さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

蝦名泰洋 野樹かずみ『クアドラプル プレイ』

2021年10月31日 | 現代短歌
 2021年夏、蝦名泰洋は北の星座へと旅立った
 南の野樹かずみに〈光の箱〉を託して

という帯が、加藤治郎によって書かれている。

 巻末の蝦名泰洋の作者プロフィールに、1956年青森県生まれ、2021年7月26日永眠。とある。この本は、蝦名泰洋と野樹かずみによる両吟集である。野樹かずみによるあとがきに、次のように書かれている。

「 昔の両吟の原稿を発掘したと蝦名さんに伝えたときに、
「雪の日の足跡のよう感熱紙にかすかに残る歌の文字読む」と書いたら、たちまち、
「文字ならばすべてがうそになりそうで白紙のままに置く京花箋」と返ってきて、
なんと、また両吟がはじまりました。
 二〇一三年の冬、一八年ぶりに再開した両吟は、それからえんえんと続きました。」 150ページ

 この本の最初の章をめっくてみて、蝦名の歌から立ち上って来る気息に自分の同年代の気配を私は感じ取って、共感するのである。また、それに応じる野樹さんのジャンプ力、言葉のバネの力が軽快で心地よい。

  約束のバス停留所会えるまで雪は鼓動を速めつつ降る     泰洋

  降る雪を見上げているとぐんぐんと体が空へのぼっていった   かずみ

  薄い背中わずかながらに気にかかる左右の翅の長さのちがい   泰洋

  十字架の影であったとふと気づく空飛ぶ鳥も飛べない鳥も   かずみ

 実感を踏まえたうえで言葉がはばたく遊びに興じているということが、わかって、こういう行き方もあったのだな、と改めて思う。

  ステップ・バイ・ステップ今日はキッチンのゴミ出しをまずしようと思う  かずみ

  カーテンが日ざしの量をはかりおり歌はゆりかご歌は墓石         泰洋

 なんとなく自身の早世を予知していたかのような蝦名の「歌は墓石」という作品である。


  ここ過ぎて生きのびるため少女らはお喋りをするたくさん笑う   かずみ

  生誕祭からだを返す日はあれどこころを返す日はなかりけり    泰洋

 この集成をめくりながら、蝦名さんというひとの無垢の魂のようなものの所在に触れた気がした。それに応ずることのできた野樹さんの相互共鳴器としての詩性にも感心した。
 理想的な詩歌人の「友人」と「友情」のかたちが、ここにはあるのだ。こういうのが、漱石の言っていた〈ブリス〉だろう。少しだけ紹介されている連句や詩についての蝦名さんのアフォリズム的な文章をもっと読みたい気がした。

雑感

2021年10月29日 | その他
二〇二一年も余す所あと二ヶ月。コロナの影響で毎月の例会も何度か休会になった。あらためて思うことは、この間の政治の無策である。コロナ禍が長引いたのは、圧力団体の日本医師会にまったく手出しのできない政府とそれへの反対キャンペーンも張れないマスコミの惰弱に責任の一半がある。夜七時代のNHKの番組編成が、ニュース番組から衆愚路線に変更されて、即効的な報道の実をあげられなかったことも、コロナの抑え込みに失敗した原因の一つだと私は考えている。自粛警察なる現象も飛び出して、日本人が公的な動きをする際の後ろ暗い一面を再び見せられた。

最近私は馬場マコト著『戦争と広告』(二〇一〇年白水社)という本を読んだが、戦争の時代の日本人の行動について知ることは、今を反省するうえでとても大事なことだ。

それとは別に、同時並行で岩波文庫の『ローマ皇帝伝 上・下』を再読し始めた。そこには、よくもここまで赤裸々に描いたものだというような、むき出しの野望や感心できない振る舞いが歴代皇帝の姿として描かれている。ローマ時代も今もやっていることが変わりない人間の姿というものが、そこにはあって、短歌を含む詩歌はそうした「人間苦」の諸相を止揚するためにあるものだと、私なりに思ってみたりもする。しかし、怒りや憤りといったものは、なかなか歌になりにくい。
    一首。
  志操なく廉恥心なく生き延びて「はりつけ」の字を指にかき居り 

  
 

日高堯子『水衣集』

2021年10月17日 | 現代短歌
 「水衣」は「みずごろも」と読む。あとがきによれば、「能装束や狂言の蚊の衣装でもありますが、日常的には水仕事をする時のふだん着、粗衣といういうことです。」とある。2019年から2021年にかけての作品の集成である。コロナ禍によって、たびたび外出制限が呼びかけられたこの間の日常は、まさに強いられた「ケ」の期間であり、タイトルにはそのような含意が込められているのだろう。しかし、翻って思えば、衣装であるとするからには、舞うこともできるのだ。

 開巻巻頭から衰弱した母の歌が見え、いつ死が訪れるのかと思いながら読んでゆくと、五章めの「早春賦」ではやくも母の末期を看取っている。最晩年の母のすがたをうたった歌が、しみじみとしたいい歌である。

  いのち老いて母はさびしい縫ひぐるみ さはつてほしいさはつてほしい

  母はただわが肉にしてかかへ抱くとき底なく母とつながる
  
     ※「抱く」に「だ-く」、「底」に「そこひ」と振り仮名。

  とろとろとお粥をはこぶ 木の匙が肉身やはらかき母には似あふ
  
     ※「肉身」に「しし」と振り仮名。

 母への思いは、二、三首目のように触覚的に表現されていて、私は母の肉体とまるで幼子と母親の関係にもどったかのように、濃厚に溶け合っている。それが、老いのあわれさをなだめるかのように、悲しみをたたえつつも一種のしあわせな雰囲気を醸し出しているところが、何ともすばらしい。母が亡くなる直前の頃に、私は「川がみたい ゆつくりと水よこたへて息づきふかくながれる川が」という心情で表に出る。

  川肌のさむざむとして夢よりも深きところへ流れてゐたり

 これは生と死を深いところでつないでいくような、水の流れをうたったものである。このように、死が夢を介して一抹の甘美なものを含み得ることを作者はこれまでも歌にして来たのではないだろうか。

  お母さんずつと好きでしたささやけば薄目をひらき「そかしら?」といふ
    
    *「そうかしら」の母の言い癖。


  老い床に川が流れてゐたりけり椿があかく咲きゐたりけり
  
    ※「床」に「どこ」と振り仮名。

 この二首目の歌をみれば、先の川の歌との連関は明白である。そのように連作としてみごとに川をひとつのライトモチーフとして使っている。「そかしら」というかわいらしい口調に元気なころの母の闊達な姿が浮かぶ。二首目の歌の椿は命の暗喩にもなっているだろう。

  いのちといふ粘着質のいきものがぼろぼろの身体をまだ死なしめず

   ※詞書に、「命とは、身体でもなく、魂でもなく」とある。

この歌は本文の最初に引いた二首と響き合うところがある。「いのち」という見えない何かを、肉体の現実を前にして透視している作者のすがたがここにはある。

 ゆっくり読むべき歌集であり、本文は書評を意図したものではないから、このぐらいにしておく。久しぶりにふれる歌集の造本がなつかしく、ありがたい。手触り、紙質、装丁、みなこの歌集の中身と呼応しあって、やさしいしみじみとした歌にふれるよろこびを味あわせてくれるものとなっている。

スマホの画面の下をうごく広告について

2021年10月17日 | その他
 私はこのブログをパソコンの画面でみて、パソコンを使って書いているのだけれども、先日スマホで自分のブログを開いて見たら、動画の広告のキャラクターが画面の下を走るように動き回っていて、とても落ち着いて見られたものではない。私は大量に画像や写真を投稿したりしていないので、有料の課金サービスを利用するメリットがあまりない。弱ったことである。それとも余分に料金を払って広告をなくすように仕向けるための方策だろうか。担当者には、善処をもとめたいところである。

と書いて、いま検索してみたら、やはり画像が下段をうごいてとても読みにくい。ひとつ対策としては、親指で隠しながら読むことで、長時間でないなら、これが一番いいかもしれない。

雑感 真鍋さんの言葉から

2021年10月09日 | 大学入試改革
 「私は調和のなかで生きることができません。それが、日本に帰りたくない理由の一つなんです。」
 真鍋淑郎さんはノーベル賞受賞の知らせを受けた後の日本人ジャーナリスト向けの記者会見でこう語ったという。

 この間の事情を、ずいぶん前に吉本隆明と沢木耕太郎とが話題にしていたことがある。

「吉本  
ぼくはこう思います。日本の一般的な学問のレベルがあるとしますね。そのレベルというのは、一種の場なんですね。その場というのが、学者なら学者を育てるわけです。だから、その場自体のレベルから、個々の人はどうしても逃げられないところがありますよね。その場が、もうまるで違うんだと思います。

沢木 
そうしますと、場というのは、たとえばどうしたら変化しうるんですか。

吉本
それは、こうするより仕方がないんです。つまり、個々人の問題となると、超人的にやるほか方法がないわけですよ。(略)」

 『達人、かく語りき 沢木耕太郎セッションズⅠ』(2020年 岩波書店刊)

 ここで、私はここでの沢木の「そうしますと、場というのは、たとえばどうしたら変化しうるんですか。」という問いに対しては、ひとつだけ私なりに実感として思い浮かぶ答がある。

 こうした特殊日本的弊害をなくして、「日本がうまれかわる」ためには、そうした日本の悪しき「場」の在り様を助長している有害な政府組織の改革が必須である。

つまり、認可と予算配分の権限を持っているがゆえに、自分たちは現場の人間よりも立場が上で、上意下達の指示を出す権利があるのだと勘違いしている官僚がとぐろを巻いているような組織、文科省を抜本的に改革しないかぎり、日本の学術分野における沈没は続くだろうということだ。

安部洋子『続・西方の湖』

2021年10月03日 | 現代短歌
  島根県松江の歌人で、宍道湖の自然をうつくしく歌い続けてきた安部洋子さんの新しい歌集『続・西方の湖』が出た。あとがきには、昭和ひとけた生まれだから最後の歌集という思いがにじむ。私はずっと安部洋子さんの歌をみなさんに推奨してきたつもりである。だから、今度の新しい歌集は実にうれしい。あとがきをみて、陶潜の「帰去来の辞」を思い出したことである。「やんぬるかな。かたちを宇内に寓する、また幾時ぞ。」「清流にむかいて、おもむろにうそぶき、詩を賦す。いささか化に乗じて、もって尽くるに帰し、かの天命をたのしみて何をかうたがわん。」これは、まさしく安部洋子さんの現在のすがたである。何首か引いておこう。

  宍道湖は猪の疾駆する沼とありのちの世生きて幻影を追う

  消滅とは救いのごとくあらんかと汽水の流れのきらめきを見つ

 私とて消滅のときを思わないではないが、安部さんのお年になると、それは真実日々の感覚にしみとおる感覚であろう。汽水のきらめきに消えてゆくいのち、というようなことを思うと、自ずから浄められてゆくものがある。

  限りなく水皴を畳む湖の放つ光に圧されてしまう

  泡沫の美しさも知る汽水湖のほとりに生れ不埒に生きて

  落日は少し身軽くすべり込むこんこんとやがて眠らん湖に

 安部さんが「不埒に生き」たとはとても思われないが、人として生きること自体がすでに不埒なのだという感覚は、なんとなく伝わる。

  突き抜けて見たきものかな青空の底の星屑の流れの中を

  日暮れの空ひしめきて渡る黒き鳥のこころ翳らす羽音を聞きぬ

 滅びの感覚を抱きしめてうたうこと。多くの詩歌人がその道を踏んだ。だから、私はこの歌集を嘉したいと思うのである。

  かたちなく日月は過ぎてゆきながら光はつねに湖の面に消ゆ

  さまざまに終うる人間のからくりも湖は見とどけときに荒立つ

  おりおりに歪む心と思うなり湖底へ届かぬ光のありて

 このおしまいに引いた一首には、リアリズムの系譜に生きた歌人ならではの、はじらいがちな自省がある。