ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市の勝坂峠から萩往還道と山頭火生家

2022年11月28日 | 山口県防府市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         萩往還道は毛利氏が1604(慶長9)年萩城築城後、萩城と毛利氏の水軍本拠地である御
        舟倉(三田尻)を結ぶ全長約53㎞の道を参勤交代道として整備した。
         郡境である鯖山(勝坂)峠からJR防府駅に向かって往還道を散歩する。(歩行約9㎞、佐
        波川左岸まで🚻なし)

        
         JR防府駅(12:10)からJRバス山口大学行き約15分、上勝坂バス停で下車する。洞道
        北口バス停がベストと思っていたが、降車する人に同調行動をとり、このバス停に降りて
        しまう。

        
         長い坂道(約1.2㎞)を上がって行くと鯖山(勝坂)峠で、当時は2軒の茶屋があったとい
        う。ちなみに
洞道北口バス停だと約0.95㎞、途中の駐車地にはトイレもある。

        
         高さ2m25㎝の郡境碑は、1802(亨和2)年に街道から見て、2面が見えるように立
        てられた。当時の山口市は吉敷郡、防府市は佐波郡であり、土台は後の時代にセメントで
        補強されている。

        
         1885(明治18)年明治天皇は山口行幸の際、三田尻(問屋口)までは船、萩往還道に添
        って鯖山峠までは馬車と騎馬で、峠で馬車に乗り換える際、この地で休憩されたという。 

        
         国道262線に沿って下って行く。

        
         国道と合流してさらに下って行くと、モミジバフウは落葉して、その後方に右田ヶ岳の
        南峰が見えてくる。

        
         正面に「庚申塚」と右側面には、「文政二己卯(1819)四月當村講中」と印刻銘がある。
        もとは街道筋にあったと思われるが、国道拡張工事で旧内田宅の玄関口に移動させられて
        いる。

        
         風に吹かれて落葉中。

        
         陸橋下に「おろくさんの碑」があるが、昔、茶店に「おろくさん」という美人の娘がお
        り、多くの若者たちが足繁く通っていた。一人の若侍が思いを伝えたが断られたので、一
        刀の下に切り殺したので、その霊を慰めるため塚が建立されたという。この塚も国道拡張
        工事で現在地に据えられたものと思われる。

        
         陸橋で右田ヶ岳側に移動して右手の道に入る。

        
         国道手前の小堂内には石造地蔵菩薩が安置されているが、像高39㎝の半
跏像で江戸期
        のものとされる。半跏とは片足を他の足の上に組んで座るとのこと。

        
         左手に勝坂砲台跡。

        
         1863(文久3)年に萩藩は藩庁を萩から山口へ移鎮すると、山口防備のため主要街道に
        あたる勝坂に関門を設置した。台場には砲を据え、通関を請う者は審問の上、鑑札を渡し
        ていたという。1870(明治3)年の脱退騒動では、脱退兵と討伐に向った右田兵及び岩国
        ・徳山両藩兵との間で激戦を交えた戦場となった。
         
のちに跡地は果樹園となったが、現在は荒れ放題の藪となっており、石垣もほとんど形
        跡をとどめない。西側の国道沿いは国道拡張工事の際、崖を削ってコンクリート化され、 
        上り口の石積みは積み直されたものである。

        
         明治天皇は行幸の際、往復ともにここ徳永家に御小休せられたという。碑は、1894
        (明治27)年3月徳永勝蔵氏が記念の碑を建立したものである。ここで往路は馬車から騎馬、
        復路は騎馬から馬車への乗換地点となった。 

        
              昔の剣川沿いには40数ヶ所の水車場があり、精米や製粉が行われていた。水路、水車        
        を据え付た石垣、排水の暗渠が残されていたが見当たらず。2009(平成21)年の山口集
        中豪雨で土石流が流れ出て甚大な被害を受けた地域である。
        
        
         小堂の中に像高42㎝の地蔵菩薩、堂の斜め後に幸神碑。

        
         次のK宅前の石造地蔵菩薩坐像を過ごすと山陽新幹線が横断する。

        
         街道筋側からの剣神社入口。 

        
         入口から街道を少し下ると、阿弥陀堂跡には右田市上会館と地蔵堂、後方に旧墓地があ
        る。

        
         剣神社は古くには鯖山(勝坂)峠の登り口にあたる勝坂に鎮座していたと伝え、平安中期
        の「延喜式」神名帳に「剣神社」と記されているという。
         社伝によれば、仲哀天皇が筑紫行幸の時、夷狄(いてき・異民族のこと)の降伏を祈願し
        八握剣を御神体として祀ったのが始まりという。 

        
         参道出口付近から見る右田ヶ岳。地名の由来は、佐波川右岸の広大な耕地という意で右
        田になったとか、また、周防灘の北にあたる場所だから「海北(うみきた)」といったが、こ
        れがつまって「みきた=みぎた」という説もある。

        
         藩政期の右田市にはいくつもの寺や民家・商家が立ち並び、四方に向かう道の起点で賑
        わっていたというが、今はその面影は残されていない。
         鎌倉期の初め頃、多々良(大内)盛房の弟盛長が、下小野を乗っ取り右田摂津守と名乗る
        ようになる。多々良氏が大内に住み着いてからは勝坂峠を越える道も開け、この道筋に右
        田氏が毎月決まった日に産物を交換しあう「市」を開かせたのが右田市の始まりだという。 

        
         当時はT字路で国道からの道はなく、左に見える地蔵尊は、右田市の上・下の講40軒
        でお祀りしてきたという。横の灯籠は熊野神社の宮灯籠で権現宮と彫ってあるが、もとは
        道路の反対側にあったが道路新設にともない移設された。

        
         乗円寺(真宗)は大内氏に仕えた弘中受慶を開山とし、子孫は後に毛利氏の家臣となり、
        毛利元俱に従って右田に移る。1632(寛永9)年元俱は、萩の清光寺に嫁いでいた娘が亡
        くなった際、法名にちなんで現寺号にしたという。 

        
         乗円寺と向かい合わせにある真宗寺(真宗)は、1907(明治40)年右田市の明誓寺と上
        右田の専成寺を併せて真宗寺とする。

        
        
         右田市から本橋(もとばし)までは耕作地であったものと思われ、史跡等は存在しない。

        
        
         佐波川には、1724(享保9)年に木橋が架けられたが、洪水の度に流されたため、17
        42(寛保2)年6艘の舟を並べて板を渡した総延長38mの舟橋が作られた。この舟橋は19
        41(昭和16)8月まで約200年間存続したが、その後、再び木橋となるが、1951(昭
          和26)
年7月の台風で流され、現在の橋はコンクリート橋の2代目である。

        
         招魂碑と小祠が並ぶが、碑の由来等が記載されているが、風化により読み取ることがで
        きない。

        
         佐波川の氾濫が相次ぎ、甚大な被害を繰り返していたが、当時の土木技術では施す策も
        なく、思案の末、山口にある祇園社(現八坂神社)の分霊を勧請したという。(勧請年代不詳)
         当初は川の右岸である本橋近くに安置されたが、1979(昭和54)年の水害により遷座
        したとある。

        
         室町後期の1557(弘治3)年3月12日、毛利元就・隆元親子が大軍を牽いて防府に進
        軍する。これに対し、鷲頭・朝倉軍は天神山の上で毛利軍に備えていたが、形勢が不利と
        みて山口に向けて引き揚げようとしていた。毛利軍は逃がさず追い詰めて、この佐波川周
        辺で激しい戦闘が行われたという。

        
         佐波川左岸の道は旧防石鉄道跡であり、 1919(大正8)年7月5日に三田尻ー和字間、
        翌年に和字ー堀間が開業したが、営業成績が延びず堀以北は着工することができず、海岸
        線への延長計画(防府ー中関)も頓挫し、1964(昭和39)年7月1日鉄道事業は廃止され
        てバス事業に転換される。

        
         旧街道の左側に主要道路が新設されたため
静かな通りである。

        
         天満宮への道標らしいがはっきりしない。通りには石造菩薩立像が2基ある。

        
         護国禅寺(曹洞宗)は、1792(寛政4)年の火災で本堂・庫裏が火災で焼失したため、寺
        記は不明とされる。過去に宝積寺と号していたようだが、1742(寛保2)年現寺号に改め
        たという。 

        
         薄茶色の凝灰岩でつくられた笠塔婆(供養塔)は、基礎・塔身・笠から成る。1976(昭
          和51)
年市内迫戸(せばと)町の水田から発見されたもので、鎌倉期の1232(貞永元)年頃の
        作とされる。
         正面に阿弥陀三尊を表わす種子と、裏面に中台八葉院曼荼羅を刻む。(県指定有形文化財) 

        
         種田山頭火は、1940(昭和15)年10月11日松山の一草庵において漂泊に生きた生
        涯を閉じた。(享年57歳)
         句友であった久保白船が、松山に急ぎ駆けつけて荼毘に付したという。防府の地に生ま
        れ育ち、流転の旅を繰り返した生涯だったが、生まれ故郷で母と眠るのもよし、妻サキノ
        さんが眠る熊本の地でもよしとし、合掌して寺を後にする。

        
         往還道に戻って四差路を左折するが、昔はT字路(三つ辻)で市役所方面の道はなかった
        という。ここから天満宮下まで旧山陽道と重複する。

        
         この先の游児川までが今市で、風土注進案によると町尻に当たり、商売も少なく農業を
        渡世の一助として暮らすものが多いと記述されている。

        
         次のT字路を右折すると、フェンス(金網)に囲まれた中に石壇だけが残る八王子社跡。
        傍の小路は種田山頭火が松崎小学校に通った道で、「山頭火の小径」とされている。

        
                 「うまれた家は あとかもない ほうたる」
         種田山頭火(本名は正一)は、1882(明治15)年に佐波村の大地主の子としてこの地で
        生まれた。11歳の時に母が井戸に身を投げて自殺し、父の放蕩で家は傾き、夜逃げ同然
        で熊本へ移り、44歳で出家得度して托鉢をしながら各地を放浪する。1937(昭和12)
        年8月生家に帰って詠んだ句とされる。「ほうたる」は蛍のことで、母と見た蛍を思い出
        したのであろう。
         長い歩きであったが、ゆめタウン防府を経由してJR防府駅に戻る。


この記事についてブログを書く
« 上関町祝島は石積みの練塀と... | トップ | 防府市下右田の右田毛利家と... »