さて、その昔の古代の奴隷制は、戦争して、負かした相手の住人を奴隷とするというのがほとんどだったが、アメリカ大陸を中心とした近代の奴隷制は性格が違う。昔の奴隷というのは、言い方はおかしいが、納得はしてなくとも自分たちは敗れた側だから、こうなるのもやむを得ず・・の立場だった。しかし、アフリカから有無を言わさず、誘拐・拉致して連れてこられた黒人たちは、どう考えても理不尽すぎる。悪魔の所業とすら言える。なぜにこんなことがまかり通ったのか。その辺の人間性は脇において、近代奴隷制の歴史をたどってみたい。
*初の黒人投入
1492年にコロンブスがサン・サルバドル島に到着してから、スペイン人は続々とアメリカ大陸に渡って行った。求めたものは金と香辛料だったが、もちろんアメリカ大陸にそれらはない。代わりにあったのは銀。銀を採掘するために、現地の人々を酷使した結果、現地の人々はバタバタと、それこそ簡単に死んでいった。理由はいろいろあるが、大陸になかった病気があっという間に広がったのが最大の要因だ。その病気とは、天然痘、麻疹、インフルエンザである。免疫がまったくなかった大陸の人たちは、次々と倒れて行った。そして労働力が足りなくなり、アフリカから、黒人を連れてくるというとんでもないことがはじまった。
*大西洋奴隷貿易
1400年代半ばから、アフリカとヨーロッパの国による奴隷貿易がはじまった。その数は、15世紀~16世紀にかけては、275,000人、17世紀は、1,341,000人、それが18世紀に入りいきなり増える。18世紀は、6,052,000人。19世紀は、1,898,000人。総計は、9,566,000人ものとんでもない数になる。しかし、これは生きて運ばれた数であり、輸送の途中で死亡した数を加えると、数千万の人たちが運ばれたと推計される。これは、その後の大陸の人口にも大きな影響を及ぼした。17世紀から20世紀にかけて、アジアやヨーロッパでは人口が4倍になったが、アフリカでは300年間、ほぼ人口は停滞していた。
*産業革命とプランテーション
18世紀にいきなり奴隷貿易の数が増えたのは、イギリスで起こった産業革命が大きく影響している。簡単に富をもたらすサトウキビ栽培と、綿工業の原材料となる綿花の栽培がとんでもない広い農園で栽培されるようになったからだ。もちろん、このころアメリカ大陸は、ヨーロッパのものである。
世間の奴隷に対する批判の声も徐々に大きくなり、奴隷制度は衰退しつつあった頃、アメリカの発明家のホイット二―が綿繰機(1793年)を発明する。綿の中から種を取り出す機械だ。重労働だった種を取り出す作業が機械化され、効率は50倍になった。その結果、衰退しかかっていた綿花栽培は息を吹き返し、奴隷の必要性がことさらに増したのだった。これは奴隷の負担を軽くしようと思って作ったのに、逆の結果をもたらした・・と言われているが、その辺の真偽は不明。
*奴隷制・奴隷貿易の廃止
しかし、時代の趨勢によって、奴隷制度は批判を受け、徐々に貿易も縮小して行く。その理由として、まず人道的なものが一番に来る。社会契約説などの浸透により、人権思想や人類平等の考え方が普及していき、奴隷制そのものに反対という風潮が起こった。
経済的な要因もあった。資本主義が発達し、労働者を守られなければならない。ほぼタダの労働力=奴隷があっては労働者は困る。また奴隷が積極的に働くわけもなく、低い労働意欲による生産性の低さ、監督の手間もある。暴動が起こったら、元も子もない。これらの考えから、まずフランスで奴隷廃止の法が提出される。フランス革命あとの1794年だ。1807年にイギリス、アメリカで奴隷貿易廃止。その後、イギリスでは1833年に、正式に奴隷制度が廃止される。この辺のことを描いたのが「アメイジング・グレイス」である。
*アメリカの奴隷制
ヨーロッパの国々が次々と奴隷制を廃止する中、アメリカでもその流れは起きた。北部の州はいち早く廃止の決定を下す。1780年にはマサチューセッツ州、続いてニューハンプシャー、ソロモンがいたニューヨーク州は1799年に奴隷制を廃止している。しかし、南部ではそういった動きはなく、政治的にも経済的にも力を握っていた大農園主が頑として存在し、黒人を蔑視する考え方が広く浸透していた。アメリカの奴隷制が無くなるのは、1860年のリンカーンの大統領就任、翌年の南北戦争まで待たなくてはならない。
参考文献 『新詳 世界史図説』 浜島書店
*初の黒人投入
1492年にコロンブスがサン・サルバドル島に到着してから、スペイン人は続々とアメリカ大陸に渡って行った。求めたものは金と香辛料だったが、もちろんアメリカ大陸にそれらはない。代わりにあったのは銀。銀を採掘するために、現地の人々を酷使した結果、現地の人々はバタバタと、それこそ簡単に死んでいった。理由はいろいろあるが、大陸になかった病気があっという間に広がったのが最大の要因だ。その病気とは、天然痘、麻疹、インフルエンザである。免疫がまったくなかった大陸の人たちは、次々と倒れて行った。そして労働力が足りなくなり、アフリカから、黒人を連れてくるというとんでもないことがはじまった。
*大西洋奴隷貿易
1400年代半ばから、アフリカとヨーロッパの国による奴隷貿易がはじまった。その数は、15世紀~16世紀にかけては、275,000人、17世紀は、1,341,000人、それが18世紀に入りいきなり増える。18世紀は、6,052,000人。19世紀は、1,898,000人。総計は、9,566,000人ものとんでもない数になる。しかし、これは生きて運ばれた数であり、輸送の途中で死亡した数を加えると、数千万の人たちが運ばれたと推計される。これは、その後の大陸の人口にも大きな影響を及ぼした。17世紀から20世紀にかけて、アジアやヨーロッパでは人口が4倍になったが、アフリカでは300年間、ほぼ人口は停滞していた。
*産業革命とプランテーション
18世紀にいきなり奴隷貿易の数が増えたのは、イギリスで起こった産業革命が大きく影響している。簡単に富をもたらすサトウキビ栽培と、綿工業の原材料となる綿花の栽培がとんでもない広い農園で栽培されるようになったからだ。もちろん、このころアメリカ大陸は、ヨーロッパのものである。
世間の奴隷に対する批判の声も徐々に大きくなり、奴隷制度は衰退しつつあった頃、アメリカの発明家のホイット二―が綿繰機(1793年)を発明する。綿の中から種を取り出す機械だ。重労働だった種を取り出す作業が機械化され、効率は50倍になった。その結果、衰退しかかっていた綿花栽培は息を吹き返し、奴隷の必要性がことさらに増したのだった。これは奴隷の負担を軽くしようと思って作ったのに、逆の結果をもたらした・・と言われているが、その辺の真偽は不明。
*奴隷制・奴隷貿易の廃止
しかし、時代の趨勢によって、奴隷制度は批判を受け、徐々に貿易も縮小して行く。その理由として、まず人道的なものが一番に来る。社会契約説などの浸透により、人権思想や人類平等の考え方が普及していき、奴隷制そのものに反対という風潮が起こった。
経済的な要因もあった。資本主義が発達し、労働者を守られなければならない。ほぼタダの労働力=奴隷があっては労働者は困る。また奴隷が積極的に働くわけもなく、低い労働意欲による生産性の低さ、監督の手間もある。暴動が起こったら、元も子もない。これらの考えから、まずフランスで奴隷廃止の法が提出される。フランス革命あとの1794年だ。1807年にイギリス、アメリカで奴隷貿易廃止。その後、イギリスでは1833年に、正式に奴隷制度が廃止される。この辺のことを描いたのが「アメイジング・グレイス」である。
*アメリカの奴隷制
ヨーロッパの国々が次々と奴隷制を廃止する中、アメリカでもその流れは起きた。北部の州はいち早く廃止の決定を下す。1780年にはマサチューセッツ州、続いてニューハンプシャー、ソロモンがいたニューヨーク州は1799年に奴隷制を廃止している。しかし、南部ではそういった動きはなく、政治的にも経済的にも力を握っていた大農園主が頑として存在し、黒人を蔑視する考え方が広く浸透していた。アメリカの奴隷制が無くなるのは、1860年のリンカーンの大統領就任、翌年の南北戦争まで待たなくてはならない。
参考文献 『新詳 世界史図説』 浜島書店
この映画に出てきた、「自由黒人」について知りたいです・・・。
単純に奴隷じゃない黒人ってことです。
いわゆる公民権を手にするのは、100年もあとなんで、黒人と言えば、奴隷か奴隷じゃないかってことで。
長年働いて、一応年季が明けたり、逃亡してそのまま逃げ切ったり、主人から解放されたりとか、いろんな理由があると思いますが、そんな黒人も結構いたわけで。
ただ、自由証明書がないと、奴隷とみなされてもしようがなかったり、自分が自由黒人だと主張しても、無視されたりということがあったので、こんなことが起きたんでしょうね。
もっともっといろんな裏事情や、様々なことがあっただろうし、ドラマもあったと思います。でも、今まであまり描かれなかったということ自体が、問題じゃないかと思いますです。
大人になって、映画を通してたくさんの歴史を学ばさせて頂いています。先生、これからもお勉強コーナー宜しくお願いいたします。