アニメブームの礎が「宇宙戦艦ヤマト」なら、今日の競馬人気の原点は「ハイセイコー」である。
大井競馬で無敵の連勝を飾り、クラシックレースを目指して中央に移籍してきた。
中央初戦の弥生賞を快勝して、史上空前のハイセイコーブームが起きる。
地方競馬から這い上がってきた、ということが、その人気の鍵なのだろう。
日本人はそういうストーリーが好きだ。
その後のオグリキャップなどもそのパターンで、アイドルホースとなっている。
当時もそうだったが、人気先行の馬と見られがちのような、気がする。
ダービーで初めて3着に負けたのを含めると、それ以降は12戦3勝、確かに当初の無敵のイメージからは程遠い内容だ。
しかし、中央での16戦のうち、着外はわずかに3度。
皐月賞1着、ダービー3着、菊花賞2着。
菊花賞のあと、3歳で挑戦した有馬記念でも3着。
年が明けて臨んだAJC杯が9着と初めての凡走。
さすがに疲れが残っていたのだろうと推察する。
そして、今も語り継がれる中山記念の圧勝劇!
春の天皇賞は、やっぱり距離が長かったのか6着だったが、宝塚記念を快勝し、さらに、当時2000M戦だった高松宮杯も61キロを背負ってなんなく勝利。
その後は、京都大賞典を62キロで4着、オープン(60キロで2着)を叩いて、引退レースに臨んだ。
タニノチカラには屈したが、2着を確保し、ライバルのタケホープに先着した。
当時は、秋の天皇賞も3200Mで、マイル路線なども全く整備されていなかったわけで、この馬本来の持ち味である中距離のレース体系が確立されていたなら、もっと活躍できたと思うし、この戦績も十分に立派なものだ。
産駒からも、ダービー馬カツラノハイセイコなどを出して、当時のファンを喜ばせました。
また、引退時は、主戦の増沢騎手が「さらばハイセイコー」を歌い、大ヒット。
競馬がお茶の間に入ってくるという、大きな役割を担ったことは、競馬界に計り知れない貢献をしていると考えます。
将来、馬名を冠したレースが出来る事を切望してやみません。
(↓)亡くなる一年前の映像です。
ハイセイコーby
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