さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『桂園一枝講義』口訳 144-152

2017年04月30日 | 桂園一枝講義口訳
144 夏浦風
浦風はゆふべすゝ(ゞ)しくなりにけりあまの黒かみいまかほすらん
二〇五 うら風は夕(ゆふべ)涼しく成(なり)にけり海人(あま)の黒かみいまかほすらむ 享和二年

□うら風のある間は、あつかりし浦でありしが、夕べすゝしうなる也。
〇うら風のある間は、暑かった浦だが、夕方すずしくなるのである。

145 扇
草も木も知らぬ間のあきかぜはあふぎのかげにやどりてぞふく
二〇六 草も木もしらぬあひだの秋風はあふぎの陰にやどりてぞ吹(ふく) 文化四年 五句目 やどルナリケリを訂す

□別に意なし。やすらかなり。
〇別に(説くほどの特段の)意味はない。やすらかな歌である。

※歌の漢字と仮名の表記をみていていつも思うことだが、元の板本は文字を目でみて楽しむという目的も兼ねていたから、歌を意味だけで読んでいたわけではないのである。極端なことを言うと、仮名がきれいに書かれていて音読した時の調べがここちよければ、それはいい歌なのだ。景樹のテキストの漢字と仮名の表記の交代はざっくばらんなところがあって、助詞の変更には細かい神経を用いるけれども、表記に関しては弟子ともどもあまり神経質ではない。精力的で微細な注意力を持っており、粘着的なところもありながら、一方で、どこかのんきで鷹揚に構えたところがある。そんなふうな人柄を思うのである。

146 閨中扇
いまはとて打ちおく閨のあふぎかなぬるまや秋のこゝろなるらん
二〇七 いまはとて打おく閨のあふぎかなぬるまや秋のこゝろなるらん 文化四年 オキケル閨の ※結句、「桂園一枝 雪」(東塢塾文政十一年)でも「ん」

□「いまはとて打ちおく」、閨の中ではたはたとあをぎて、よほどすゝしくなりたる故に、「今は」とておく。おくとね入るなり。
〇「いまはとて打ちおく」というのは、閨の中で、はたはたと(扇を)あおいで、よほどすずしくなったので、「今は(もういい)」と言って(扇を)置く。置くと寝入るのである。

147 扇罷風生竹
ならしつる扇のかぜとおもはましおくれて竹のそよがざりせば
二〇八 ならしつるあふぎの風と思はましおくれて竹のそよがざりせば 文政三年

□「文集」にある。風生竹にた(ママ)る故に扇もやむ、といふ意にて持合なるべし。「ならしつる」手馴すなり。鳴すとはちかふなり。なるゝは幾度もすることなり。扇はいく度も手馴し、久しくつかふなり。「ならしつる」、扇をよほど使うた故にさしおく。然るにそよそよと風が当るなり。竹の風がおくれて出で来た故に竹風は竹風と知りて、すゝ(ゞ)しきなり。もちと早くふかば扇の風と思うてしまうであらうとなり。

〇「文集」にある。風生じて竹に(※「あ」脱字)たる故に扇もやむ、という意味で(風と扇が)持ち合い(五分五分)だろう。「ならしつる」は、手馴すのである。鳴らすのとはちがうのである。「馴るる」は幾度もすることだ。扇はいく度も手馴し、久しく使うのである。「ならしつる」は、扇をよほど使ったためにさし置く。それなのにそよそよと風が当るのだ。竹の風が、遅れて出て来たので、竹風は竹風と知って、すずしいのである。もうちょっと早くふいたら扇の風と思ってしまうだろうというのである。

※「白氏文集」「風生竹夜窓間臥」巻一九から「和漢朗詠集」に入り、「源氏物語」に引かれる。景樹は随所に「白氏文集」を踏まえたり引いたりして用いている。また「源氏物語」を踏まえた歌も作っている。「古今」注釈の大家だからそれは当然のことだが、「白氏文集」は往古も当代も歌詠みの必読文献だった。

※「竹の風が」講義の全体をみると、現代の主格の「が」が頻出している。終止の「~だ」「~た」も散見する。弥冨の仕事は厳密でまちがいは少ない。こんなに読みにくいものをよくぞ活字に起こしておいてくれたと思う。

148 避暑
うつせみの此の世ばかりのあつさだにのがれかねても嘆くころ哉
二〇九 うつせみのこの世ばかりのあつさだにのがれかねても嘆く比(ころ)かな 文化十二年

□暑きところをのがれて、凉処につくなり。畢竟は納凉なり。うつせみの仏者のうたなり。昔座禅をしきりにしたる時分よみたるうたなり。こん世の罪障を思ひやるといふことを下にふんでよむなり。此の世斗のあつさをなげく。それに付きても、と也。「うつせみの世」、うつゝしみの世といふ事也。現身なり。今なり。うつゝの身なり。天子をうつし神といふ類なり。

〇暑いところをのがれて、凉処につくのだ。つまるところは納凉である。うつせみの仏者の歌である。昔座禅をしきりにした時分に詠んだ歌だ。(むろん)今世の罪障を思いやるということを下に踏んで詠むのである。この世ばかりの暑さを嘆く。それに付けても(暑い)、というのである。「うつせみの世」は、うつつしみの世といふ事だ。現身だ。今だ。うつゝの身だ。天子をうつし神と言う類だ。

149 泉
こゝろしてくむべき物を山水のふたゝびすまずなりにけるかな
二一〇 こゝろしてくむべき物を山水のふたゝびすまず成にけるかな 享和二年

□貫之の山の井は、浅き故にあかぬとせられたるは、「万葉」に岩間をせばみ汲まれぬ
故にあかぬと也。それを貫之は「にごりてあかぬ」とつかはれたり。手柄なり。今はどつと濁りたる故、一向あとがくまれぬとなり。

〇貫之が(「拾遺集」の歌で)山の井は浅いために「あかぬ」(くむことができない)とせられたのは、「万葉」に岩間がせまいので汲むことができないとあるからである。それを貫之は「にごりてあかぬ」と使われたのである。手柄である。今はどっと濁ってしまったために、ぜんぜん後が汲むことができないというのである。

※詞書「しがの山ごえにて、いしゐのもとにてものいひける人のわかれけるをりによめる」、「むすぶてのしづくににごる山の井のあかでも人にわかれぬるかな」貫之。「古今集」四〇四。「拾遺集」巻第十九、雑恋一二二八。

※「古今和歌六帖」二五七五に「人まろ」作として、「むすぶ手のいしまをせばみおく山のいはかき清水あかずもあるかな」があり、景樹はそちらで記憶していたのだろう。「古今和歌六帖」は景樹が若い頃に首っ引きで読んだ本にちがいないのだ。この歌は「新千載集」に「題しらず」として採録されている。 それにしても、古歌に言及すればするほど、掲出歌は劣ってみえる。多少実景めかした味はあるが。

※手元に届いたばかりの雑誌に次の歌をみつけた。

横雲の「実景」を見て確認し外廊下から家内に入る    小川佳世子

「未来」二〇一七年五月号 小川さんには拙著も送ってある。こういうかたちで「実景」などという歌になじまない言葉を取り入れて歌う才気に脱帽する。横雲の「実景」というのは、むろん作者のユーモアである。「横雲」という言葉を使って歌にしても「つくりもの」めいてしまうから、こう言ったのだ。

150 
山かげの浅茅が原のさゝ(ゞ)れ水わくとも見えずながれけるかな
二一一 やまかげの浅茅が原のさゞれ水わくとも見えずながれけるかな 文化九年

□「さゞれ水」、少しの水なり。さゝは、いさゝかのさゝなり。さゝは、小なり。ちいと流るゝが、さゞれ水なり。どことなくわく故に流れてある也。凉しき様子をいへり。

〇「さざれ水」は、少しの水だ。「ささ」は、「いささか」の「ささ」である。「ささ」は、小だ。ちいっと流れるのが、「さざれ水」である。どことなくわくから流れてあるのである。涼しい様子をいった。

151 泉為夏梄
夏くれは世の中せはくなりはてゝ清水のほかにすみところなし
二一二 なつくればよのなかせばくなりはてゝ清水(しみづ)の外(ほか)にすみ所なし 文化二年 初句 夏サれば

□清水の近所より外になきなり。すみ所清水の縁なり。
〇(これは)清水の近所以外ではない。「すみ(梄み・澄み)所」は清水の縁語である。

152 暁風如秋
水無月のあかつきおきにふきにけりまだ立ちあへぬ秋の初風
二一三 みな月のあかつきおきに吹(ふき)にけりまだ立(たち)あへぬ秋のはつかぜ 文政六年

□かやうの題は、手を出すと気色なくなるなり。只いひおろすのみなり。
暁おき、あかつき露などいふ。のゝ字を入れぬ、入るゝとの例になれり。さて朝おきは、歌にはいはぬもの也。「あへぬ」、向へゆくと、手前へもどるとの二つある也。こゝは向へ及ぼすなり。秋は実は立ぬがたつ也。又秋になりてから秋立あへぬといふは夏じややら、秋じややらといふことにいふ也。其時々による也。こゝの「立ちあへぬ」は、まだ立たぬ也。「ながれもあへぬ紅葉也けり」、これはしがらみにかかりてある故に流れぬ也。又「氷とけ流れもあへぬ」といへば流るゝなり。

〇このような題は、(無理に技巧に)手を出すと(かえって)趣が無くなるのである。ただ言いおろすだけにしておくのだ。
「暁おき」は、「あかつき露」などと言う。「の」の字を入れない場合と、入れる場合との例になっている。それで「朝おき」は、歌には言わないものだ。「あへぬ」は、向こうへ行くのと、手前へもどるのと二つある。ここでは向こうへ及ぼすのだ。秋は実際は立っていないものが立つのだ。又秋になってから秋が立たないと言うのは、(今は)夏じゃろうか、秋じゃろうか、という事柄に言うのである。その時々によるのである。ここの「立ちあへぬ」は、まだ立たないのだ。(古歌に)「ながれもあへぬ紅葉也けり」というのは、これは、しがらみにかかってあるから流れないのだ。又「氷とけ流れもあへぬ」と言えば流れるのだ。

※「しがの山ごえにてよめる 山河に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり」はるみちのつらき「古今集」三〇三。

 


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