さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『桂園一枝講義』口訳 310-315

2017年08月12日 | 桂園一枝講義口訳
310
ふじの根(※嶺の当て字)を木の間木の間にかへりみて松のかげふむ浮島がはら
五五八 ふじのねを木間(このま)木間にかへり見て松のかげふむ浮しまが原 文政元年

□これは「中空」にあるなり。うたらしきのは、茲にのせるなり。
「浮島がはら」、原の駅の處なり。
○これは「中空」にあるのだ。歌らしい(出来のも)のは、ここに載せたのだ。
「浮島がはら」は、原の駅の場所である。

311
箱根山夕ゐるくもにやどからんふもとはとほし関はとざしぬ
五五九 箱根山夕(ゆふ)ゐる雲にやどからむふもとは遠し関はとざしぬ 文化二年 初句 イザサラバ

□此れは題詠「関路雲」の歌なり。少し「関路雲」にぴたりとせぬ故旅行の部へ入れたり。
「夕ゐる雲」は、夕べにしづまりたなびく故にいふなり。此の歌、旅人の難儀の体をよむなり。箱根は里とも云へり。大山の関でなければ、いはれぬなり。さて「宿をかる」といふことは、昔より明説なきなり。宿といふことをとくと会得すべし。
「や」は家なり。「と」は中間、空穴の名なり。「門」を「かど」といふは、「外(ルビ、そと)」の「と」也。通ふためにあけてある、ぬけてある処なり。明石のせと、淡路のせとなどは、間がせまきなり。港は水の流れ出づる海と川との境の名なり。「と」は物に行き当る詞なり。とどろく物どうし行きあたるなり。とんとんとするも行きあたるなり。
奈良の末より家のことをも「やど」といふことになりたり。「万葉」では戸口の事でないとわからぬなり。時代によるなり。「戸」は「口」なれども、家一軒を一戸といふが如し。
「万葉」に「やどの梅の花」「やどの呉竹」とあるは、戸口のところをさすなり。「やど」、「万葉」、「屋前」「戸前」とかけり。即ち今の庭前の類なり。
「やど」外にあるなり。家の前ならば庭前なり。それ故「万葉」などには「やどの庭」とつづくことは決してなきなり。今のみやこよりして「わが宿の庭白妙に雪」云々と貫之仰せられたり。段々に転ずるなり。それ故同時代でも土地によりては早くかはるところ(※ことろ、は誤植)とおそきとの差別あるなり。それは書にのこりたるだけは知らるるなり。
家持の歌に、わが宿に鷹をすゑる、とあり。家持の時分、半は今の京に入るなり。「やど」といはるるは、家居のことなり。
又「我が宿のすだれ動かし秋の風吹く」とあるは、家持よりも前とみゆるなり。いやしけれども家持と同様に「古今」に出せり。
さて「やどり」は宿入りなりや。「や」の「戸」に入るなり。
旅をすればいづくぞに「やどり」をせねばならぬなり。それ故旅ねすることを「やどり」となりたり。旅の詞のやうになりたり。ほんまは旅には限らねども旅のやうになるなり。「やどる」といふは、宿かるわけになるなり。

○これは題詠「関路雲」の歌である。少し「関路雲」にぴたりとしないものだから、旅行の部へ入れた。
「夕ゐる雲」は、夕べに鎮まってたなびくので(そう)言うのである。この歌は、旅人の難儀の様子を詠んでいるのだ。箱根は里とも言った。大きな山の関でなければ、(そのようには)言うことができないのである。さて「宿をかる」ということは、昔からはっきりとした説がないのである。宿ということをよくよく会得するがいい。
「や」は家である。「と」は中間、空穴の呼び名である。「門」を「かど」というのは、「外(ルビ、そと)」の「と」である。通うためにあけてある、ぬけてある処である。「明石のせと」、「淡路のせと」などは、間がせまいのである。港は水の流れ出る海と川との境の名だ。「と」は物に行き当る詞である。とどろく物どうしが行き当たるのだ。とんとんと(音が)するのも行き当たる(様子を言ったもので)ある。
奈良(朝)の末(の頃)から家のことをも「やど」と言うことになった。「万葉」では、戸口の事でないとわからないのだ。時代によるのである。「戸」は「口」なれども、家一軒を一戸と言うようなものだ。
「万葉」に「やどの梅の花」「やどの呉竹」とあるのは、戸口のところをさすのだ。「やど」は、「万葉」に「屋前」「戸前」と書いている。すなわち今の庭前の類である。
「やど」は外にあるのだ。家の前ならば庭前である。それ故「万葉」などには「やどの庭」とつづくことは決してないのである。今のみやこ(平安京の頃)から「わが宿の庭白妙に雪」云々と貫之がおっしゃった。段々に(意味が)転じてきたのである。それだから同時代でも土地によっては、早く(意味が)変わるところ(※ことろ、は誤植)と遅いのとの差別があるのである。それは書物に残っているものだけは知られるのである。
家持の歌に、わが宿に鷹をすゑる、とある。家持の時分に、なかばが今の京(の意味)に入るのだ。(ここで)「やど」と言われているのは、家居のことである。
又「我が宿のすだれ動かし秋の風吹く」とあるのは、家持よりも前とみえるのである。歌格が低いけれども家持と同様に「古今」に出ている。
さて「やどり」は宿入りであろうか。「や」の「戸」に入るなり。
旅をすればどこかに「やどり」をしなければならないのである。それだから旅寝をすることを「やどり」と(言うように)なったのだ。旅の詞のようになった。本当は旅には限らないけれども旅のようになるのだ。「やどる」と言うのは、宿を借りることになるのだ。

※「やかたをの-たかをてにすゑ-みしまのに-からぬひまねく-つきぞへにける」大伴家持四〇三六。
※「きみまつと-あがこひをれば-わがやどの-すだれうごかし-秋の風ふく」額田王「万葉集」四九一。

312
むさし野のはてのたま山たまたまに向ふたかねのめづらしきかな
五六〇 むさしのゝはての玉山(たまやま)たまたまに向ふたかねのめづらしきかな 文化十五年 二句目 玉ノ玉山

□むさしの国に山はなきなり。西に向へば富士が真白にみゆるなり。東にむかへば常陸の筑波山が真黒にみゆるなり。玉山、玉川のあたりの山なり。至りて遠きなり。
○むさしの国に山はないのだ。西に向えば富士が真白にみえる。東にむかえば常陸の筑波山が真黒にみえるのである。「玉山」は、玉川のあたりの山である。至って遠いのである。

313
津の国にありときゝつる芥川まことはきよきながれなりけり
五六一 津国(つのくに)にありときゝつる芥川(あくたがは)まことは清き流れなりけり

□此れは芥川にやどりたる時の歌なり。
○これは芥川に泊まった時の歌だ。

314
夕附日いまはとしづむ波の上にあらはれそむるあはぢしま山
五六二 夕附日いまはとしづむ波の上にあらはれそむるあはぢしま山 文政五年

□実景を見ればたれもわかるなり。住吉にて貝拾ひたる時のうたなり。日落ちかかりてまだ入らぬさきは、霞と日光とでとんと見えぬなり。日おちてしづむとまぶき(ママ)ことなきゆゑ、その時淡路島がりんと見ゆるなり。

○実景を見れば誰もがわかるのだ。住吉で貝を拾った時の歌である。日が落ちかかってまだ入らない先は、霞と日光とでまったく見えないのだ。日が落ちて沈むと眩しいことがないので、その時に淡路島がりんとして(くっきり)見えるのである。

315
鷗とぶちぬわに立てる濱市のこゑうらなみにかよひけるかな
五六三 鷗とぶちぬわに立てる濱市(はまいち)の聲うら浪にかよひけるかな 文化三年

□いづみに行きてよめり。「ちぬわ」、ちぬの海といへり。濱市、大市なり。そこに魚荷を皆持つとるなり。
「鷗とぶ」、肴をとり食ふつもりか、ことの外かもめが集るなり。いまのかも川、鳶があつまるやうなるものなり。
「鷗飛ぶ」、といふ詞もなけれども、ここは飛びたるが実景なり。又随分いうてよき詞なり。
○和泉に行って詠んだ。「ちぬわ」は、茅渟海(ちぬのうみ)と言った。「濱市」は、大市である。そこに魚荷を皆が持ち集うのである。
「鷗とぶ」は、肴を取って食うつもりか、格別にかもめが集まるのである。いまのかも川に、鳶があつまるようなものである。
「鷗飛ぶ」、という詞(歌語)もないけれども、ここは飛んでいるのが実景である。又随分(そのように)言ってもよい詞である。

※以上。このあとの「恋歌」「雑歌」「雑躰」についての講義はない。

小索引 番号は通し番号

仁斎 伊藤仁斎 57 76
蘆庵 小沢蘆庵 62
真淵 賀茂真淵 39 279
黒岩一郎 23 206 209
『桂園遺稿』 4 7 284
契沖 119 158
六帖 『古今和歌六帖』 (8 22 28 90) 117 139 149 186 230 281
正義 『古今和歌集正義』 25 69 86 106 116
土佐 『土佐日記』 165 243 307
『新学異見』 134
宣長 本居宣長 12 19 39 78 96 138 156
山本嘉将 1 62 69 191

後記 
 景樹研究の一次資料でありながら、句読点を付したテキストも現代語訳もなかった。こみいった語釈や談義を、濁点も括弧もないテキストで読む手間と苦痛は、ちょっと言いようもないものがあった。たとえば「やは家なりとは中間空穴の名なり門をかとといふは外(そと)のと也通ふためにあけてあるぬけてある処なり」というような文章を初見ですらすら読むには相当な訓練が必要だし、そもそも時間がかかって仕方がない。それで自分で何とか起こしてみようと思ったのが、六年前にこの仕事を始めたきっかけである。当初は慣れなくて苦しんだが、だんだん景樹の話し癖に慣れて来ると、仕事や休みの合間に隙を見つけては、ぼちぼち起こして文意を考えるのが楽しくなった。これも彌冨濱雄の仕事があったればこそである。また、正宗敦夫については、明治三十年代に景樹の歌を引きながら兄の正宗白鳥と楽しげにやりとりした手紙が残されている。この作業を通して私なりに大いにリスペクトをこめたつもりである。どなたか正宗敦夫の歌集を編まないものか。

 訳は、随所で談話の筋がはっきりするように言葉を補ってみた。おかげで景樹の歌の構造や発想法がよくわかった気がする。言及されている人物や典籍についての注は、まだ補う必要があるが、ともかく一度まとまったかたちのものをここに提出しておきたい。

※なお、ここで得られた所見は、今年度後半に和歌文学会で発表する予定である。見直しをして簡単な冊子にまとめようと思うが、ここまでで何か気付かれたことがあればメール等で御批正を願いたい。

由比の歌 香川景樹『桂園一枝』より

2017年08月12日 | 桂園一枝講義口訳
由比の歌。ここだけ分ける。

309
今宵もやまろねの紐をゆひのはま打とけがたき波のおとかな
五五七 今宵もやまろねの紐をゆひの浜打(うち)とけがたき浪の音かな 以上同上 

□これも行きがけなり。帰りがけのは「中空日記」にあり。こゝには多く行きがけなり。「ゆひの濱」の気色は、「中空日記」に出せり。古くは「太刀の緒とけてぬる人の」、又「下紐を解く」などいふなり。「紐」といふも帯に同じものなり。

○これも行きがけである。帰りがけのは「中空日記」にある。ここに(載せたもの)は多く(の歌が)行きがけのものだ。「由比の濱」の景色は、「中空日記」に出した。古くは「太刀の緒とけてぬる人の」、又「下紐を解く」などと言うのである。「紐」と言うが(今の)帯と同じものである。

※「中空日記」より引く。奈良女子大学附属図書館のホームぺージより。
「蒲原 を過て由比にとまる、さて此家の庭さきなる、汀の松などよくよくみれば、くだりつるとき、あまり磯ぎはの波さわがしとてやどりあへず、立出しやど也、さるはかたはらいたくおもてぶせなるこゝちすれど、かれはえ見しらず
  契をやゆひの浜まつかへりきて立よる蔭のなみを見るかな
はたしてこよひねられねば、ひるみれどあかぬ田子の浦といひし、古人の心をも思ひ出られて、やをら起出でみるに、月はいづくよりさすらん、波の上ところどころおぼろに白く、見なれぬけしきもめづらしきものから、いとすごきこゝちすれば引たてゝ入ぬ、いよいよ目もあはず
  あらためていかに枕をゆひの浜春より高き浪のおとかな
十二日、朝とく出て由比川をわたり、寺尾の松原をすぎて(以下略)」。
 ※ 引用に当たり濁点を補った。
現代語訳。
「蒲原を過ぎて由比に泊まる。さてこの家の庭前にある、汀の松などをよくよく見ると、街道を下った時、あまり磯ぎわの波がさわがしいといって宿泊に堪えず、立ち出てしまった宿であった。そういうことだから心苦しいし面目ない気持がしたが、宿の者は覚えていないようであった。

  契を結んでいたためだろうか、戻ってきて同じ由比の浜の松の木陰に寄る波をみることだ。

はたしてこの晩は寝られないので、昼に見て飽きることのない田子の浦(に夜も又)と言った、古人の心も思い出されて、急に起き出してみると、月の光はどこからさすのだろう、波の上がところどころおぼろに白く、見なれない景色も珍しいけれども、とてもぞっとした心持ちになったのでいそいで部屋に入った。いよいよ眠れない。

  あらためてどんな旅寝の夢を結ぼうか、この春の由比の浜は高い浪の音がすることだ。

十二日、朝早く出て由比川をわたり、寺尾の松原をすぎて(以下略)」。





『桂園一枝講義』口訳 306-308

2017年08月12日 | 桂園一枝講義口訳
306
ましらなく杉の村立下に見ていくへのぼりぬすせのおほさか
五五四 ましらなく杉の村立(だち)下(した)に見て幾重(いくへ)のぼりぬすせの大坂

□此れ即ち本坂越なり。「すせの大坂」、ことの外大なる坂なり。幅ひろくして至りて高きなり。深き谷を両方に見おろすなり。杉の梢を下に見るなり。猿など大なるが居るなり。即ち晴天に通りたるなり。段々上に上り峠に至ると深く下になるなり。猿などもはるかに下に飛び居るなども見ゆるなり。すせの坂といふなり。大なる坂故に「大坂」と景樹いふなり。「くぜの大坂」など例にしていふなり。

○これはすなわち本坂越である。「すせの大坂」は、ことのほか大きい坂である。幅が広く至って高いのである。深い谷を両方に見おろすのだ。杉の梢を下に見る。猿など大きいのが居るのである。すなわち晴天に通ったのである。段々上にのぼって峠に至ると、(今度は)深く下りになるのである。猿などもはるかに下に飛び居る様子なども見えるのである。「すせの坂」というのだ。大きな坂であるので「大坂」と景樹は言うのである。「くぜの大坂」などを例にして(そう)言うのである。

※佳吟。

307
思ひやれ天の中川なかばきてたゆたふたびのこゝろぼそさを
五五五 思ひやれ天(あめ)の中河(なかがは)なかばきてたゆたふ旅の心ぼそさを

□此れは京より江戸に行く道にてよむなり。「天の中川」は、天龍川なり。此れをこゆる一町前に村ありて小なる杉橋あり。此が京と江戸との真振分となり。それ故天龍川が調度半分なり。
天龍川、急流にしてまことにたゆたふなり。心細く思ふほどのながれ渡りなり。早きこと矢を射るごとくなり。棹の「かへさを」を持つて居る位なり。恐ろしき所なり。「中空日記」にも「再うたふ」と出せり。「たゆたふ旅」とかかるなり。それは舟の縁語なり。

○これは京から江戸に行く道で詠んだのだ。「天の中川」は、天龍川である。これを超える一町前に村があって小さな杉橋がある。これが京と江戸との真振分(本当の真ん中)であるという。それだから天龍川がちょうど半分なのである。
天龍川は、急流で本当に揺れ動いているのだ。心細く思うほどの流れ渡りである。早いことは矢を射るようだ。棹の「替え棹」を持って居る位である。恐ろしい所だ。「中空日記」にも「ふたたび歌う」といって出した。「たゆたふ旅」と掛かっているのだ。それは舟の縁語である。

※「中空日記」については、奈良女子大学附属図書館のホームぺージが便利。そこから引くと、「たらちねを思ふねざしの深かりし誠のはなは冬がれもせず。天龍川をわたる。さかまく流れいと早きに、さす棹弓に似て舟箭のごとし、思ひやれ天の中川なかばきてたゆたふ旅のこゝろぼそさを、となげきたる、春のこゝろも更に立かへりて、ふたゝびうたふめり。わたりはてゝ永田の松原をくるに、風はけしう吹て堪がたけれは、まづ浜松にやどりをもとむ。」とある。引用に当たり和歌に濁点を加えた。「中空日記」は「土佐日記」などの語り口を模している。本文中に置いてみると、景樹の即詠の非凡さがよくわかる。

308
沖つより夕こえく(「く」一字誤植)れば山松のこずゑにかゝるふじのしらゆき
五五六 沖津より夕越(ゆふこえ)くれば山松の梢にかゝるふじのしらゆき

□沖つを出でゝほどなくさつた峠にかゝるなり。実景なり。見る人は知るべし。夕べでなくともよけれども、調度夕べなりしなり。また夕べの方、妙(たへ)なり。
○沖つ(興津)を出て程なく薩埵峠にかかるのである。実景だ。見る人は知っているだろう。夕べでなくともよいのだけれども、ちょうど夕べであったのだ。また夕べの方が、霊妙だ。


気賀の関所の歌 香川景樹『桂園一枝』より

2017年08月08日 | 桂園一枝講義口訳
気賀の関の歌である。ここだけ分ける。

305
ことなくて気賀の関だにゆるせしを何を見付のさとといふらん
五五三 ことなくて気賀(けが)の関だにゆるせしを何を見附(みつけ)の里といふらん 文化元年 「袖くらべ」の内 初句、事なくモ

□此の以下雑なり。江戸に行きたる時、桑名荒井など船をきらひてわたらず。本坂越をしたるなり。其の時いなさ細江をわたりし也。此の本坂越をする時、けがの関を越ゆるなり。もとの本街道へ出ると、見付の里なり。何事もなく関守の處を通りて来たるに、何を見付けたぞといふなり。「事」といへば、いつもよからぬ事をいふなり。それ故「事なくて」といへば無難といふことなり。
○これ以後は雑の歌である。江戸に行った時、桑名、荒井などは船をきらって渡らなかった。本坂(の峠)越をしたのである。その時いなさ細江をわたったのだ。この本坂越をする時、けがの関を越えるのである。もとの本街道へ出ると、見付の里である。何事もなく関守の所を通って来たが、何を「見付け」たのかと言うのである。「事」といえば、いつもよくない出来事を言うのである。それだから「事なくて」と言うと無難ということになるのである。
  
※今年のNHK大河ドラマゆかりの地、気賀(※当時は「けが」と読んだ)をうたった香川景樹の俳諧歌である。まさに即興的な「雑」の歌で、景樹はこれに長じていた。


『桂園一枝講義』口訳 299-304

2017年08月08日 | 桂園一枝講義口訳
299
かくれがの雪はゆきとぞつもりける花なる里ははなとみゆらん
五四七 かくれがの雪はゆきとぞ積りける花なるさとは花とみゆ覧(らん) 文政五年

□此れも同じすまひの時なり。伯州米子の留守居のもののぼりて、九條家と掛合のことありしなり。其時分青桜(※「楼」の誤植か)より留守居が呼びにこしたり。月夜△刻頃よりの事也。加茂川絶景なりとてこしたり。其時答へたる歌なり。
○これも同じ住まいの時である。伯州米子の留守居の者が上京して、九條家と掛合のことがあったのだ。その時分に青楼から留守居役が呼びに来られた。月夜で△刻頃よりの事である。加茂川が絶景であるといって来られた。その時に答えた歌である。

※△は活字のカスレ。「青桜」は「花」に引っ張られた転記の誤りか。「花なるさと」とは、留守居の者の散財の場所であるが、行かずに歌だけ詠んで使いの者に手渡したのだろう。
300
人問はぬやどは今朝こそうれしけれちりもあとなき雪の上かな
五四八 人とはぬ宿はけさこそ嬉しけれ塵も跡なき雪のうへかな 文政五年

□岡崎の歌なり。「人とはぬ」は、常とわびしきに、けさこそ雪にきずつけぬ故にうれしきとなり。
○岡崎の歌である。「人とはぬ」は、常のことでわびしい(所である)のが、今朝こそは雪に(誰も)傷跡をつけないので、うれしい気がするというのである。

301
春をまつこゝろもなしと雪の中に老木のうめはかくれてやさく
五四九 春をまつこゝろもなしと雪のうちに老木の梅は隠れてや咲(さく) 文化十一年

□枯木雪に埋れたる貌なり。画讃でありしかと思ふなり。人の身にあてゝ云ふなり。
○枯木が雪に埋れた相貌である。画讃であったかと思う。人の身に当てはめて言っているのである。

302
山里はまつにつもりし初ゆきの消えぬまゝにてくるる年かな
五五〇 山里は松に積りしはつ雪の消(きえ)ぬまゝにて暮(くる)るとしかな 文化十年

□わかりたり。
○よくわかる歌だ。

303
何ごとも此の頃にはとおもひつる三十の年のはてぞかなしき
五五一 なにごとも此(この)ごろにはとおもひつる三十(みそぢ)の年の果ぞ悲しき

□卅歳の年末なり。二十三歳の時分に、「二十六年までは三年なり。定めて六には大に成就するならん。」というてくれたる人ありし也。然るに何も出来ざりしなり。尤も歌斗でなきなり。何でも出かさんとて馬にものりたる事もありしなり。「卅にして立つ」時も矢張出来ざりしなり。

○三〇歳の年末(の歌)である。二十三歳の時分に、「二十六歳までは三年だ。きっと二十六歳の頃には大いに(志すところも)成就するであろう。」と言ってくれた人があったのである。けれども、何も起こらなかった。もっとも歌ばかり(やっていたわけ)ではなかった。何でもしでかそうと思って馬にも乗った事もあった。(「論語」の言う)「三十にして立つ」という時も矢張そうはならなかったのである。

304
家ごとになやらふこゑぞ聞ゆなるいづくに鬼はすだくなるらん
五五二 家ごとになやらふ聲ぞ聞ゆなるいづくに鬼はすだく成(なる)らん 

□嵐雪の句に「音高し海にや鬼のにげつらん」。此れはよほど妙なり。中々今の此のうたは及ばぬなり。
「な(傍点)」は、すべてのわざはひをさして云ふなり。「凶(傍点)」の字にあたるなり。又「も(傍点)」とも云ふなり。古く云ひたる詞にして、今残りたること一寸(※ちっと、と読むか)もなきなり。又追儺の「儺(傍点)」の音にて云ふが、「鬼」は、一の物をさす。「な(傍点)」は、すべてのものをさす。さて、「鬼」といふこと一向わからぬなり。「隠」の事か、などいふ「和名抄」の説あり。此れも聞えぬことなり。

○嵐雪の句に「音高し海にや鬼のにげつらん」(がある)。こちらの方がよほど至妙である。中々今のこの歌は(それに)及ばない。
「な(傍点)」は、すべての災いを指して言うのである。「凶(傍点)」の字に当たるのである。又「も(傍点)」とも言う。古くに言った詞であって、今(の言葉として)残っていることは少しもない。また追儺の「儺(傍点)」の音として言うが、「鬼」は、一の物をさす。「な(傍点)」は、すべてのものをさす。さて、(この)「鬼」ということが一向にわからないのである。「隠」の事か、などという「和名抄」の説がある。これも当たっているようには思われないことである。


『桂園一枝講義』口訳 288-298

2017年08月08日 | 桂園一枝講義口訳
288
山里ののきのまつかぜ木枯にふきあらためてふゆは来にけり
五三六 山里の軒の松かぜ木(こ)がらしに吹(ふき)あらためてふゆは来にけり

□木がらし、木をふきからすなり。木枯の風とも云ふなり。「からし」と云ふ、「し」は風のことではなきなり。「し」は風の名なり。西吹風などに「し」は風の名なり。あらしの「し」も同じ。「し」は息のことなり。息と風とはひとつなり。しなが鳥は、おき長鳥なり。木枯、六、七百年前歌合の時、論ありたることなり。秋にも云へど冬を宗とするなり。

○「木がらし」は、木を吹き枯らすのである。木枯の風とも言うのである。「からし」と言う語は、「し」は風のことではないのだ。「し」は風の名である。「西吹風」などに「し」は風の名である。あらしの「し」も同じことだ。「し」は息のことだ。息と風とはひとつである。「しなが鳥」は、「おき長鳥」のことである。「木枯」は、六、七百年前の歌合の時に、議論のあったことである。秋にも言うけれど冬を本意とするのである。

289
夜もすがら木の葉をさそふ音たてゝゆめも残さぬ木枯のかぜ
五三七 よもすがら木葉をさそふ音(おと)たてゝ夢も残さぬこがらしの風 文政八年

□此れは「木枯の風」にてよみたるなり。本行に「木枯」の題もなき故こゝに入れたり。木の葉を残さず吹くのみならず、夢も残さずとなり。
「よもすがら」、夜もすがら夜をそのまゝと云ふことなり。さて御杖は、昼もすがら夜もすがらと云ふことにて、昼を言ひたることにかねると云ひたり。一寸聞えるやうなれども、夜もの「も」は昼に対するにてはなきなり。

○これは「木枯の風」(という題)で詠んだものである。本行に「木枯」の題もないのでここに入れた。木の葉を残さず吹くばかりではなく、夢も残さないというのである。
「よもすがら」は、夜も「すがら(ずっと)」、夜をそのままと言うことである。さて(富士谷)御杖は、昼もすがら、夜もすがらと言うことであって、昼を言ったことに兼ねると言った。ちょっとそれらしく聞えるようであるが、「夜も」の「も」は、昼に対するものではないのである。

290
今はとてしぐるゝ冬のはじめこそものの哀のをはりなりけれ
五三八 今はとてしぐるゝ冬のはじめこそものの哀のをはり也(なり)けれ 文化十五年

□しぐれそむる頃、哀はれのかぎりとなり。「をはり」と云ふは限りの事なり。されば「かぎり」と云べきなれども、初めと云ふに対しておもしろくなるなり。亥の子の時分、わびしき時節のどんぞこなり。

○しぐれ初めの頃は、哀れのかぎりであるというのだ。「をはり」と言うのは、限りの事である。だから「かぎり」と言うべきなのだけれども、「初め」と言うのに対しておもしろくなるのである。亥の子の時分は、わびしい時節のどんぞこである。

291
朝附日さしもさだめぬ大比えのきらゝの坂にしぐれふるなり(※誤記)
五三九 朝づく日さしもさだめぬ大比えのきらゝの坂にしぐれふる見ゆ 文化二年

□「きららの坂」、比えのつづきなり。
「さしもさだめず」、降かと思へば晴るゝか、さだめぬなり。
「見ゆ」と云ふは見えまじき時分に見ゆるを云ふなり。たとへば「遠き山べに雁のとぶ見ゆ」と云ふやうなる工合なり。
○「きららの坂」は、比叡の(山の)つづきである。
「さしもさだめず」は、降るかと思えば晴れるか(して)、(はっきりと)定めないのである。
「見ゆ」と言うのは見ることができないような時分に見える(こと)を言うのである。たとえば「遠き山べに雁のとぶ見ゆ」と言うような具合である。

※結句が刊本とちがっているが、講義では「見ゆ」のつもりで話しているので誤記だろう。

292
山里のふゆのにはこそさびしけれ木の葉みだれて時雨ふりつゝ
五四〇 山里の冬の庭こそ淋しけれ木葉(このは)みだれてしぐれ降(ふり)つゝ 文化十年

□此歌無心にして感深し。
○この歌は無心で「感」が深い。

※「感」という語については、「端的の感」ということで藤平春男が景樹を論じながら焦点化して取り上げた。これは『香川景樹と近代歌人』にも書いたが、景樹と空穂とのかかわりについては、現代歌人たちはずっと肯定的に言及して来なかったのである。その点、弟子の藤平春男や国文学関係の研究者たちの方がむしろ公正だった。今は直近の「短歌研究」千号記念号で馬場あき子が「調べ」の話をしていたり、「短歌研究」の連載評論で今井恵子が和文脈について書いていたりするなど、やっと風向きが変わって来そうな気配がある。

293
月さゆる落葉が上におく霜をかげのうづむとおもひけるかな
五四一 月さゆる落葉がうへにおく霜を影のうづむとおもひけるかな

□木の葉を月かげが埋んだかと思うた、と云ふことなり。
○木の葉を月かげ(月の光)が埋めたかと思った、ということである。

※景樹の真骨頂は、こういうところにある。

294
冬の夜の長きかぎりをあかつきの霜にこたふるかねの音かな
五四二 冬の夜の長きかぎりをあかつきの霜にこたふるかねの音かな 文化十三年

□此の通りの歌なり。幾度ねざめしても長きなり。霜には鐘は出合ものなり。もう明くるか明くるかと待つて居るに、しもに答へて追付あくると云ふやうなるを、云ふなり。

○この通りの歌である。幾度寝ざめしても(夜が)長いのである。霜には鐘は出合う(「いであふ」出くわす、めぐりあう)ものである。もう(夜が)明けるか明けるかと待って居ると、霜に答えて追付(おっつけ、やがて)(夜が)明けて来るというようなところを、言うのである。

295
呉竹のしげみが上に音たてゝちるやあられのかずぞすくなき
五四三 くれ竹のしげみがうへに音たてゝちるや霰の数ぞすくなき

□音と見るのとは大違いなり。それを詠むなり。岡崎の実景なり。
「散るや」、「や」は心なきなり。
○音(で聞くの)と見るのとでは大違いである。それを詠んだのだ。岡崎の実景である。
「散るや」の、「や」は(特に)意味はないのである。

296
山陰のちりなきにはに散りそめて数さへ見ゆるけさの初ゆき
五四四 山陰の塵なき庭にちり初(そめ)て数さへ見ゆる今朝の初雪

□いやかたまれる庭の面にふる初雪の云々、みつねの詠れたる気色なり。「数さへみゆる」、山里故に直(ただち)にきえぬさまをいふなり。
○「いやかたまれる庭の面に」降る初雪の云々と、躬恒のお詠みになった景色である。「数さへみゆる」は、山里のためすぐには雪が消えないさまを言ったのである。

※「古今集」凡河内躬恒の長歌「しもこほり-いやかたまれる-にはのおもに-むらむらみゆる-ふゆくさの-うへにふりしく-しらゆきの-つもりつもりて-(以下略)」一〇〇五。

297
大宮のうへにかゝれる衣笠のやましろたへにゆきふりにけり
五四五 大宮の上にかゝれる衣笠(きぬがさ)の山白妙(しろたへ)に雪ふりにけり 文化八年

□岡崎の梅月堂よりの真景なり。御所の所に打越して見ゆるなり。「かゝれる」は、笠に緑(縁の誤植)あり。衣笠は、貴人の笠なり。調は大宮がよきなり。
○岡崎の梅月堂よりの真景である。御所の所に打越して見えるのである。「かゝれる」は、笠に縁がある。「衣笠」は、貴人の笠である。調は「大宮」がよいのである。

298
けさみれば汀の氷うづもれてゆきの中ゆくしらかはのみづ
五四六 けさ見れば汀のこほりうづもれて雪の中ゆく白河(しらかは)の水

□粟田のしん町に居たる時なり。十二月十九日のことなり。常楽寺来れり。出でゝ知恩院のあたりを見たり。
○粟田のしん町に居た時の歌である。十二月十九日のことである。常楽寺が来た。(外に)出て知恩院のあたりを見た。

『桂園一枝講義』口訳 279-287

2017年07月29日 | 桂園一枝講義口訳
279
何となく袖ぞつゆけきいつのまにことしも秋の夕べなるらん
五一二 なにとなく袖ぞ露けきいつのまにことしも秋のゆふべなるらむ 

□「初秋夕露」と云ふ題詠なりし。
何となく、とはさびしき工合より云ふなり。「古今」に「夜や更けぬらん袖の露けき」とあり。さて「けき」と云ふ詞は「めく」と云ふ程なり。ぬれたと云ふことではなきなり。ぬれるやうな、と云ふ時に「けき」とつかうなり。
いたからぬに「いたし」と云ふ、又は「死ぬるやうにあつた」など云ひ、又「足がすりこぎになりたる」など云ふ形容なり。「露けき」と云ふも同様なり。真淵は「露けき」などをとがめて云ひたり。此れは見そこなひなり。程々に云ふがよきのみ。云ふは却てみそこなひなり。平日ある上には「血の涙」などのことをいうても、ことやうには思はぬなり。歌になるとうそを云ふやうに思ふはあやまりなり。
夢をねがふ人はゆめを忘れて始めて夢あり。道を願ふ人は道を忘れて始めて道あり。夢になりとも見たき見たきと思ふ心の人は、ゆめを見てゆめとは思はぬなり。すべて千歳以来のまちがひを解きたるものは「古今」の序なり。よくよく見るべし。

○「初秋夕露」と言う題詠であった。
「何となく」、とはさびしい具合から言うのである。「古今集」に「夜や更けぬらん袖の露けき」とある。さて「けき」という詞は、「めく」と言う程度である。ぬれたといふことではないのである。ぬれるような、という時に「けき」とつかうのである。
痛くもないのに「痛い」という、又は「死にそうだった」などと言い、また「足がすりこぎになった」などという形容である。「露けき」というのも同様である。真淵は「露けき」などをとがめて言った。これは見そこないである。程々にいうのが良い(という)だけ(のことである)。(それをいちいち)言うのは、かえって見損ないである。平生ある上では「血の涙」などと言っても、別の事とは思わないのである。歌になるとうそを言うように思うのはあやまりである。
夢を願う人はゆめを忘れて始めて夢がある。道を願う人は道を忘れて始めて道がある。夢であろうとも見たい見たいと思う心の人は、ゆめを見てゆめとは思わないのである。すべて千年来のまちがいを解いたものは「古今」の序である。よくよく見るべきである。

※278も279も景樹は和歌の時代の人なので、当時はこういう歌が大事だったのである。しかし、この二首は、景樹を熟読し、中学生の頃に熱心に模倣した長塚節に、無意識のうちに影響を与えているだろう。ただちに連想するのは有名なあの秋の歌である。

280
心なき人はこころやなからまし秋の夕べのなからましかば
五一三 こころなき人は心やなからましあきの夕のなからましかば 享和三年 三句目 なかルラム

□同言を連ねて卅一文字を作るなり。「心なき人」とは初雪に小便するやうな人なり。「秋の夕べ」などに心のとまらぬ人なり。
「心なき」は情なきなり。「心ある」とは風雅なる人のことになるなり。「中将」に、心ある人にて所々にて歌よみなどして、とあり。
秋の夕べになれば老若男女みな物あはれなり。「幼子のひとり飯食ふあきのくれ」といふ句もあり。秋の夕になれば心なき人もこゝろが出来てくるとなり。
秋の夕べがなかつたならば、心なき人は、ないづくめになるべしとなり。

○同言を連ねて三十一文字を作っている。「心なき人」とは、初雪に小便をするような人である。秋の夕べなどに心のとまらない人である。
「心なき」は情がないのである。「心ある」とは、風雅な人のことになるのである。「中将」に「心ある人にて所々にて歌よみなどして」とある。
秋の夕べになれば老若男女みな物あわれ(に感ずるもの)である。「幼子のひとり飯食ふあきのくれ」という句もある。秋の夕になると心なき人もこころが出来てくるというのである。
秋の夕べがなかったならば、心なき人は、ないないづくめになるであろうというのである。

※「中将」は「在五中将物語」の「伊勢物語」にはない。後期物語にありそうだが、わからない。あればどなたかご教示願いたい。

281
秋風になびくを見ればはなすゝき誰が袖よりもなつかしきかな
五一四 秋かぜにまねくを見ればはなすゝきたが袖よりもなつかしき哉 文化三年

□「尾花の袖」、ならの末に袖にみたてたり。「秋の野の草のたもとが」云々、秋の野の草を一人の人としたてゝ其人のたもとが「花すゝき穂に出る」とは、あらはれたることを云ふなり。「仲哀記」に「花薄穂に出づるわれや」とあり。まめなる所には花薄穂に出すべきこともあらず、とあり。
「穂に出づる」とは即ちあらはれて出づることなり。それよりして草の花のあらはるゝを穂と名づけたるが、もとなり。今は「ほに出づる」といへば草木がもとになりたるやうなり。言語の転変なり。
秋草のたもととなるは花すゝきじやそうな、あらはれて招く袖のやうに見ゆるといふうたなり。此れよりして草の袂、花薄の袖などしきりに言ひ出せり。
今秋風のもの哀れなるになびきて招く故に、いよいよあはれになつかしき哉、となり。なつかしきことの限りなり。

○「尾花の袖」は、奈良の末に袖に見立てた。「秋の野の草のたもとが」云々、秋の野の草を一人の人と仕立てて、その人のたもとが「花すゝき穂に出る」と(いうの)は、あらわれたことをいうのである。「仲哀記」に「花薄穂に出づるわれや」とある。「まめなる所(誠実な人の通うところ)」には、花薄を穂に出すようなこともない、とある。
「穂に出づる」とは、すなわち現れて出ることである。そこから草の花があらわれるさまを「穂」と名づけたのが元である。今は「ほに出づる」と言えば草木が元になったようである。言語の(意味の)転変である。
秋草の袂となるのは花すすきじゃそうな、あらわれて招く袖のように見える、という歌である。ここから「草の袂」、「花薄の袖」などと、しきりに言い出すようになった。
今秋風のもの哀れであるのになびいて招く故に、いよいよあわれになつかしき哉、というのである。なつかしきことの限りである。

※二句目、これは改稿したのだろう。
※ 「花すすきほに出ることもなく」は「古今集」仮名序にもある言い方。「秋の野の草のたもとか花すすきほにいでてまねく袖と見ゆらむ」ありはらのむねやな「古今和歌集」二四三。「古今和歌六帖」三七〇一など。
※「仲哀記」とあるが、記紀の該当部分にはないので言い間違いか。天保八年十一月、七十歳ではじめた講義だから、調子のいい時も悪い時もある。

282
いはねどもつゆわすられず東雲のまがきに咲きしあさがほの花
五一五 いはねども露わすられずしのゝめの籬(まがき)に咲(さき)し朝がほのはな 文政七年

□恋をこめて言ふなり。しのゝめに帰る時、朝貌が麗しき事であつたとなり。いつそれを見たぞやと言はれては、どうも言はれぬなり。それが「いはねども」なり。

○恋(の題の気持)をこめて言うのである。しののめに帰る時、朝貌が麗しき事であったというのである。いつそれを見たのかと言われては、どうも(はっきりと)言うことができないのである。それが「いはねども(言わないけれども)」である。

283
出づる日の影にたゝよふ浮ぐもをいのちとたのむ朝がほの花
五一六 いづる日の影にたゞよふうき雲を命とたのむあさがほの花 文政六年

□あまりよきともなきに入れたり。
「出づる日の影にたゝよふ浮雲」は、山の端の雲なり。其浮雲は、はかなき雲なり。それをさへ命とたのむなり。

○あまり良い歌でもないのに集に入れた。
「出づる日の影にただよふ浮雲」は、山の端の雲である。その浮雲は、はかなき雲である。それをさえ命とたのむのだ。

284
夕日さす浅茅が原にみだれけりうすくれなゐのあきのかげろふ
五一七 ゆふ日さすあさぢが原に乱(みだ)れけりうすくれなゐの秋のかげろふ

□「淺茅が原」は野辺なり。高木などのなき浅茅まじりにしてあさぢ多き野原なり。あさぢは、せの短きものなり。
飛去飛来でとんで居るを「みだれけり」と云ふなり。
かげろふ、あかゑ(ん)ばなり。今はやんまと訛れり。かげろふは、八百年程になれり。七百年前、「源氏」かげろふの巻は「蜻蛉」なり。もとは、かげろふは陽炎がはじめなり。うらうらと動くものなり。それよりして糸ゆふにも言ふなり。又虫にも云ふなり。

○「淺茅が原」は野辺である。高木などのない浅茅まじりで、「あさぢ」が多い野原である。「あさぢ」は、背の短いものである。
「飛去飛来」で飛んでいるのを「みだれけり」と言うのである。
「かげろふ」は、「あかゑ(ん)ば」のことだ。今は「やんま」と訛(なま)っている。「かげろふ」(という歌語)は、八百年程になった。七百年前、「源氏」の「かげろふの巻」は、「蜻蛉」である。もとは、「かげろふ」は「陽炎」がはじめである。うらうらと動くもの(のこと)である。そこから「糸ゆふ」にも言ふのである。又虫にも言うのだ。

※繊細溢美の「新古今」調で、写実の味も感じられるこういう叙景歌は、景樹の得意とするところ。要するにどんな歌風もこなせたのである。景樹が「古今」崇拝だから「古今」調だなどというのは、子規の言葉を鵜呑みにした読まず嫌いの弁である。
概して『桂園一枝』では、『桂園遺稿』などで初出が確かめられない、制作年次のはつきりしない歌に秀歌が多い。ということは、文政十一年に『桂園一枝』を編むにあたって別の手控えのなかから付け加えたり、あらたに作りおろしたりした歌に秀歌があるということになる。

285
しきたへの夜床の下のきりぎりすわがさゝめごと人にかたるな
五一八 敷妙(しきたへ)のよどこのしたのきりぎりすわがさゝめ言(ごと)人にかたるな 文化四年

□夫婦かたらふ床下に鳴くきりぎりすなり。
○夫婦が語らう床下に鳴くきりぎりすである。

286
とにかくにつゆけき秋のさがならば野を分けわけてぬるるまされり
五一九 とにかくに露けき秋のさがならば野をわけわけてぬるゝまされり

□秋のならひならばと云ふこと也。その中にもわるならひと云ふことに思ふべし。さがより嵯峨野にかけるなり。
○秋の習いならばということである。その中にも「わる習い」(あまりよろしくない趣味)ということに思うとよい。「さが」から「嵯峨野」に掛けているのである。

「以下欠席」
※五三五までとぶので、十五首ほど欠落した。中には、次のような歌がある。

五二〇 さと人はいはほきり落(おと)す白河のおくに聞ゆるさをしかの声 北の山ふみに見ゆ

五二一 おぼつかな塵ばかりなる浮雲にかくれ果(はて)たる三か月の影 文化十三年

五二五 照(てる)月は高くはなれてあらしのみをりをり松にさはる夜半かな 享和二年 一、二句目 月カゲハハルカニナリて

五二七 帰るべく夜は更(ふけ)たれど鴨河(かもがは)のせの音(と)は清(きよ)し月はさやけし 享和三年

五三〇 月てればつらつら椿(つばき)その葉さへみなしらたまと見ゆるよはかな 

287
こともなき野辺をいでゝもみつる哉鵙がなく音のあはたゞしさに
五三五 こともなき野辺をいでゝもみつるかな鵙(もず)が鳴音(なくね)のあわたゞしさに 享和二年

□津の国ゐな野の中に、円通庵に居たる時のうたなり。もずの音は、きらきらとしめころすが如きなり。
○津の国のゐな野の中に、円通庵に居た時の歌である。「もずの音」は、きらきらとしめころすような感じのものだ。

※佳吟。さながら近代短歌。享和二年は、例の「筆のさが」一件で深く傷ついていた頃の歌だから、伝記的にも合うところがあって、尖った神経にふかく突き刺さって来るもずの声に対する感覚には、実感がこもっている。

『桂園一枝講義』口訳 273-278

2017年07月23日 | 桂園一枝講義口訳
273
大橋の上わたりゆくかち人のたゞよふなつになりにけるかな
四九六 大橋の上わたり行(ゆく)かち人のたゞよふ夏になりにけるかな 文政六年 一、二句目 鴨河の橋ノ上行ク

□わかりたり。
○(よく)解った(歌)。

※この言い方は、講義の聴講者に歌の内容を言わせて、その通り、と応じた部分を記したものだから「わかりたり」となっているのだろう。掲出歌は、京極為兼の歌などから学んだあとのある佳吟。為兼の歌との比較は『香川景樹と近代歌人』に少し書いた。

274
水鳥のかもの川原の大すずみこよひよりとやつきもでるらん
四九七 水鳥の鴨の河原の大すゞみこよひよりとや月もでるらむ 文化十二年

□丁度七日頃より月もめだつなり。
○ちょうど七日頃から月も目立つのである。

欠席 

※十首分欠落している。このなかにいくつか秀歌があるだけに残念。引いてみる。

四九八 夏のよの月のかげなる桐の葉を落たるのかなとおもひけるかな 文化二年

五〇〇 根をたえてさゞれの上に咲にけり雨にながれし河原なでしこ 文化十年

五〇二 池水の蓮(はちす)のまき葉けさみれば花とゝもにも開(ひら)けつるかな 享和三年

五〇四 なびくだに涼しきものを夏河の玉藻を見れば花咲きにけり 文化六年 四句目 スガモを見れば

五〇六 布引の瀧のしら浪峯こえて生田(いくた)に落るゆふだちの雨 文政六年

五〇七 近わたりゆふ立しけむこの夕雲吹く風のたゞならぬかな 文政六年

※これらの歌を江戸時代に作っていたなんて、実におどろきではないかと思うのだが、それでも子規の言葉を信じて景樹は駄目だと言い続ける人がいるのだろうか。

275
山風にふきたてらるるならの葉のかへれば晴るゝ夕立のあめ
五〇八 山風に吹(ふき)たてらるゝならの葉のかへればはるゝゆふだちの雨

□「ならの葉」、うら白きものにて尤も風の見ゆるものなり。「夕立早過」を詠みたりし題詠なりしなり。

○「ならの葉」は、葉裏が白いもので、もっとも風(のすがた)が見えるものである。「夕立早過」を詠んだ題詠だった。

276
わが宿にせき入れておとすやり水のながれにまくらすべき頃かな
五〇九 わが宿にせき入(いれ)ておとすやり水のながれにまくらすべき比かな 文政六年

□いせの歌に「音羽川せき入れておとすやり水に人の心の見えもするかな」。「やり水」は引取水なり。後はむかふへやれども、畢竟庭に引こむ水なり。流れに枕すべき頃、あつさのあまり流れのきはにねたき頃といふなり。此れもと枕流の故事をかるなり。併し趣意を取るではなきなり。詞をとりしなり。

○伊勢の歌に、「音羽川せき入れておとすやり水に人の心の見えもするかな」(という歌がある)。「やり水」は引取水である。後は向うへやるけれども、畢竟庭に引こむ水である。「流れに枕すべき頃」は、暑さのあまり流れの際に寝たいような頃だというのである。これはもともと「枕流」の故事を借りているのである。しかし趣意を取るのではないのである。詞を取ったのである。

※伊勢、『拾遺和歌集』所収445 

※この頃は暑いので、この歌の涼味、日本の庭の風情、何とも言えずいいですねえ。

277
朝づく日いまだにほはぬ山のはの松の葉わたる秋のはつかぜ
五一〇 朝附日(あさづくひ)いまだ匂はぬ山端(やまのは)のまつの葉わたる秋のはつかぜ 文政七年

□「早秋朝山」と云ふ題なり。秋の早きあさき時は、朝ならでは秋の見えぬものなり。日が出づると夏めくなり。それを詠むなり。

○「早秋朝山」と言う題である。秋の早く浅い時節は、朝でなくては秋が見えないものである。日が出ると夏めくのだ。それを詠んだのだ。

※これも佳吟。

278
あらはれて世にたてる名も知らねばや猶忍びけるあきのはつ風
五一一 あらはれて世にたてる名もしらねばや猶(なほ)忍(しの)びける秋のはつかぜ
 文政七年

□今日から秋なりと云ふことは、しかと人が知りあらはれたるなり。夏の中より暑き故に秋はまたるゝなり。それ故に水辺にくゝり、松風にまじりする秋などとしたふなり。それが立秋になれば誰しも知りてあるのに、秋風が吹かぬなり。わが秋と云ふ世中になりたるを知らぬさうな(となり)。風が秋にならぬなり。残暑をよみこなしたるうたなり。

○今日から秋だということは、はっきりと人が知り、現れているのである。夏のうちから暑いので秋は待たれていたのである。それだから「水辺にくぐり」、「松風にまじり」もする秋などと言って慕うのである。それが立秋になれば誰もが知っているのに、秋風が吹かないのだ。わが秋という世の中になったのを(当の秋は)知らないそうな。風が秋にならないのである。残暑を詠みこなした歌である。

『桂園一枝講義』口訳 261-272

2017年07月09日 | 桂園一枝講義口訳
261
けふみれば花のにほひもなかりけり若葉にかゝるみねの白雲
四八三 けふ見れば花の匂ひもなかりけりわか葉にかゝる峯のしら雲

□よくわかりたり。
○よくわかる歌だ。

※佳吟。


262
いつよりか夏のさかひに入間川さしくるしほのほ(誤植)とのすゞしさ
四八五 いつよりか夏の境(さかひ)に入間川さし来るしほのおとのすゞしさ 文化十四年 初句 今朝ヨリヤ

□江戸のすみだ川の水上でよみたるなり。
○江戸のすみだ川の水上でよんだ。

※これも相当の佳吟。

263
わか葉のみしげりそひけりうぐひすのなきつる竹はいづれなるらん
四八六 若葉のみ茂りそひけりうぐひすの鳴(なき)つる竹はいづれ成覧(なるらん)

□「のみ」、きびしくいふ詞なり。七分通りは若竹のやうにみゆるなり。
黒髪に白髪のまじりたる如く多くみゆるなり。
鶯の鳴たは、若葉の出でぬさきであつたなり。「鳴つる竹は」といふ所おもしろきなり。不調法なるやうにいふ所おもしろきなり。

○「のみ」は、きびしくいう詞だ。七分通りは若竹のように見えるのである。
黒髪に白髪のまじったように多く見えるのである。
鶯が鳴いたのは、若葉が出ない先であったのだ。「鳴きつる竹は」という所がおもしろいのである。不調法なように言う所に興趣があるのだ。

264 
夜半の風むぎの穂だちにおとづれてほたるとぶべく野はなりにけり
四八七 夜半(よは)の風麦の穂だちに音信(おとづれ)て蛍とぶべく野はなりにけり 享和三年

□ゐなに逗留して猪名川のほとりにてよみたるなり。
実はどこでもこの景気あるなり。「ほだち」、穂のりんと立(※つ)て居る貌なり。もう蛍が出さうなものじやとなり。

○ゐなに逗留して猪名川のほとりで詠んだのである。
実はどこでもこの景色があるのである。「ほだち」は、穂がりんと立って居る様子である。もう蛍が出そうなものじゃ、というのである。

265
わがまどの内をばてらすかひなしと光けちてもゆくほたるかな
四八八 わがまどのうちをば照すかひなしと光けちてもゆく蛍かな 文化十四年 二句目 アタリハ照す

□車胤のやうな風流もなき此の方どもの窓には、となり。
○車胤のような風流もない我々のような者の窓には(蛍も「光けちてゆく」)というのである。

※ 車胤。東晋末期の政治家。「蛍雪の功」の故事で有名。

266 
夜をてらす光しなくはなかなかにほたるも籠にはこもらざらまし
四八九 夜をてらす光しなくは中々に蛍も籠(こ)にはこもらざらまし 文政七年

□此れは少し述懐の心なり。大なることのありしとき、自負したる歌なり。「夜をてらす」、世をてらすといふに心底をこめていふなり。世に知らるゝやうな才量といふ程の所なり。
「中々に」、こゝは古へのつかひぶりなり。なまなかに照らす故じやとなり。真のつかひかたで云へば、いつでも前後にひつくりかへつてしまふなり。反て蛍といふ所へはつかはぬなり。喬木折風、の類をいふなり。

○これは少し述懐の心である。大きな出来事のあったとき、自負して詠んだ歌である。「夜をてらす」は、世をてらすという言葉に心底(しんてい、衷心)をこめて言うのである。世に知られるような才量という程の所である。
「中々に」、ここはいにしえの言葉の使いぶりである。なまなかに照らす故じゃ、というのである。真の使い方で言えば、いつでも前後に引っくり返ってしまうのである。かえって蛍という所へは使わないのである。喬木風ニ折ラル、の類をいうのである。

※「喬木折風」は、高い木が強い風によって折られるように、人も地位が高くなると批判や攻撃を受けて、身にわざわいが及びやすいという意味。

267
ほとゝぎすしばしばなきしあけがたの山かき曇り小雨ふりきぬ
四九〇 郭公しばしば鳴(なき)しあけがたの山かきくもり小さめふり来(き)ぬ 文政七年

□中岡崎に門人をさけてこもりたる時のうたなり。粟田山に雨降りしことなり。「しばしば」は、今いふさいさい(※再々)。間せまく、せはしなくといふ所につかふ也。「しばしば鳴きし」、せはしなく鳴きし、といふ意なり。

○中岡崎に門人をさけてこもっていた時の歌である。粟田山に雨が降って来たのである。「しばしば」は、今いう「再々」だ。間がせまく、せわしなく、という所に使ったのである。「しばしば鳴きし」は、せわしなく鳴いた、という意味である。

※多く引用されることのある歌。「実景」を基本に据えた歌の作り方は、近代短歌の百年前に景樹(ら)が方法的な自意識を持って実践していたのである。

268
ほととぎすふるき軒端を過ぎがてにむかししのぶの音をのみぞ鳴
四九一 ほととぎすふるき軒端(のきば)を過(すぎ)がてにむかししのぶのねをのみぞ鳴(なく) 文政三年

□「寄子規懐旧」の題なり。仏光寺の御台の三回忌によみたり。「またぬ青葉」に詞書をかきたり。

○「寄子規懐旧」の題である。仏光寺の御台所の三回忌に詠んだ。(この人は)「またぬ青葉」に詞書をかいた人だ。

※やや古めかしい歌。 

269
採りはてぬ澤田のさなへはるばると末こそみえね(※誤記)水の白なみ
四九二 採(とり)はてぬ澤田のさなへはるばるとすゑこそみゆれ水の白浪 文化十四年

□「澤田」、水田なり。かねて水ある所に田を作るなり。反て水をはかしてうゑる位の處なり。「採りはてぬ」、つくさぬほどの「末こそ見ゆれ」、となり。青き苗に水の白波がうつり合ふなり。

○「澤田」は、水田である。かねて水のある所に田を作るのである。かえって水をはかして植える位の所である。「採りはてぬ」は、取り尽くさないほどの「末こそ見ゆれ」というのである。青い苗に水の白波がうつり合うのである。

※四句目、「桂園一枝 月」でも「見ゆれ」。

270
五月雨のくもふきすさむ(※誤記)朝風に桑の実おつる小野はらのさと
四九三 さみだれの雲吹(ふき)すさぶ朝かぜに桑の実落(おつ)る小野原のさと

□城崎の湯に行きたる時に小野原といふ處にてよめり。尤もかひこを多くかへり。桑斗の里なり。実景をしる人はよく合点ゆくなり。「吹きすさぶ」、小あらく吹風なり。

○城崎の湯に行った時に小野原という所で詠んだ。蚕をもっとも多く飼っていた。桑ばかりの里である。実景を知る人はよく合点がゆくのだ。「吹きすさぶ」は、小荒く吹く風である。

※※四句目、「桂園一枝 月」でも「吹すさぶ」。
※なかなかいい感じの歌である。私は正岡子規の「百中十首」の頃の歌に影響していると考えている。これは『香川景樹と近代歌人』に少し書いた。

271
苅りあげし畑の大むぎこきたれてふる五月雨にほしやわぶらん
四九四 苅あげし畑のおほ麦こきたれて降(ふる)さみだれにほしや侘(わぶ)らん 文化二年 一、二句目 かり入シ畑の青麦

□大麦とある故一首の上ととなふなり。
○大麦とあるために一首の上が調うのである。

※これも正岡子規の「百中十首」の歌に趣が似ている。

272
五月雨に加茂の川ばしひきつらんたえてみやこのおとづれもなし
四九五 五月雨に加茂の川ばし引(ひき)つらむたえてみやこの音信(おとづれ)もなし 文化二年

□実景なり。
○実景である。

※岡﨑あたりの在住だと「みやこ」の意識がなかったということがわかる。

『桂園一枝講義』口訳 251-260

2017年07月02日 | 桂園一枝講義口訳
251
山吹のはなぞ一むらながれけるいかだの棹やきしにふれけん
四七四 山吹のはなぞ一むらながれける筏のさをや岸にふれけむ 文化十三年

□大井川にて詠みし歌なり。
○大井川で詠んだ歌である。

※これは京都の大堰川。念のため。

252 
わが門の前のたな橋とりはなて折る人おほし山ぶきの花
四七五 わが門の前(まへ)の棚(たな)はしとりはなせ折(をる)人おほしやまぶきの花 文化二年 二句目 前のイタ橋

□橋辺山ぶき、の題詠なれども、此歌題詠にしてはおもしろからぬなり。棚橋、たなを釣りたる如くなるを云ふなり。ならの朝の歌、よみ人知らず。「古今」に「駒の足折れ前の棚はし」。「とりはなて」、「万葉」に「さのゝ舟橋とりはなて」、などなどあるなり。

○「橋辺ノ山ぶき」、の題詠であるけれども、この歌はその題の歌にしては(あまり)おもしろくない。「棚橋」は、棚を釣ったようになるのを言う。奈良時代の歌の、よみ人知らず。「古今」に「駒の足折れ前の棚はし」。「とりはなて」は、「万葉」に「さのの舟橋とりはなて」、などなど(の用例が)あるのだ。

※この講義によれば三句目、「桂園一枝 月」の「とりはなせ」を「とり放て」と直したことになる。
※「まてといはばねてもゆかなむしひて行くこまのあしをれまへのたなはし」よみ人しらず「古今和歌集」七三九。
「かみつけのさのの舟橋とりはなしおやはさくれどわはさかるがへ」「万葉集」三四三九。二回も言っているので「とりはなて」は誤記ではないだろう。このかたちで覚えていたものか。
※「ならの朝の歌、よみ人知らず。」とあるのは、「萬葉集」一四五の山上憶良の歌の事か。「国歌大観」新訓は「あまがけり」だが、併載の「西本願寺本」傍訓では「トリハナス」。「とりはなす ありがよひつつ みらめども ひとこそしらね まつはしるらむ」。

253  
春の日のながくもかけて見つるかなわがうたゝねの夢のうきはし
四七六 春の日の長くもかけて見つるかなわが転寝(うたゝね)の夢のうきはし 文化十三年

254
春の野のうかれごゝろは果もなしとまれと云ひし蝶はとまりぬ
四七七 はるの野のうかれ心ははてもなしとまれといひし蝶はとまりぬ 文政十年

□童謡の古きに、「蝶よとまれ、菜のはにとまれ」とあり。
春の夕の歌なり。てふは早くとまるものなり。

○童謡の古いものに、「蝶よとまれ、菜のはにとまれ」とある。
春の夕の歌である。蝶は早くとまるものだ。

※254は、人口に膾炙した歌。

255
てふよてふよ花といふ花のさくかぎりながいたらざるところなきかな
四七八 てふよてふよ花といふはなのさくかぎり汝(な)がいたらざる所なきかな 文化二年

□多田の山、ふみのうちにあるなり。伊丹にありし時、多田山に至りし時のうたなり。多田山の山奥に小庵あり。それに休息して詠みたるなり。奥山のいほにて見るだに、蝶はとひ入なり。花と名つくかぎりは、となり。

○「多田の山」は、書物のうちにある。伊丹にいた時、多田山に至った時の歌である。多田山の山奥に小庵があった。それに休息して詠んだのだ。(世を捨てたような)奥山の庵で見る(時で)さえ、蝶は訪ね入るのである。花と名のつくかぎりは、というのである。

256
里中のかき根までをぞすさみける野べのあそびに暮しあまりて
四七九 さと中の垣ねまでをぞすさみける野邊のあそびに暮し余りて 文化十年 三句目 アサリける

□此れまた実景の歌なり。東野に出でゝ摘物したるに、日が高く残る故、白川の里などの垣根をあさるなり。「すさむ」、凡(※そ)「すゝむ」やうなれども、少し異り、「大あらきの森の下草生ぬれば駒もすさめずかる人もなし」とあり。されば、なす業をかけて「すゝむ」の意あり。気分の趣(※当て字)く方にすゝむの意あるなり。「夏の夜の月待つほどの手すさびに岩もる清水いくむすびしつ」。皆其の所作をこめてすゝむるなり。
畢竟此の歌「くらしあまりて」の結句におもしろみあるなり。

○これまた実景の歌だ。東野に出て菜摘みをしたのだが、日が高く残るので、白川の里などの垣根をあさったのである。「すさむ」は、だいたい「すすむ」(の意味の)ようであるけれども、少し異り、(「古今」に)「大あらきの森の下草生ぬれば駒もすさめずかる人もなし」とある。そうであるから、為す業(いましようとしていること)を掛けて「すすむ」の意がある。気分のおもむく方に「すすむ」の意味があるのだ。「夏の夜の月待つほどの手すさびに岩もる清水いくむすびしつ」(基俊)。皆その所作を込めて「すすむる」のである。
畢竟この歌は、「くらしあまりて」の結句におもしろみがあるのである。

※「おほあらきのもりのした草おいぬれば駒もすさめずかる人もなし」「古今」八九二。 
※「夏の夜の月まつほどのてずさみにいはもるしみづいくむすびしつ」藤原基俊「金葉和歌集二度本」一五四。


257
ちゝこ草ははこ草生る野辺に来てむかしこひしくおもひけるかな
四八〇 ちゝこ草はゝ子ぐさおふる野辺に来てむかし恋しく思ひける哉 文化二年 四句目 恋しト

□「ははこ草」は、今云ふ「ほをこ草」なり。ははこ餅ひをも作るなり。ちち草は、ははこの葉のせまきを云ふなり。
○「ははこ草」は、今言う「ほをこ草」である。ははこ餅をも作るのである。「ちち草」は、「ははこ」の葉のせまいのを言うのである。

258 うぐひすのなきてとどむる聲をさへ物とも聞かで春は行らん
四八一 鶯の啼(なき)てとゞむる聲をさへ物ともきかで春はゆくらむ 文化十年

□春をとどむるは、なべての情なり。その上になきて、こゑを出してまで止(※とど)むるなり。
○春をとどめたく思うのは、多くの者の情である。その上にないて、声を出してまでとどめ(ようとす)るのである。

259
今よりははとり少女ら新桑のうらばとるべきなつは来にけり
四八二 今よりははとりをとめら新桑(にひくは)のうら葉とるべき夏は来にけり 文化二年 初句 今ハトテ

□「はとり」、織機つめなり。くれ綾とも云ふなり。新桑、くはの新芽の出たるなり。新草、新枕など云ふくせあるなり。新春をにひはるとはいふべからず。
稽古の為めには、例を推して詞をつかふべし。例のなきは、古へよりわるき故なるなり。稽古には例外の詞はつかはぬなり。此れに拘泥すれば、又古くよりわるきもあるなり。よくよく思惟すべし。
「新桑」、「万葉」の詞なり。ことの外しほらしき詞なり。「万葉」の詞あらあらしきとのみは思ふべからず。「うら」、末葉なり。西京では、下のことを「うら」といふ所もあり。弓のうらはずは、下はずなり。

○「はとり」は、機織り女である。「くれ綾」とも言う。「新桑」は、桑の新芽が出たのだ。新草、新枕などと言う使いぐせがある。(でも)新春を「にひはる」と言うことはできない。
稽古のためには、例をたしかめて詞をつかうといい。例のないのは、昔から(それが)よくないからである。稽古には例外の詞はつかわないのである。これにこだわると、又古くから悪い例もあるのである。よくよく思惟すべきである。
「新桑」は、「万葉」の詞である。とりわけてしおらしい詞である。「万葉」の詞は荒々しいものとばかり思ってはいけない。「うら」は、末葉である。西京では、下のことを「うら」という所もある。弓の「うらはず」は、「下はず」(のこと)だ。

260
白樫のみづえ動かすあさかぜにきのふの春のゆめはさめにき
四八三 しらがしのみづえ動かす朝かぜにきのふの春の夢はさめにき

□かしのみづえは、よく目だちて早きなり。「白樫」とは、樫の葉は白きなり。白き木は多くあれども、かしと云へば調よきなり。
「みづえ」、みづみづしく潤色含んで居る枝なり。
「動かす」、そよぐ意なり。「わつさりと桜さめての木のめがり」といふ発句なり。実景なり。「うごかす」と云ふ中に、朝のねむりをゆすりさますやうなにほひあるなり。

○「かしのみづえ」は、よく目立って(芽生えが)早いのだ。「白樫」と(いったの)は、樫の葉は白いのである。白い木は多くあるけれども、「かし」と言えば調がいいのである。
「みづえ」は、瑞々しく潤色を含んで居る枝だ。
「動かす」は、そよぐ意だ。「わつさりと桜さめての木のめがり」という発句である。実景である。「うごかす」と言う中に、朝のねむりをゆすりさますようなにおいがあるのである。

※259この前に引いた歌とともに、景樹畢生の名歌のひとつ。この自注は、なかなかよい。「調べ」の説明にもなっている。「白樫」は、岩波旧体系本が正宗敦夫と同様に「しらがし」と濁る。窪田空穂系は「しらかし」。「万葉」はむろん「しらかし」だろうが、江戸から明治にかけて景樹の弟子たちはどう読んでいたか。