さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

ネット上の発言の非対称性について

2018年09月30日 | 現代短歌
※ 消してあったが、復活させることにした。

 最近いろいろと考えてしまうのだが、私がここに或る人の歌を引くとして、その本は、もともと五百部とか七百部とか、限定された部数で出版されたものである。そこでは、従来ならば、本来読者はその人数だけでいいはずである。その限られた幾人かに、作者がごくひそやかに、わかる人にしかわからないようなかたちのメッセージを発したとして、受け取った側が、それをインターネット上で論評することは、極めて「非対称的」なことではないだろうか。

 だから、最近私は自分のブログに引く歌について、ためらいを覚えることが多くなった。世の中には、歌の読み方をまったく学んでいない人も大勢いるわけだから、そういう人に、聞きやすい言葉で何かを論評する言葉を安易に届けてしまったら、それはそれで、暴力に近いものになるのではないだろうか。

 そのため私は、このブログに全否定するようなニュアンスの言葉を書きづらくなっている。さらには、ちょっとした批評的なコメントも、むつかしいのではないかと感じている。読者のレベルが、わからないからである。  私は、ある人にごく私的な場で、或る人の作品について批評したことがある。それからしばらくして、逐一その時の私の発言がネット上に出ていた。本人は、特に何も考えないで書いたのであろうが、私は頭を抱えた。これも「非対称性」の一例である。

 ネット上の批評には、常に「非対称性」がリスクとして存在する。そのことを踏まえたうえで、何かを書いていってみたい。その際に必要なのは、無名の作者への敬意である。

 私は、ある場所で自己紹介をした時に、ある高名な批評家に、鼻であしらわれた覚えがある。その時に有名人と無名な人間との差が、骨身にしみてわかった。以後、私は有名な評論家には近寄らないように気を付けるようになった。不愉快な思いをしたくないからである。彼らは、自分の手持ちのカードだけで生きていけるわけだから、私が何か賛辞のようなものを彼に奉ったとして、それはたいしたことではないのだ。これは現実の人間関係における非対称性の例である。

 私の家に届く本について、私はその多くを取り上げられない。それは、ネットというメディアに乗っかってふんぞりかえっているからではない。私の時間は限られているし、私はけっこう気まぐれである。思い上がっていると思われるのが、とてもつらい。ただし、作者が目の前にいれば、何かを言うことは出来る。でも、以前まともに彼の作品を批評しようとしたら、ビールのグラスでなぐられそうになったことがある。ことほどさように、ものを言うことは、むずかしい。

追記。とは言いながら、褒め殺しのようなものは書かないつもりだ。(2019.1.2)



 

北方謙三『冬こそ獣は走る』

2018年09月30日 | 現代小説
 台風が近づいている。気圧の変化のせいか、人生不如意の感覚が強くなってしまって、久しぶりに北方謙三の小説を引っ張り出した。作者はしばしば、破滅的な傾向のある登場人物の、おさえきれない衝動のようなものを描いてきた。その淵源は、あの学園紛争期に身体の中に飼ってしまったものにある。初期の小説には、エッセイにもそういうようなことを書いていたが、確かにそういう気分の投影があった。それを自慰でなく書き続けるのには、理由が要った。「暴力」が徹底的に締め出されようとしている今の日本社会では、北方の描いてきたことのほとんどは、まじめに受け取られなくなっているのかもしれない。殴り合いの場面を書くことを通して、「暴力」の意味を考え、そこに倫理のようなものを見出だそうとしているところがあった。それは主人公が勝手に作り出す「きまり」のようなものなのだが、そういう「きまり」や「くせ」のようなものがないと、「暴力」には意味がないのだ。それは、やくざものに「義理人情」が必要なのと同じで、北方の現代もののハードボイルドは、そういうセオリーを踏まえているのだということに、いま気がついた。

 話は変わるが、私の父方は、新潟の蒲原の農民で、父は右手が長かった。背広を着た写真を見ると、ワイシャツの袖が片方だけ白く袖口から出ている。それは、中学生の頃から夜学で働きながら成長してきたせいで長いのだろうと私は思っていたが、先日自分の娘が、腕立て伏せをしながら「なんか右手が長いんだよねえ。やりにくい。」と嘆いているのを聞いて、はっとしたのだった。先祖代々、何百年も労働で鍬や鎌を使って仕事をしてきたために、それで腕が長いのではないだろうか。

先週は、三門博の浪曲「沓掛時次郎」のCDがダイソーで買ってあったのを聞いた。常民と流れ者。「暴力」は、人間を常民の生活の圏域から空中に少しだけ浮き上がらせる。だから、たいてい「暴力」は流れ者の専有するものだった。なぜ浮いてしまうのか、そこについた浮力をなだめるには、何が必要なのか。または、なだめる必要があるのか。かつて貧しい庶民の生活は、しばしば報われない悲しいものなのだった。それを切々と嘆き、うたいあげていたのが浪曲というものである。義理のある女のお産の支度金を用意するために、十両で命を張る主人公の純情と真剣さに聞き手は涙をしぼった。

自分が生きている動機が見つからない者に「暴力」やスリルは救いになる、ということも北方は描いていた。そこでは、生きる理由を再発見することが課題となる。それが自由や自己解放と似ている、ということが「暴力」の落とし穴で、「暴力」は大義や、自己倫理としての「きまり」や「くせ」がないと空しいものなのである。そうして、その「大義」がたいてい誰かから与えられたもので、「自分」のものではないというところに、近代のたいていの人間の不幸があった。北方の小説では、それはあくまでも主人公が自己倫理として持つものに依拠しているために、状況の変化の中では滑稽なものに転化してしまいそうなところがある。北方の場合は、そこから来る破綻を主人公の過剰な身体性や肉体性の部分でカバーするというところがあった。営々と労働の日々を重ねている常民に対して、担保として自己の命と肉体を持って来るというところが、義理人情のために体を張る博徒の美学の伝統につながっている。アメリカのつまらない映画は、たいてい己の欲望だけを犯罪なり暴力なりの唯一の動機にしているから、つまらないのである。行動しているかぎり、倫理の再建は常に途上である。また、途中で挫折してしまってもかまわない。死んだとしても、少なくとも醜くはない。


谷沢永一『標識のある迷路 〈現代日本文学史の側面〉』についてのメモ

2018年09月24日 | 和歌
 土屋文明と井上通泰について触れた文章があるので買っておいた本だが、日本近代の学問思想と文学に興味のある者には、俯瞰的な視野を提供してくれる展望台のような書物である。

文明の『万葉集私註』は、たしかに「語学上の欠点が確かに目立つ」が、「『私註』ほど萬葉集全体が読めている注釈書はなかろう」と評する。谷沢は学問の成果を「批評」してこう言っているのである。ここから文明『私註』の読み方を学べるではないか。

井上通泰についても、わずか一ページほどの文章のなかで『万葉集新考』(刊行者正宗敦夫)の著者の風貌をみごとにスケッチしている。

 しかし、「慶応二年生まれの井上通泰には、開明期啓蒙史学に連なる主観的には国士風選良意識の啓蒙啓発至上主義が底流しており、古典を我が身から突き放しつつひとつの資料と見做して冷凍し料理する態度が見られるようである。」とするが、桂園の祖述者としての井上についての言及はなく、「万葉」学についてはそうかもしれないが、このくだり、景樹関係の文献を多少かじっている目からすると、井上通泰の桂園関係の仕事も含めた全体像をとらえたものとするには、やや不足がある。

佐藤優 斎藤哲也『試験に出る哲学「センター試験」で西洋思想に入門する』

2018年09月23日 | 大学入試改革
 「週刊現代」十月六日号の佐藤優の連載「名著、再び」で、斎藤哲也著『試験に出る哲学「センター試験」で西洋思想に入門する』が取り上げられている文章に感心した。紹介の文章を見る限り、高校・大学の教養課程の教員は必読の書物であるようだ。佐藤優氏の同志社大学神学部の講義では、『もう一度読む山川倫理』をテキストにしているそうで、それに今度のこの本を追加したいと書いておられた。こういう多ジャンルを渉る知見が、いまの日本ではいちばん必要とされている。

 私は佐藤氏にひとつお願いがある。このブログを読んでいただけるかどうかわからないが、今度文科省が出して来た高校の国語科の科目再編のあり方について、ぜひ精査のうえコメントをお願いしたい。日本の将来にかかわる問題である。

 ※ と、こう書いたのだが、最近2019年11月時点で、佐藤氏の発言を見ていると、私の期待からは大きく外れて、かなり文科省の路線を側面から擁護する方向に傾いているらしく思われた。私としては、2019年12月20日以降の大学入試共通テストをめぐる一連の繰り延べ騒ぎを見て氏には見解を変えてもらいたいと思っている。11月時点では、よく調べもしないで適当なコメントを流すのはやめてもらいたいと思っていた。少しがっかりしたというところである。

トップが更迭されようが何しようが、文科省の権力は絶大である。

その指示に従っている教育現場の人間の一人として、次の学習指導要領改訂に伴う教育課程再編の内容がわかりにくくて現場は困惑し、かつ混乱している。高校一年生必修の科目は、ひとまずおくとして。問題なのは、高校二・三年生が対象となる「論理国語」と「文学国語」の区分がきわめて恣意的で、しかも硬直的なことである。説明会の報告を伝え聞いても、イメージが浮かんでこないのだ。


文科省の担当者の説明会での発言によると、「エビデンスに基づく文章」を「論理国語」ではとりあげなさい、それ以外のものは相応の理由説明がないと認められません、というもののようである。

 知人の元保険会社の会社員だったという人に聞いてみたら、それは若い頃に社員研修で徹底的に叩き込まれた事だから、そういう会社の研修で教えるようなことを学校で高校生に教えろということなのだろう、と言っていた。 (※ この節は9月26日の追記。)

 つづめて言うと、従来なかった教科書を今度の文科省の「論理国語」ではもとめているようなのである。しかも、入試問題の作成のレベルも含めて、取り扱う文章の内容の全面的な改変を迫るものであることは確かだ。そのために何をしなければならないのかは、自分で考えろ、というのが当局の指示である。そのための時間は限られている。この要求にただちに対応できる出版社は、たぶんない。

これでは、まるで江戸時代だ。官僚の口頭による指示が、事実上の法律となっている。これが教科書検定の現場の実態である。

岡井隆『鉄の蜜蜂』

2018年09月22日 | 現代短歌
 水の中にぽとん、ぽとんと大きな石や小さな石を放り込んでいって、そのつど拡がってゆく波紋を見つめているような、そんなふうに心の内側に起きて来る反応を確かめながら読むのがふさわしい作品集だ。顕(た)ち上がって来るイメージの廻(めぐ)りには、沈黙と、明暗の度合を変化させる暗がりがあって、作者はずっとそれを意識している。その暗がりと対話している。そこが、異様にスリリングである。生きることは同時に死ぬことだと喝破した中世の文学者のように、<死>に触れ続ける経験のなかに生の喜びが浮かび上がる瞬間を捉える手腕が、言いようもなくすばらしい。

 あらためて言うまでもなく、人は孤独な存在だ。これまで作者は、己の孤心を見つめながら、常に他者に向かって短歌が詩としてはたらきかけるための工夫を凝らして来た。一閃する詩の輝きに賭ける志向・試行の強さにおいて、今度の歌集でも作者は退いていない。と同時に、圧倒的な強さで襲って来る虚無感や徒労感、生の空しさの感覚に浸されながら、それを修辞の技で形象化してみせるほかはない位置(クローズ・トゥー・ザ・エッジ)に立ち抜く受容の姿勢が、黒雲に覆われた空の下に立つ生命の木のような力を一方で感じさせる。

感情の最後の小屋が燃えてるつて(大きな声で言つたか 君は)

傾いていくつてとてもいいことだ小川もやがて緋の激流へ

眼前に肌くらみゆく銀杏居て(可笑しいよなあ)吾も暗みゆく

 ※「吾」に「あ」と振り仮名。

 『神の仕事場』以後、見慣れたとは言いながら、この口語と丸括弧の使い方の技法の切れ味の良さは、やはり尋常ではない。

 悲歌である。読んでいると、あとからあとからこちらの感情が動きだしてやまない。詩を読む経験の一回性が、生き生きと血の通った魂の経験としてもたらされる。

掲出歌の一首目は、自分の中にいる見えない他者との対話。三首目は、自問自答。内言を括弧で示し、対話的であると同時に異化効果もはたらかせている。丸括弧を用いたポリフォニーの効果は、作品の意味を一義的に規定しない。そういう生の切片に触れるよろこびをもたらしてくれる言葉が、読み手の中で反響する。それでよい。

佐伯裕子『感傷生活』

2018年09月16日 | 現代短歌
 二〇一一年から二〇一七年半ばまでの歌を集めたという。ざっと数えてみると、二九五首前後あった。これは三百首に満たない。作者は、特に寡作というわけではないし、雑誌に依頼されている作品もあるはずだから、厳選したのだろう。おそらく同想のものや、同じ素材の歌を大量に落としているにちがいない。それだけではなく、言いおおせて何かある、というような思いが強いのかもしれない。表現に向かう時の意志や意欲の持ちようが、そういう諦念に似た感覚をにじませたものになって来ている。

「あとがき」に、「いつのまにか、眼鏡のレンズに薄くて細い傷がついている。短歌を作るとき、私が掛けている眼鏡である。ほの暗いところでは気がつかないが、明るい碧空のもとに出ると、視界に小さな傷が浮きでてくる。ただ時の過ぎていくだけで、知らないうちに付いてしまう細い細い傷。このたび読み返してみた私の歌は、そのようなものであったのかもしれない。」とある。印象的な散文である。

樹のおおう空き家の窓にふと透けて椅子というものの切なき形

積乱雲の空より垂れてくる日差しすべてのものの老いを速くす

鈍くなる五感を言えばあるだろうまだ心がと諭されながら

 一首目の「椅子というもの」の四句目で早口になってから「切なき形」の「切ない」という語を導いてくる語の斡旋のしかたや、二首目の「積乱雲の空より垂れてくる日差し」という初句の重い歌い出しが、「すべてのものの老いを速くす」という「速さ」を言った結句に結びついてゆく語の斡旋など、どれも作者の感情の深度に根差しているものとして読むことができる。

春の馬おとなしければ馬場に降る桜の音を聞くばかりなり

唐突にドラックストアで干し草の香りをさがす感傷生活

 一首目のようなごく素直な印象の抒情歌や、二首目のタイトルとなった歌も、表立っては言わない作者の苦悩や屈折、悲しみが沈められていることが背後に感じられるのである。同じ一連から引く。

夜ごとに遊園地にわく錆などの分けの分からぬ悲をやり過ごす

悲には悲が嘘には嘘が救いなり六十年経てようやく分かる

 誰しも、諸々の思いを打ち伏せ、押しやりながら生きているものだ。私も六十年経てこういう歌のどこがよいのかということが、ようやく語れるようになった気がする。共感の共同体である短歌の世界というものに支えられてこういう歌がある。

戦争に溺れるこころ平和なる日々に溺れるこころと寒し

ネット社会に私は棲んでいないから君を凹ます空気を知らず

 敏感なこころと鈍感なこころが絡まり合いながら、この世というものは成り立っている。歌は、その敏感なこころに寄り添うものでありたい。

せつせつと取り戻したき母ふたり春浅き風に吹かれておれば

数知れぬオシロイバナのそよぐとき気味悪いほど見えわたる眼よ

ひとの恋それとはなしに見ているに列車ごといきなり地上に出でぬ

「このままじゃ死ねない」と若き日は思いその「このまま」が今は分からぬ

 佐伯の口から、歌で行き詰ったり、わからなくなったりした時は土屋文明を読む、という趣旨の言葉を聞いたことがある。おしまいに引いた歌は、直截で、思い切ったところがある。これは佐伯の消化してきた土屋文明の血統が感じられる歌とも言えようか。この世のあたらしい出来事はみな若い人のものであるように感じられる年齢に作者もなったということを、鋭い自己凝視をもって言い留めている。

皮膚に薄く包まれるゆえ出づるときたぶん心は匂うのだろう

すれ違う人に二度とは会えぬ街、東京に生きて人とはぐれぬ

 今度の歌集は、やや抽象的な祖父の記憶とはちがって、現実に肉体としての家族の多くを失った作者が、心の痛みのなかでかろうじてここまでは言い得たか、というような自認のもとに編まれた歌集であるような気がする。喪失ということは、これまで常に佐伯裕子の作品のライトモチーフであり続けた。

「一期は夢」と思い切るにはあまりにも懐かしく立つ太き欅は

さわさわとものいう欅うなだれる親子のうえに光こぼしぬ

 大事なもの、大切な物について語っているうちは、人は人であり続けることができる。佐伯裕子の歌は、それを読者に指し示すことが出来る力をもっている。

山口誓子『遠星』

2018年09月13日 | 俳句
生きているのに毎日が忌日であるような、そんな方がおられる。それなのに、不思議とその毎日を明るくすごしている。それはなぜかというと、短詩型にかかわっているからである。あるいは、文学を読み続けているからである。これが文学、短詩型の効用というものである。これは芸能も同じだ。文学や芸能には拡散作用というものがあるので、そうしたいろいろな気分が伝播し、共感の場に抱きとられやすい。

何かを日々悼む気分で文字を読む(詠む)ような人に親和性の高い俳句というのは、あるだろうと思う。たとえば、山口誓子の『遠星』はどうか。

山口誓子の句集『遠星』(昭和二十二年刊)を読んでいると、海辺で病気を療養しながら日録的に作り続けた作品が、じわじわとこちらの読みの感覚を懐柔して来て、読者も自然と作品のなかでいっしょに生き始めるようなところがある。日々をよろこび、自然の生きものにやさしいまなざしを投げかける作者は、自ずと生き、かつ生かされている。むろん山口誓子らしく核となる自己は確固としてあるのだけれども、どこかで自然の中に自己を溶解させ、「放下」している。そこに尽きせぬ俳句型式自体の持つ魅力があらわれている気がする。

とりわけ小動物、蟹や、ちちろ、ツクツクボウシ、象虫、蟻地獄など、昭和十九年から二十年にかけての日本の海辺に住めば日常的に目にしたであろう生きものたちの姿が印象的である。この頃は猫ブームだが、蟹や象虫や蟻地獄をみてなごむ文化をみんなが取り戻してほしい。こちらは一文もお金がかからないから。

神これを創り給へり蟹歩む

穀象を蟲と思はずうち目守る

直截でへんに構えたところがない即吟、日常吟の集積は、敗戦前後の苦難の日々を、自らも病臥するなかで肯定的に生きた記録ともなっている。その辺をうようよ歩いている蟹に対する作者の気持の寄り方が、何とも慕わしい。

わが見るはいつも隠るゝ蟹をのみ

江の穢れ蟹はいよいよ美しく

 ※「穢」に「よご」と振り仮名。

溝遁ぐる蟹ありわれの行く方へ

 ※「方」に「かた」と振り仮名。

集中には有名な句がいくつもあるから、これを見れば、ああ、という方はおられるであろう。引いておくと、

海に出て木枯歸るところなし

炎天の遠き帆やわがこころの帆

こういう高名な句はそれだけで鑑賞するに値するが、この句集の持つ滋味というものは、千句以上もある句の世界に身も心も浸しながら、作者と同じ目の位置で、触覚的に捉えられた万物、生きとし生けるものの生動するリズムを体感するうちに自ずから伝わってくるものなのである。少年少女の姿も野性的ではつらつとしている。

早乙女ががぼりがぼりと田を踏んで

少年の跣足ひゞきて走りをる

 ※「跣足」に「はだし」と振り仮名。

おしまいに、全体に夏の句が多いので、夏らしい句をいくつか引く。

帆を以て歸るを夏のゆふべとす

くらがりの手足を照らすいなびかり

 ※ 9月17日に至らない文章に気がつき、前文を削除した。

石川美南『架空線』

2018年09月04日 | 現代短歌
 尾田美樹の装画を使った装本がいい感じで、ページをめくりやすい。後記と目次をみて、「わたしの増殖」を真っ先に読む。これは柴田元幸訳のアラスター・グレイ作「イアン・ニコルの増殖」をもとにして作られた連作だという。引いてみる。

妬ましき心隠して書き送る〈前略、へそのある方のわたし〉

へそのないわたしは冷えと寂しさに弱くて、鳴らす歩道の落ち葉

 この二首は、この連作の三首めと四首めに位置するものだが、まさに石川美南がこれまで追求してきた世界を象徴するような作品ではないかと思う。つまり、「へそのある私」と「へそのないわたし」が分裂してしまって、ふたりは摩訶不思議なやりとりをするところに放り出される。

  イアンはしばし考え込んだ。
  「それって普通のことじゃないですよね?」

それつて案外普通のことよ わたしたちの昨夜に同じ記憶が灯る

めりめりとあなたははがれ、刺すような胸の痛みも剝がれ落ちたり

 ※「剝がれ」は「剥がれ」の正字の方を用いる。

〈他者〉といふやさしい響き 鉄塔の下まで肩を並べて歩く

これは二十首ある連作のうちの十一首目から十三首目まで。ここには、関係性というもののなかにしか存在しない〈他者〉と〈わたし〉についての、石川美南独特のウイットをこめたコメントが、いきいきと楽しげに展開されている。自分が二人いて、その各々が別れあって種々の対話をする場というのは、風通しもいいし、理想的な〈自己空間〉(※私の造語)なのであって、何か常にそういった仕掛けを求めて試行し続けている作者、というイメージが石川美南にはある。「〈他者〉といふやさしい響き 鉄塔の下まで肩を並べて歩く」、こういう自分についての距離の取り方ができたら楽だろうな、という夢を作者は語っているのであって、そこは軽妙というか、ノンシャランなので、ここに重くれた「私性」みたいなものを持って来る必要はない。だから、「めりめりとあなたははがれ、刺すような胸の痛みも剝がれ落ちたり」というのが、精神科の医者もいらないし、けんかもしなくてすむし、耐えがたいとなりのあなたと訂正不可能な私の今も、何とかここで「めりめり」と「はがれ」てしまえばいい。晴れた秋空のように爽やか。

 ということで、はじめから読みだして、読みながらいたくご機嫌になって、しかもだんだんハイになってきたところで駅に着いたので一昨日は読むのをやめた。何首か引いてみよう。

〈とぶ〉よりも〈降りる〉が大事 踵からこの世へ降りてくるスケーター

呼ばれたらすぐ振り返るけど 本棚に擬態してゐる書店員たち

音もなく悲しみ積んでくる象に誰も背中を向けてはならぬ

なだらかな肩にめりこむ蔦の跡 話せば長いけれども話す

 いろいろな種類の歌があって、それぞれに楽しめる。