オイラが初めて観に行ったダービーの勝ち馬が、このミホノブルボンです。
この時の東京競馬場は、かなり混雑していました。
まあ、ブルボンは、ここまで無敗で来ていたのですから、人気もありましたし、それにしても、混んでいましたね。
レース自体もターフビジョンでしか見れないぐらいで、ほぼゴール前にいたため、身動きすら取れない状況。
しかも、当時付き合っていた彼女と一緒だったので、彼女の太もものあたりを両手で抱えて、持ち上げながらの観戦で、オイラの体力は、直線入り口で一度限界を迎えました(笑)。
しかし、ブルボンは、血統的に距離の不安説もありましたが、ここでは、全く磐石の強さで、その「破壊的」と言われた逃げ脚を見せつけてくれたのです。
ミホノブルボンを語るとき、この馬の調教師である「戸山為夫」師を抜きには考えられません。
その「スパルタ方式」と揶揄された調教によって、何頭かの馬は故障してしまったようですが、ミホノブルボンは、見事に鍛え上げられ、ダービー馬となったのです。
厳しく鍛えることによって、その潜在能力を開花させることが可能であると、戸山師は、このブルボンによって実証したのです。
秋には「三冠」への期待が懸かりました。
戸山師自身も血統的な不安を抱きつつも、自らの信念に基づき、馬を仕上げました。
レース後、その騎乗のあり方(鼻を切らずに二番手追走)に一部マスコミが異論を唱えていましたが、しかし、オイラは、こう考えます。
「生まれた年が悪かった」と・・・。
そうです、菊花賞を制したのは、無頼のステイヤー「ライスシャワー」です。
その馬を相手によく闘ったと思います。
ブルボンは、その後、やはりと言うべきか、故障してしまい、そのまま引退してしまいましたが、8戦7勝、2着1回という成績は、我々の記憶以上に凄い成績なのです。
なにしろ、二冠馬、いや、ダービー馬なのですから。
この時の東京競馬場は、かなり混雑していました。
まあ、ブルボンは、ここまで無敗で来ていたのですから、人気もありましたし、それにしても、混んでいましたね。
レース自体もターフビジョンでしか見れないぐらいで、ほぼゴール前にいたため、身動きすら取れない状況。
しかも、当時付き合っていた彼女と一緒だったので、彼女の太もものあたりを両手で抱えて、持ち上げながらの観戦で、オイラの体力は、直線入り口で一度限界を迎えました(笑)。
しかし、ブルボンは、血統的に距離の不安説もありましたが、ここでは、全く磐石の強さで、その「破壊的」と言われた逃げ脚を見せつけてくれたのです。
ミホノブルボンを語るとき、この馬の調教師である「戸山為夫」師を抜きには考えられません。
その「スパルタ方式」と揶揄された調教によって、何頭かの馬は故障してしまったようですが、ミホノブルボンは、見事に鍛え上げられ、ダービー馬となったのです。
厳しく鍛えることによって、その潜在能力を開花させることが可能であると、戸山師は、このブルボンによって実証したのです。
秋には「三冠」への期待が懸かりました。
戸山師自身も血統的な不安を抱きつつも、自らの信念に基づき、馬を仕上げました。
レース後、その騎乗のあり方(鼻を切らずに二番手追走)に一部マスコミが異論を唱えていましたが、しかし、オイラは、こう考えます。
「生まれた年が悪かった」と・・・。
そうです、菊花賞を制したのは、無頼のステイヤー「ライスシャワー」です。
その馬を相手によく闘ったと思います。
ブルボンは、その後、やはりと言うべきか、故障してしまい、そのまま引退してしまいましたが、8戦7勝、2着1回という成績は、我々の記憶以上に凄い成績なのです。
なにしろ、二冠馬、いや、ダービー馬なのですから。