ファントム・競馬チャンネル

さっぽろファントムの競馬予想
競馬歴30数年の経験を元に書いてます。
2歳戦予想しません。

競馬の記憶 第50回 テスコガビー

2007-06-15 23:07:14 | 競馬(思い出)
え~、
今週から夏競馬が始まり、しばらくは土曜日の重賞が無くなりますので、まあ、隔週ぐらいで、過去の名馬たちを思い出してみたいと思います。

今回は、記念すべき(?)50回目(笑)。

ウオッカが、宝塚記念に出走するらしいので、今回は、名牝の中から、そのずば抜けたスピードで、桜花賞、オークスを逃げ切ったテスコガビーを取り上げたいと思います。

テスコガビーは、1975年度の牝馬2冠馬で、最優秀3歳牝馬(当時は4歳表記)に選ばれています。

と言っても、年代がピンと来ないと思います(爆)。

1973年に、ハイセイコーが、
1974年は、キタノカチドキが、
そして、テスコガビーの翌年、1976年は、トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスが、クラシックレースを賑わせていました。

それぐらいの年代です。

また、テスコガビーの同期には、カブラヤオーがいます。
この2頭はともに、菅原泰夫騎手が騎乗していて、春のクラシックを独占しました。今をときめく武豊騎手でも成し得ない偉業です(笑)。

さて、
このテスコガビー、何が凄いかと言うと、やはりそのスピードです。圧倒的に速かった・・・。
逃げ馬ですから、まあ当然、勝つ時は「逃げ切り」なんですが、短評で言うところの「逃げ圧勝」という表現では表わせ切れない凄さがありました。

オークスで8馬身差、
その前の桜花賞では、大差をつけての優勝!
この時のタイムが1分34秒9で、13年後の1988年にアラホウトクが、コンマ1秒更新するまで破られなかった、大レコードでした。

「逃げ切る」のではなく、
「突き放す」という表現が正しいと思います(爆)。

菅原騎手によると、「テン良し、中良し、終い良し」。
最近で言うならば、絶好調時のタップダンスシチーでしょうか? 1600mも、2400mも関係なく、逃げ切ってしまうのですから、相当なものです。

ただ残念なのは、これだけのパフォーマンスを見せながら、オークスのあとに外傷(左前脚)を負い、1年弱の休養を余儀なくされ、さらに、復帰戦(ダート1200m)も6着。
そして、その後、休養先の牧場で、心臓麻痺で亡くなってしまったのです。

我々競馬ファンにとって、活躍した馬たちの子供の姿が見られないことは、とても寂しいものです。特に、引退前に、不慮の事故や病気で亡くなってしまった場合、その先の、血の繋がりが途絶えてしまいます。
当時の活躍を知るものとして、本当に残念なことです。
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競馬の記憶 第49回 テンポイント(その4)

2006-10-31 23:54:29 | 競馬(思い出)
続き・・・

テンポイントの現役時代は、天皇賞に一度勝つと、もう、出走が出来なかった。
そう、春も秋も、3200mで争われていたのです。

もちろん、ジャパンカップは、まだありませんでした。
古馬は、天皇賞に勝ってしまうと、有馬記念か宝塚記念ぐらいしか、走らせるレースがなくなってしまうのです。

重賞競走は、ほとんどが賞金別定で、
たとえば、テンポイントが、宝塚記念のあと、秋の復帰戦に選んだ京都大賞典は、斤量が63kgです。
強くなった馬は、引退するか、海外のレースに行くしかないのです。

テンポイントも海外遠征に行く計画が持ち上がりました。
もちろん、有馬記念で、トウショウボーイに勝ったら・・・の話でした。

トウショウボーイと戦うまでは、負けるわけには行かないテンポイントは、
京都大賞典と、続くオープン競走(オープン馬の平場戦)を60kgで連勝。
ともに「逃げ切り」で、そのスピードにも磨きがかかってきました。

かたや、トウショウボーイは、1600mのオープン戦をひと叩き(レコードタイムの圧勝)して、天皇賞へ駒を進めましたが、やはり距離が長かったのと、やや重の馬場が災いして、7着と惨敗してしまいました。

そうして迎えた有馬記念は、日本競馬史上最高の「名勝負」と言われるレースになったのです。

レースのペース自体は、けっして速いものではありませんでしたが、
当初、トウショウボーイが先行しますが、テンポイントも負けじと鼻を奪ったり、まさに2頭のマッチレースの様相でした。
最初から最後まで、この2頭がレースを引っ張り、そして、この2頭が最初にゴールしたのです。

勝ったのはテンポイントです。
直線入り口で先頭に立つと、ほぼ、そのままの差(着差3/4馬身)を保ってゴールしました。
今までの経験から、直線での能力が互角であると判断し、先に先頭に立てば押し切れるという作戦でした。
その通りになりました。

勝ちタイムは凡庸なものでしたが、こんなレースは、おそらく2度と見ることは出来ないでしょう。
まさしく「一騎討ち」。
日本の競馬史に永遠に語り継がれるであろう、名勝負です。

ちなみに、3着だったグリーングラスも、翌々年の有馬記念を勝ちましたから、
この世代の強さが窺えます。

翌年、
テンポイントは、予定通り海外遠征を行う事になりました。
凱旋門賞です。

ただ、その前に、関西のファンのために、もう一度レースを使おうということになり、壮行レースの意味合いで、あの日経新春杯に出走したのです。
レース間隔が無かったのですが、他に使えるレースも限られていて、このレース以外の場合は斤量が72kg(あるいは69kgだったか)ということでしたから、ハンデ戦の「66.5kg」が最も軽いレースだったようです。

テンポイントは、3~4コーナーの中間で、故障して、競走を中止しました。
実況の杉本氏は、かなり動転したようで、ゴール直前に1着2着の馬名を確認をしたのみ。それ以外は、終始テンポイントの状況を伝えると言う、前代未聞の中継でした。

この時、テンポイントは、落馬しませんでした。後ろ足を故障して、それでも3本の足でしっかり立っていたんです。

「鹿戸騎手は、もう馬から降りている・・・」
勝ち馬が直線半ばを走っている時、杉本氏はそう伝えてくれました。

終わり。
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競馬の記憶 第48回 テンポイント(その3)

2006-10-26 00:38:56 | 競馬(思い出)
続き・・・

さて、
有馬記念で1、2フィニッシュを決めた、テンポイントとトウショウボーイですが、トウショウボーイは、疲れが出たのでしょうか?休養に入りました。

まあ、菊花賞のレース振りから、長距離適正が無いということも感じていたのでしょう。

かたや、テンポイントは、休む間もなく、2月の京都記念から始動。
京都記念、そして、当時は、春の天皇賞のトライアル的要素があった鳴尾記念を連勝して、まさに磐石の態勢で天皇賞に臨みました。

三強のもう一頭、グリーングラスは、有馬記念を使わなかったので、テンポイントより一月早く、AJC杯、そして当時、春秋の2回行われていた目黒記念を走りましたが、1着、2着と、これまた順調に天皇賞に進んできたのです。
特に目黒記念では60kgのハンデでしたので、負けて強しの印象だったと思います。

この春の天皇賞で、テンポイントは完勝しました。
グリーングラスは伸びきれず4着。

これで、テンポイントの次の目標が、打倒トウショウボーイということになりました。
その第1弾が、つづく宝塚記念でした。

トウショウボーイは、有馬記念以来、約6ヶ月ぶりのレースということで、テンポイントが一番人気に支持され、トウショウボーイは2番人気、グリーングラスが3番人気です。

しかし、レースは、トウショウボーイが圧倒的スピード逃げ切りました。
テンポイント2着、グリーングラス3着。

テンポイント陣営と、テンポイントのファンにとっては、ホントに「憎きトウショウボーイ」です。

トウショウボーイに勝たない限り、いくら勝ち続けても、最強馬ではないのです。
陣営には、そういう思いが常にあったようです。

「なんとしても、トウショウボーイに勝ちたい」

しかし、その年の秋に、トウショウボーイの引退が発表されました。
有馬記念を最後に、種牡馬になるということが決まったのです。
ですから、テンポイントにとって、その有馬記念が、トウショウボーイに勝つ、最後のチャンスとなってしまいました。

「打倒!トウショウボーイ」
この合言葉のもと、テンポイント陣営は、一致団結したのです。

続く・・・。
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競馬の記憶 第47回 テンポイント(その2)

2006-10-12 18:05:58 | 競馬(思い出)
前回の続き。

さて、
復帰戦の京都大賞典で3着と、まずまずの試走を見せてくれたテンポイント。

いよいよ3冠最後のレース「菊花賞」に駒を進めました。

ライバルは元気なまま、夏を越して来ています。
皐月賞馬トウショウボーイは、トライアルの神戸新聞杯、京都新聞杯と連勝。そのスピードで他馬を圧倒していました。

また、ダービー馬クライムカイザーも、トライアル2戦に出走し、共にトウショウボーイに次ぐ2着を死守。
距離が伸びる本番に向けて、良いデモンストレーションが出来ました。

菊花賞・・・。
1番人気は、トウショウボーイ
2番人気は、クライムカイザー
そして、テンポイントは3番人気です。

当日の馬場は「重馬場」、トウショウボーイには不利な条件となりました。

テンポイント、トウショウボーイは、共に好位に付け、クライムカイザーは後方からレースを進めた。

テンポイントは、直線入り口で早々と先頭に立ち、逃げ込みを図りました。
それを必死に追いかける形になったトウショウボーイ。
クライムカイザーは、レース展開的に仕掛けが遅れました。
後方から追い上げるも、前を行く2頭には、とうとう追い付く事が出来ませんでした。

しかし、レースを制したのは、トウショウボーイでも、テンポイントでもありませんでした。

直線で、上手くインコースを進んだ伏兵、グリーングラスが、重馬場を苦にせずに、内ラチ沿いをグイグイと伸びて、見事栄冠を手にしたのです。

この時から、TTG時代が始まりました。

振り返ってみれば、至極当たり前の結果でありますが、
当時のファン心理は相当複雑でした。

テンポイントは、宿敵トウショウボーイには先着したのですが、その先に、条件戦を勝ったばかりの、全く無名の馬がいたのですから・・・。

その年の有馬記念は、トウショウボーイとテンポイントが、1、2フィニッシュ。
2頭の実力が、抜きん出ていたことを証明しましたが、
テンポイントのファンは、またしてもトウショウボーイに先着を許してしまった事が、とても残念でした。
それは、テンポイントの小川調教師も同じ思いで、「打倒、トウショウボーイ」がいつの間にか、陣営の合言葉のようになっていったのです。

つづく・・・。
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競馬の記憶 第46回 テンポイント(その1)

2006-10-06 17:06:52 | 競馬(思い出)
いよいよ、登場!
オイラの競馬好きの当にターニングポイントというべき、「テンポイント」です。

テンポイントがデビューしたのは、オイラが高校生の時です。

ハイセイコーの時に、競馬を観始めて、まだまだ名前の好き嫌いでレースの予想をしていたころです。

テンポイントを語る時、「杉本 清」氏を抜きには、語れません(笑)。

杉本さんが、実況で「見てくれこの脚!」と連呼しなければ、こんなにもテンポイントに、思い入れを持つ事は無かったでしょう。

今現在の自分が、あの頃に戻ったとしたら、たぶん、トウショウボーイの方を応援していたと思います。
トウショウボーイは、まさに「天馬」と称された馬です。
そのスピードは、現在のディープインパクトに匹敵するものでした。

しかし、結果的に、テンポイントに思い入れを持った事は、オイラにとっては幸いでした。
テンポイントの成長は、実にドラマティックであり、はるかな夢、凱旋門賞を意識させてくれたからです。

テンポイントは、今で言う2歳の時に、関西で圧倒的パフォーマンス(3戦3勝、すべて7馬身以上の大差勝ち)を見せ、クラシック戦線に乗ってきた馬です。

3歳時は早くから関東のレースを使い、皐月賞までは5戦全勝で、ライバルのトウショウボーイと人気を二分していました。

その皐月賞では、トウショウボーイに屈し(2着)、ダービーでは、伸びを欠いて7着。
しかも、レース中に骨折していた事が判明し、三冠の最後のチャンスも危ぶまれていました。

そんな中、テンポイントが復帰戦として駒を進めたのが、京都大賞典です。

通常なら、トライアルを使うところですが、菊花賞までの間隔と、距離を考慮しての選択だったようです。

レース実況の杉本さんの思い入れは相当なもので、
結果、3着だったのですが、実況ではゴール直後に、「テンポイントはこれで十分だ!」と連呼していました(笑)。

こんなアナウンサーは、他にいません(爆)。

故障明けで、その走りに翳りがあるのではないかと、心配していたファンは、それを聞いて、大いに心強く思ったものです。

事実、レース後、その実況を見ていた、テンポイントの生産者の奥さんが、大変感激した旨を、杉本さん本人に伝え、感謝していたという事です。

今でこそ、三連単、三連複がありますが、当時は枠連のみ。
複勝こそありましたが、馬券的には、3着で良いわけがありません。
杉本さん自身も、TV局の上司から注意されたそうですが、幸い、抗議の電話などは、ほとんど無かったそうです。

そんなこんなで、いよいよ菊花賞を迎えることになるのです。

つづく。
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競馬の記憶 第45回 ホワイトストーン

2006-09-21 22:32:23 | 競馬(思い出)
32戦4勝、2着3回、3着6回、4着3回、5着2回。
重賞は、セントライト記念、大阪杯、アメリカジョッキーCCの3勝。

メジロマックイーン、メジロライアンの同期で、
皐月賞こそ8着だったが、ダービー3着、菊花賞でも2着して、さらに、
ジャパンC、有馬記念と出走し、4着、3着。

頑張っていました。

しかし生まれた時代が悪かったです。

翌年の大阪杯は1番人気に応え、快勝しましたが、
本番の天皇賞・春では、3番人気で6着。

以降は、重賞では、そこそこ走れるのですが、
GⅠでは、まったく期待はずれに終始しました。

でも、人気はありました。
単勝人気ではなく、ファンの人気です、

なぜか、ファンが多い馬でした。
おそらく、このホワイトストーンに続く馬として現れたのが、ステイゴールドなのではないでしょうか?

空前の盛り上がりを見せたオグリキャップの引退後、
一部のファンは、このちょっと頼りない芦毛馬を応援していました。

ホワイトストーンは最後まで、GⅠを勝つことはありませんでしたが、
彼を応援したファンのあり方が、新しい競馬ファンのスタイルを作ったような気がします。

そういう意味で、ホワイトストーンは、忘れてはならない馬の一頭であると、オイラは思います。

ちなみに、ホワイトストーンの父は、タマモクロスと同じ、シービークロスで、
先日亡くなられた吉永正人調教師の騎手時代のお手馬でした。
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競馬の記憶 第44回 カツトップエース

2006-09-15 21:59:22 | 競馬(思い出)
11戦4勝、2着2回、3着1回、4着2回、着外2回。
重賞は、皐月賞とダービー・・・。

そう、この馬こそ、最弱(?)の2冠馬カツトップエースです(笑)。

いや、実際にそう言われていたかどうかは別にして、
この馬ほど実力を評価されなかった馬は、いないかも知れない。
念のため言っておきますが、彼は種牡馬として韓国に寄贈されています。
種牡馬としても、日本では人気が無かったという事でしょうか・・・。

レースでも、1番人気になったのは、2戦目の新馬戦だけ。
(当時は、同一開催であれば、2度も新馬戦に出られた)

皐月賞では16番人気、ダービーでも3番人気。

同期の馬では、常に1番人気だったサンエイソロンが圧倒的に主役だったのですが、彼は、とうとうクラシックは勝てなかった。
3冠レースの全てのトライアルレースで勝っていたため、「トライアル3冠馬」などと言われたものです(爆)。

そんな同期馬を尻目に、曲がりなりにも2冠馬となったカツトップエース。
まあ、ライバルがそんなだから、彼自身の実力が低く見られるのも仕方がないことかもしれません。

着差も共に僅差でしたし、なにしろ血統がマイルまでの短距離血統。
皐月賞はともかく、ダービーまで勝つとは、誰も考えなかったでしょう。
ぃや、そんなことはありませんね。
ダービーでは3番人気なのですから・・・。

オイラが常々思っているのは、
このカツトップエースの存在が、のちのサニーブライアンに受け継がれているように感じるということです。

つまり、
皐月賞を逃げ切るような馬は、弱いはずはなく、いや、それ以上に、強いはずだ、ということです。

サニーブライアンしかり、
カブラヤオーしかり・・・。

だから、みんなが思っているほど、この馬が弱いことは無いんです。
弱い、というのは、語弊がありますね(笑)。

故障のため、ダービー以降、レースを使うことなく引退してしまいましたが、
今後、さらに、記憶を呼び返す馬であると、オイラは思います。
皐月賞を逃げ切る馬が出てきたら、思い出して下さいね。
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競馬の記憶 第43回 テンメイ

2006-09-05 23:57:51 | 競馬(思い出)
34戦6勝、2着8回、3着5回、4着6回、5着なし。
重賞勝ちは、当時3200Mだった秋の天皇賞と、京都大賞典の2つ。

けっして名馬の部類には入らないだろう。
まあ、天皇賞を勝っているのだから、それも失礼な事かもしれないが、
この馬の人気は、当時としては異例であったというほどのものがある。

それは、テンメイの母が、トウメイという女傑だったからです。

トウメイの戦績です(↓)
31戦16勝、2着10回、3着2回、4着1回、5着2回、着外なし!

詳しくは、こちら(→)トウメイ全成績

引退直前の成績は素晴らしく(天皇賞、有馬記念連覇)、まさに最強牝馬であると言われています。


テンメイは、菊花賞に滑り込みで出走し、あわや優勝かと思われた直線でしたが、最後にプレストウコウに交わされて2着でした。

翌年の秋の天皇賞で、母トウメイが勝った時と同じ枠順、馬番を背負い、厩舎も同じなら、騎手まで同じという、まさに奇跡的な巡り合わせのもと、
レースでは、菊花賞の無念を晴らすように、先に先頭に立ったプレストウコウを、ゴール前、今度は逆に差し返して、見事優勝したのです。

この菊花賞と天皇賞だけを見れば、テンメイとプレストウコウは、よきライバルであったと言えるでしょうが・・・。

テンメイはその後、京都大賞典に勝ちましたが、それ以外では凡走もあり、
結局34戦で、一度は引退したのです。

ところが、どういう訳か、種牡馬に成れなかったらしく、なんと岩手の水沢競馬で現役に復帰してしまいました。

26戦7勝、2着5回、3着5回、4着6回、5着1回、着外2回。
なかなかの成績のように見えますが、ほとんどが8頭立て未満のレースです。

移籍当初こそ、4連勝など、活躍しましたが、大きなレースでは勝てませんでした。
そうこうしているうちに、テンメイのファンはシンジケートを結成して、テンメイを種牡馬にしてしまったのですが、残念ながら、種付けする牝馬も無く、活躍馬は出来ませんでした。

でも、オイラにとっては、深く思い出に残る馬です。。。
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競馬の記憶 第42回 トウフクセダン

2006-08-30 21:15:51 | 競馬(思い出)
56戦7勝、2着10回、3着3回、4着5回、5着7回。
まあ、たいした成績ではありません・・・。

それでも、重賞は3勝(オールカマー、東京新聞杯、ダイヤモンドS)
GⅠレースは、天皇賞(春)がグリーングラスの2着のほか、
宝塚記念がエリモジョージの4着、有馬記念がテンポイントの5着など。

詳しい成績はこちら(→)引退競走馬名鑑

世代は、テンポイント、トウショウボーイらと同じです。

この馬の凄いところは、2歳7月のデビューから5歳の6月までの3年間、
実に48戦もしています。
4歳時だけで17戦もしています。
3週間に1回は走っている計算ですね。

当時、「走る労働者」と言われていました。

当時関西には、ヤマニンバリメラという、引退までに99戦走った馬がいましたが、成績は断然トウフクセダンが上です。

現在のように距離体系が確立していなかったこともありますが、
ほとんどの重賞レースに顔を出していました。

オイラ自身もまだ学生の頃のことですから、
それほど競馬にも詳しくありませんでしたが、
天皇賞で2着に来た時は、なんとなく嬉しかった記憶があります。

本当にタフな馬だったと思います。
トウフクセダンという馬は、オイラの記憶の中に間違いなく、大きな存在として残っています。
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競馬の記憶 第41回 タケシバオー

2006-08-24 22:46:50 | 競馬(思い出)
今回はどの馬にしようかな?と、
別冊宝島をペラペラしていたら、
丁度「タケシバオー」のページが出た。

名前はもちろん知っているし、
1200M~3200Mと、距離に関係なく勝っていることも知っている。
しかしながら、その現役時代をほとんど知らないので、今回取り上げようかどうか迷いました。
でも、たぶん、天皇賞を勝ったレースは見ているはずなので(オイラが8歳の時)、強引にエントリーします(笑)。

戦績は29戦16勝、2着10回、3着1回、着外2回。

3着だったのは、デビュー4戦目のダート1200Mの条件戦。
そして、着外の2戦は、
共に米国のワシントンDCインターナショナル(当時のビッグレース)での、8着、7着。

3歳の秋は、皐月賞、ダービーと2着していたにもかかわらず、
ワシントンDCに挑戦しました。
1968年のことです。

海外遠征には、ハクチカラという大先輩が居ますが、
この馬も、忘れてはいけない名馬だと思います。

今で言うG1レースは、天皇賞(春)しか勝っていませんが、
たぶん、かなりの可能性を秘めていたんでしょうね。

出なければ、わざわざ菊花賞を振って、海外に行くわけが無いですものね。

その頃から比べれば、日本競馬の調教技術も相当上がっています。
何頭もの海外G1馬も誕生しました。

そして、いよいよ、
日本競馬界の金字塔となるべく凱旋門賞に、
最強馬ディープインパクトが挑戦です。

運命の日まで、あと37日です。
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