ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

萩市紫福はキリシタンの里と大坂山たたら製鉄遺跡

2021年09月20日 | 山口県萩市

                 
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         紫福(しぶき)は大井川上流に位置する阿武高原内の盆地にあり、大井川流域の標高150
        m~170mに集落が連なる。
         地名の由来は、畑川山(現紫福山)の麓に京仏、奥畑、平原の3小村の土が紫色で土壌が
        肥えており、他村に比べ施肥をしなくても作物が良くできることによるという。
                                        (歩行約5.0km)

        
         萩バスセンターからJR東萩駅経由で堀越まで、1日7便の路線バスがあるが、切支丹
        の墓標などがある地を歩くには不便なので車で訪れる。
         道の駅「ハピネスふくえ」より県道福江須佐線を約9km北上すると、「世界遺産 大坂
        山たたら製鉄遺跡」の案内があるので立ち寄る。

        
         紫福市から山に向かって走ること約4km、山の口ダム上流に遺跡がある。
         受付を済ませてビデオ鑑賞すると、原料の砂鉄が島根から船で奈古港に荷揚げされ、荷
        駄(馬)で運び込まれたことや、大量の炭を要するため豊富な木材がこの地にあったことな
        ど、たたら製鉄の仕組みが学べるようになっている。

        
        
         元小屋は現在でいう事務所的機能を持つ施設で、推定復元図を当てると、こんな感じで
        建てられていたという。

        
         製法は粘土で作った箱型の低い炉に、原料の砂鉄と燃料の木炭に風を送り、鉄を取り出
        すという方法であった。 
         製鉄の中心施設は高殿(たかどの)と呼ばれ、中央に「炉」と「天秤鞴(ふいご)が置かれ、
        その周りに材料置場や休憩所があったという。

        
         砂鉄が溶ける温度(約1,400度)を長時間保ち続けるためには、粘土の良し悪しは操業
        に極めて重要な影響を及ぼしたとされる。炉(釜)は1回の操業を終えると取り壊され、た
        たらの操業を仕切るのが「村下(むらげ)」で、長年の経験と勘に委ねられていた。

        
         その他、不純物を取り除く砂鉄洗い場、「高殿」で作られた熱い鉄の塊を水で冷やす「
        鉄池(かないけ)」、奈古港と製鉄所を結ぶ「鉄の道」、鉄池などで使用する水を溜める給水
        施設などがあった。(写真は砂鉄洗い場)
         山手に上がると金屋子神祠(かなやごしんし)という小祠があるが、 「金屋子神」は女性の
        神様で、桂の木に降り立ち、鉄づくりを教えたと伝えられている。山の口ダム建設により
        現在地に新たな祠を建立したとある。

        
         長久寺(臨済宗)は、1871(明治4)年廃仏毀釈の折、鉄心寺と当地にあった見性院が合
        併し、鉄心寺にあった建物を移築して現寺号に改称した。1928(昭和3)年に現在の本堂
        が改築されたが、山門は1605(慶長10)年見性院が創建された当時のものという。 

        
        
         鉄心寺から移設された特徴的な石造物がある。軸部に手を交差した石像がはめ込まれた
        宝篋印塔、この塔と並んで子供を抱いた地蔵尊、その隣にはマリア観音といわれている石
        像がある。

                            
        
         紫福市には石州街道土床道が県道側を通っていたようだが、今は痕跡を残すものはない。

        
         旧道に入ると「三位一体像」が案内されているが、S家の敷地内を通らなければならな
        い。

        
         大内氏滅亡のあと戦乱の世となり、山口から多くのキリスト教信者が紫福村へ逃れてき
        たという。
         さらに、江戸期には毛利氏の切支丹禁制政策により、信者はひっそりと山里に隠れるよ
        うに住んだという。
         この路傍にある2基の苔むした墓碑の一基は、3面一体となった像である。合掌像や墓
        石の小窓の形した三角形は、キリスト教の奥儀である三位一体をほのめかす何らかの象徴
        ではと紹介されている。

        
        
         かっては商家、旅館、民家が軒を連ねていたとされるが、通りは廃屋が目立つ。 

        
         旧福栄村のマンホール蓋で、扇子落滝と2匹の魚がデザインされている。滝は同域内の
        福井下にあるが、駐車場もなく看板はあるものの分かりづらいようだ。

        
         県道を萩方面に引き返すと路傍に案内がある。

        
         防獣フェンスの扉を開けて細い道を辿る。

        
         鉄心寺跡には伴天連(バテレン)墓と呼ばれる六角形の石憧(せきとうとは石灯籠に似せてつ
        くった墓石)があり、宣教師の墓といわれている。
         伴天連とは、昔、日本で布教したキリスト教の外国人宣教師の称である。(駐車地は市の
        消防車庫脇を利用)

        
         「大乗妙典六十六部諸国□□塔 正徳元年(1711)11月」の大きな石碑脇にキリシタン
        墓が一基。

        
         さらに南下すると「キリシタン至福の里 切支丹墓標群」という案内板がある。車だと
        入口付近に駐車場がないので、少し南下して旧道分岐の路肩に駐車する。県道からは案内
        に沿えば迷うことなく行くことができる。

        
        
         室町期の1560(永禄3)年頃以来、信徒たちはこの地でキリスト教の教えを守り、至福
        の時を待ちながらひっそりと生活してきたという。至福がなまって紫福になったとか、紫
        福を至福と呼んだという伝説がある。
         時は流れて墓碑も風雪にさらされ続けてきたため、キリシタンの里至福の会の方々が、
        中山地区を祈念地として墓地を整備された。

        
         畑集落は石州瓦葺きのため背後の山の緑に映える。(県道脇のJAに駐車)

        
         集落内には土壁の民家も見られる。

        
         旧紫福小学校入口にある農事組合法人の地が、紫福村役場だったと思われるが、地元の
        方にお会いすることができず確証を得ることができなかった。
         1889(明治22)年町村制の施行により、近世以来の紫福村が単独で自治体を形成して
        きたが、1955(昭和30)年福川村と合併して福栄村となる。 

        
         1872(明治5)年創立された歴史ある紫福小学校は、過疎化のよる児童数の減少により、
        2016(平成28)年福川小学校と統合される。福栄小学校として中学校の敷地内に新設さ
        れ、県内初の小中一貫教育校がスタートする。

        
         佛光寺楼門は文殊堂が再建された寛文年間(1661-1673)頃に建立されたという。形式は木
        造入母屋造茅葺き屋根で市指定文化財でもある。

        
         佛光寺(臨済宗)は佛母寺と称していたが、1871(明治4)年廃仏毀釈により同じ村内に
        あった瑞光寺と合併して現寺号に改称する。佛母寺は鎌倉期の1299(正安元)年に創建と
        伝え、山中の墓地にキリシタン墓があるようだが残念する。

        
         1668(寛文8)年建立の文殊堂に安置されている文殊菩薩座像は、右手に宝剣、左手に
        経巻を握って、獅子座の上に座禅されているそうだ。像は檜の寄せ木造りで、南北朝時代
        の作とされ、25年毎に開帳されるという。

        
         山裾が突き出た所に岩武丞祐顕彰碑がある。碑文は少し風化してはっきり読めないが、
        大正2年(1913)紫福村信用購買組合の設立に率先して参加。昭和12年(1937)村長に就任
        し、昭和21年(1946)まで在任し、堰堤、ため池、農道の築造に尽力したとある。

        
         この先は民家が途切れるので、一旦、車まで戻って移動する。

        
         永田沖バス停付近から畑集落に向けて歩く。

        
         「めだかの舘」という店。

        
         石州瓦と白壁の美しさが際立つ。

        
         もとは自転車店だったのであろう看板が残る。

        
         ほぼ一直線の上り坂だった。 

        
        
         信盛寺(浄土宗)の寺伝によると、1617(元和3)年創建というが、1786(天明6)年の
        火事で記録類一切を焼失してくわしいことはわからないという。
         1798(寛政10)年2月15日福井下村の願行寺を出立した木喰五行上人は、同月28
        日までに同寺に滞在し、2体の仏像と扁額を刻したという。指定文化財のためか扁額は見
        当たらなかった。


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