さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

桜玉吉の漫画について

2023年03月04日 | 漫画
 どうも最近まずいなと思うことがあって、それは、好きな事にかまけていると、自分一人でいても、だいたいそのまま完結してしまえるということである。そこには、他者との対話というものがない。

 人間は「言葉」を使っている限り、他者との関係性から出られない存在である。徹頭徹尾「間主観的」な存在である。けれども、独りの安楽さに慣れてしまうと、そういう一般的な在り様を越えて、一人に埋没してしまう自分という者がいる。誰にも何も言われないぐらい楽な事はない。

 だから、桜玉吉の『日々我人間』みたいな漫画が、読んでいると迫って来るのである。あれは頂門の一針、というような、禅機のあるところを漫画で実現しているように思う。端的に言うと、人が「老化」のなかでじたばたもがきながら生きることの意味を突き付けてくるところがあるのである。

 思い出したので書いてみると、つげ義春の漫画の良さは、孤立し、孤独であることのくだらなさ、ばからしさ、あほらしさを徹底的に描き出しつつ、同時に孤独であることの、そのまんま自由であることのすばらしさを語ってやまないところにあった。

 翻って、桜玉吉の漫画には、昭和のつげ義春のように「無為の人(比喩的に言うと、聖人・妙好人)」に対する願望を語ることができずに、最後まで解脱できないまま、とことん俗悪であり続けるしかない自身の空しさ、それから悲哀感をきちんと表現しているところがある。自己存在の唯一の拠り所は、自分の皮膚感覚しか残されていない、という所まで追い詰められている現代人の姿を、期せずして表現してしまっている。だから、そういう栖(すみか)におけるムカデの侵入が意味を持って来るのである。

 桜玉吉の漫画の背景には、昭和のつげ義春の時代よりも加速度がついた、令和の我々の時代における公的空間の縮小と自由度のせばまりというものがある。デジタル記憶の永遠性が、インターネットの拡大のなかで、かえって一つの失言もできない社会を作り上げてしまっているということを、今の若い人たちぐらい肌身に感じている人たちはいないと思う。そういう苦難を誰もが自覚的に批評のなかで語らない(語れない)というところに、今日のサブカルチャーの場面における批評の貧困というものがあると私は思うが(ちゃんとやっている人がいらしたら失礼いたします)、それだから「ひろゆき」みたいなものがのさばることになっているのである。私のこういう違和感をもう少し立体的に書く人がたくさん出て来てほしいと、心から思う。