続き・・・
テンポイントの現役時代は、天皇賞に一度勝つと、もう、出走が出来なかった。
そう、春も秋も、3200mで争われていたのです。
もちろん、ジャパンカップは、まだありませんでした。
古馬は、天皇賞に勝ってしまうと、有馬記念か宝塚記念ぐらいしか、走らせるレースがなくなってしまうのです。
重賞競走は、ほとんどが賞金別定で、
たとえば、テンポイントが、宝塚記念のあと、秋の復帰戦に選んだ京都大賞典は、斤量が63kgです。
強くなった馬は、引退するか、海外のレースに行くしかないのです。
テンポイントも海外遠征に行く計画が持ち上がりました。
もちろん、有馬記念で、トウショウボーイに勝ったら・・・の話でした。
トウショウボーイと戦うまでは、負けるわけには行かないテンポイントは、
京都大賞典と、続くオープン競走(オープン馬の平場戦)を60kgで連勝。
ともに「逃げ切り」で、そのスピードにも磨きがかかってきました。
かたや、トウショウボーイは、1600mのオープン戦をひと叩き(レコードタイムの圧勝)して、天皇賞へ駒を進めましたが、やはり距離が長かったのと、やや重の馬場が災いして、7着と惨敗してしまいました。
そうして迎えた有馬記念は、日本競馬史上最高の「名勝負」と言われるレースになったのです。
レースのペース自体は、けっして速いものではありませんでしたが、
当初、トウショウボーイが先行しますが、テンポイントも負けじと鼻を奪ったり、まさに2頭のマッチレースの様相でした。
最初から最後まで、この2頭がレースを引っ張り、そして、この2頭が最初にゴールしたのです。
勝ったのはテンポイントです。
直線入り口で先頭に立つと、ほぼ、そのままの差(着差3/4馬身)を保ってゴールしました。
今までの経験から、直線での能力が互角であると判断し、先に先頭に立てば押し切れるという作戦でした。
その通りになりました。
勝ちタイムは凡庸なものでしたが、こんなレースは、おそらく2度と見ることは出来ないでしょう。
まさしく「一騎討ち」。
日本の競馬史に永遠に語り継がれるであろう、名勝負です。
ちなみに、3着だったグリーングラスも、翌々年の有馬記念を勝ちましたから、
この世代の強さが窺えます。
翌年、
テンポイントは、予定通り海外遠征を行う事になりました。
凱旋門賞です。
ただ、その前に、関西のファンのために、もう一度レースを使おうということになり、壮行レースの意味合いで、あの日経新春杯に出走したのです。
レース間隔が無かったのですが、他に使えるレースも限られていて、このレース以外の場合は斤量が72kg(あるいは69kgだったか)ということでしたから、ハンデ戦の「66.5kg」が最も軽いレースだったようです。
テンポイントは、3~4コーナーの中間で、故障して、競走を中止しました。
実況の杉本氏は、かなり動転したようで、ゴール直前に1着2着の馬名を確認をしたのみ。それ以外は、終始テンポイントの状況を伝えると言う、前代未聞の中継でした。
この時、テンポイントは、落馬しませんでした。後ろ足を故障して、それでも3本の足でしっかり立っていたんです。
「鹿戸騎手は、もう馬から降りている・・・」
勝ち馬が直線半ばを走っている時、杉本氏はそう伝えてくれました。
終わり。
テンポイントの現役時代は、天皇賞に一度勝つと、もう、出走が出来なかった。
そう、春も秋も、3200mで争われていたのです。
もちろん、ジャパンカップは、まだありませんでした。
古馬は、天皇賞に勝ってしまうと、有馬記念か宝塚記念ぐらいしか、走らせるレースがなくなってしまうのです。
重賞競走は、ほとんどが賞金別定で、
たとえば、テンポイントが、宝塚記念のあと、秋の復帰戦に選んだ京都大賞典は、斤量が63kgです。
強くなった馬は、引退するか、海外のレースに行くしかないのです。
テンポイントも海外遠征に行く計画が持ち上がりました。
もちろん、有馬記念で、トウショウボーイに勝ったら・・・の話でした。
トウショウボーイと戦うまでは、負けるわけには行かないテンポイントは、
京都大賞典と、続くオープン競走(オープン馬の平場戦)を60kgで連勝。
ともに「逃げ切り」で、そのスピードにも磨きがかかってきました。
かたや、トウショウボーイは、1600mのオープン戦をひと叩き(レコードタイムの圧勝)して、天皇賞へ駒を進めましたが、やはり距離が長かったのと、やや重の馬場が災いして、7着と惨敗してしまいました。
そうして迎えた有馬記念は、日本競馬史上最高の「名勝負」と言われるレースになったのです。
レースのペース自体は、けっして速いものではありませんでしたが、
当初、トウショウボーイが先行しますが、テンポイントも負けじと鼻を奪ったり、まさに2頭のマッチレースの様相でした。
最初から最後まで、この2頭がレースを引っ張り、そして、この2頭が最初にゴールしたのです。
勝ったのはテンポイントです。
直線入り口で先頭に立つと、ほぼ、そのままの差(着差3/4馬身)を保ってゴールしました。
今までの経験から、直線での能力が互角であると判断し、先に先頭に立てば押し切れるという作戦でした。
その通りになりました。
勝ちタイムは凡庸なものでしたが、こんなレースは、おそらく2度と見ることは出来ないでしょう。
まさしく「一騎討ち」。
日本の競馬史に永遠に語り継がれるであろう、名勝負です。
ちなみに、3着だったグリーングラスも、翌々年の有馬記念を勝ちましたから、
この世代の強さが窺えます。
翌年、
テンポイントは、予定通り海外遠征を行う事になりました。
凱旋門賞です。
ただ、その前に、関西のファンのために、もう一度レースを使おうということになり、壮行レースの意味合いで、あの日経新春杯に出走したのです。
レース間隔が無かったのですが、他に使えるレースも限られていて、このレース以外の場合は斤量が72kg(あるいは69kgだったか)ということでしたから、ハンデ戦の「66.5kg」が最も軽いレースだったようです。
テンポイントは、3~4コーナーの中間で、故障して、競走を中止しました。
実況の杉本氏は、かなり動転したようで、ゴール直前に1着2着の馬名を確認をしたのみ。それ以外は、終始テンポイントの状況を伝えると言う、前代未聞の中継でした。
この時、テンポイントは、落馬しませんでした。後ろ足を故障して、それでも3本の足でしっかり立っていたんです。
「鹿戸騎手は、もう馬から降りている・・・」
勝ち馬が直線半ばを走っている時、杉本氏はそう伝えてくれました。
終わり。