さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

吉田漱さんのこと 「未来」の短歌採集帖(3 ) 訂正

2016年09月25日 | 現代短歌
 「一太郎」ファイル復活の第二弾で、「砦」の文章を手直しして再録する。元の雑誌が出て来ないが、2007年後半の文章である。

 大辻隆弘著『岡井隆と初期未来』(2007年六花書林刊・三千円税別)が刊行された。三八八ページの大冊である。この本の基本資料となっている「未来月報」を私は見たことがない。全部そろっていなかった月報が次々と筆者の手元に集まりはじめる話は、感動的である。大辻はそこから、戦後間もない時代、昭和二十年代後半の若者たちの人間ドラマを生き生きと掘り起こして来る。岡井隆はもちろんだが、『未来歌集』と「未来月報」の両方の製作に、几帳面で記録魔だった吉田漱が深くかかわっている。『相良宏歌集』も同様である。第一章のタイトル「風のような人物」という語は、岡井が吉田の歌集に寄せた文章から取られている。
 以下は私的な覚書を書くが、『未来歌集』と初期の「未来」の人々については、最近の「みぎわ」に稲葉峯子の印象的な連載が何度か載ったのが印象に残っている。私は大辻の著書の刊行をきっかけとして、稲葉にあの文章を再開してほしいと思っている。「みぎわ」では、ほかに上野久雄氏の近藤芳美の歌についての連載が百回を超えている。『夢名人』の続編のエッセイも含めて、一冊にまとめてみてはどうかと思う。

 故吉田邸の前衛短歌関係の蔵書は、本人が病気で倒れたために療養のためのベッドなどを置く必要から、本人の了解を得てすべて生前に古書店に引き取られていた。古書店のカタログを見て不審に思った方から聞かれたが、そういう事情なのである。結果的に多くの資料が欲しい方の手元に行ったのだから、私はそれはそれで良かったのかもしれないと思う。でも、残念なことに「青の会」会報は、発見できなかった。いずれ出て来るのだろうか。しかし、多くの貴重な資料は、段ボール何箱分かが、土屋文明記念館などに送られた。この間の資料の整理は、國谷紀子さんがみごとにしてくださった。そうして初期「未来」関係のファイルは、段ボール一箱分が大辻さんのところに送られた。大辻さんはみごとにその資料を生かしてくれたのだと思う。私は「アララギ」抜き書きノートを生前の吉田さんの許可を得てあったので貰いに行き、いまそれを「黒豹」にのせている。
 もっと吉田さんの話がしたくなった。吉田さんには、同じ「未来」の歌人であった奥さんのことを詠んだ歌が何首かある。家に帰ってみたら、組立式のマリオネットのセットが買ってあって、それを見て憤怒にとらわれているという内容の歌を、たいていの人は読み過ごすのであろうが、私は深い同情をもって読んだ。 
 吉田さんは最後は岡山大学の教授になったが、父親が有名な彫刻家で、中学校の美術の先生をされていた時代は、全国学力テスト反対闘争などであちこちを駆け巡る闘士であった。「美術」の時間は、一時間でなく二時間ほしいとか、文部省が指導要領を決めていく初期の段階で相当深くかかわって意見されたと聞いている。吉田さんは運よく参謀本部勤務で戦争を切り抜けたが、江戸っ子だから第一師団の兵隊になっていたら、満州を経て激戦地のレイテ島に送られた可能性がある。語学力や図形についての判断能力が見込まれて残されたのであろう。戦後は進駐軍の事務所で手巻き式の計算機などの実物を見ている。その経験が、『近藤芳美注釈』に生かされている。山形にも茂吉とほぼ同じ時期に山の反対側にいたから、その経験が『赤光』と『白き山』の全注釈に生かされているとご本人がおっしゃっていた。

 吉田さんは、近藤さんや岡井さんの本はたいてい二冊以上買って、一冊は丁寧にビニール袋に保存用として密封し、もう一冊を日常の用に用いていた。多く買った本は、歌会で八掛けにして売ってくれた。心残りなのは、手違いで『韮菁集』関係の資料集成のうちの雑誌部分が、棚一段分散逸してしまったことである。関連のノートは一部残っていた。私はそれも含めて「青幡」に載った『韮菁集』関係の講演等を一冊にする必要があるのではないかと思っている。それから、吉田さんの『あけもどろ』以後の膨大な歌は、遺歌集として出されないままになっている。これはどなたか出資されないだろうか。右のもろもろの内容は細かいことだが、幾人かの方に質問されたりしたので書いてみた。

 資料にも運不運があり、大辻さんのところに行ったものは、まちがいなく運がいい資料である。ありがたいことである。個人の志は引き継がれるということを、私は信じたい。
 それで私の場合は「吉田漱による『土屋文明選歌』ノート」を「黒豹」に連載している。これは伊吹純さんや、きさらぎあいこ(黒田陽子)さんのご厚意によるもので、今度の大辻さんの本にも、きさらぎさんの協力があったと書かれているのは、うれしいことである。伊吹さんは、近々「あらたま」に関する著書を出されるそうである。

 六花書林と言えば、この本の前に藤原龍一郎の肝入りで『仙波龍英歌集』(二千百円・税別)を出している。先日若手の歌人と話していたら、「私は、手に入らない本だからうれしい」と言っていたので、「へーえ」と言って驚いてしまった。私などは斜めに読んだり裏側から読んだりして、いじめて読んだ本なので、若い人のそういう素朴な反応がおもしろかった。

※「黒豹」は先日99号を出し、次号100号で終刊となるそうである。雑誌は、友愛の結晶なのであった。きさらぎさん、伊吹さん、はじめ皆様ご苦労様でした、と申し上げたい。
 ※26日に字句を一部修正しました。

伊橋かほる『銀色の脚立』 「未来」の短歌採集帖(2 )

2016年09月23日 | 現代短歌
 今日「一太郎」のワープロ・ソフトが出て来たのでインストールし直して、以前「砦」に書いた原稿が読めるようになった。それで、以前に書いた文章を順にアップしてみようと思う。

 伊橋かほるさんの第一歌集『銀色の脚立』(砂子屋書房・二〇〇三年二月刊)には、約八百余首の歌が収録されている。最近では多い方だと言ってよいだろう。しかし、これは一九六四年から一九九九年までの数多い作品の中から選出されたものなのだ。伊橋さんは、生涯に一冊か二冊の歌集を出せたらそれでよしとする時代の歌人の一人であろう。結核の療養所で河野愛子と出会った。口絵の写真には、着物を来た著者とエレガントな洋装の河野愛子が並んで写っている。河野に連れられてはじめて「未来」の歌会に参加した時に、「今日は私を先生と呼ばないこと」「『未来』は近藤さんに対しても先生と言わないの」と河野に言われたと、「あとがき」にある。

 現代詩人が短歌を否定的に言う時の決まり文句のひとつに、「短歌はお師匠制度だから駄目だ」というのがあった。私の知るかぎりでは、お互いを先生と呼ばないことを徹底したのは、「未来」と「短歌人」であり、戦後のかなり長い期間にわたって、この習慣は厳格に守られていた。高瀬一誌は、最後まで高瀬さんと自分を呼ばせて死んで行った。「高瀬さん」と「短歌人」の人達が言う時には、世話好きで献身的だったあの歌人をなつかしむ響きがある。「未来」の近藤芳美も、古くからの会員は、たとえ仲間うちでは先生と呼ぶことがあっても、直接には「近藤さん」と呼びかけながら長い戦後の時間を経てきた。この問題の是非について、先日ある若手歌人と議論になってしまった。私は、これは美風であったと思うのだが、彼に言わせると、その結果は惨憺たるものである。近年新しく入会して来た若い会員は、まるで近藤芳美の著書を読んでいない。それでも平気な顔をしている。そんなものは結社とは言えないのではないか。結社が教育機関としての役割を果たすためには、先生という呼称が持つ意味を否定できない。これは強制ではなく、そう呼びたい人がそう呼べばいいので、それを禁止までするのは行き過ぎだ、というのだ。彼の言うことにはもっともな面があるが、こうして自由な詩精神の働く場所に賭けた近藤芳美らの夢のひとつが消えてゆくのかと思うと、一抹のさびしさもないではない。話が脱線してしまった。

 『銀色の脚立』の一九六〇年代の歌は、『未来歌集』や初期の河野愛子、それから『相良宏歌集』などでなじみのある典型的な結核の療養の歌で占められている。河野愛子の『草の翳りに』に収められた

   病むはての嫉みほの白き感じにて肩尖りつつ従ふをとめ    河野愛子

足早く行きて若木に埋まるごとゐたるやさしさ演技ならなく

 など三首の歌は、当時の著者のことを詠んだものである、と後年河野に明かされたそうで、歌集の巻頭にはカラー印刷の色紙が掲げられている。右の河野の歌には、鋭敏な神経が働いていて、鋭い自意識を持った二人が居合わせた時間が、くっきりと描き出されている。この頃の伊橋さんの歌は次のようなものだ。
 
   抗議デモ果たし来し若き看護婦の面輪輝くをベッドより見上ぐ   井橋かほる
 幸せの膨らむやうに少しずつ温もりてゆく胸におく手が
菜を洗ひ刻みゆくとき身のうちに癒えし思ひのひろがりてゆく

 一首めのような看護婦の歌は、相良宏の歌集にもずいぶん入っていた。戦後の看護婦の待遇は劣悪だった。(今思い出したので書いておくが、先年亡くなった「多摩歌人」発行人の松田みさ子さんは、看護婦の待遇改善のために裁判闘争を闘った方で、その思い出をエッセイ集『青あらし』に書いている。)

 私がおもしろいと思ったのは、一九八三年以降の歌である。

   木の葉蝶うすばかげろふ薄雪草やさしき名のみ思ひめぐらす       
   蝶の羽かかげゆく黒き蟻の列 花終へし牡丹のかたへにつづく   
   丈高き杉の林をさし透す梅雨のまの陽は羊歯群に映ゆ
  
 同じ章から続けて三首を引いた。八十年代に入ると、伊橋かほるさんのようなタイプの歌人でもどこか表現が華やぎはじめる、というところに時代を感じるのであるが、基本は右のような写生に立脚した歌にある。上品で優しい抒情をにじませた歌は、どれも繊細な響きを持っている。
              
   出奔をせつなにおもひ放りたる酸葉の朱が春川くだる  
 夕映えの木道のうへに降りたちて番の鴨は尾羽根うちあふ
 工夫らの胸ポケットより取り出だす紙幣はつねに汗に湿りゐぬ
   「紅梅はいやらしきまで色濃し」とありしページ閉づ君をかなしむ

エロス的な情念のにじむ歌を引いてみた。どれも河野愛子に深く学んだ作者らしい歌と言えるだろう。

 ひかりつつ蜻蛉のむれの翔ぶ原にまた傷つかむ明日を予感する
    呻くとも咽ぶとも想ふ木枯しを睡れぬままにひと夜聴きをり
 対岸に立ちあがりゆく黄のクレーン遠空に架かる虹を遮る

 この世に生きるということは、遠空の虹を黄のクレーンに遮られ続けるということである。作者の歌集にはそのことの苦渋が十分に読み取れる。序文、大島史洋。「そのうたい方は常に控えめであり、気持ちは内へ内へとこもっていく傾向がある」とのべているが、次のような作品の選出は、実際の作者をよく知っている人のものでもあるのだろう。

   灯のもとに新しき靴を揃へ置くいづこに逃避するにあらねど
   生まれくるまへより見えてゐしやうな道のつづきぬ狭霧のなかに

語の運びの自然な歌で、安心して読み手は気持ちを歌にそそぐことができる。

   妹の病みて呼ぶ声のありありと耳もとにして冴えかへる朝
   人にわかつ悲しみならず大粒の雨にかしげる傘をささへる 

 結社の意味というのは、こういう歌を読み支えるというところにあるだろう。一人の悲しみは、一人のものではないのだ。                      (「砦」十八号 2004年)

戦後の詩

2016年09月22日 | 戦後の詩
 先日、知人に昔の詩を見せていただく機会があった。大切に保存してあった当時の新聞の紙型から起こしたもので、1960年頃の作。業界紙の文芸欄に発表したものだという。許可を得て、ここに掲載する。 

  金属音          堀井淳一

おれは機械になるのがどうも苦手だ
同僚たちが
アリバイのタイムカードを捺し
ユニホームに着かえる身軽いしぐさで
おのおののパートになりきっていく

彼らのあざやかな変身ぶりを見ていると
彼らも気づいて あいさつをする
―おはよう
 君は相変らず なりきれんのか
 ハムレットの悩みなんてはやらんぞ
 ドライにやれ
 ドライに!

おれはわずかに
彼らの生の声を聞きとったように思ったが
彼らの声は
もう金属的な音だ

※まだ職場に馴染めない印刷工の青年の詩である。六十年安保闘争で国会前のデモ隊にいて死んだ樺美智子の父親の教授が書いた「疎外論」についての本があった。マルクスの著書の中でいちばん人間的な共感を込めて読まれた部分、『経哲草稿』や『フォイエルバッハ論』の疎外論は、文学青年にも心情的に呑み込める部分だった。そこから一足飛びにレーニンの国家論や組織論に行ってしまって、多くの人々が間違ったのだ。しかし、国家の廃絶という事を言うレーニンの国家論は、十分にロマンチックだったと思う。それに対してその組織論の類には、冷厳な政治的現実主義の部分がある。思想・主義というものの持つ二面性である。若者には、若い時には、そういうことはわからない。
 
 堀井さんの詩の一行目、「おれは機械になるのがどうも苦手だ」という言い方の背後には、何となくマルクスの疎外論を肯定するような時代思潮がある。それと、自身の個人的に不器用な部分を、正直に告白してみようとする、世慣れない若者の柔らかなハートがある。その表現のしかたに、みごとなまでに時代の刻印が押されていることにあらためて私は驚いた。

 いま、戦争を振り返ることは比較的盛んである。それと同じぐらい戦後の高度成長期の文化を振り返ることも大事である。私は戦後詩の研究もしてみたいのだが、何から手を付けていいのか、今のところ目標が定まらない。

 先日知人から詩の雑誌が届いた。そこで彼は田村隆一の詩について説くところからはじめていた。吉貝甚蔵「始点としての『四千の日と夜』」(「季刊午前41」2009年)。これは、正しい方向性のひとつだろう。そういう考察をベースとして、彼は丸山豊の詩の事を最近になって論じていた。

 これが、実にいいのである。吉貝甚蔵「今、読む、丸山豊の詩」(「季刊午前53」)。私も丸山豊の詩が好きで、以前に少しだけその注釈を書いて自分の雑誌に載せたことがある。丸山豊の詩は、後世に残したいもののひとつだ。

三井修歌集『海図』

2016年09月19日 | 現代短歌
 この三井さんの歌集は、十首なら十首の一連を読んでいると、どこかに必ずちょっとした自然な技巧が凝らした歌があって楽しめる。そのさりげなくて控えめな感じがいかにも作者らしい。

その薄き髪に挿したる櫛をもて母は過去との交信をなす   

 これは、施設に入っている母の事を詠んだ歌。


施設には老人たちが屯するそれぞれ小さな雲を頭に乗せ 
         たむろ         ず    
  
 頭の上の雲が何を意味しているかは、いちいち解説しなくともわかるだろう。


わが秋の双耳に響く鳶の声此岸彼岸のはざまの声か   
  

 という歌があって、その次に、


空の鳶海の鵜こもごもわが裡を出で入りするなり島の夕べは  


 という歌をみた時、私はいいなあ、と思った。三井さんの歌境の深まりということを感じたのである。


判官が腹切る刹那背後なる人形遣いは恍惚とせり

マンションの最後の灯りが消えし後闇はしずかに身を延ばしたり

孤高とも連帯とも見ゆ山頂に左右に電線侍らする塔


 こんな具合に、秀歌がぞろぞろ出て来る。あらためて短歌を続けられるっていいなあ、と思ったのである。

園田高弘のベートーヴェン

2016年09月19日 | 音楽 芸術
 連休中の雑読書のなかに園田高弘の名前が出て来た。私は、二十代前半のある日のこと、何気なくFMラジオのスイッチを入れたのだった。そうしたら園田高弘の演奏するベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタ、作品110だったと思うが、その後半の音が流れて来た。衝撃を受けて、全部聞いてみたいと思った。私にベートーヴェンのピアノ・ソナタと出会う端緒を作ってくれた、という意味において、いまでも私は園田高弘の名前が忘れられない。言うならば、それは、日本人の弾くべート―ヴェンだった。

 二〇〇二年に糸井重里が出した『経験を盗め』という対話集のなかで、水道局の技師前田學(この人は、水を匂いだけでどこの水か判別できる)と、『絶対音感』の著書で知られる最相葉月が鼎談を行っている。園田の名前は、こんな具合に出て来る。

(最相) 絶対音感のある方も、戦時中は国のために駆り出されたことがあったそうです。ピアニストの園田高弘さんは、その聴覚力から、敵機がどの角度からどのくらいの高さで飛んでくるのかを感知するため、東大の聴覚研究室で実験を受けられたんです。目隠しをして、いろいろなところで鳴らされる音に対し、高度何メートル、方位はどこだというのを答えるわけです。前線で人間レーダーのようなかたちで実用化しようとした手前で、終戦になったんですけど、その精度は九〇パーセント以上の正答率だったそうです。

 このエピソードは、これ自体ものすごくおもしろいものだと思うが、最相は、私にとってもっと重要な知識を提示してくれていた。

(最相) ドレミファソラシドでいうとラ、A音ですね、その国際規約が周波数四四〇ヘルツ。コンサートマスターがA音を出し、それをもとにしてみんなが音合わせをして、演奏を始めるということをしています。ただ、国によって、あるいはオーケストラによって、そのA音を自分たちの好きなように独自に変えていたりするんです。(略)アメリカは四四〇ヘルツが多く、四四二もあります。ヨーロッパでは、ベルリン・フィルやウィーン・フィルは四四五から四四六ヘルツ。ベルリン・フィルはひと頃、四四七ヘルツくらいでやってたそうです。日本のN響は四四二でしたか。

 こんなことは、音楽に詳しい人には常識なのかもしれないが、昔から私は、どうして岩城宏之さんの指揮するN響の演奏するべート―ヴェンの交響曲が、垢抜けないけれど懐かしい、みたいな気がするのか、その理由がわからなかった。演奏技術のせいには思えないので、ずっと不思議に思っていたのであるが、こういうことだったのだ。たぶん、戦時中のSPレコードやラジオ、それから湿気も関係があって、日本人には戦後もずっと四四二ヘルツが最適だったのだ。今は音楽の響く部屋と都市全体が、おおむね乾燥していて、欧米並みの四四五から四四六ヘルツ、四四七ヘルツも平気になっているのだろう。ヘルツ数が高い方がおしゃれな気がする、というのは、耳に珍しいところのある音の方が、新しいもの好きの人間には、おもしろく感じられるからということで説明がつく。



花山多佳子歌集『晴れ・風あり』 訂正

2016年09月15日 | 現代短歌
 読み始めは、ただ淡々と言葉を追うだけだった。でも、だんだん歌集の言葉にこちらの波長が合ってくると、「夜の白雲」、「梅雨の夜の月」あたりまで来て、にわかに読むのがおもしろくなって来た。歌自体も動きのある歌が目にとまる。

夜の雨はまなこを浸し鼻を浸し溺れさうなり自転車を漕ぐ
幾重にも流るる雲の迅さかな月ぐんぐんと押しわたりゆく

 そうして父への挽歌が来る。かの大歌人にして大知識人の玉城徹。その父との関係は、私は詳しくは知らないが、入り組んだ複雑なもののようである。しかし、自身の幼年期に負った傷のようなものには、ほとんど触れることはない。抑制された歌い方である。

起きぬけにまづ目ぐすりをさすことのさびしき朝よ夢のつづきに
筆談をせむと思へどリア王のごとくに父は目を閉ぢてをり
もはや父とは会ふことなからむ手の甲にさやる柩のなかの毛髪

三首めの歌にみられる抑制ぶりは、尋常なものではないと思う。事物を客観視する言葉が、情念を規定しているのだ。それは、どのようなコトガラ・現象に対しても貫かれる。

引明けの鼠色の雲いちめんにうごめきわらわらと飛びかふ鳥かげ
熱気球のやうに空気が入りきてあわてて夜の窓をとざしぬ
空のいろ見てごらんよと言ふ空のいろは娘とわれと異なる

 描写にこころを奪われるということがある。そこでは、現象から本質へとじかにつながっていくものがある。ここに引いたひとつひとつの歌には、短い短歌だから断片的な描写ではあるが、どれもドラマ性がある。こうした花山作品の日常詠の鏡が照らしているものは、時間である。モノをまるごと受け止めて生きているから、言葉に時間が写って来る。

 作者が、森岡貞香の歌に惹かれ、研究書まで出したわけは、そこのところで作歌のために示唆されるところが多いからだろう。ただし、これは一般の人にわかりいいものではない。同じことは玉城徹の短歌にも言える。どうしても通好みになるところがある。

 現代の若手の歌に見られるような、イメージとしての言語を先立てる行き方とは、対極にある言葉の使い方をする花山短歌の在りようは、静かに短歌の現在に拮抗している。ただしそれは、私のような、両方の行き方を許容する立場とは、また違った禁欲を強いられる歌の姿であるのだ。まさに短歌型式へのリスペクトに満ちた一冊と言えるだろう。  
 ※書き出しを19日に書き直した。


石井辰彦『逸げて來る羔羊』 訂正

2016年09月10日 | 現代短歌 文学 文化
 タイトルの「逸」の元の活字は、二点しんにょうで、つくりの「免」も元の活字は「兔」である。「來る」も旧字である。それで「にげてくるこひつじ」と読む。帯に「連作短歌」とある。各章十首で読み切れるかたちになっていて、六〇の断章をもって構成されている。そのため、とても読みやすい。作者の世界観や美意識が、端的に、そして十分に抑制されたかたちで届けられる。

私は音楽ではオペラよりも室内楽の方が好きだが、本書はオペラ好みの作者が、私のような室内楽好みの読者のために、あえて自らの嗜好を抑制して、自己の詩を改編し直して提示してくれているようなところがある。口語の翻訳詩の系譜にある独特の自由詩的な文体と、句読点や感嘆符を多用した句またがりの多い語り(モノ語り)は、重苦しさや、浪漫的な情緒の過剰といったものとは無縁であり、何か晴れやかなアポロ的な光線のもとに言葉を羽ばたかせながら、自らの言葉をもって、残生を、それから先に逝った死者たちの影を荘厳しようとするものであるように思われる。 (※最初に「破調の多い」と書いて失礼した。数えてみると、むしろ厳格なまでに語音数の型式を守っており、それを句読点や一字空けや棒線でつないでいる技巧の冴えに感嘆させられる。)

多島海へと乗り出さうーーーーー 血塗れのリボンを(檣に)掲げつつ  石井辰彦 

※「多島海」に「たたうかい」、「血塗」に「ちまみ」、「檣」に「ほばしら」と、振り仮名がある。「出さう」のあとの棒線は、活字本では美しくつながっている。

ここにゐてここにはゐない 愛に似たものに充たされるべき私は  石井辰彦

※「私」に「わたし」と振り仮名。

ボードレールの『悪の華』のことが、本書をめくりながらしきりに思い浮かんだ。美的な生と青春を夢想した風雅の士の、万感をこめた「詩人」らへの哀悼の書。敗北の書であるとともに戦いの書。絶望的な自己励起の営みを吹く、言葉の風のざわめき。

石井辰彦の作品の表記は、単に技術的なもの、一作者の意匠ではなく、作曲家の楽譜のような、画家の画集のような、共通感覚に根差した芸術の全体性を呼び込むための句読法、記述法であるのだろう。そこには、日本語を用いた言語表現のなかで自由の余地を拡大しようとする、不退転の意志のようなものが感じ取れる。

向田邦子の『眠る盃』

2016年09月09日 | 
 一昨日にアップして、すぐに消してしまったのだが、食べ物のことを書いたら劇的にアクセス数が多かった。おそらくそういう話題のものを読みたい人が多いのだろう。

 食べ物のエッセイが含まれている本というと、おすすめしたいのは向田邦子の『眠る盃』(1979年講談社刊)である。これは文庫本ではなくて、元の単行本で読むことをおすすめしたい。司修の装丁が、実にいいのである。挿画の猫の絵は人間のような顔をしていて、明らかに著者の顔写真を彷彿とさせる。これは同じく司修が装丁した別の向田邦子の著書でも、装画の猫が著者らしい気配を漂わせている。このいたずら心にあふれた諧謔の味がたまらない。

 向田邦子の文章は、一行目ですっと心を持っていかれる。

「三十年ほど前のはなしだが、母方の祖母が布団を拾ったことがある。」 これは祖母の思い出話。
「とにかく小さかった。」 これは家の飼い猫が生んだ未熟な子猫の話。
「クレオパトラの昔から、女は美しくなるためには骨身を惜しまなかった。」 これは一頃流行した顔面のパックの話。
「躰の上に大きな消しゴムが乗っかっている。」 これは、巻末の文章で、ガスが漏れて死にかけた時の話。

 こういう文集を見ていると、昨今のSNS、ツイッターとか何とかいうメディアが、いかに文章力を育てにくいものか、という事がよくわかる。知人の言うには、ラインやツイッターをやっている人は、あまりブログなどやらないのだそうだ。まだしもブログの方が、文章を書くうえでは害が少ないような気がするが、「書く」という事に対して構えがゆるくなるのが、便利なインターネット時代の言語表現の最大の落とし穴なのだ。

野畑正枝さんの歌

2016年09月07日 | 現代短歌

 私が地元でやっている短歌の会に参加しておられて、数年のうちにめきめきと実力をつけ、いい歌を作られるようになった方が、急に病を得て、その病気の進行が早かったために急逝された。本人も短歌を生き甲斐としておられたようで、近々近親の方がその作品集をまとめるということを聞いている。近作の自選九首をすべて引く。

たましいのカプセル                野畑正枝

榧の木にここにいるよと音残しウッドペッカーの飛んでゆく先
空っぽの鳥の巣にそっとたましいのカプセル置かな冬陽降るなか
粛々と生物連鎖の輪のなかに私の後ろをとぶ影ぼうし
谷戸深くしづかにわれの籠りいると人に知らゆな道のにら花
孵りたる言の葉しばし耳元にとどめて置かん白きイヤリング
後戻りできぬ道行く我の手を「握りしめています」と友は伝え来
二か月を留守にしたれば飼い猫は我と出会いて物陰に隠る
みかん、鰤リュックに詰めて玄関に小二の晃太郎誇らかに立つ
つねならぬ雪の訪れ待つ朝かすかに紅差しヒヤシンス咲く
                       「二俣川短歌 4号」

 現実を直接に強い言葉で訴えなくても、思いは自然に伝わるものだし、歌はそれでいいのだと、私は野畑さんと話したことがあるが、これらの歌を読んでいると、その「思い」の「たましいのカプセル」が、そっと掌から鳥の巣に移し載せられているような気がする。六首めの、「後戻りできぬ道行く我の手を」という歌には、闘病中の心境が出ているだろう。そうして、改めて読み返してみれば、三首めの「生物連鎖の輪のなかに私の後ろをとぶ影ぼうし」と歌う言い方にも、自身の命の長さについての思念が沈められているようだ。やさしいもの柔らかな言い方で、静かに自身の運命を観照している心映えの美しさが際立っており、その早すぎた死が惜しまれる。