さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

寸感

2023年03月12日 | その他
 気に入った雑草の種をポケットに取り込んで、さてどこに蒔いてやろうかと思いながら、なかなかふさわしい場所が見つからずに、ずっとそのままになっている。
 だいたい舗道の脇も、電柱の下も、このごろはしっかりと舗装されていて、地面がむき出しになっている所など、まるでありやしない。

 要するに、これが息苦しい世の中というものなのだ。マンションの前の狭い坪庭の雑草を、徹底的に抉り出しているおじいさんや、おばあさんの姿を、四月も近づいて暖かくなったせいか、このごろはよく見かける。そんなに雑草はいらないものですか。

 妻が、玄関の入口にトレイを置いて、蛇苺を栽培している。実がかわいいから。でも去年は、せっかく実がなったのに、小鳥が来て食べてしまった。なんて酔狂。

 自分も雑草みたいなものだと、思ったことはありませんか。せっかく芽を伸ばしたのに、ばりばり根をひきむしられて、痛い。いたいなあ。

 鬱陶しい。邪魔だ。目障りだ。きれいじゃない。本当にそう思いますか。

 この日本人の潔癖症。湿潤多湿の気候を受け入れないで、欧米ふうの見通しを、都市の舗道に実現したいと願った、近代以来の病気だよ。雑草を排除しようとするのは。

 ああ、アンコールワットの遺跡のように、東京の道路という道路の上に、植物の根が這い廻り、高層ビルに蔦が茂り、路面の罅から雑草どもが繁茂する景色を、近い将来われわれは目にすることになるだろう。などと、彼は別に予言したりはしないが、銀座や品川、渋谷や新宿を歩きながら、そんな景色を思い描いて楽しんでいるという人の話を聞いて、いささか共感するところ無きにしもあらず。

 

桜玉吉の漫画について

2023年03月04日 | 漫画
 どうも最近まずいなと思うことがあって、それは、好きな事にかまけていると、自分一人でいても、だいたいそのまま完結してしまえるということである。そこには、他者との対話というものがない。

 人間は「言葉」を使っている限り、他者との関係性から出られない存在である。徹頭徹尾「間主観的」な存在である。けれども、独りの安楽さに慣れてしまうと、そういう一般的な在り様を越えて、一人に埋没してしまう自分という者がいる。誰にも何も言われないぐらい楽な事はない。

 だから、桜玉吉の『日々我人間』みたいな漫画が、読んでいると迫って来るのである。あれは頂門の一針、というような、禅機のあるところを漫画で実現しているように思う。端的に言うと、人が「老化」のなかでじたばたもがきながら生きることの意味を突き付けてくるところがあるのである。

 思い出したので書いてみると、つげ義春の漫画の良さは、孤立し、孤独であることのくだらなさ、ばからしさ、あほらしさを徹底的に描き出しつつ、同時に孤独であることの、そのまんま自由であることのすばらしさを語ってやまないところにあった。

 翻って、桜玉吉の漫画には、昭和のつげ義春のように「無為の人(比喩的に言うと、聖人・妙好人)」に対する願望を語ることができずに、最後まで解脱できないまま、とことん俗悪であり続けるしかない自身の空しさ、それから悲哀感をきちんと表現しているところがある。自己存在の唯一の拠り所は、自分の皮膚感覚しか残されていない、という所まで追い詰められている現代人の姿を、期せずして表現してしまっている。だから、そういう栖(すみか)におけるムカデの侵入が意味を持って来るのである。

 桜玉吉の漫画の背景には、昭和のつげ義春の時代よりも加速度がついた、令和の我々の時代における公的空間の縮小と自由度のせばまりというものがある。デジタル記憶の永遠性が、インターネットの拡大のなかで、かえって一つの失言もできない社会を作り上げてしまっているということを、今の若い人たちぐらい肌身に感じている人たちはいないと思う。そういう苦難を誰もが自覚的に批評のなかで語らない(語れない)というところに、今日のサブカルチャーの場面における批評の貧困というものがあると私は思うが(ちゃんとやっている人がいらしたら失礼いたします)、それだから「ひろゆき」みたいなものがのさばることになっているのである。私のこういう違和感をもう少し立体的に書く人がたくさん出て来てほしいと、心から思う。