さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

雑記 「ぶあいそうな手紙」そのほか

2020年09月19日 | 映画
 八月から九月のはじめにかけての猛暑の日々に、仕事から帰るとひと風呂浴びてから缶ビールをあけると、手元の本を読んでいるうちにそのまま寝てしまい、二時間ほどして起き直ると布団を敷いてまた寝てしまうというようなことの繰り返しで、空いた時間は依頼原稿をまとめるだけで精一杯という感じだったから、ブログの更新が滞ったのは、ひとえに猛暑日のせいである。というのでもなく、ここしばらく急に涼しくなってからも同じようなことをやっているので、何とか態勢を立て直さなければいけないのだけれども、書こうと思う本はたまる一方で、手がつかないままである。

 そういう日々のなかで一度だけ、映画を見に行った。邦題「ぶあいそうな手紙」というブラジル映画で、原題は「エルネストの目には」というタイトルの孤独な老人が主人公の映画である。銀座でやっていたのが本厚木に来ているというから、友人に会いがてら見に行った。

声を出して手紙を読む、ということを通して話のすじが展開してゆくのだが、その中で手紙の書き出しをどういう表現にするかが、その後のドラマの展開にとって決定的な影響力を及ぼしてゆくところがおもしろかった。手紙の言葉が、人の運命を変えてゆくのである。その手紙の返事の書き出しの表現を変えることを提案する女の子は、おしまいに老人の運命を動かしてしまう。

ウルグアイと接するブラジルの南端の街に住むウルグアイ出身の主人公は、スペイン語で手紙を読み書きする。ブラジルの公用語はポルトガル語だから、目の悪い主人公を助ける女の子はポルトガル語のネイティブである。でも、ふたつの言語は類縁性があるので、だいたいのところは通じ合うらしい。関西弁と東北弁の違いぐらいというようなところだろうか。身振りと表情が入ればだいたいのところは通じるわけである。主人公はブラジル暮らしが長いから、普通にポルトガル語はできる。けれども、結局母語の国はウルグアイなのだろう。加えて、私はあまりくわしくないから何とも言えないが、映画のなかに流れる有名な音楽家による楽曲にも、私には読み取りきれなかった深い含意があるようである。

人間は、最後は母語の国に戻りたいと願う。そういった老年の終着する場所についての問いかけのようなものを含んだ映画であった。作品のラストシーンは、たとえて言うなら放蕩息子の帰還の抱擁の図なのである。死が、そのようなものとしてある、というキリスト教文化圏の人の抱く原型的な願望の図像というものは、あれなのだと思った。

翻って日本の場合はどういう図柄だろうか。やはり、阿弥陀如来来迎図なのではないだろうか。

 ついでに書いておくと、老いの果てに、「死は前を向いていてほしい」と願う歌を残した岡井隆の最期に見えていたのは、愛妻の顔だったという。ここには引かないが、「未来」の選歌後評に、さいとうなおこさんが書いた訪問記を読んで、なんとなく救われた気がしたのだった。

☆これもついでに。当方は、この三ケ月間、本阿弥書店刊の「歌壇」という短歌の雑誌の9、10、11月号に4ページの「作品月評」を掲載したので、当方のブログからさらに何か読んでみたいと思われた方は、そちらをご購入ください。何年間はこのブログに掲載したりしませんし、なかなか特集にいいものが多いので、短歌専門でない方にもおすすめできます。

河邑厚徳監督『天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ“』のこと

2017年03月14日 | 映画
 私はこのブログには、自分があまりくわしくないことや、どちらかというと苦手なことはなるたけ書かないようにしたいと思っている。
 でも、この映画のことは、語らずにはいられない。これを観ると、料理によって生きものの命をいただいて生きることは、命がともに生きるということなのだということがわかる。
 さらにまた、「最先端」とか「新しい」とか、常々言っている自分の言葉が、ばかばかしくなる。

 世界は常に新しく、そしてまた古い。映画の中には、いのちのスープの伝授をうける人々や、生産者だけではなく、日本全国の土を集めてそれを展示してみせた陶芸家が出て来る。その多様な色合いを持つ土を前にして、辰巳さんはぐーっとそこに顔を近づける。自然のままなのに、何て多様な色を持っていることでしょう。そうして、この土からは、その土の持っている気のようなものが伝わってくるわね。

 しいたけ農家の人が出て来る。愛情をこめて養った土から生え出て来た原木を使って、おいしいシイタケはできるのです。

 「けんちん汁というのは、冬を迎えるために、根菜類の持つ力をいただいて、体の準備をするためのものなのね。…へらによってね、野菜類がまごつかないようなへら使いをしなきゃならない。野菜がいやがるような、へら使いはしないことです。いい?あっちがまざったら、こっちが来るだろうなって、そういう予感をもって混ぜてもらいたいもんだと、野菜は思っているとおもうのね。それはね、私が子供の頃にお風呂で母に体を洗ってもらった、その記憶なのね。…」

 幼年の頃の触覚的な記憶が、自分の現在の指先の感覚とつながっているという、この場面の語りは、人間の愛というものの伝えられてゆくかたちを見事に表現しているように思われる。

 梅干しを漬ける場面があるが、紫蘇の汁にひたったひとつひとつの梅干しが天日と夜風に当てられるために箕の上に並べられてゆく時の、さまざまな「あか」色の発色する際立った美しさは、この映画の映像のもつ贅沢なよろこびである。

 もし自分が今していることに絶望したり、将来を悲観したりしている方がおられたら、ぜひこの映画をみてほしい。きっと、ゆっくりしずかに、生きるちからが自分の中に湧きあがって来るのを感ずるのではないかと思う。観終わってから、というのはうそで、見ている最中から、涙がとまらないのであるが、こう書くとたいてい逆効果なことはわかっているが、まあ本当にそうなのだ。

 私は自分の職場で辰巳さんの「いのちのスープ」の実践についての新聞記事を必ず医療・看護系や、栄養学系を志望する学生には読ませることにしていたが、来年からは自分の担当する全員に読ませることにしたいとあらためて思った。どうしてそれをして来なかったのだろう…。

 いつだったか、國學院大學のある先生が、自分の教えている学生たちが三十代でがんになつたりすることがあまりにも多いので、やっぱり発酵食品が大事だと考えて、その先生の専門は哲学や文学なのであるが、最近は授業で梅干しを漬けるということをやっている、と話しておられた。私はその話を聞いてから自分も糠漬けを漬けることをはじめた。関連して松生恒夫の『老いない腸をつくる』(平凡社新書)という本があるが、ただの健康増進本ではなく大事な知見を得られる。食べ物についての知識は、生き方の技術だと言ってもいいだろう。

 震災関連の番組のせいかしらないが、大波の海辺から避難する夢をみてしまった。その夢の後半は、なぜか逃げてきたあとで、小高い砂浜にすわって子供たちと貝の足輪をつくるしあわせな場面に転換していた。だいたい私は悪夢をみることがおおいのだけれども、これが夢の場の磁力というものであると、今朝のように感じさせられる場合もある。というわけで、昨日書いたつまらない文章をいま書き直し終えた。