261
けふみれば花のにほひもなかりけり若葉にかゝるみねの白雲
四八三 けふ見れば花の匂ひもなかりけりわか葉にかゝる峯のしら雲
□よくわかりたり。
○よくわかる歌だ。
※佳吟。
262
いつよりか夏のさかひに入間川さしくるしほのほ(誤植)とのすゞしさ
四八五 いつよりか夏の境(さかひ)に入間川さし来るしほのおとのすゞしさ 文化十四年 初句 今朝ヨリヤ
□江戸のすみだ川の水上でよみたるなり。
○江戸のすみだ川の水上でよんだ。
※これも相当の佳吟。
263
わか葉のみしげりそひけりうぐひすのなきつる竹はいづれなるらん
四八六 若葉のみ茂りそひけりうぐひすの鳴(なき)つる竹はいづれ成覧(なるらん)
□「のみ」、きびしくいふ詞なり。七分通りは若竹のやうにみゆるなり。
黒髪に白髪のまじりたる如く多くみゆるなり。
鶯の鳴たは、若葉の出でぬさきであつたなり。「鳴つる竹は」といふ所おもしろきなり。不調法なるやうにいふ所おもしろきなり。
○「のみ」は、きびしくいう詞だ。七分通りは若竹のように見えるのである。
黒髪に白髪のまじったように多く見えるのである。
鶯が鳴いたのは、若葉が出ない先であったのだ。「鳴きつる竹は」という所がおもしろいのである。不調法なように言う所に興趣があるのだ。
264
夜半の風むぎの穂だちにおとづれてほたるとぶべく野はなりにけり
四八七 夜半(よは)の風麦の穂だちに音信(おとづれ)て蛍とぶべく野はなりにけり 享和三年
□ゐなに逗留して猪名川のほとりにてよみたるなり。
実はどこでもこの景気あるなり。「ほだち」、穂のりんと立(※つ)て居る貌なり。もう蛍が出さうなものじやとなり。
○ゐなに逗留して猪名川のほとりで詠んだのである。
実はどこでもこの景色があるのである。「ほだち」は、穂がりんと立って居る様子である。もう蛍が出そうなものじゃ、というのである。
265
わがまどの内をばてらすかひなしと光けちてもゆくほたるかな
四八八 わがまどのうちをば照すかひなしと光けちてもゆく蛍かな 文化十四年 二句目 アタリハ照す
□車胤のやうな風流もなき此の方どもの窓には、となり。
○車胤のような風流もない我々のような者の窓には(蛍も「光けちてゆく」)というのである。
※ 車胤。東晋末期の政治家。「蛍雪の功」の故事で有名。
266
夜をてらす光しなくはなかなかにほたるも籠にはこもらざらまし
四八九 夜をてらす光しなくは中々に蛍も籠(こ)にはこもらざらまし 文政七年
□此れは少し述懐の心なり。大なることのありしとき、自負したる歌なり。「夜をてらす」、世をてらすといふに心底をこめていふなり。世に知らるゝやうな才量といふ程の所なり。
「中々に」、こゝは古へのつかひぶりなり。なまなかに照らす故じやとなり。真のつかひかたで云へば、いつでも前後にひつくりかへつてしまふなり。反て蛍といふ所へはつかはぬなり。喬木折風、の類をいふなり。
○これは少し述懐の心である。大きな出来事のあったとき、自負して詠んだ歌である。「夜をてらす」は、世をてらすという言葉に心底(しんてい、衷心)をこめて言うのである。世に知られるような才量という程の所である。
「中々に」、ここはいにしえの言葉の使いぶりである。なまなかに照らす故じゃ、というのである。真の使い方で言えば、いつでも前後に引っくり返ってしまうのである。かえって蛍という所へは使わないのである。喬木風ニ折ラル、の類をいうのである。
※「喬木折風」は、高い木が強い風によって折られるように、人も地位が高くなると批判や攻撃を受けて、身にわざわいが及びやすいという意味。
267
ほとゝぎすしばしばなきしあけがたの山かき曇り小雨ふりきぬ
四九〇 郭公しばしば鳴(なき)しあけがたの山かきくもり小さめふり来(き)ぬ 文政七年
□中岡崎に門人をさけてこもりたる時のうたなり。粟田山に雨降りしことなり。「しばしば」は、今いふさいさい(※再々)。間せまく、せはしなくといふ所につかふ也。「しばしば鳴きし」、せはしなく鳴きし、といふ意なり。
○中岡崎に門人をさけてこもっていた時の歌である。粟田山に雨が降って来たのである。「しばしば」は、今いう「再々」だ。間がせまく、せわしなく、という所に使ったのである。「しばしば鳴きし」は、せわしなく鳴いた、という意味である。
※多く引用されることのある歌。「実景」を基本に据えた歌の作り方は、近代短歌の百年前に景樹(ら)が方法的な自意識を持って実践していたのである。
268
ほととぎすふるき軒端を過ぎがてにむかししのぶの音をのみぞ鳴
四九一 ほととぎすふるき軒端(のきば)を過(すぎ)がてにむかししのぶのねをのみぞ鳴(なく) 文政三年
□「寄子規懐旧」の題なり。仏光寺の御台の三回忌によみたり。「またぬ青葉」に詞書をかきたり。
○「寄子規懐旧」の題である。仏光寺の御台所の三回忌に詠んだ。(この人は)「またぬ青葉」に詞書をかいた人だ。
※やや古めかしい歌。
269
採りはてぬ澤田のさなへはるばると末こそみえね(※誤記)水の白なみ
四九二 採(とり)はてぬ澤田のさなへはるばるとすゑこそみゆれ水の白浪 文化十四年
□「澤田」、水田なり。かねて水ある所に田を作るなり。反て水をはかしてうゑる位の處なり。「採りはてぬ」、つくさぬほどの「末こそ見ゆれ」、となり。青き苗に水の白波がうつり合ふなり。
○「澤田」は、水田である。かねて水のある所に田を作るのである。かえって水をはかして植える位の所である。「採りはてぬ」は、取り尽くさないほどの「末こそ見ゆれ」というのである。青い苗に水の白波がうつり合うのである。
※四句目、「桂園一枝 月」でも「見ゆれ」。
270
五月雨のくもふきすさむ(※誤記)朝風に桑の実おつる小野はらのさと
四九三 さみだれの雲吹(ふき)すさぶ朝かぜに桑の実落(おつ)る小野原のさと
□城崎の湯に行きたる時に小野原といふ處にてよめり。尤もかひこを多くかへり。桑斗の里なり。実景をしる人はよく合点ゆくなり。「吹きすさぶ」、小あらく吹風なり。
○城崎の湯に行った時に小野原という所で詠んだ。蚕をもっとも多く飼っていた。桑ばかりの里である。実景を知る人はよく合点がゆくのだ。「吹きすさぶ」は、小荒く吹く風である。
※※四句目、「桂園一枝 月」でも「吹すさぶ」。
※なかなかいい感じの歌である。私は正岡子規の「百中十首」の頃の歌に影響していると考えている。これは『香川景樹と近代歌人』に少し書いた。
271
苅りあげし畑の大むぎこきたれてふる五月雨にほしやわぶらん
四九四 苅あげし畑のおほ麦こきたれて降(ふる)さみだれにほしや侘(わぶ)らん 文化二年 一、二句目 かり入シ畑の青麦
□大麦とある故一首の上ととなふなり。
○大麦とあるために一首の上が調うのである。
※これも正岡子規の「百中十首」の歌に趣が似ている。
272
五月雨に加茂の川ばしひきつらんたえてみやこのおとづれもなし
四九五 五月雨に加茂の川ばし引(ひき)つらむたえてみやこの音信(おとづれ)もなし 文化二年
□実景なり。
○実景である。
※岡﨑あたりの在住だと「みやこ」の意識がなかったということがわかる。
けふみれば花のにほひもなかりけり若葉にかゝるみねの白雲
四八三 けふ見れば花の匂ひもなかりけりわか葉にかゝる峯のしら雲
□よくわかりたり。
○よくわかる歌だ。
※佳吟。
262
いつよりか夏のさかひに入間川さしくるしほのほ(誤植)とのすゞしさ
四八五 いつよりか夏の境(さかひ)に入間川さし来るしほのおとのすゞしさ 文化十四年 初句 今朝ヨリヤ
□江戸のすみだ川の水上でよみたるなり。
○江戸のすみだ川の水上でよんだ。
※これも相当の佳吟。
263
わか葉のみしげりそひけりうぐひすのなきつる竹はいづれなるらん
四八六 若葉のみ茂りそひけりうぐひすの鳴(なき)つる竹はいづれ成覧(なるらん)
□「のみ」、きびしくいふ詞なり。七分通りは若竹のやうにみゆるなり。
黒髪に白髪のまじりたる如く多くみゆるなり。
鶯の鳴たは、若葉の出でぬさきであつたなり。「鳴つる竹は」といふ所おもしろきなり。不調法なるやうにいふ所おもしろきなり。
○「のみ」は、きびしくいう詞だ。七分通りは若竹のように見えるのである。
黒髪に白髪のまじったように多く見えるのである。
鶯が鳴いたのは、若葉が出ない先であったのだ。「鳴きつる竹は」という所がおもしろいのである。不調法なように言う所に興趣があるのだ。
264
夜半の風むぎの穂だちにおとづれてほたるとぶべく野はなりにけり
四八七 夜半(よは)の風麦の穂だちに音信(おとづれ)て蛍とぶべく野はなりにけり 享和三年
□ゐなに逗留して猪名川のほとりにてよみたるなり。
実はどこでもこの景気あるなり。「ほだち」、穂のりんと立(※つ)て居る貌なり。もう蛍が出さうなものじやとなり。
○ゐなに逗留して猪名川のほとりで詠んだのである。
実はどこでもこの景色があるのである。「ほだち」は、穂がりんと立って居る様子である。もう蛍が出そうなものじゃ、というのである。
265
わがまどの内をばてらすかひなしと光けちてもゆくほたるかな
四八八 わがまどのうちをば照すかひなしと光けちてもゆく蛍かな 文化十四年 二句目 アタリハ照す
□車胤のやうな風流もなき此の方どもの窓には、となり。
○車胤のような風流もない我々のような者の窓には(蛍も「光けちてゆく」)というのである。
※ 車胤。東晋末期の政治家。「蛍雪の功」の故事で有名。
266
夜をてらす光しなくはなかなかにほたるも籠にはこもらざらまし
四八九 夜をてらす光しなくは中々に蛍も籠(こ)にはこもらざらまし 文政七年
□此れは少し述懐の心なり。大なることのありしとき、自負したる歌なり。「夜をてらす」、世をてらすといふに心底をこめていふなり。世に知らるゝやうな才量といふ程の所なり。
「中々に」、こゝは古へのつかひぶりなり。なまなかに照らす故じやとなり。真のつかひかたで云へば、いつでも前後にひつくりかへつてしまふなり。反て蛍といふ所へはつかはぬなり。喬木折風、の類をいふなり。
○これは少し述懐の心である。大きな出来事のあったとき、自負して詠んだ歌である。「夜をてらす」は、世をてらすという言葉に心底(しんてい、衷心)をこめて言うのである。世に知られるような才量という程の所である。
「中々に」、ここはいにしえの言葉の使いぶりである。なまなかに照らす故じゃ、というのである。真の使い方で言えば、いつでも前後に引っくり返ってしまうのである。かえって蛍という所へは使わないのである。喬木風ニ折ラル、の類をいうのである。
※「喬木折風」は、高い木が強い風によって折られるように、人も地位が高くなると批判や攻撃を受けて、身にわざわいが及びやすいという意味。
267
ほとゝぎすしばしばなきしあけがたの山かき曇り小雨ふりきぬ
四九〇 郭公しばしば鳴(なき)しあけがたの山かきくもり小さめふり来(き)ぬ 文政七年
□中岡崎に門人をさけてこもりたる時のうたなり。粟田山に雨降りしことなり。「しばしば」は、今いふさいさい(※再々)。間せまく、せはしなくといふ所につかふ也。「しばしば鳴きし」、せはしなく鳴きし、といふ意なり。
○中岡崎に門人をさけてこもっていた時の歌である。粟田山に雨が降って来たのである。「しばしば」は、今いう「再々」だ。間がせまく、せわしなく、という所に使ったのである。「しばしば鳴きし」は、せわしなく鳴いた、という意味である。
※多く引用されることのある歌。「実景」を基本に据えた歌の作り方は、近代短歌の百年前に景樹(ら)が方法的な自意識を持って実践していたのである。
268
ほととぎすふるき軒端を過ぎがてにむかししのぶの音をのみぞ鳴
四九一 ほととぎすふるき軒端(のきば)を過(すぎ)がてにむかししのぶのねをのみぞ鳴(なく) 文政三年
□「寄子規懐旧」の題なり。仏光寺の御台の三回忌によみたり。「またぬ青葉」に詞書をかきたり。
○「寄子規懐旧」の題である。仏光寺の御台所の三回忌に詠んだ。(この人は)「またぬ青葉」に詞書をかいた人だ。
※やや古めかしい歌。
269
採りはてぬ澤田のさなへはるばると末こそみえね(※誤記)水の白なみ
四九二 採(とり)はてぬ澤田のさなへはるばるとすゑこそみゆれ水の白浪 文化十四年
□「澤田」、水田なり。かねて水ある所に田を作るなり。反て水をはかしてうゑる位の處なり。「採りはてぬ」、つくさぬほどの「末こそ見ゆれ」、となり。青き苗に水の白波がうつり合ふなり。
○「澤田」は、水田である。かねて水のある所に田を作るのである。かえって水をはかして植える位の所である。「採りはてぬ」は、取り尽くさないほどの「末こそ見ゆれ」というのである。青い苗に水の白波がうつり合うのである。
※四句目、「桂園一枝 月」でも「見ゆれ」。
270
五月雨のくもふきすさむ(※誤記)朝風に桑の実おつる小野はらのさと
四九三 さみだれの雲吹(ふき)すさぶ朝かぜに桑の実落(おつ)る小野原のさと
□城崎の湯に行きたる時に小野原といふ處にてよめり。尤もかひこを多くかへり。桑斗の里なり。実景をしる人はよく合点ゆくなり。「吹きすさぶ」、小あらく吹風なり。
○城崎の湯に行った時に小野原という所で詠んだ。蚕をもっとも多く飼っていた。桑ばかりの里である。実景を知る人はよく合点がゆくのだ。「吹きすさぶ」は、小荒く吹く風である。
※※四句目、「桂園一枝 月」でも「吹すさぶ」。
※なかなかいい感じの歌である。私は正岡子規の「百中十首」の頃の歌に影響していると考えている。これは『香川景樹と近代歌人』に少し書いた。
271
苅りあげし畑の大むぎこきたれてふる五月雨にほしやわぶらん
四九四 苅あげし畑のおほ麦こきたれて降(ふる)さみだれにほしや侘(わぶ)らん 文化二年 一、二句目 かり入シ畑の青麦
□大麦とある故一首の上ととなふなり。
○大麦とあるために一首の上が調うのである。
※これも正岡子規の「百中十首」の歌に趣が似ている。
272
五月雨に加茂の川ばしひきつらんたえてみやこのおとづれもなし
四九五 五月雨に加茂の川ばし引(ひき)つらむたえてみやこの音信(おとづれ)もなし 文化二年
□実景なり。
○実景である。
※岡﨑あたりの在住だと「みやこ」の意識がなかったということがわかる。
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