さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

よきひとのよきことについて

2024年01月06日 | 本 美術
 

 年末に拡げてよんでいるうちに、いい感じの風があたまのなかに吹くような気がした本として谷川俊太郎とブレイディみかこの往復書簡『その世とこの世』がある。岩波の「図書」に連載されたものだというが、最近「図書」はみていなかったので、すべて初見のものである。それがよかった。谷川さんの詩は、「朝日新聞」に連載されている詩を折々みるのを楽しみにしている。どれも自身の亡びや老いを見つめる日々のなかで書かれていることがよくわかる詩で、本書の詩とそんなに大きなちがいはないのだが、一つとりあげてみると、「その世」という言葉が出て来る詩がおもしろかった。「あの世」と「この世」のあわいにある「その世」の世界。芸術とか、美というようなものは、みんな「その世」とかかわりが深いものなのかもしれないと思う。「その世」についての思念は、日本語がひらく世界だ。

 年末に書庫に出かけて、気になった本を何冊か抱えて戻ってきた。そのうちの一冊が坂出裕子著『無頼の悲哀 歌人大野誠夫の生涯』(二〇〇七年 不識書院刊)だった。大野誠夫は、生まれてすぐに里子に出され、やや大きくなって引き戻された生家では義母から邪魔者として育てられ、その親の口利きで就職した一流会社に勤務することを潔しとせずにあえて辞して苦難の生活に踏み出し、しかし病気がちで生活は不如意のまま、結婚に破れ、愛子とも別れ、意地と短歌への思いをよすがに苦難の人生を歩んだ。しかし、黙して語らず、晩年に近い頃の自伝ではじめて自身の幼少期以来の苦難と秘密を明らかにした。その残された短歌作品をもとにして、過不足ない解説を加えてゆく筆者の手際がすばらしい。大野が若い頃絵描きになりたかったが挫折したくだりと、そのことが短歌作品のなかに色彩語が多く用いられていることと関連していることについての指摘には説得力がある。

 これは備忘であるが、『開化期の絵師 小林清親』の著者であり、歌人でもあった吉田漱さんについて、青木茂という人が『書痴、戦時下の美術書を読む』(2006年 平凡社刊)のなかで追悼の文章を四ページほど書いているのをみつけた。小林清親の本については「ああ、こんなのが書けたら死んでもいいだろう」と思ったという。
これは吉田さんに歌誌「未来」に載せるためにインタヴューをした時にうかがった話だが、戦後すぐの頃に、義務制の美術の時間を一時間では何もできない、二時間はとらなくてはいけないと言って、文部省と掛け合ったことがあるという。吉田さんは戦後の美術教育のためにも仕事をしたのである。美術家でもあった吉田さんのスケッチは手堅いオーソドックスなもので、プロ画家でも通用する腕前だった。その作品の陶板は土屋文明記念館に飾られている。「青幡」に載った吉田さんの土屋文明についての文章や講演記録は一本にまとめる必要があるが、「アララギ」も土屋文明も歴史の地層に埋もれてゆきそうな昨今であるし、実現可能性は低そうだ。
 
 昨年は画家の野見山暁治さんが亡くなって、私も「ユリイカ」の十年前の特集をたまたま手に入れたので読んだが、野見山さんという人のおもしろさ、スケールの大きさがよくわかった。ついでに読んだみすず書房刊の『ベイリィさんのみゆき画廊』という本をみると、近くにいた女性ファンの心理もよくわかる。

 全然関係ないが、病院や市役所やマンションのエントランスに絵が年に四交代ぐらいで常時かけられていたら、日本の文化ももう少し良くなるのではないかと私は思う。若手の美術家の作品も、そうやってレンタルでぐるぐる全国を回遊してゆくシステムを作っていけば、いいのではないだろうか。(うしろ暗いレンタル絵画ではないですよ。)
特に美術大学(の学生たち)などが教育機関(壁面が多い!)と連携して音頭をとって、展示場所の設置とその維持管理をしてゆくというようなことを、プロジェクトとしてやっていくこと。現代はインターネットもあるし、戦後すぐの瑛九らがデモクラート美術協会の活動を通してやろうとしていたことは、充分実現可能である。

 年末につい買ってしまった絵。大きめなので、ときどきしか飾れないが。宮田重雄作「カーニュ風景」。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿