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さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

山峡(やまはざ)の村を訪ねて

2012-02-21 | 日記
 3年ほど前、老いるにつれて懐かしさが増してくる幼い頃育ったふる里の集落を訪ねました。



 74年前の山狭のふる里はすっかり変わっていました。
 集落へ入口の馬車が1台やっと通れるほどの砂利道は、尾瀬沼への観光道路になって舗装され2車線の立派な道路になっていました。
でも、左の山の上には懐かしい残雪の会津駒ヶ岳の姿が見えて嬉しくなりました。



 かつて茅葺きの民家は、綺麗な民宿に変わっていました。ただ昔に変わらぬ愛宕山が懐かしげに私を迎えてくれました。幼い頃、いただきに友と登って小さな石の祠の中の木の神像にお参りして遊んだ懐かしい山です。



 かって、茅葺きの小さな小学校の校舎はこの地蔵堂の左に建っていました。今は民宿の物置の建物が建っていますが昔の面影はすっかり消えています。
 幼い頃、後ろの杉の木の森では夜になるとモモンガー(ムササビ)の叫び声や神秘的なフクロウの声が聞こえてきました。それを聞きながら私はいつも安らかな眠りに入りました。

 73年前、谷奥のブナの林の中にクマザサでこしらえた小屋で木杓子をつくって生計を立てていた集落は今は綺麗に開けた観光地、民宿の村に変わっていました。

 かつては見向きもされなかった江戸時代の歌舞伎の舞台はすっかり改修されて国の重要文化財に指定されていて驚きました。こんな山狭の集落でも歌舞伎が上演され楽しまれていたのにはおどろきました。この地方が天領(幕府の直轄地)で潤っていたんでしょうね。



 集落の尾瀬沼よりの山地にこんなスキー場が出来たのです。



 1.5キロメートルのパウダースノーのロングダンヒルと、ダイナミックなパノラマが有名で、本場のスキー場を求めるスキーヤーが多く訪れるのだそうです。

 でも、昔と変わらぬ山や川が温かく私を迎えてくれました。最初に訪れた鎮守さまの岩屋です。長い山道の石段を登り、お社になにがしかのお賽銭を上げてお参りし、ひととき昔の思い出を懐かしみました。





 鎮守から見える残雪の岩くらは、左を新なだれ(雪崩)ぶち、右を大なだれ(雪崩)ぶちと呼ばれ、春になると轟音と雪煙を上げて底雪崩が落ちました。



 それは子供たちにとっては春を告げる喜びの雪崩でした。雪崩が起きると「なで(雪崩)だ~」と叫びながら子供たちは駆け寄りました。
 大きな雪崩は山の下の川を突っ切りこちらの岸に盛り上がるのです。そしてその雪の塊は川底のイワナやカジカを巻き上げるのです。争ってそれを拾うのも大きな喜びでした。


 
 ここは水あびばと言われていた岩場に出来た流れのよどでした。幅は6~7メートルもあったでしょうか、深いところで水深1メートルくらい、子供たちにとって安全な楽しい水遊び場でした。当時の子供たちはパンツなどはいている子は一人もなく、男の子も、女の子も輝くような裸身で遊んでいました。おおらかな時代でした。

 最も山ひとつ越えた集落の渓流の岩場に湧き出る温泉場は大人も子供もなんのさわりもなくおおらかに男女混浴する時代でしたから。



 ここは集落から「あごしま沢」の奥地のブナ林への入り口の山の神さまの祠です。
 子供の頃このすぐ近くに熊を捕るオソ(罠)がありました。でも私が住んでいた5年の間には捕れた話は聞いていません。
 幼い私はよく独りでここを訪れていろんな空想にふけりました。だから懐かしい場所のひとつでした。


 集落にはもう私の知ってる方は一人もいませんでした。でも幼友達のスミ子さんの家の前でびっくりしてしまいました。



 なんとお家の前の池で雄の美しいオシドリが一羽遊んでいたのです。オシドリは渓流に住んでいてなかなか見ることの出来ない鴨の類です。私は数度遠くから双眼鏡で見つけて感動したことがあります。

 そしてご主人が呼ぶと喜んで近寄るんです。



 そして手から餌をねだるのです。驚きました。



 茅葺き屋根の集落から、観光地の民宿の集落にかわっていても、ほかの所では決して見られない古い山狭の暖かさは生きていると思いました。

 帰ろうと車の乗ろうとすると、私よりいくつか年配の方にお会いできました。ここは私の懐かしいふる里なんですと話すと、その方は私の父のこともよく知っていて、私の5人の同級生の消息も詳しく教えてくれました。
 「この坂の所に大きな水車があって木地を挽く小屋があった」
 「あの川に鱒が揚がって村の若い者が力を合わせて捕って村中に切り身や卵を配った」
 「この沢の奥のブナ林に木杓子を作る小屋が何軒もあった」
などなど二人の老人の話は尽きませんでした。私も最後に懐かしい人の話を聞くことができましたし、相手の方も遠い70数年前の思い出に浸れて嬉しかったと喜んでいました。
 
 いいふる里への旅でした。  





遙かに遠い夢の詩

2012-02-21 | 日記


 これは私にとって懐かしい「遙かに遠い夢の詩」なんですけど、ご存じの方はいらっしゃらないでしょうね。73歳以上の方なら記憶されていらっしゃる方もあるかもしれません。この詩と挿絵が手に入って私は嬉しくってたまらないのです。

 昭和8年(1933.)から昭和20年(1945)まで小学校でつかわれていた国語の教科書「小学国語読本巻き二」の巻頭の詩と挿絵なんです。
 旧仮名遣いなので読みにくいと思いますので今の文章に直してみます。

  一 山の上

 向こうの山に
 登ったら
 山の向こうは
 村だった

 続くたんぼの
 その先は
 広い 広い
 海だった

 小さい白帆が
 二つ 三つ
 青い海に
 浮いていた
 遠くの方に
 浮いていた。


 小学校1年生だった私は、2学期になると新しい国語の教科書「小学国語読本巻二」が先生から渡されました。



 先生から表紙を開くように言われて巻頭の詩と挿絵に私の目は釘付けになりました。
 この峠を越えた道の先に私の知らない村がある。そしてそのたんぼの先に広い海がある。
 私の胸は明るい夢にときめきました。



 私の小学校は茅葺き屋根、2教室、それに職員住宅用の部屋が2間、トイレ・水屋(台所)は児童と共同使用、ご存じの方は少ないでしょうけれども「宮沢賢治の風の又三郎」の小学校を思わせる小さな山の学校でした。

 学校の障子の窓を開けると200メートルほど先に標高1200メートル嶮しい岩くらの山が見え、学校の裏は愛宕山のブナの森が続いていました。



 集落は尾瀬沼の隣の山峡の村でした。山に挟まれた谷間に幅200メートルほどの居平があり、そこに渓谷檜枝岐川が流れ、わずかな田畑があって、そこに寺・地蔵堂・学校を入れても12戸前後の人の住んでいる小さな集落でした。

 私たち子供の世界はその集落がすべてでした。山の幸・緑・ハヤブサ・ムササビ・野ウサギやテンなどの動物、渓谷のイワナ・ヤマメ・秋に檜枝岐川に登って来る鱒、2メートルを超す豪雪の雪も子供たちにとっては楽しい遊び場がいっぱいでした。小さな集落は子供たちの楽園でした。


   写真は「あつしおかのうの四季」からお借りしました。

でも、この詩と挿絵は私に大きな夢と希望を開かせてくれたのです。

  向こうの山に
  登ったら
  山の向こうは
  村だった
  田圃の続く
  村だった
 
  続くたんぼの
  その先は
  広い 広い
  海だった
  
 峠路のその先には私の知らない村が、田んぼが、そして広い海があるんだ。
 いつの日かこの峠の路を越えて行きたい。私の夢は果てしなく山の向こうに広がっていきました。

  そして、子供の時から85歳の今まで、私は山の向こうに果てしなく広がっている村や田んぼや海の夢の世界を求めて生きてきたように思んですよ。

 今はこの古里を遠く離れて暮らしていますけど、嬉しい時、悲しいとき、失意のとき、それぞれの時にいつもこの懐かしい古里に思いは回帰するんですよ。

 私の学校の隣にあった地蔵堂です。私たちガキどもの遊びの根拠地でした。後ろの山が愛宕山です。