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「レ・ミゼラブル」と「コッホ先生と僕らの革命」のころのヨーロッパについて

2013年01月28日 | お勉強コーナー
「あぁ、無情」として名高い小説、「レ・ミゼラブル」。ちょうど舞台が、フランス革命からナポレオン、そのあとの王政復古、七月革命、二月革命、六月暴動と続く激動のフランス近代史とリンクしている。そのあとに成立した、第二帝政、そして普仏戦争。戦争後のドイツの社会が、「コッホ先生」の舞台となる。

ということで、また悪い癖が出てしまいました。
この激動のフランス、ドイツの近代史をさらっとお勉強いたしましょう!!

さて、主人公、ジャン・バルジャンは、原作によると結構な年で最初の泥棒をする。1769年生まれで、彼がパンを盗んだのは、1795年。26歳のいい年になっている。

1795年頃のフランスはどんな状態だったかというと、かのフランス革命がおこったのが1789年。その後、激動の出来事が次々と起こり、王のルイ16世がギロチンにかけられたのが、1793年。このころは、革命を率いていたロベスピエールを中心とする公安委員会が恐怖政治と呼ばれる独裁、粛清をがんがん遂行していた。


ルイ16世



マリ・アントワネットも同様に断頭台の露と消えるが、あまりの急激な流れについていけなくなった人々によって、逆の流れが起きる。1794年に起こった、テルミドール反動というやつだ。革命が推進したことによって、ある程度の権利やら、保障やらを手に入れた人々が、これ以上の前進を求めていなかったことを、後ろも見ずに突っ走っていたロベスピエールは、気づかなかった。だれか教えてやればよかったのですが、ロベスピエールが聞く耳を持っていなかったのは、言うまでもないです。


マリ・アントワネット



ロベスピエールにとっては、革命はまだまだ道半ば。これから!という時に、自分が幾人も送った断頭台に、自分が送られてしまうことになったであります。


ロベスピエール



ロベスピエール亡き後、新しいフランスを導く人は現れたか?というと、次の指導者、ナポレオンの登場までには、まだ若干の時間がある。指導者不在。あくまでも庶民のことを第一義と考えていたロベスピエールがいなくなり、反動によって、また古い流れに行きそうになる頃にバルジャンはパンを盗んだことになるのです。

社会の不安と、革命の逆の流れが、貧しい人たちを追い込んでしまったといえるでしょう。

さて、バルジャンが出獄したのがその19年後、季節のずれがあるので、1815年。これまた激動の年だ。

ロベスピエールの死後、指導者がいなくなったフランスは、強力な牽引力を持った指導者を待望する。フランスは戦争の危機も背負っていたため、できれば国を強くしてくれる人だったら、もっとありがたい。それにぴったり合致したのが、ナポレオンだった。1796年のイタリア遠征で名を上げた彼は、つぎつぎと武勲を上げ、指導者になる。政治もできるし、戦争すれば、連戦連勝!!これほどピッタリの人はいませんでしたな。


ナポレオン



ナポレオンが皇帝に選出されたのが1804年。名実ともに、ヨーロッパで一番の実力者となった。しかし、猛きものもいずれは滅びる。かのロシア遠征で大失敗をし、あとは坂を転げるように落ちぶれていくが、皇帝を退位したのが1814年。エルバ島に流されるも、一度は中央政界に復帰する。それが1815年だ。結局、ワーテルローの戦いで敗れ、今度こそ復帰できないようにと、大西洋の絶海の孤島、セント・ヘレナ島に流された。これがバルジャンが社会に復帰した年だ。

この時のフランスを考えると、革命でいったん王政を捨て、共和制になったが、うまくいかず帝政に!でも、王政は許せない!絶対に王政だけは!!!!と思っていた国民の感情を無視し、王政が復古した時だ。混乱のさなかにバルジャンが、別の人間に生まれ変わろうとするのも納得の年である。

さてバルジャンはこの時すでに46歳。再出発するには、結構行ってる気がするが、ここからがバルジャンの物語になる。さて、バルジャンは名前を変え、モントルイユというところの市長になる。この町は、フランスの北の方、ベルギーと国境を接するところにある。ユーゴーが晩年、亡命したのがベルギーであり、この辺を知っていたのかなあと想像する。

1819年で市長になっているので、司教様のところから燭台を盗んでわずか4年でえらい出世!すごい。その後フォンテーヌと出会い、死を看取り、コゼットと暮らし始めるのが1823年となっている。このころのフランスの情勢は、革命からの激動の流れは少々落ち着いて、いやいやながらも王政が敷かれ、小康状態といったところ。ヨーロッパの他の地区で、騒がしい様子もあったが、とりあえず落ち着いていたころ。それに合うように、バルジャンとコゼットも修道院でゆったりとした暮らしを送っていた。

そして、美しく成長したコゼットと共和派の青年・マリウスが出会うのだが、それは七月革命というブルボン朝の政治に愛想を尽かしたフランス国民が、期待を持って迎えた七月王政にがっかりし、結局王政はいらない、共和制よ!もう一度!!という運動が再燃したころだ。

旧態依然としたブルボン朝の政治に対して、市民が立ち上がったのが、1830年の七月革命だ。「民衆を導く自由の女神」の絵で知られる出来事だが、王のシャルル10世は亡命し、市民に歓喜の声で迎えられたオルレアン公ルイ・フィリップはやはり王だった。あくまで共和制を求める人々の根強い運動は絶えることなく続いていた。映画の民衆が立ち上がったのは1832年。七月革命の後のことだが、気持ちは変わらない。それが「レ・ミゼラブル」のクライマックス。立ち上がる民衆たちだ。


「民衆をみちびく自由の女神」ドラクロワ



しかし、この時の運動は成功せず、次の革命は1848年の二月革命を待たなければならない。


ドイツに飛びましょう。

さて、ドイツはどんな国であったというと、とんとまとまりのない国で、いわゆる現在のドイツといわれるとこは、いくつもの領邦といわれる小さな独立国家の寄せ集めであった。ブレーメン、ハンブルグ、ザクセン、ベーメン、ケルンなど、多いときには300もの領邦が存在していた。その中の一つであったプロイセンが徐々に力をつけ、一番の実力を備えた国になっていく。

そんなこんなでまとまりのない状態だったドイツに比べ、他のヨーロッパの国々は、着々と国の体裁を整え、いろんな意味で一つにまとまっていく。イギリスは産業革命を経て、文字通り大英帝国に。フランスは革命だらけで、不穏な様相だが、元気があることは否めない。ドイツと同じようにまとまりがなかったイタリアも、統一運動が活発化していく。そんな中で、ドイツも遅れをとるわけにはいかない。

まず、ナポレオン戦争の後に開催されたウィーン会議(1814年)で、オーストリアが主導となって、ドイツ連邦というまとまりを作ろうとした。これはうまくいかず、失敗。次に起こったのが、経済的にまとまろうとしたドイツ関税同盟だった(1834年)。プロイセンが中心となった同盟によって、いままで地域差によって物資に流れが停滞していたのを解消。スムーズなやり取りが可能になった。これによって、一歩統一に前進した。

ここにきて、ドイツを統一する主導権争いが起こる。【プロイセン】か、【オーストリア】かだ。プロイセン中心にまとまろうとしたのが小ドイツ主義という。それに対して、オーストリアを中心としたのが大ドイツ主義だ。オーストリアが主導権を握ろうとしているということは、後ろにハプスブルグ家の影がちらちら見える。

この対立が続く中、プロイセン王として即位したのが、かのヴィルヘルム1世だ。彼は懐刀のビスマルク首相とともに、強い指導力を発揮する。まず、オーストリアに宣戦。普墺戦争(1866年)と呼ばれる戦争で、プロイセンの大勝利。これで小ドイツ主義の優勢が決定する。


ヴィルヘルム1世(コッホ先生の部屋にかかっていた肖像画の人)



この時、オーストリアはドイツを失ったために味方になってくれそうな国を周辺で探したのだが、白羽の矢を立てられたのが隣のハンガリー。そして出来上がったのがオーストリア=ハンガリー帝国だ。

一方、ドイツはプロイセンを中心にまとまっていき、まず北ドイツ連邦の成立(1867年)、さらにフランスと開戦。これが普仏戦争(1870年)だ。この時の相手は、フランス皇帝のナポレオン三世。上記の1848年に起きた二月革命の後、皇帝に就任していたかのナポレオンの甥のルイ・ナポレオンだったのだ。


ナポレオン三世




宿敵フランスを破ったドイツは、1871年にプロイセン王だったヴィルヘルム1世を皇帝にし、ドイツ帝国を成立させる。ビスマルク鉄血宰相のもと、軍備拡張を推し進めていったのであった。


ビスマルク




とにかく国を一つにまとめないといけない。そのためには厳しい教育や、徹底した規律順守、ナショナリズムを叩き込むことが学校の果たす大きな役目であった。映画を見ていると、全くもうのアホ教育の典型みたいなもんだが、それこそがドイツを強くする一番の大事なことだったとされていた。

この後、社会主義者鎮圧法(1878年)が施行され、労働運動や社会主義運動が厳しく取り締まられたが、一方で災害保険など労働者を守る政策も行い、ドイツの産業育成に大きく貢献した。産業が盛んになり、国に活気がもたらされてきたのが、映画の舞台となったころだ。

ドイツという国家の威信を高めるために、対外的に、フランス・イギリスを敵視し、対抗しようとした。そのためにオーストリア・イタリアと同盟を結ぶことになるが、それがのちの第一次世界大戦へと発展することになる。


ということで、ざっと19世紀のフランスとドイツを省みてみた。
「レ・ミゼラブル」も「コッホ先生」も結構歴史的な背景を前提とした作品で、こうだったから、こうなのねえ~というのを、改めて感じたところ。

「コッホ先生」の中で、イギリスとドイツの国歌の曲が同じだったわ!というトリビアがあったが、ドイツの国歌は、いまは当然違っている。この辺の事情はよくわからないんで、次への宿題ということで、ひとつよしなに。。。


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6 コメント

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なるほど~。 (みぃみ)
2013-01-29 15:23:07
よくわかります~!。

授業で習った時、ナポレオンがとても印象的でしたので、
アントワネットより古い時代かと思っていました(^^;)。
アントワネットさん、つけてた香水の香りで居場所がバレちゃって捕まっちゃったとかなんとか。。。
以来、真剣勝負時は女を捨てようと思っている私です:爆。

国をどちらに向かせるかは教育次第…。
今も昔もそうなのですよね、たぶん。。。

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今回も (西京極 紫)
2013-02-03 10:37:01
歴史の勉強をさせていただきました!
なるほど~、こういう時代だったのですね。
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>みぃみさま (sakurai)
2013-02-04 08:19:47
ナポレオンは、既視感ありますもんね。
「ベルサイユのばら」年代のおばちゃんたちは、やたらフランス革命に詳しい我らですが、その後に登場したのがナポレオンだ!ということで。

あの頃のヨーロッパ、特にフランスは風呂に入るなどということもなかったので、かなりの体臭だったようですね。
自分の体臭とあうパヒュームを探して、複合的な匂いが自分の匂いになると。
日本人がつけると、香水の素の匂いで、本来の香水の使い方じゃないとか言われてますな。
香水も衣装の一つ。ヨーロッパの人にとっては、必需品だと。
アントワネットも垢だらけだったという話ですから。

日本も今は正念場!ということで、ひとつ頑張ります。
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>西京極 紫さま (sakurai)
2013-02-04 08:20:26
恐縮です。
19世紀って、以外に地味ですよね。
でも、面白いっす。
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お邪魔します (悠雅)
2013-02-08 00:30:01
すっかりお邪魔が遅くなってしまいました。
そして、レミゼとコッホ先生を実際の歴史と照合してみると、こんなにはっきり時代が見えるなんて、
考えてもなかったので、思いがけない勉強をさせていただきました。

歴史というと、暗記だけしておしまい、
世界史は、得意のはずの暗記が追いつかず、あれもこれもがごじゃごじゃになって、
何が何やらさっぱり・・・(^^;という状態なので、
必要なところを掻い摘んで記してくださって、とてもわかりやすかったし、
2つの映画で詳しく言及されていない部分も、腑に落ちた気がします。
ありがとうございますm(__)m
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>悠雅さま (sakurai)
2013-02-14 16:12:25
勝手にTBしてすいませんでした。
ミュージカルが苦手なのと、年末のばたばたに見たんで、映画のレビューを書きそびれ、何かを残したいと思ったのでした。
改めて考えると、結構時代と符合してて面白いなあと感じました。
やっぱ歴史は面白いです。
アタシの飯の種ですが。
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