さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

星河安友子『歳月はかへらず』

2019年01月30日 | 現代短歌
 星河安友子さんの三冊目の歌集である。こういうものを読むと、今後これだけ品位の高い緊密な歌を作れる人が、どれだけ短歌の世界に出てくるだろうかと、暗然とした気持ちになるのである。巻頭の二首を引く。

蔵の扉に餅花一枝添へたれば仕舞ひしものの眠り想ひぬ

 ※「扉」に「と」と振り仮名。

祖母と母をまねてまろめしまゆ玉のまろみが指に 春のあけぼの

 餅花は、どんど焼きで団子を焼いた覚えのある人には親しいものだろう。お団子を手に丸めて作ったやさしいしあわせな思い出が、春のあけがたの夢に出てきたのだろう。

作者は、一時中断はあったが、「未来」短歌会で岡井隆の背中をみて歌を作ってきた一人である。岡井隆は、多くの女性歌人を育てた。星川さんなどは、その最初の方の世代に属する。初期の前衛短歌に触発され、青春の思いをそこに託した痕跡は、次のような一連の歌からもうかがわれる。

〈チエホフ祭〉掲げ現るる青年に陽炎ゆるる少女の胸は

事実の上なる柱のかなしさや組み立てらるる修司の虚構

荒野人老いていづこに詠ひゐむ五十数年過ぎ去りにけり

〈チエホフ祭〉は、いうまでもなく寺山修司が中井英夫の推挙によって「短歌研究」に登場したときの著名な連作のタイトルである。中井の添削や改稿指示の跡が著しい原稿が公開された時の驚きは忘れがたい。良き編集者(プロデューサー)にめぐまれた寺山は幸運だった。〈チエホフ祭〉の掲載された「短歌研究」を持って作者の前に現れた文学青年の思い出も半世紀前のことだ。

故郷は雪降りてゐむ帰れざる歳月ありて古利根恋し

七草の粥を夜に食む白米にまじりて蘇るみどりの息吹き

 ※「蘇る」に「かへ(る)」と振り仮名。

中島飛行場空爆のテレビ見てゐたり消灯となる病院の夜に

病棟が音立て震ふ夜の地震ナースの白き足走りたり

現在の作者は、足をわるくして立つことができない。この歌集には、通院、入院、療養の歌が多く詠まれているのだが、そうした歌のなかに混じるふとした嘱目の把握に何とも言えない切れがある。「ナースの白き足走りたり」。端的で、うまい。「アララギ」・「未来」の写実の系譜の人たちが、しばしば口にした「単純化」というのは、こういうものを言うのだ。

ドア一枚開けば介護世界あり 臥する生活思はざりけり

カロリーの少なき食と暗き灯と「老い」の付録はなべて同じか

横たはる女の体 夕ぐれはひかりのレース一枚かむる

 三首めの歌は、土屋文明の『韮靑集』にある、夕陽を浴びながら寝ている自己の姿を玉中の虫にたとえた著名歌を思い浮かべながら、諧謔をもって自身の寝姿を詠んだものである。今はしらないが、かつて「未来」短歌会において土屋文明の歌は共有の知的財産だった。ここには独特の諧謔が読み取れるだろう。その前の歌の「『老い』の付録」という言い方にも、強靭なリアリズムの方法に学んだ者に特有の、精神の抵抗力と、毅然とした意思が読み取れる。詩歌人としての自恃と誇りを保ちながら、典雅に人生の終盤の闘いを続けている孤独な作者の営みに励まされる人も、きっといるにちがいない。

「短歌往来」二月号と錦見映里子の新刊

2019年01月19日 | 現代短歌 文学 文化
「短歌往来」の二月号が今日来た。この雑誌は書店に出ていないので、手に取ってごらんくださいとも言えないのだが、私の作品としては久しぶりに商業誌に載ったものだ。オメデトウ亥年生れの歌人、という特集である。「美志」の共同編集人の嵯峨直樹や、「未来」の選者の佐伯裕子の名前も見える。還暦の私は自分中心に考えていて、自分の同窓会みたいな誌面を勝手に思い浮かべていたのだが、そうではなかった。実際の誌面は、十二年の年輪の輪が、水面の波紋のように、または天空の花火のように拡がって大きくなっていくかたちである。

そう考えてみると、ある時代における全世代のイメージが、視覚的に整理できるようだ。これを概念の図式として使っている人文系の本はあまり見たことがない。ねずみ花火のような円を描く歴史の本というのは、ないものか。私は昔から縦線、横線の関数グラフが気に入らないのである。それから文芸の分野においては、中心点を一つにしない、ということも大事だと思う。

  〇     〇
それで、身めぐりの本。

錦見映理子の『めくるめく短歌たち』が出た。岡井隆の首都の会が開かれていた頃、目白から新宿まで電車がいっしょだったから、月に一度は仲間たちとあれこれしゃべりながら帰った記憶がなつかしい。そう言えばこの本も、誰かとのやりとりを書いた文章に精彩がある。「心の花」の歌人、野原亜莉子についての文章の末尾から。

「 カフェで亜莉子(ありす)と楽しくお茶している最中、私は突然わかってしまった。もう、彼との関係は元に戻らないだろう。急に涙ぐんだ私に驚きつつ、亜莉子は余計なことを聞かず、落ち着くまで静かに待っていてくれた。
それから彼女は家に招いてくれて、深夜まで羊毛を使った人形の作り方を教えてくれた。針をさくさく刺して可愛いクマや犬を作っていると楽しくなってきた。手を動かして小さなものを無心に作るのっていいでしょ、と亜莉子は微笑んだ。」
 
冒頭の二つの文章のつなぎ方は、短編小説の技法である。この「…私は突然わかってしまった。もう、彼との関係は…」という展開のしかたは読者の好奇心を鷲掴みにする。二つ目の段落の「針をさくさく刺して可愛いクマや犬を…」というような言葉の使い方も、いい感じがする。こういう心の動きに描写の筆が素直に沿うて行く語り方がすらすらとできるのだから、昨年筆者が太宰治賞を受賞したというのも、頷ける。その「リトルガールズ」、タイトルからして面白そうなのだが、私はまだ読んでいない。

小見山輝『一日一首』

2019年01月12日 | 現代短歌
 本書は潮汐社の小見山泉氏の手によって出版された。小見山輝さんに私は一度だけ岡山で「未来」の大会が開かれたときにお会いしたことがある。何か地元の話をしなくてはいけないと思って、橘曙覧の話をしたら、具体的な地名をあげて楽しそうに話をしてくださったのが印象に残っている。この本は、見開きの右側に本人の手跡、左側に活字に起こしたその歌と短い日記を添えるという体裁のもので、亡くなる前年の平成二十九年一月から三月までの分を収めている。おしまいから一首前の歌を引く。

「 三月三十日 木曜日 晴 

 虚ごとにまみれて暮らす日々さへも悲しむとなし 虚人われら

   ※「虚ごと」に「そら(ごと)」、「虚人」に「そらびと」と振り仮名。

絵そらごと、歌そらごとというのは
昔からあったが、事実としての日常
が今日ほど虚に浮いていたことはな
かった。 」

とある。

 虚ごと、というのは、「うそ」のことである。ここで言っている「日常」は、情報社会化が進行して、スピードに振りまわされているわれわれの生活全般を批評しているのだろう。前日に次のような歌と文言がある。

「 三月二十九日 水曜日 曇り 

明日からは暖くなるとの予報にさへも騙されまいぞとする馬鹿らしさ

大臣・官僚どもの虚言にはただただ
あきれるの外なし。嘘をかさねて、
日本をアメリカに売る。いやもう
売ってしまった。 」

 ほかの日記の部分にこういう言葉はほとんど見られないから、これはよほど腹に据えかねたのである。歌人は正しく現在の日本の現状を見据えていたのだ。

現に、その後の種子法の撤廃や、水道法の改悪の事実を見れば、国会では詳細の伏せられたТPPの密約の内容が、あぶり出しのようにわかって来ているではないか。しかし、もっといい歌を引きたい。

「二月十七日 金曜日 曇りて寒し

立春をすぎて十日の日光 芽吹きにむかふ樹の肌をすべる

寒いけれど木々は細い枝を凍天に広
げて水をあげている。敗けてはおれぬ。 」

 「日光」とあるのは、字数から「ひのひかり」と読むべきだろう。一字空けは、元原稿のまま起こしている。病気がちの日々を過ごしながら、みずからを叱咤するような言葉を書きつけている。冬木をみながらこんなことを思っている作者が慕わしい。こころのすこやかさというものは、こんなふうに自ら培うものなのだ。

「波」1993年4月号 寺山修司のアフォリズム

2019年01月01日 | 
 
年末に古い雑誌類を取り出して片付けていたら、中から新潮社の「波」1993年4月号が出て来た。その表紙に寺山修司の手書きのアフォリズムが掲載されていたので、切り取って壁に貼ってみた。万年筆で書いたらしい、読みやすいが、横線や、斜めの払いをぐいっと引っ張ったところに特徴がある字だ。

万有の流轉は演劇である

実際に起らなかったことも
歴史の裡である

どんな鳥も想像力より高く
飛ぶことはできない

言語は時の曲馬である
   
       寺山修司
 
人間の想像力というものに何よりも高い価値を見いだしていた寺山らしい言葉である。

万有の流轉は演劇である。…人間のすることなすこと、自然の営みのすべてが、寺山に言わせれば虚構でいいのだということになる。虚構の側から「歴史」を見ている。大胆な価値観の転倒がここにはある。挑発している、と言ってもよい。もしくは、提起として受け止めてみてもいい。そんなに「事実」が大事なのか?私小説的な精神風土に寺山は抗った。

言語は時の曲馬である。…曲馬だから、振り落とされないように乗りこなさないといけないのだ。時というのは、時勢、時運、時機ということだろう。世阿弥と同じことを言っているようでもある。表現全般にかかわる人たちの聞くべき言葉にちがいない。

 ついでに余計な事を書くと、高校時代の私の知人の言うには、その当時さんざん私に寺山修司のことを聞かされたということだ。そうだったっけ、と思い返してみる。

美術部の仲間に銀座までATGの映画を見に行っていた男が居て、映画「田園に死す」を紹介されたり、「かあさんぼくは帰らない」という歌が出てくる映画のサントラ版のレコードなどを聞かされたりして、私も相当に寺山にイカれたのだ。美術部の彼はいまでもビジュアル関係の仕事をしているはずだ。このほかに二年生の時に同じクラスの文学好きの同級生といっしょに短歌のプリントをガリ版で刷って配ったりしたが、これも寺山の影響が濃い短歌だった。彼は今でも九州で詩を書いている。文庫本の寺山修司歌集は当時の私らのバイブルみたいなものだった。この文庫本を編集した富士田元彦さんに後年会うことができのたも、何かの縁である。