さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

高嶋健一『草の快楽』

2019年09月25日 | 現代短歌
 今日はたまたま手に取って、拡げて読み始めた一冊が、何となく前回の文章のモチーフを引き継いでいるように感じたから、まずは引いてみることにする。

  高層のレストランにてむかひゐる若き二人にふと滾つもの   高嶋健一

※「滾つ」に「たぎ」つ、と振り仮名。

からうじて殺意こらへてゐるわれを蔽ひて冬の瑠璃いろの天

眼帯をはづしたるのちおもむろに遅参を詫ぶる声うつくしく

短歌だから、具体的に何があったかという事柄の詳しい経緯は記されない。けれども、十分に作者のくやしい思いは伝わって来る。自分の家族が、どのような係累を選択し、それを喜ぶのか、ということに、私一個の長いこだわりなどというものは、関係がない。衝撃的な現実があらわになるような、そういう「時」は、「それ」は突然にやって来る。そのとき、人は存分に傷ついてしまうのだ。

  ラディゲ恋ひし若き日ありき夕焼の楡棒立ちに今もさやぐや

  傷つけて傷つけて得たるもの何ぞ闇に一枚の耳がかがやく

ここにおいて、作者は短歌の様式美によって救われたいと願いながら、「瑠璃いろの天」とか、「夕焼の楡」といった情景を呼び出して来るのである。こういう美しい修辞で一首をまとめることは、巧い短歌作者の陥る煉獄であるのだが、この一連では、作者は最大限そのような壁をぶち壊して思いをぶちまけているようなところがあり、そこにいささか痛みの伴った共感を覚えて、本文を記すことにした。

稲葉京子『忘れずあらむ』

2019年09月23日 | 現代短歌
 久しぶりに知友と会ってしばらく話し込んでいるうちに、人生というのはままならないものだなあ、というような話になって、何時間か道を歩きながら話しあって、それからゆくりなく別れた。貴重な時間であった。そうして、今日たまたま積み上げてあった本の中から、この一冊を引き出したのも何かの縁である。

  一本の若木に向きて問ひてをりこのやうな母でよかつたらうか  稲葉京子

  今ひとたび幼な子となり帰り来よ老いてもろでのあそべるものを

 自分の子育てのことを思うと、後悔することが多い。この二首をみて、ああ私も、と思うのだ。

  遠い日に少女でありし私は「八双の構へ」といふ語を知れる

  「ふりかぶつて面」はひつたりと律調が言葉を得たる一瞬をいふ

 作者の平易で構えないことばの斡旋のしかたが、私は若い頃は物足りなかった。けれども、それは若気の至りというものだった。次のような歌をみると、佐太郎のような外連味はないが、香りのよい薄茶を一服口にふんでいるような、清浄な味わいがあって、作者への共感がだんだん深まってくるのである。

  立ちのぼるコーヒーの湯気のかなたなる七十の父まだ生きて見ゆ

  涙散るよはひにあらず膝つきてこぼれ椿をかき寄せてをり

  たへがたき寂をはらへと父母がわれに置きてゆきしはらからならむ

  大方はさびしき夢のうすやみにはたはたと発ちてゆく鶴の影

 これも私の高齢の知人だが、話し相手もなくて、さびしいものですと葉書に書いてある一句に胸を衝かれるのだが、こちらも自分のことで手一杯、彼の人にせめて「はらから」なりと近くにあればいいのだが、みなそれなりに年をとっていると聞けば溜息をつくばかりだったりする。「大方はさびしき夢のうすやみ」の寂びたうつくしさ。

  駆けて来る小さき者を抱きとむる広さがわれの胸にまだある

  立ち直る力が全身に満ちるまで今しばし時をわれに給はれ

 おしまいに引いたのは、病んだときのものだが、なお生きようとすることの義(ただ)しさのようなものが、ここにはある。

「毎日新聞」9月15日の社説の訂正を 

2019年09月16日 | 大学入試改革
このブログの4月28日の記事に以下の文章を付記しました。

※ 追記 「毎日新聞」9月15日の社説で「論理国語」を問題にしてとりあげているが、「現代の国語」が問題になっていない。これは間違いだ。

「現代の国語」には文学を入れるなと文科省の担当官は言っている。

週に2時間しか国語の時間がとれない学校の生徒は、「現代の国語」のせいで一年生のうちは文学に触れられないことになる。


川野里子『葛原妙子』

2019年09月12日 | 現代短歌 文学 文化
 私は詩歌の本を読む時に、半眼とでも言おうか、読むような読まないような感じの状態に自分を置いておいて、ページをめくりながら目に飛び込んでくるところだけを読む、というような読み方をしばしばする。それで良ければ、それは(自分にとって)良いものの筈なので、そこに理屈は入り込まない。

 川野里子の今度の本は、まさにそういう読書に適していて、電車のなかで一日目にざっと半分を見、次の日におわりまでめくって、最後の一ページをめくり終えた次のページに白紙が現れた時に、映画館を出たあとのような感じを味わった。

 はじめからおわりまで、一気に読み飛ばしているのだけれど、一種の快楽的読書とでも言おうか、その感じをしばらく味わっていたくて、次の日に再び本を取りだし、わらわらと目を這い廻らせて、気になった歌に立ち止まり、引用されている茂吉の鶴の歌にあらためて驚倒したりしながら、硬質の鉱物のような、おしゃれでしかもフェティッシュ感満載の葛原妙子の歌にあらわれている一貫性のようなもの、美に執し、美を求め続けるこころの渇望の深さを思った。

 こんなふうに純一に美を求め続けるこころをすでに自分は失っている、のかもしれない。が、それが世俗にまみれて生きるということであり、私はそれを否定しない。そのうえで、葛原妙子のような生き方もまた、詩歌に生きる人にとっては、ひとつの理想像なのかもしれないが、それは危うい道ではあるのだ。その懸崖を歩んだ稀有な人として、葛原妙子を讃仰するということは、遂には一読者でしかない読者の贅沢な悦びであるのだけれど、自身も表現者の一人として、葛原の深堀りされた表現世界に長いこと向き合ってきた川野里子のしぶとい我慢力のようなものにも、思いは及ばないではない。

 書くということは、要するにそういうことなのだが、書きながら解放されてゆくアナーキーな読みの部分、想像力によって悪意すらも解放される瞬間に立ち会っている「読み」の記述が、何とも貴重である。