さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

「ゲノム編集食品夏にも 厚労省部会報告 多くは審査不要」「毎日」3月19日6面について ※追記9月22日、12月25日

2019年03月21日 | 暮らし
最近思う事は、国会でいま何が審議されているかというようなことについて、新聞をいくら読んでもほとんど書いていないということだ。「水道法」(水道事業に海外勢も含めた民間事業者が参入することを可能とした)にしろ、「漁業法」(地元漁協の優先的な漁場についての権限をうばった)の改正にしろ、編集デスクがトピックとして取り上げることに決めたことだけが、わずかに載っていたにすぎない。

 昨年の「種子法」(コメなどの主要産品の種子の研究管理を公的機関が保障する義務をなくして自由化した)の撤廃については、私はその時期にあまりニュースに注意していなかったので事後に知った。これらの規制撤廃は、アメリカをはじめとする外国の政府・資本の要求、ТPP条約の締結などと深く関連しているだろう。

 これに加えて、認可権を持つ官庁がどういう判断を下しているのかについても、いちいち新聞やテレビで丁寧に報道がなされるわけではない。3月19日の新聞を見ると、遺伝子組み換え技術によって登場する新たな産品については、監督する官庁が審査してそれが通ればすぐにも流通可能なのだそうだ。これは医薬品よりもずっと緩いと言わざるを得ない。

 近年のゲノム編集技術の飛躍的な発展によって、簡単に遺伝子編集が可能になった。しかし、遺伝子の操作の過程で発生するリスクが十分に検証されているわけではない。

 遺伝子を切り貼りする過程で、がんの発生等につながる有害なタンパク質が生成されることになっても、それはすぐにはわからない。何でも新しいことに飛びついて、すぐさまそれを産業化しようとする態度の危うさについて、われわれはもっと自覚的であるべきだ。自分の子や孫が知らないうちにガンのリスクにさらされているとしたら、安閑と座って茶飲み話ばかりしているわけにはいかない。

※ 追記。 9月20日の新聞によると、9月19日に、ゲノム編集された食品について、その表示義務がない、ということを正式に決定して発表してしまったようである。いたずらに不安をあおるつもりはないが、もしもの健康被害の可能性があるものを、一監督官庁の判断で強行してしまっていいのか。
私にはまったく理解できないし、許せないと思う。ラグビー・ワールドカップ初戦勝利のかげで、こういうことがやられている。と言うより、あえてこの日にぶつけたわけか。

※ 追記。 この問題についてのすばらしい参考図書が刊行された。それは、山田正彦著『売り渡される食の安全』(角川新書)である。これを読むと、種子法を廃止して、国家の根幹である米の種子についての農民の権利を奪い、日本の利害と日本の国民の健康を考慮しない行政当局のなりふり構わぬ海外資本への擦り寄りの姿勢が見えて来る。

松谷明彦『人口減少時代の大都市経済』2  

2018年08月13日 | 暮らし
 (承前)
「 いま一つ大都市地域の社会資本について懸念されることがある。近年、次々と展開される大規模再開発についてである。この場合、主体は民間施設であるが、近い将来、急速な縮小が予想される大都市地域の投資能力を食うという点では、公共施設となんら変わりはない。問題は、その再開発施設がこの先も大都市地域にとって有用かつ優良な社会資本として存続し得るのかという点である。つまり、その再開発施設が十分に活用され、維持管理と更新投資が的確に行われるのかという問題であるが、まずは、その再開発の背景と未来を考えてみよう。」

 この十数年のうちに、私がよく利用していた相模大野や、東海道線沿線の辻堂や戸塚が、だいたい同じような感じに再開発が完了した。商店街だった一角が消えてテナント化し、大規模店が参入している。けれども、たとえば辻堂の駅近くのビルのスーパーに入ってみると、食料品などの価格が低くおさえられている。家賃は高いはずなのだが、薄利多売でのりきるかたちなのではないかと思う。または、家賃をあまり高く設定できないのかもしれない。心配なのは相模大野である。人口に比してショッピングエリアの規模が広すぎ、商店の数も多すぎる気がする。テナントはどこも経営が苦しいのではないだろうか。だから、ずっと気になっていた。この本にはこの問題についての言及がある。

「 日本の大都市を表象するものは、何といってもその物量であろう。(略・海外の先進国の都市ではそうではない。)そうしたまさにモノに囲まれた風景を、われわれ日本人はごく当然のごとく受け止め、それこそが大都市的な豊かさと思いがちであるが、世界的には特殊日本的な風景と言うべきなのである。

(略・過度の機械化によりわずかな稼働率の低下が収益構造に重大な悪影響を及ぼすために、常にそれだけのモノを売り切らなくてはならないために、モノが溢れる。)

当然流通機構は肥大化する。近年、次々と展開される大規模再開発は、ビジネスセンターやショッピングセンターの域を超えた集客装置としての性格を持つ。人を集め、巨大な複合施設のなかで時間を過ごさせることで、通常の購入行動を超える消費を喚起しようというわけである。

(略・日本の市場は均質的、均一的な需要構造であり、極端にいうとひとつの商品にひとつのタイプの商品しか存在しない。多種類の仕様のバリエーションがあったとしてもタイプは同じである。そのために売り方が一つになる。また、顧客もひとつということになる。)

商品のタイプは一つ、売り方も一つ、顧客も一つとなれば、大量仕入れ、大量販売にうってつけである。大量に仕入れ、店頭に大量に並べれば、たいていの通行人が足を止め、手に取ってくれる。大都市に店舗が高密度に展開され、かつそれぞれの店頭に商品が溢れるのは、人口密度が高く通行人が多いということだけでなく、それらの通行人のほとんどが同じ消費パターンにあることが大いに関係している。東京とパリでは需要構造が違うということである。 」

「 様々な大規模再開発施設やそれらの高密度な店舗は、今後とも日本経済の一角として顧客を惹き付け、付加価値を生み出し続けられるのだろうか。基本的には否定的にならざるを得ない。前章で、機械化と大量生産を軸とした現在のビジネスモデルはすでにその持続可能性を完全に失っていることを指摘した。つまりそうした店舗に対する生産側からの必要性は間違いなく激減する。
そして均質的・均一的な消費構造を生み出した終身雇用・年功賃金制もまた、近い将来確実に崩壊する。(略)日本の需要構造は大きく変わらざるを得ない。 」

 近年外国人観光客の増大が報じられているが、スクウェアの乏しい日本の都市に魅力を感じない人たちは、どんどん大都市離れをしていっているのではないかと思う。それが地方の魅力の発見や、新たな観光スポットの創出につながっているのは、考えてみれば皮肉な現象である。また、中国の人たちの消費行動が歓迎されているが、それは彼らの大部分が一定程度日本人と同じ均質的な消費者だからであろう。

 引用が長くなるのでまとめて言うと、「 人口減少時代にあっては、大都市は、再開発ではなくリノベーションによる都市機能の維持向上をこそ考えるべきだろう。 」というのが本書の重要な提言である。

 お金を持っていない人が何もしないでいられる場所では、会話・おしゃべりができることも条件のひとつである。私の見聞したいくつかの公共の施設では、本やベンチが置いてあって無料で利用できるものの、そこでは静粛であることが求められている。利用する人たちは、個々に切り離されており、子供たちの歓声は聞こえず、高齢者は孤独なままである。また地域の会館などでは、サークルなりなんなりに加入しないとそこでの利便性を手に入れることはできない。市内在住という資格が要り、登録する必要がある。これらのスペースは、スクエアからは程遠いのである。

 実は貧しい大都市の社会資本、という現実に日本人は目を向ける必要がある。逆に言うと、今後地方都市で重点的に何をやっていけばいいのかということは見えるはずである。大都市と同じことをしない、大都市はモデルではない、ということがヒントになる。

 地方では郊外型のショッピングセンターが一般化しているけれども、これは自動車を利用しないといけないし、そこにお金を持たないですごせるスクエアが存在するわけではない。行政に可能なことがあるとすれば、すでに設置されてしまったショッピングセンターの脇に、無料ですごせるスペースを併設するかたちが考えられる。多くは駐車場となっている場所をその分の対価を支払ってスクエア化し、維持管理の仕方を地域のボランティアや利用者自身に担ってもらうかたちである。これはひとつの例だが、これは菜園でも果樹園でも花園でもいいのである。そこにベンチや簡易なカフェがあればいい。

 江戸川区に住んでいる私の知人のおばあさんは、駅近くのスタバだったかドトールだったかのコーヒー店に行くのが日課だと言っておられた。しかし、ほとんど誰とも会話することはないのである。また、お金を払わなればそこにはいられない。

 他人と交流し会話をすることが高齢者の健康維持に役立つ。とすれば、スクエアの維持費用など、医療費や介護費の大きさに比べたらずっと低いはずである。行政はあらゆるアイデアを駆使して、日本の都市の自由度を高め、資本に専有され尽くした公共スペースを、お金を使いたくない(使うことができない)人たちのために開放するスクエアを設置してゆく必要がある。

※ 追記。
 と、こう書いてからしばらくして、相模大野の伊勢丹の撤退が発表された。当方の危惧が的中したと言うべきか。だいたい西口の商業ビルなど作らなくても、従来の街路沿いの店が生きて機能していたのに、それをわざわざつぶしてテナントのビルを建て増した結果がこうなったのである。この打撃は大きい。 

 こうなったら、すでに建ててしまった建物の使い道を速いうちに再度練り直して、起死回生のアイデアをひねり出すほかに手立てはないように思われる。

 ひとつ考えられるのは、シニア向けの映画館である。これは地域の高齢者割引に割引料金を無料または格安のチケットなどで引き当てて、間接的な市の援助を行う。周辺には、高齢者がたむろできるスペースを設けるとともに、半官の子供の預かり施設や、子育て中のファミリー向けの設備を充実し、「都市の縁側」機能を目に見えるかたちで演出する。なお、映画館は、海老名にある映画館などをモデルにするのではなく、かつての池袋文芸座をモデルとするべきだ。安価、格安にして、大スクリーンでテレビドラマやスポーツ中継を見せるのでもいいかもしれない。サッカーチームや、野球チームとタイアップしてもいい。改築費用はかかるが、いまのままで続けていても、二十年もしないうちに駅周辺の商業施設の半分が閉鎖されているか、安易な「アウトレット」に占められているようなことになりかねない。
                                     (10.9日追記)


すべてのアートを愛する人々のためにすぐれた紙の維持存続を!

2018年02月17日 | 暮らし
同人誌「ベラン」の2号が届いた。この雑誌は、私の敬愛する歌人の角田純と、版画家で歌も作る松本秀一の二人が中心になって出しているものである。今回は、その中身ではなくて、その編集後記にあたる「ベランだより2」に気になる記事を見つけたので引いてみる。

「創刊号の表紙に使ったベラン アルシュのクリームが、とうの昔に廃番になっていてホワイトに変えざるを得なかった。
 今号で辛うじて調達できた本文の用紙もすでに廃番というか、同じ名前の紙はあるにはあるのだけれど、色味が違うし、品質も別物のような気がする。
 とかくこの世は恐ろしい。最近、とみに恐ろしい。何が起こるか分からない。            (松本秀一)」

 紙がなくなる、というのは版画の刷りをやっている人たちにとっては深刻な問題であろう。

 そう言えば、これと同じことを雑誌「BRUTUS」の1月1・15合併号の「危険な読書」特集のなかで、松岡正剛とグラフィックデザイナーの町口覚が話していた。いま日本では『広辞苑 第七版』のような厚さの本をかがれる製本所がどんどんつぶれているのだそうだ。そうして、「製本もだけど、紙も危ない」ということを町口覚が言っている。

「町口  今、製紙会社も、新しい書籍用紙をなかなか作れないんです。銘柄の絞り込みが進んでいくでしょうね。まだ写真集はいい紙があるから、海外に持っていくと「この紙はなんだ?」「ジャパニーズペーパーだよ」とか威張れるんだけど、実際はそろそろヤバイ。一方でインクは進化していて、今、台湾のインクがすごくいいんですけど。
松岡  レンブラントの時代から、版画のために日本の和紙を取り寄せたという話があるけど、その手の伝説もだんだん危なくなってくる。
町口  (略)いくら本と出会えるスペースが増えたとしても、肝心のモノが均質化したとしら本末転倒で、モノ作り屋としては危機。これからの時代、五感に訴えられない本ってまずいじゃん、って。」

 和紙の技術や、マイナーな高級紙の品質維持のために必要なものは何だろうか、ということを考えてみたい。以前にNHKの「新日本紀行」で、伝統的な和紙を作っている職人の姿を見たことがあるが、和紙にかぎらず、洋紙の世界でも、もっと注目して取り上げていかなければならないものがあるはずだ。その例が「ベラン アルシュのクリーム」だろう。

 「紙を守り育てよう」という運動を、美術家や作家や詩歌人たちが起こして取り組んでみたらどうだろう。たとえば、これからのオリンピックのポスターをどんな紙に印刷してゆくつもりなのか。全国一律というのが日本人は好きだが、私はこういうところで一工夫したらいいと思う。たとえば、和紙に印刷して濡れないようにカバーをかけた特別版のポスターがあってもいいのではないか。デジタル時代だからこそ、逆に手を抜いてはいけない局面があるのではないだろうか。さらに多様なアイデアを取り入れて、大手の独占を避けることも必要だ。

 そういう取り組みの一つひとつが、地域経済の活性化や、障害を持つ人の職場づくりなどとつながっていけたらいいと思う。

スローガンは、「五感に訴える本を!」「アートを愛する人々のためにすぐれた紙を!」というようなところだろうか。


山本容朗『新宿交遊学』

2017年03月07日 | 暮らし
 私はこの本を例によって、古書店の外気に吹き晒しの棚の中から拾い出して百円で買った。何かゴールデン街の思い出話のようなものが書かれている本かと思ったら、とんでもない。すばらしい文学研究の資料となる内容を持つ本だ。それだけではない。私は編集者やディレクター、それから各種の創作で食べていこうと思う若い人には、ぜひこの本を読んでもらいたいと思う。

特に「菊池寛の人材鑑別法」という文章は秀逸である。菊池寛だったら、大学生にリクルート・ルックで説明会に来いなんてことは決していわないだろう。
早くあれをやめないと、日本の文化の価値が世界に認められない。あれは、この頃はみんなでばかにしているが、北朝鮮の全体主義と何ら変わりがないものだ。オリンピックの時期も大学生はあの格好で街を歩き回るのだろうか。リクルート・ルックは日本文化の同化圧力の強さの象徴的なメッセージである。東京都あたりでぜひ率先してこの習慣を変えてもらいたい。

ついでに今度の東京オリンピックで外国人観光客がゴールデン街にも大量にやって来るのはまちがいない。何かダウンタウンのようなムードを持っている場所だから、大勢人が集うのはいいが、トラブルも増えるだろう。各国語の地図を置いたり、安全な協賛店を選定したり、通訳サービスを何箇所かに常駐させたりして、安全に酒が飲める街を世界にアピールすることができれば、リピーターも増えてオリンピックの後も街が活性化するのではないだろうか。
 



地域再生のために 新書斜め読み

2017年01月05日 | 暮らし
 箱根駅伝は、青山学院大学の優勝となったが、駅伝で勝った学校はその年の受験生の数が増えるのだそうだ。直前の模試の偏差値で志望校を決めたり、話題性で何となく受けてみようかと思うのは志願者の自由だが、有名でなくても、偏差値が低くても学生の教育に熱心に取り組んでいる大学はたくさんある。そういう静かに見えないところで営々と行われている努力というものを、私は日本の教育に携わる人々の良心の在りかを示すものとして、大切に思っている。

私は文学一方でやって来た人間ではあるが、昨年は多くの新書類を読んで経済・社会のことを少しばかり勉強してみた。そうして気がついたことがある。今後の日本社会をどうしていったらいいのかということについて、聞くに値する提言や、方策を提示している識者や専門家は、この国に結構たくさんいるのに、それが政策なり行政の施策なりに、うまく掬い上げられていないということだ。せっかくの知恵や創意というものを、宝の持ち腐れにしている。これは、「もったいない」。

 新しい話題を追いかけるのに急な人たちは、何年か前に出版された良書をばかにしないで、落ち着いて読み返してみるといいと私は思う。たとえば、

神野直彦『地域再生の経済学』中公新書

などはどうだろうか。第五章には、地方自治体が自己決定権を取り戻し、歳出入のフリーハンドを獲得することが必要だと書いてある。これを本当にやれれば、山積する諸問題が理想的に解決し、無理に経済成長しなくても人々の暮らしは質的に向上するだろうと私は思う。

 牧野知弘『空き家問題』祥伝社新書

には、都市の宅地の問題の基本が相続の話などもからめながらわかりやすく説明されている。類書は多いが、私はこれを先に手にしたのだった。これを読んだ後に、

 早川和夫『居住福祉』岩波新書

を読めば、政治や行政が何をしなくてはならないかが、わかる。それから、農業に関しては、

神門善久『日本農業への正しい絶望法』新潮新書

が秀逸だ。「平成検地」をして、農地とそうでない土地との見分けをしっかり行い、土地利用に関する情報公開を徹底せよ、と言っている。

 要するに、地方都市とその近郊の土地利用の在り方を抜本的に洗い直し、見直せば、日本の土地を持たない若者たちの負担は軽減され、また、将来世代によりよい生活環境を残していくことができる。少子高齢化の問題の解決や、地方の活性化につながる。

これに、私はその所論に全面的に賛成ではないが、

金子勝『資本主義の克服 「共有論」で社会を変える』集英社新書

のような本を叩き台にして、いろいろな立場から議論を重ねていけばいいのではないだろうかと思う。

あとは防災に関して出された多くの新書の中に、立ち読み程度なので書名はあげないが、町づくりについての提言を含めたいいものがたくさんある。