さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

岡井隆の『天河庭園集』

2016年11月30日 | 現代短歌
一太郎ファイルの復刻。以前「レヴューの会」のレジュメとして書いたものである。このブログのアクセス数もトータルで1万IPに近づいた。歌人以外に文学好きの方が見ておられる可能性は高く、わが師岡井隆の歌の紹介などもした方がいいのではないかと考えて、古いレジュメを引っ張り出してみた。

 『天河庭園集』が感動的なのは、内科医としての職業・研究生活と、苦しい愛恋に彩られた私生活と、しばしば時代状況と重ね合わせて読まれる詩業のうえでの刻苦とが、苦しむ個人の生々しい声として伝わって来る点にある。懊悩を比喩に変換することを通じて、かろうじて生きしのいでいるというような在り方。一冊は、通常の歌集の倍以上の濃度を持っていると言えるだろう。少なくともここには、一冊の短歌による歌集の中に、優に一冊分の現代詩集が溶け込んでいる。中でも「ノオトⅠ」の17の牛の解体の散文詩は圧巻だ。 (13は、「木曜便り」の今回私が近刊『生まれては死んでゆけ』で注をつけたものの作り直しだということは、わかる。) 

○「肖像のためのスケッチ」。
 その人は耳のうしろに音を連れすすきの中を輝いて来る その1の歌。
 否を否その人は今ここに居る終りなきわが闘い見むと 5の歌。

「その人」が気になった。その人とは、誰だろうか。神のようにも見えるが、ニーチェには、邦題『その人を見よ』という著書がある。その人は、南中の真昼の生の充実を生きるツァラツストラのイメージで、私の闘いに理念の方からの光を投げて来る存在なのだ。

 ブルデルの弩引く男見つめたる次第に暗く怒るともなく
われわれはわれわれの声を持つであろうそしてその声は雪であろう

 著しく十首抄出は困難である。多くの場合に、一連として読むことを作品が求めているからだ。今回は、有名な歌をなるたけ外して選んでみる。

○ 「〈時〉の狭間にて」は岡井の評論集の題にもなっているが。「アイザック・K」は岸上大作のことである。1K「女かや」は岸上の自殺の原因のことを揶揄するように取り上げた作品。この一連の一首めと、「男」に「おみな」とルビをふる4「反歌風に」の一首とは、つながっている。「踏み込まむ」の歌の「かの体験」は、六十年安保の体験のこと。男が男でなくなった、ということは、日本のナショナリティ(国家の自主性、としてもいい)の比喩としてわかりやすい。

 子宮なき肉へ陰茎なき精神を接ぎ 夜には九夜いずくに到る

旋頭歌の変形のような作品だ。

○ 「歌かとも見ゆるメモランダムⅠ」。この歌集には実に職場詠が多い。

 寂かなる高きより来てわれを射る労働の弓 ラム、ラム、ララム

○ 「歌かとも見ゆるメモランダムⅡ」。初句重畳の詩法による。どの歌も既成の歌語に寄って行く面がある。中世歌謡への関心などもあろう。「一週間」の激しい職場詠。今の私には、「ノオトⅡ」が案外にわからない。課題としておきたい。

○「昼の人」 四月十六日
おびただしき鉄器加えて肺を裁る外科医羨しく立ちまじりたる

○「レイ・チャールズを聴きながら作った歌」
 髪切虫濡れて東へ向うころ底ごもりゆく係恋のある

「駅についての十五の断想」から。
 髪はながきこころは苦き青年と約束をしてあらそわむかな

○「倫理的小品集」。
 劇中へひき込まれるな巌立ちせよされば愛しけやし学生は
 別るるはまことふたたび逢わむため碾くごとくまた轢かれるごとく


田谷 鋭歌集『乳鏡』 (昭和三二年八月一五日、白玉書房)

2016年11月23日 | 現代短歌
一太郎ファイルの復刻。「現代短歌雁」にのせた短文。

 今日の読者がこの歌集にはじめて接する場合、三一書房刊の「現代短歌体系」(第八巻)で深作光貞の解説をいっしょに読んだ場合と、筑摩書房刊の「現代短歌全集」(第一三巻)にあたって読んだ場合とでは印象が異なるのではないだろうか。歌集『乳鏡』の中には、三一書房版の解説に書かれているように作者がレントゲン技師であるとか、幼い頃に両親を失ってしまったというような事実は、直接わかるようにうたわれていない。わずかにあとがきに「召集を解除され国鉄の職場に復帰し」とあるのみである。そういう面では『乳鏡』に続く『波濤遠望集』の方が、作者の輪郭はまだしも明瞭である。そこには、

父ははの面知らぬ嘆きもつことも宝石の如き生の恵みか  
       ※「面」に「おも」、「生」に「いき」と振り仮名。

というような歌がある。さて、作者についてのそういった二次的な情報を一切排したところで歌集を読むなら、やはり最初に強く印象づけられるのは、次に引く巻頭の著名な一首に象徴されるような、生活苦の中で屈託する思いである。

生活に面伏すごとく日々経つつセルジュリファールの踊りも過ぎむ  ※「面」に「おも」と仮名

 一冊を読み進むうちに、そうして何度か読み返してみるうちに、次第にふくらんで来る謎のようなものがあって、たとえば、

あかさざる胸処の如くサイドカアの荷台にしきり雪は積みゆく  ※「処」に「ど」

というような歌の独特なわかりにくさは、ほぐれぬ思いが作者の胸中にわだかまっていることに起因する。「あかさざる胸処のごとく」という言い方ににじむ鬱屈は、並大抵のものではない。『乳鏡』一巻には、ままならぬ生活の現実と遂げられなかった過去の思いとが、重なり合いつつ凝固している気配がある。そこでは、日々の無念をそれにひたすら耐え続けることによって、生活の持続の価値とでも言うほかはないものに転化してみせることが、唯一の作者の願いであったのではないか。後に自省して歌集『母戀』の中で、

泥みつつ生くれば人に憎まるる機微も知りたり生立ちに我は  ※「泥」に仮名「なづ」

 とうたわれたりもするのであるが、歌集『乳鏡』の作者はこうした「生立ち」のような私的な事実を積極的にあかすつもりはなかったように思われる。
 田谷鋭にとって、短歌は私的な経験の単なる告白や羅列の場ではなく、自己の経験を美的なものと相似的な緊張を伴ったひとつの姿へと打ち直すためのものなのである。そのために続けられる禁欲的な営みは、すべて短歌という詩型に捧げられているのだ。時にそれは、静止的で典型的な美へのひたむきな傾斜となってあらわれるものでもある。

昏れ方の鋼管の口おのもおのもまくなぎ立つと見つつ過ぎ来し
爆心地を究むと引きし幾十の線の交叉鋭し図表のうへに  ※「究」に「と」
心なえてをりたるときにゆくりなく花の如き手の爪と思ひき
暗ぐらとなりたる土にこぼしゆく菠草の種子星の象もつ  ※「象」に「かたち」
寒き夜をひとり目覚めゐて顕つものに冠鶴の冠毛の黄金  ※「黄金」に「きん」

 これらの歌には、昭和一〇年に「多磨」に入会して北原白秋の教えを受け、戦後は宮柊二に師事して「コスモス」創刊に加わったという作者ならではの緊密な語の選択と、底に秘めた浪漫的な精神のはたらきがある。田谷鋭の生き方と作品の求心的な姿勢は、宮柊二への没入によって強化され、信念にまで高められたものだと言えるだろう。


身めぐりの本 その2

2016年11月20日 | 
 以下は主として古書の話。 ※しばらく消してあったが、復活させた。
 
 電車の中というのは、不思議なぐらい読書意欲が増す場所で、私は大概の本は買ってすぐに電車のなかで読み始めるのだが、それを家に帰ってからも続けて読みたくなって手から離れない、というような本は、まちがいなくおもしろいものだと思う。
 
藤沢周平『闇の傀儡師』
大沢在昌『雪蛍』

続けて一気に読んでしまった。あとは、拾い読みしている本を並べると、

安岡章太郎『天上大風』 ※これは一冊本のアンソロジーで活字が大きい。志賀直哉論の部分から抜き書きしよう。  ※訂正 今見たら「天上」が「天井」になっていた。これは良寛の書で有名な言葉。

「あえて言えば若年のころの志賀氏たちの主張していた『自我』とは、明治から大正にかけて一人一人が胸に『近代化』の使命を意識していた青年たちの、偶像的な観念だったのではあるまいか?」

島尾敏雄『夢屑』
「その時妻はキリギリスになっていたのだが、私が余計なことを言ったので機嫌をそこね、跳びはねた途端、そばの風呂敷をかぶせた鳥籠の中にはいりこんでしまった。しかし用心のいい妻のことだ、大事はあるまい、と思ったものの、気がかりになってそっと風呂敷のはじをまくつてみた。中は空っぽのはずなのに、緑色の鳥が三羽もとまっている。おまけに籠の底には殿様蛙もいた。ところが、妻のキリギリスはどこにも居ない。しまった! 私は真っ青になった。取りかえしのつかぬことをしてしまったぞ。…」

 これは独特の悪夢の世界だ。最近高校の国語教科書に島尾の作品がのらなくなっているが、こういうのを見ると、愛読者を拡げるためにも載せたいと思う。だって、おもしろいでないの。安部公房は「赤い繭」や「棒」などが、短いせいか健在だ。夏目漱石の『夢十夜』は研究が多いせいか、定番教材の域に入っている。でも、物書きや詩人がヒントを得られるものがあるとしたら、島尾のこういう小品は捨てがたいのではないだろうか。

吉岡実『サフラン摘み』
 久しぶりに取り出してみて、おののいた。何という罪深さ。なんという言葉によるエロス的な欲求の裏返し方。〈生・性〉への意志を、総力をあげてひたすら反語的な詩的言語に編み直し続けている。その諧謔に満ちた運動をあえて詩と読んでいるのだ。

米田律子歌集『木のあれば』

2016年11月19日 | 現代短歌
 まずは、集題となった巻頭の歌を引く。

木のあれば露の宿りて地の上のよきことひとつ光りを放つ

一、二句の「木のあれば露の宿りて」で小休止。五・七調である。續く「地の上のよきことひとつ」で、また五・七調。その繰り返しのリズムが快い。「木の」と「地の」の語音の共鳴があり、下句には「よきこと/ひとつ」の四・三、「ひかりを/はなつ」の四・三の繰り返しがある。大きな振幅を持った安定感のある歌であり、各々の句が五輪塔の石のように円満な確かな位置を占めている。

姉の辺に行かむと見るに川波の二段落つる水は泡立つ 
 ※「二段」に「ふたきだ」と振り仮名。

手を振るはかなしき仕種残り世の少しき姉はわれに手をふる

 この歌集には、亡き姉を偲ぶ歌が多く載せられているのだが、ここに引いた歌は、その生前に見舞った時のものである。人が老いることによって必然的に訪れる別れというものを、静かに受容しながら、哀切に歌う。
二首とも、初句から二句目にかけて五・七で小休止。この五・七調は、高雅でしっとりとした落ち着きを歌にもたらしており、一首に尽きない哀調を覚えさせるものである。

帰らんと思ふはいづれふるさとかいと遥かなるうたのはじめか

祖母の言ひ母の伝へてわが習ふ何ならむ名づけて言はむ術なく

たまさかに口にのぼれる歌あれば花咲くごとしわが眼先に

 こういう高雅な歌のたたずまいは、何と言ったらいいのだろう。祈りに没頭するようにして、歌の言葉の持つひびきと、句と句の間の余白に聞き入るほかはないように思われる。

まなかひに立つ一樹だに畏れありまして黙せる木群杉群

これは大雨の時の歌。

息止みてこの世退きゆく面差しを整ふる手のありや整ふ
 ※「退」に「そ」と振り仮名。      
これは姉の臨終に際しての歌。

読みながら、幽冥の境にあるものと静かに対話する作者の歌の言葉に自然とこちらのこころが添ってゆく。水の響きに聞き入り、木の姿に見入る姿勢、沈黙にひたりながら言葉を紡ぎ出す練達の歌境に、おののくような敬意を覚えるのである。


シミックの『コーネルの箱』

2016年11月13日 | 美術・絵画
〇シミックの『コーネルの箱』

という本は、小田原の小さな古書店にあった。ジョゼフ・コーネルが、1936年のダダ・シュルレアリスム展で自作のコラージュ映画を公開した時に、サルバドール・ダリに「お前は俺の頭の中のアイディアを盗んだ」と激怒されたというエピソードを、訳者の柴田元幸が紹介しているが、ダリという人は、そういうばかげたことを平気で思って行動に移してしまう人物だった。そのむかし、詩人の村野四郎がダリ展を見て「ペンキ絵だ」と毒づいた文章を書いたことがあった。

話はかわって、先日京都の美術館で横尾忠則の大きな絵を一枚見て来たが、簡潔に言うと私はダリよりも横尾忠則の方が画家としてはすぐれていると思う。横尾忠則の展覧会があったら見てみたいものだ。その方が日本の文化のためになる。戦後一貫して日本人はダリの絵を消化し続けて、乗り越えてしまったのではないだろうか。日本ではむしろ漫画や劇画のなかにダリは消化されているように思う。

ダリの持っている要素を純化すると、ロベルト・マッタの絵みたいになる。私はそっちの方が具象としては好きなので、ダリのわかりやすい具象は飽き足らない。

コーネルの展覧会が鎌倉の近代美術館で開かれたことがあって、今でもなつかしい。本当にいい展覧会をする美術館だった。考えてみれば、ロベルト・マッタを見たのも鎌倉だった。

コーネルの作品については、高橋睦郎さんにとてもいい詩があった。コーネルというと、高橋さんの詩を思い出す。

浦上規一 「未来」の短歌採集帖(5)

2016年11月12日 | 現代短歌
「一太郎」ファイルの発掘である。
浦上規一
歌集『点々と点』   (本阿弥書店・二七〇〇円+税)   大きな受容のかたち   

 浦上さんは、出来事を楽しむ。生老病死のすべての事象を、言葉によって、短歌という瞬間の詩のなかに取り込んで生きる。すると、不思議や、悩み多き人生が、この苦難に満ちた日常が、重たい老年の肉体が、かりそめの浮揚力を手に入れることになるのだ。

  夜の雨の残る石凹に、羽根うすき快楽成仏光りつつうごく 153

   右の歌の、光のかたまりのようなものが動くイメージの美しさは、比類がない気がする。小鳥は水浴びをしつつ、まちがいなく「快楽成仏」と化しているのだ。作者は、現実にそれを見、「言葉」によって、天女の水浴びにも等しいものを幻視している。  

  空低うなりしと思ふ街上を縄文基本型に透けて行く    93

これも一読した瞬間にはわからないのだが、しばらくすると、雲間をもれる光線と、地表を動く「縄文」の雲の影が、イメージとして同時的に浮かびあがってくる。ここでは、言葉が「景」を生み出しているのであって、「景」が言葉を生み出しているわけではない。そのことの機微を浦上さんの歌はわからせてくれる。「写実」の方法の極まりのかたちが、ここにはあると言っていいだろう。

  かの時どかと沈みし者ら森閑と揺れつつそこに眠れずに居る 42
  軍星また離れゆく宵のいろ吉野の柿をまあ食いたまえ 128
こんな世になると思って「み戦」に臨んだのではなかったのだ 137
戦いをくぐり届きし妹が文、ついぞ「愛」の字一つなかりき 211

どれも戦争体験を持つ世代の思いが、伝わってくる歌だ。どかと沈んだのは、大半が夜間に米軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けたため。船が沈めば真っ暗な海に放り出されたのだ。おしまいの手紙の歌は、妻への挽歌として読んだ。当時兵営に届く手紙は、すべて検閲されたということが背景にある。

  ふんばって生きてたかだか数年の日々月々をゆうるり生きむ 24
  石に降りにじみ消えゆく春の雪、母痩身の立ち居まぼろし 50
終の日の炎は見ゆれ、濃き色の一つめらりんと立ちてのち止む 67
  今日もまた一寸先は闇である、闇に向ってボンゴレを食う 127
  酸素管つけて十年しぶといぞ「生きてまーす」が朝の挨拶  146
  長生きして得なことはと訊かるるか、まだ三、四日待ってくだされ

 さびしい歌が多いのに、読んでいて楽しいし、読後感も重くない。妻への挽歌は、どれも抑制がきいた歌になっていて、読者に無理な負担を強いない。ある程度の年齢に達して、作者には一種の覚悟のようなものが生まれて来て、自然とこうした自在さを手に入れることになったのではないだろうか。浦上さんの老いの歌は、どれもユーモラスに明るく詠まれていて、深刻悲壮ぶらないところがある。先日はじめて著者に電話をした。耳が遠いので拡声器とマイクを使いながら自宅で歌会を開いているとのことであった。いい話だと思った。ほかに、

  現し世は文芸を模し文芸はうつつの迅に茫然たり
  流れくる朝の歌ごえ、窓の下、ゴミの車の口閉ずる音
  少年野球に朝より集う五万余のゆばりの量は思いいたりき
  みじか歌瞬間芸はいわばしる垂水を過ぎて潮の目を追う
  金剛の風来る駅に降りゆけりルーズソックス残党三人
死ののちのその塩梅を歌に詠み伝え来るもあれ一人二人は
かつらぎの走り出の端の町の上、音なき花火ねじれ昇りぬ

◇ ◇  別稿
 大阪府松原市に住んでいる歌人の浦上規一さんの作品を先に紹介したい。

二〇〇七年ぶた年生まれは運勁し、方舟組めと伝へやろうぞ
屋上の夕光残る止り木に黒き大鳥「なんやね」と鳴く    
戦いをくぐり届きし妹が文、ついぞ「愛」の字一つなかりき    『点々と点』より

作者は一九二〇(大正九)年生まれ、戦中世代である。一首め、勁しは、「つよ」しと読む。方舟には「はこぶね」と読み仮名が振ってある。わざわざ「ぶた年」と言っているところに、おかしみがあり、「箱舟組め」には、後続世代への皮肉と同情がにじむ。二首め、夕光には「ゆうかげ」と仮名が振ってある。止り木にいるのだから、からすではなくて九官鳥の類か。そっけなくて、ばかばかしい感じがユーモラスである。三首めの妹には、「いも」と振り仮名があり、文は「ふみ」と読む。兵営から出す手紙も、そこに届く手紙にも検閲があった。愛していますなんて艶めいた言葉は、当時禁句であった。微妙なユーモアを漂わせる老年の回想の歌である。この人の場合は、主として土屋文明によって養われた感覚だが、こういう微妙なセンスを養うのに、近世の和歌を読むことはプラスになるのではないかと私は思う。
 
 ついでに、もう一冊紹介したくなった。鳥取県東柏郡に住む歌人池本一郎さんの歌集『草立』(くさだち)から。作者は昭和十四年生まれ。

たこ焼きののぼりはためく獺祭忌タコはふしぎな向こう鉢巻
東京の地下にて深夜ケータイに電話をしたら君が釣れたよ
雷神の異様はなんぞ白き躯に祖母のごとく乳が垂るるも

 一首め、獺祭忌には「だっさい」と仮名が振られている。だっさいき、と読んで、正岡子規をしのぶ集いが開かれている会場の風景だろう。二首めも七十歳近い作者だからこそ、かえって君を「釣る」という表現におかしみが伴ってくる。三首め、もとの本では「躯」が略字でなくて、つくりのはこがまえの中が、品と言う字である。祖母には、「おばば」と振り仮名がある。その昔ふと目にしたおばあさんの体の白さと垂れたおっぱいには、私も強い印象が残っている。軽妙洒脱、自在な歌柄である。
 


「すばる」の12月号

2016年11月12日 | 現代小説
 「すばる」の12月号を読んでいる。すばる文学賞受賞第一作という、上村亮平と武村美佳の小説。上村亮平の小説は、読んでいる時は女性作家だと思って読んでいた。いま見ると、男性なのか。いい感じなのだけれども、描写の省いていいところは省いてもらいたいと思った。少しかったるい。武村美佳も、同様に感じた。
 あとは、二人とも掲載の分量が足りないので、まだ才質を見極めがたい。上村亮平の詩に溺れるみたいな感じは悪くないし、なんかこの人は児童文学が書けそうな人だ。武村美佳の小説は、結末がやや予定調和ではないか。それに主人公も周囲の人たちも、頭がいいのだか、わるいのだか、ぜんぜんわからない。カリカチュアになりきっていない気がする。

 喜多ふありの「リーダーの仕事」は、そのまま高校の「現代社会」の授業で使えそうな内容だ。というのは、ほとんどわるい冗談だけれども…。ほんとうに、いまの若い人の労働環境は悪いのだと思った。でも、この作者も、もう少し世界を拡げてほしい気がする。

 先日亡くなった車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』などには、読んでいてカタルシスがあった。カタルシスのあるものが最善だという事は、決してそんなことはないが、でも、やっぱりそれはものを書く人は、目指してほしいと、私は思う。

後記 12日にアップして、いくらなんでもすぐに辛口のコメントでは書き手や本屋さんの迷惑になると思って、一度消して、23日に書き直して再度アップしました。

片山貞美歌集『魚雨』その他

2016年11月09日 | 現代短歌
 先日、古書で『戦国対談』新書戦国戦記10 対談者・高柳光壽、清水崑(春秋社昭和五十二年刊)というのを手に入れた。私は、この高柳光壽という人の言っていることは、だいたい当たっているのではないかと思う。それと、この人が話題にしている戦国時代ものは、私の知らない本も多いが、読んだことがあるものは、まちがいなく良いものだ。未知谷というマニアックな出版社から菊池寛の本が出ていたが、むろん高柳光壽はそれも話題にしていた。

以下は、一太郎ファイルの発掘。以前「未来」にのせた文章である。まとめようと思っていたが、そのままになってしまったので、ここに再録する。

〈今月の歌〉

移したる視野のかがやくなかに群れひとしく泳ぐ胸分けざまに

ささらぎて流るるを一またぎして岨来ればまた音ささらぎぬ

上がり根のふたもと三もとくれなゐに沁みとほりたる夜すがらの雨

普現二字ならぶ頭に朱方印道有が上朱爵印天山が下にて捺されあり

重き櫓を押しては返し額の汗はらひもあへぬさまの小三治
                    片山貞美歌集『魚雨』より
 
 山登りの歌が多くある。著者は年鑑によると大正十一年生まれだから、登山者としては最高齢に近いだろう。作品は調べにのりつつも、峨峨として兀立する風情の読後感をあたえる。いちいちの嘱目詠にこめられた諧謔は、時に読者をして哄笑せしむるものである。堂々とした男の歌、老い人の歌である。準縄、あってなきがごとく、俗にあって俗を脱し、自由である。良い哉。 不識書院刊
 

中河與一編『女流十人歌集』

2016年11月04日 | 現代短歌
一太郎ファイルの復刻。かなり前のもので、中澤系さんの歌集が出る直前の文章だ。

〇余白に〇 
 
 昭和十七年五月刊の中河與一編『女流十人歌集』を先日入手した。中河與一の短歌史における位置の微妙さもあるのだろうが、あまり話題にのぼらない本である。

 序文には、「思ふにわが国文芸の中心としての和歌の大半は女流によつて支へられてゐたのであつて(略)それは多くの男性をしのぐ優美の感情と、心を展かしめる放胆を歌の形式に託して歌ひいでてゐるのである。」とある。

 十人の顔ぶれは、与謝野晶子、四賀光子、若山喜志子、今井邦子、杉浦翠子、中河幹子、岸野愛子、吉川たき子、齋藤史、倉地與年子。

 編者は「自分はこれを大胆に選出したのである。世間の常識に従はず、昨今の和歌の危機を嘆くが故に寧ろおほらかに伝統の発想を女流の詠風の中に求めようとした。」とのべている。集中には日中戦争、欧州戦乱、対米開戦の衝撃が色濃く出ている。岸野愛子という大連に住み、歌誌「ごぎやう」に所属していた人の歌を一首引いてみる。

  わが念ひうちにしのべば流星の地にひきおとす光せつなき  岸野愛子

悪くない歌だと思う。話は変わるが、近いうちに中澤系さんの歌集が出る。中澤さんは難病で療養中である。  (さいかち真)

蒔田さくら子歌集『截断言』

2016年11月03日 | 現代短歌
一太郎ファイルの発掘を続ける。字句はいじっていない。 

この作品集には、高雅で、ほんのりと苦いこころあそびの感じられる歌が、バランス良く配列されている。今回私は、老境に入りつつあくまでも女性としての艶なる情を手放さないこの歌人の、一首一首の歌を屹立させる矜持のようなものに親しく接することができた。それは奇異なまでに激しい印象を与える集名にもあらわれている。もろもろの日々の「思い」は、述べられたあとで、述べたその瞬間から、ことばとして、詩として截り立つものでなくてはならない。と同時に、人の世が否応無しに見ることを強いてくる陰惨な事実や、そこから引き起こされる「思い」の数々は文字通り截って思い捨ててしまわなければならないものだろう。
  花蘂を押し出せるもの包むもの牡丹の性もそれぞれにあり   振り仮名「性」しやう
  羽たたみ川面に浮かぶかもめゐて水の速度をもて去りゆきぬ
  枯れ葦となりてしまひぬほきほきと折れば覚悟のごとき音たつ
  海へだて引き合ふ島か風すさぶ午後をしるけし二つながらに

 歌人にとって熟練した技術のもたらすものが何なのか、ということをここに引いた四首の歌からだけでも考えさせられる。自然の動植物が「あるがままの姿でそこにある」ことを的確に描写するだけで、それを見ている「私」の精神の位相のようなものが、同時にきわやかに立ち上がってくる。これをすぐに諦念と理解する方向に持っていってはならない。ここにあるのは、まじまじと見つめ、事物を受容する豊かで活動的なこころのはたらきである。

老いにけらしな変節すらも因りきたるいはれ想へばただに黙しぬ
かなしみに痩すとふこともなく過ぎて憂ひはむしろ身を重くせり
草などをかぶせありしが罠といふ穴のあたりの気が人を惹く
愛での盛りといふ時分ありうねりつつ人から人へ移りゆくかな   振り仮名「愛」め
歳経りて入る菖蒲湯や男ごごろの雄々しからざる数多も見来つ   「入」い、「男」を
さうなのかさうだつたのかかの時にうすく浮かべし笑ひの理由は  振り仮名「理由」わけ

 これらの歌は、人というものの恐ろしさと、愚かしさと、悲しさについての認識を胸のうちにかみしめるようにして詠まれている。これらの歌群に、作者の周囲にいる人々や歌壇の誰彼の名を重ねて読むのはやめにしよう。苦い歌だが、ここに映っているのは人生そのものだ。これらの歌は、人生を観照する文学として遇するべきなのだ。

葉隠りの椿一花の鋭き赤さやや退きて見むこの世のことは     振り仮名「葉隠」はごも、「鋭」と、                               「退」ひ
この世かの世は一続きやも亡き人のこゑを聞きとむ雑踏のなか
にくたいは一生かけての泪壺滅びし向後を骨壺が受く       振り仮名「一生」ひとよ

 諦観に傾く時に、短歌のことばは様式美をもって作者を抱き取る。だが、ここでも熟練した技術は類型の外へとわずかに作者の個人性を解放する。「葉隠りの椿一花の鋭き赤さ」に自らの進退を重ねる時、きりっとしたいさぎよい精神のありようが伝わる。作品集の大半が、ここにのべたような様式性、つまり近代短歌の遺産としてあるものとのバランスの中でうみ出されていて、この歌集を読む心地よさはそこにあるのだが、その上でなお、できごとの掴み方に作者独特のこだわりのようなものが出ている歌がおもしろいと思った。

収穫のあとを均して去りければ土は眠らむ泥のごとくに      振り仮名「均」なら

というような、ごく平易な言葉遣いによって深みのある事物の把握を示す歌。

理につきてさびしきことば情につきおろかなことば交々吐けり

ことばについての、この熱くてしかも醒めた感慨。こういった歌が集中には多くあり、短歌による認識というのはこういうもののことだと思わせられるのである。ほかに。

こころにはことば及ばね及ばざることばの力はこころより出づ
若かりし日に拒みしを今すこし惜しむも時に洗はれてこそ
たちかへる水無月といへ生き代はり生き代はり人間に同じ過ち   振り仮名「人間」ひと