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第290回 供花という虚礼

2018-10-19 | エッセイ

 新聞の訃報が目にとまると、亡くなった年齢と、葬儀をどうするか、の2つを主にチェック(というのも不謹慎な気はしますが)します。

 亡くなった年齢は、60歳代だと早いなぁ、70歳代だと私自身にとっても、他人(ひと)事じゃないと思い、80歳代だと、ぎりぎり、天寿を全うかな、などと勝手に感じています。

 さて、葬儀です。訃報が載るくらいの有名人とか、社会的地位のある人でも「すでに親族で行った」のが、圧倒的に多くなっています。「後日、お別れの会を開く」ケースもありますが、ごく身内だけで済ませるというのが、主流になりつつあるようです。昔は、葬儀の日時、場所の案内が載っているのが普通でしたけど。

 一般人でも、会社や組織などを離れて、年数が経てば、交際、交流範囲というのは、縮小していきます。大々的に葬儀を執り行う必要性も減っていきます。現に、葬儀社なんかも「家族葬」というのを前面に出した広告をさかんに打ってますから。
 本当に故人を悼むごく身近な人々だけで、簡素に行う葬儀がこれからの主流になるのは自然の流れであり、好ましいことじゃないでしょうか。

 ちょっと前のことです。9年ぶりに、同期入社の男が亡くなりました。ほとんどの連中がリタイヤしてますが、彼は、関連会社の現役だったこともあり、それなりの規模の葬儀が行われたと、かつての同僚から聞きました(私は、参列しませんでしたので)。現役ということで、これはある程度理解できます。

 ちょっとごたついたきっかけは、同期会の世話人をやっている男からのメールです。その葬儀に、同期一同の名前で供花を贈ったこと、そして、その財源には、毎年有志で開いているパーティーの剰余金を充てたとの事後報告がありました。
 今どき供花は大袈裟かなとも思いましたが、「人の生き死に」のことであれこれ言うのも大人げないと、ほうっておきました。おおかたこんな花でも贈ったのでしょう。



 しばらくたって、世話人から再度メールが来ました。曰く、今回の葬儀をきっかけに、将来、同期が亡くなった場合には、同期の絆の証として、供花(2~3万円程度)を贈ることを提案する。ついては、とりあえず、1万円ずつ拠出してもらって、基金とするのはどうか。メールで意見交換して、皆んなで決めたい・・・そんな内容でした。

 この提案には、いささか違和感を感じましたので、賛同しかねる旨の意見を送信しました。理由は3つ。

1.供花などというものは、所詮、虚礼だと考えること。
2.これからは、近親者で行う簡素な葬儀が主流になり、通知も事後になるのが多くなるはず。有志でいろいろやるのは妨げないが、「一律に供花」というのは承服しかねる。私もお断り。
3.同期の絆というなら、弔電1本で済む。

 少数意見であることは覚悟の上でしたが、衆寡敵せず。多少の経過はありましたが、最終的に世話人の提案が受け入れられました。葬儀といえば供花、供花といえば「入社同期一同」の名前がつきもの、という古い「葬儀観」の人が多いんですね。

 決まったあと、督促を兼ねた拠出状況のメールが、何度か来ましたが、信念を貫いて、(じゃっかしわ~、と)無視を決め込みました。

 結局、現存の39名の同期生のうち、拠出したのは33名。応じなかったのは、6名でした。その6名の顔ぶれを見ると、いずれも一言居士で、偏屈もの揃い(もちろん、私も含めて)。さもありなんと、思わず苦笑い。

 たかが1万円が惜しいわけじゃないんですけど、たまたま同期に入社しただけという連中と「群れる」のを止める良いきっかけになって、さっぱりしました。
 会社というつながりをきっかけに、いまだに大切に付き合っている人もいますが、退職後のライフスタイルのなかで築いてきた人間関係をより大切に育てていきたいと、今は感じています。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。