goo blog サービス終了のお知らせ 

さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

寸感と諸書雑記

2025年03月06日 | 寸感
日当たりのいい方の白梅が先に咲いて散りかけるころに、午前中は屋根の蔭になる紅梅があとから咲いて、遠くからみると紅白の取り合わせがきれいだ。もともと鉢植えの盆栽だった紅白梅を私の親が地面に生けてしまった木である。今日はそれをちょっとスケッチしてみた。あとは買い物に出かけて戻ってくると、もう夕方に近い。一日何をやっていたのか。
 いまは、最近手に入れた某氏の四十年以上前の版画の原画を額に入れて眺めている。誰のものかは、値があがってしまうと困るから書かないが、そういうものが二束三文の世の中になった。油彩画も同様である。壮絶なまでの値崩れは、だいぶ前から始まった文学全集の運命と似ている。そうすると、私のやっていることは、世の中の趨勢と完全に逆を行っている。すなわち、もうからない。しかし、まあ、市場価値はなくとも、このわたくしの充足される感じは、確かなのだから、そういうことを書いてみたいと思うのだけれど、自慢話みたいな文章は、いやだな。

 このところブログ読者が増えて、ここ二回ほど一週間に千アクセスをこえた。これがだいたい古い文章を読みに行っている人たちで、私の更新が遅いので仕方なしにそっちをみてみたら、けっこうおもしろいではないか、というような感じで次々と前をたどって読んでくださっている形跡がある。それはありがたいことだけれども、何もあたらしい事を出さないのは、期待にこたえないことであるだろうし、それで以下に何か書こうと思う。
 以下は、諸書雑記とする。

 いま読んでいるのは、岩井克人の『資本主義の中で生きる』というエッセイ集で、新聞の書評で絶賛していたから買ってみたのだが、よく練られた文章が心地よく、造本も快適で、単純にページをめくっていてうれしい。アメリカ式の企業ガバナンスの誤りを正確に指摘して、株主主権論の誤り、経営者代理人論の誤り、利潤最大化論の誤りを指摘している文章が痛快である。専門家でない者にも読めばわかる。こういう余白がいい感じがする本というのは、なかなかないのである。  ※この項加筆しました。

 あと手に取って楽しい本としては、川野里子対話集『短歌って何?と訊いてみた』がある。短歌だけではなく、今後の日本文学について考えたり、自分で何かを作ったりしようとする人が参照するに値する知見が随所に散りばめられている。著者の歌集『ウォーター・リリー』は何かの賞をとったはずだが、さすがにそういう歌集を構想する人らしいバックボーンというものが、本書にはある。などと、書きながらまだ全部読んでいないのだが、私は種々の事柄に興味を持っているので、忙しいのである。

 シベリアに抑留された佐藤忠良の『つぶれた帽子』にも、宮崎静夫の『絵を描く俘虜』にも、絵をかくことができたために、ラーゲリでの激しい労働を猶予されて生還できたことが書いてある。今日はNHKの「映像の世紀」をたまたま見ていたので、これを書くのだが、ドイツ人よりも日本人の方が圧倒的に捕虜の生還の割合は高い。その理由はなんだろうか。

 古書で伊集院静の『美の旅人』という本を入手して、先週半分ぐらい斜め読みした。ゴヤにはじまってダリやミロなど、スペインの画家について書かれている。私は著者が晩年に週刊誌に書いていた文章は買わないが、この本を書いた頃の著者は抜身の刃物を懐にして生きている感じがあり、思う事をやさしい言葉で書いた文言の端々に奇妙な激情が滲んでいる気がする。著者は独裁者フランコに媚を売った俗物的なダリの渡世を糾弾しない。ガラという運命の女性に人生を作られ、そういう運命の女に左右される存在として一芸術家を見ている。つまり夏目雅子と劇的に結婚し、劇的に死別した自分自身の経験の一回性を、人生における女との出会いの一回性の持つ意味として痛切に経験した立場から、その思いを底にしずめながら書くということを、している。この人が人気があったのは、色川武大にならってばくち打ちのモラルということを書いたからだと思う。身辺に危険な匂いを漂わせるから、それはなかなかダンディーで、女にもてる一方の仕方である。ただし、同じことを凡人がやると身の破滅になる。

 

 




 

柄谷行人の『日本精神分析』&「群像」1月号全卓樹「わたしたちの世界の数理」連載第5回「多数決の数理(3)」

2025年01月04日 | 寸感
 今日は昼過ぎからパソコンの周囲に積んであった本を片付けた。掘り出した本のなかで時宜にかなう内容と思われたものが、柄谷行人の『日本精神分析』の第三章にあるナポレオン三世の政権獲得と民主主義についての記述である。昨今の国内外の情勢と照らし合わせて読むことができるような先取性と、菊池寛と小林秀雄についての簡潔な記述を通して昭和の思想を概観する見通しの良さに舌を巻いた。
この小論の眼目は、将来の民主主義の在り方として、それが独裁政治に傾斜することを防ぐてだてとして、くじ引きの原理を取り入れることの有効性を論議している点にある。

 これと併せて「群像」1月号の全卓樹による「わたしたちの世界の数理」連載第5回「多数決の数理(3)」にみえる、
「多数決はやり方次第で、単純な多数意見の反映にとどまらず、少数派の意見の確率的な反映や、知識と確信を持った人々の意見の強い反映を行うことができる。それは諸刃の剣ながら、単純多数決の欠陥を補う手段を自らのうちに内包していたのである。」
というような論考も参照するといいだろう。

 いまかかっているのは、ロッド・スチュアートの「Tonight`s the Night」。そのあとにジェフ・ベックの「The Pump」。その前はトム・ペティのアルバム「Full Moon Fever」だった。

 このところエアコンのせいもあって乾燥がひどくて、加湿器をつけていないと喉の奥がひりひりする。家の中でもマスクをしていると、いいようだ。


2025年を前に

2024年12月31日 | 寸感
 尾上柴舟『紀貫之』(昭和十三年十月刊)より。

目にも見て声も絶えせぬほどなれど忍ぶるにこそ遥けかりけれ  紀貫之

その人を目にも見、声も絶えせず聞く程であるのに、その人を恋ふる心が起ると、遠方に居る人のやうな気がする。第一二三句に「近き」を云ひ、第四五句に「遠き」を云ふ。この「近」「遠」の対照は端立つて居ないのみでなく、全体の意義に無理がなく、さもあるべく考へられるので、興趣の深いものがある。秀詠とすべきであらう。」 (尾上柴舟)

その人を 目にも見る
声もきく
けれども その人はいない
いまここに 
すぐそこに 
その人はいるのに

どうしたことだろう
この遠さはなんだろう
月の光が遍満する空のはたてに
わたしの断念だけが
いま かがやく辺縁を拡げていく

みえるけれどもみえないあなた
きこえるけれどもきこえないあなたの声は
いま この世界にあふれているのに
どうしたことだろう
この遠さはなんだろう

とおくのあなたよ
あなたたちよ
わたしは私の涙を
あなたたちにそそぐ
熱と炎によって瞬時に蒸発した魂のために
わたしたちは祈らなければならないはずなのに
笑いさざめいている
わたしたちのいまがあって
どうしたことだろう
この遠さはなんだろう



二〇二四年 年頭所感

2024年01月01日 | 寸感

昨年はブログの文章を書くことに魅力を感じられなくなって、ほとんど更新しなかった。その理由を考えてみると、一つには、どうしても不特定多数を意識しながら気を使った文章にしなくてはならないという意識がはたらいてしまったということがある。一冊の本をとりあげる場合に、書評のようなものを書かなくてはならないという意識が強くなってしまって、ますます書けなくなってしまったということもあった。あとは、そもそも家に帰ってパソコンの前に坐る時間が少なかった。畳の上に寝そべって、クッションを背中に本を読むうちに寝てしまうことが多かった。夏から秋にかけての異常気象のせいもあったけれども、まあそれは半分言い訳だ。多少は加齢と仕事の疲労のせいもあるかもしれない。

 今年は何か小さい冊子のようなものを作成して、文学フリマなどで直接売ろうと思う。ネットにはその一部を出すことにしたい。本当にそれができるかどうかは、わからないが、文字だけでなく、絵や写真などを入れて自由に楽しくやりたいという思いが強くなった。ネットの不自由感が憂鬱である。

 以下は、年頭所感にかえて、一句引く。

  舌いちまいを大切に群衆のひとり     林田紀音夫  昭和三十三年作

         『昭和俳句作品年表(戦後篇)』現代俳句協会編(東京堂出版)より

 座五の「群衆のひとり」の「群衆」の読みは、六〇年安保闘争の直前という時代背景を考えると、「ぐんしゅう」なのかもしれないが、この一句だけ取り出して私の好みで読むなら、仏典風に「ぐんじゅ」がいいように思う。

現在の手ごわくファクトが揺れ動くインターネットの時代の到来など夢にも想像できなかった時代に作られた一句が、こうして取り出してみると、異なったコンテクストのもとで、たしかな手ごたえをもって受け止められるのである。己一個の「舌」だけは、確かな、信用の出来るものでありたいという願いと、ただの群衆の一人でしかないちっぽけな存在である自分自身への矜恃とが同時にここには表出されていると感じる。現代とちがって、この「群衆」は歴史を動かす力を持った信頼できる存在でもあった。 

この頽落した時代に、晴朗な精神をもって生きてゆきたいものである。

本日の寸感

2022年05月08日 | 寸感
 私は基本的に誰がどんな人と結婚しようと、それは当人同士が決めた事なのだから、横から他人がどうこう言うのは違う、と考えている。だから、〇〇さんの結婚についての「報道」についても、たとえば結婚相手の親が金銭トラブルを抱えていたとしても、それが理由で結婚をやめるべきだ、とか、相手としてふさわしくない、というような意見は、すべて、他人の余計なおせっかいだと考えている。何と言ったらいいか、実にいやしい、品性に欠けた攻撃的な報道を続けている雑誌ジャーナリズムに対して、いいかげんにやめにしないか、と思うものだ。

     落首。

  嫉妬する日本のゾウリ無知ムシ蒙昧 その順応力が私は憎い

 ※本作はゾウリムシに対して失礼だという意見もあることを申し添えておきます。