さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

2023年07月27日 | 現代詩
「だから、自分のなかでなにかを志向する文脈がまだ十分に熟成されていないのに、何かの検索をきっかけにして、自動的に個人の嗜好に合わせたものが紹介されるようになる。いわば、嗜好品の見本が押し寄せる。これに年中従っていると、流されっぱなしになる。これはかなり自分を見失った状態だ。」
「そもそも、見失うような自分なんてあったのだろうか。」
「もともと『自分のなかでなにかを志向する文脈』というものが、相当に浮薄なものだということは、わかる。けれども、個々人の持っている生活史性のようなものは、そう簡単に変更されるものではないだろう。そこはやはりこだわりを持ち続けなければいけない、と言うより、そうしないとおもしろくないだろう。」
「さっき作った詩をひとつ出して見ようか。」

  的

的をつくって、その周辺に
ためしに足元の土くれや、木の枝の端のようなものを
投げてみる。
そうすると、的がだんだん
的らしくなり
色が濃くなってくる気配がある。

  「良(よ)う候(そろ)」

そのむかし
戦争映画のなかで 飛行機乗りが言っていたことばだが
中学生には不思議なひびきを持っていた。

  ようそろ
  はっ、はっ、はっ、ようそろ

潮が満ちて来ると、海辺のふじつぼの先端の
爪みたいなさきっぽから顔を出す感じの
吹き出る笑いが
ミジンコの足の谷間に瞬く間に大量発生する。

すると
的が、ひかりはじめた
木の枝のすきまから
白いひかりが射しこんで反射する
的が 膨らみ、大きくなって
輝きを増している

眩しくて目をあけていられない
的が拡大して どんどん大きくなって
もう見ていられない

見ていられないよ





飯島耕一『別れた友』

2021年06月19日 | 現代詩
 古書の話をする。この本は、刊行されたのが一九七八年である。ちょうど私が大学に入学した年で、私はまだ十九歳になるかならないかの歳だった。その頃、筆者は自分の少年時代に戦地に見送った自分より年長の世代の詩人たちのことを、本に書いていたのだった。

 「リアン」、フランス語で「無」というタイトルの詩誌があった。筆者の早世した父は、そういう若者たちの詩の運動にかかわっていた。その雑誌は、内容が治安維持法にふれているということで、昭和十六年十二月に関係者が芋づる式に検挙された。そこに詩を書いていた詩人Kの遺稿集を出すために、筆者は関係者を訪ねて旅を重ねる。その見聞記を柱にしながら、塗り重ねるようにして戦中と戦争前後の記憶が語られていく本書の文章は、記憶の傷から滲み出て来るような無念と喪失感、痛切な悼みの念に満ちたものであるが、抑制され、感傷を排した、己に決して溺れない文章である。
 
 そこでは筆者の故郷の岡山の空襲や、焼け跡の風景や、広島の原爆のことが自ずから話題にされてゆく。舞台は神戸三ノ宮。岡山。広島。そうして瀬戸内海の島々。記憶はあちらに飛び、こちらに飛びしつつ、戦時の雰囲気を濃厚に立ちのぼらせて、死者たちのある日の残像が、ありありとそこに浮き上がって来る。

「 判事はHの詩集『乳母車奇譚』のページを指で辿った。そこには次のような個所があった。

  OH! あんたはファッシストですナ
  御足を踏んでもごめんなさいョ
  ‥‥‥‥
  人民はハマグリを求めて急湍の如く歴史の海浜へ駆け出して行った。一
  人はハンドルを持ち一人はホロを持ち誰かは車輪を持ち誰かは板を又誰
  かは藤のツルを抱いて、そしてお互ひに先を急いだ。Satyriasisの如く
  そこには若干のヤブニラミの挨拶がこぼれた。

「これは一体何かね。これはニヒリズムではないかね。ニヒリズムはよくない。こんな饒舌は許されない」。 」 同書二九ページ

「 昭和十二年、Kの肉体を蝕んでいた結核は悪化し、Kの弟はそれに付添って朝鮮の釜山までの汽車の旅をした。(略)それより前、北シナの盧溝橋で日中の戦争ははじまっていた。
 Kはそのとき「黒い歌」の一篇をすでに書いていた。

「孔雀のやうに羽をひろげて
 橋の下を
 棄てられた花束のように
 溺死体がいくつとなく流されてゆく」

と、その詩ははじまっていた。Kの詩は日中の戦争がはじまると、何者の力に押されたのか、黒く、きびしく、不吉な色に染め変えられていた。たしかにKを背後から突然押した何者かの力があった。

「空には架空の花が咲き
 天使の夢やボール紙の悲しみが
 知識人の太陽やアナルシイが
 大戦時代の
 マルク紙幣のやうに膨張する‥‥」

とその詩はつづいていた。 」 同書一〇六ページ

 こんな詩を書くだけで権力にとがめられた時代があった。青年たちは戦地に送られ、あるいは餓死し、あるいは病死し、あるいは潜水艦攻撃のために輸送船のなかで溺死した。戦闘による死者よりも、戦病死や餓死の方が多いのだから、先の戦争の教訓は、無能で無責任な指導部が思い上がると、その被害は甚大なものになる、ということである。

 前後して両角良彦の『反ナポレオン考』(朝日選書1991年)という本を見ていたら、スペインにおいてゴヤが戦争の惨禍のシリーズで描いたような泥沼の闘いを強いられたフランス軍も、食料・物資の現地調達(略奪)という過ちを犯したために、民衆の怨みをかって血で血を洗う抗戦を招いたということだった。戦前の陸海軍の学校で、このナポレオンの教訓はどう教えられていたのか。やはり『孫子』の兵法の影響が大きすぎたのかもしれない。補給物資や食料の現地調達というのは、古代的な戦争思想である。アメリカの物資に負けた、とは戦争直後の日本人が等しく口にした言葉である。飯島耕一も、同様なことを本書の中に書いている。GIの体にぴちっと合った制服の大きな尻を見て、この尻に負けたのだな、というようなことを思うくだりがある。

 戦地に行って死んだ人々の大半は、軍属を別にすれば、大半が若い人たちであった。兵隊にとられるのは、職業軍人でなければ二十代、三十代の若い人たちが主だった。そのことの意味が、現在は次第に忘れさられようとしている。安岡章太郎の『悪い仲間』のシリーズや、古山高麗男のビルマ戦線ものなどには、少数の生き残った者が書くしかないのだという思いが感じられる。

 

 
 

入沢康夫の詩「お伽芝居」を読む

2020年05月27日 | 現代詩
入沢康夫の詩「お伽芝居」を読む

この詩は、『「月」そのほかの詩』という1977年4月思潮社刊の詩集に入っているものだ。一行目の「槐樹」には、「ゑんぢゆ」と旧仮名遣いの振り仮名が付せられていることを先にことわっておく。

「お伽芝居」     入沢康夫
     1
槐樹の枝々に鈴なりになつてゐた
あの赤い天使たちは
どこへ飛び去つてしまつたのか?
父母の墓といつしよに
菫いろの帆布の中を漂ふ百あまりの
真新しい刈株
それから いきなり闇が落ちかかつて
最後の荷馬車が
打穀機の音を立ててあわただしく出発した時
頬のこけた少年は
ブリキの楽器の底から
旧い都市の見取図を発見する それから
ボール紙製の星と
縞蛇の抜け殻とを

〇解説
「槐樹の枝々に鈴なりになつてゐた」「あの赤い天使たち」を、七十年前後の日本の学生運動そのほかの高揚した思潮と重ねて読む。それから、現代の読者は、これを社会変革のために身命を賭して散っていった過去の「星」と重ねて読んでもおもしろいかもしれない。さらに現代社会にある別のものの比喩として重ねて読むのは、読者の自由だ。
今は、その「星」は「ボール紙製」のものとなっていて、荒廃した農村らしい場所に「縞蛇の抜け殻」と一緒に捨て去られている。一連のなかでは、「父母の墓といつしよに」「菫いろの帆布の中を漂ふ百あまりの真新しい刈株」だけが、みずみずしい。ただし、すでに「刈株」だ。すぐに「いきなり闇が落ちかかつて」きて荷馬車は出発してしまう。これがわれわれの世界なのだ。

     2
槐樹の枝々に鈴なりになつてゐた
あの天使たちは
どこへ飛び去つたか? どこへ?
ボール紙の星は 少年の夢の二重の鎖で宙に吊られ
そのま下の ごつごつした大地を
巨大な龍が這ひまはり
地平のあたりで
旧い都市の塔が 伸びちぢみを繰りかへしてゐた
やがて
菫いろの帆布の焼きはらはれる臭気の中を
少年も また 出発した
金属製の埃
その上に点々とつづく足あとは
半透明の龍の舌が舐めて
一つ一つ消してしまつた

〇解説
「少年」はアルチュール・ランボーを連想させる。「菫いろの帆布の焼きはらはれる臭気の中を」「少年も また 出発した」「金属製の埃」という詩句は、パリ・コンミューンの中に出かけて行った少年詩人ランボーと『地獄の季節』や『イリュミナシオン』の詩の文句を連想させる。そしてこれはランボーだけではなく、夢見るちからを持った無数の少年たちのことを思わせる。
「真新しい刈株」は、希望の色を帯びた「菫いろの帆布」とともに焼き払われてしまうのだが、これは社会的な圧力とか政治的な弾圧のようなものを示唆しているだろう。「旧い都市の塔が 伸びちぢみを繰りかへしてゐた」というのは、いかにも空想のように思えるかもしれないが、待てよ、現実に世界中にそういうビルがあったではないか。テロで消えたのもあるし、中にはおっちょこちょいにも自壊したやつまである。詩人の陰惨な「お伽芝居」語りの世界は、現実の世界に実現しているのだ。
そうして、「ボール紙の星は 少年の夢の二重の鎖で宙に吊られ」、「そのま下の ごつごつした大地を」「巨大な龍が這ひまは」っている光景は、実際に世界のどこかに存在しているのではないか。

    3
見取図はまさしく使ひ物にならなかつた
星はボール紙でしかなかつた 抜け殻も……
所詮抜け殻 (あの赤い天使は?)
今日 一人の中年男が
なまぬるい沈黙 こはれやすい孤独の中で
一人の少年の心臓をきざんで
薬草(心臓病の)といつしよに煮て食べてゐた
床にちらばつた柘榴の種の上にあぐらをかいて

〇解説
これは最終的な局面だ。「あの赤い天使」たちは飛び去ったまま、「少年の夢の星」も神通力を持たず、ニセモノの抜け殻と等しいものだったことがわかってしまった。「一人の中年男」は、「なまぬるい沈黙 こはれやすい孤独の中で」、自分自身の養生のために、「少年の心臓」を食ってしまう。「床にちらばつた柘榴の種」も赤い色をしていて血を暗示する。その「中年男」は、血の色の飛び散った上に「あぐらをかいて」、少年の心臓を食っているのだ!
この中年男には、多少作者の自己が投影されている気がしないでもないが、なんて感傷的な、ふてぶてしい野郎ではないか。こういう中年男の姿とともに、自分の内側に住むそうした安直な負け犬根性の精神を作者は斬っているのだ。それにしても、「あの赤い天使」はどこに飛び去ってしまったのだろう。いぶかしいことだ。

     4
金色の星が
低い丘の端に輝いてゐる
その上の上の空に
壮麗な都市が漂つてゐる
――けれども老人には それが見えない
一頭の龍が 老人の背後にゐて
優しく息を吐きかけて
老人の手足の冷えるのを
ふせいでやつてゐる(何のために?)
けれども老人には それが見えない
老人ばかりでなく
他の人々にもそれは見えない
よろよろ歩く老人の格好を
龍はいたづらつぽく真似たりする
(誰にも それは見えない!)

〇解説
幻影の都市は、壮麗なうつくしさで頭の真上の空にかかっている。これは、夕空の詩的な表現のようでもあり、まるで天国のようにも見えるが、やはりユートピア的なものを暗示しているだろう。そうして、「龍」は悪役ではなかった。先に登場したときに、龍の舌は、少年の足跡を舐めて「一つ一つ消して」くれていたのだった。今度は龍の親切は老人に向けられている。でもその龍の親切は、「老人」にも、人々にも見えない。おどけたユーモアの感覚まであるドラゴン!しかし、みすみす少年を死なせてしまった人々は、夢見る能力を失っている。だから、「見えない」。ヴィジョンはここでは失われている。

     5
(誰にも それは見えない!)
槐樹の枝々に
いつのまにか戻つて鈴なりになつてゐる
あの赤い天使たち以外には
それを見たものも 聞いたものもゐない

〇解説
椋鳥たちが夕べの枝に戻ってくるように、「槐樹の枝々に」「いつのまにか戻つて鈴なりになつてゐる」「赤い天使たち」には、それらの光景が全部見えている。龍にからかわれている老人や人々に見えないものも、見える。この天使たちは、いったい何者だろうか。
新しいものは古く、古いものは新しい。私はこの詩のアクチュアルな新しさに触れこの現在に生きる欝をいささか散ずるのみである。

清水昶「音楽」

2019年10月12日 | 現代詩
 頭の上にここ数十年で最大級という台風がやってこようとしているのを、いまか、いまかと待っているので落ち着かない。古書で買ったまま忘れていた本が足元の暗がりにあるのをいま引っ張り出した。梱包用のビニールが、ざっと見てはがした時のままからんでいるのを外して、表紙の絵にはっとする。女の横顔と顔を覆った少年の横顔と、分銅らしいものや歯車に、衣服や裸体の一部が組み合わさったコラージュは、四色の抑えた色刷りでうつくしい。装丁者は田村文雄。昭和五一(1976)年青土社刊。

音楽             『新しい記憶の果実』所収

きみは知っているか
空は虚無のように晴れわたり
もう誰の頭上にも
小さなハリケーンさえ来なくなって久しいが
きみの背後で
歳月ははるか遠くまで透けていて
たとえば竹馬にのる子供のように
想いもかけぬ新鮮な高さが目撃されていたりする
ふいに皿を落としたり
ゆびを切ったりの
すこしづつ死にゆくくらしのはしっこを
ネギのように切り棄てているきみの背後で

きみは知っているか
人が死ぬとき
ぼくは涙をながさない
それはぼくが
楽器のように鳴ることばかり
考えているせいでもあるのだが
故郷を失った音楽には
赤い月がのぼってゆく
世界中に廃墟をひろげて‥‥
それでも
花を捧げ
接吻を投げ
たましいを投射しようとする者がいる
たとえばその人は
めくらの国家の一隅で
燃える手足を持っている
はげしい情動に堪えて小刻みに
真夜中のピアノを弾いてゆく
生きいきとくるしみはねる千の黒鍵に
やがて大波も来るだろう
ひいてゆく激怒のような波の後には
すみきった悲しみが
塔のように
その人の姿勢を証明するだろう

きみは知っているか
暗然と退路を探が(ママ)して    
頭をふって歩く人でも
ときには
涙を忘れ年齢を忘れ
ボクサーのように後退したり
後退しながらジャブを繰り出し
棄て身の一撃を考えていることを
無差別に
差別されつつ
全身で鳴りはじめるピアニストが
闇で燃える音楽のなかに
一点のひかりを追うかのように

 一連めから読んでみよう。「きみは知っているか」という問いかけは、他者に向かって発せられている以上に、自分自身に向けて発せられている。「空は虚無のように晴れわたり」というのは、ややわかりすぎる詩句だが、要するに何も意味あるものが感じられない生を暗示する。「もう誰の頭上にも/小さなハリケーンさえ来なくなって久しい」というのは、簡単に言うと、作者の世代なら「戦後革命」のようなものが滅び去ったことを含意している。
しかし、続く詩句の「きみの背後で/歳月ははるか遠くまで透けていて/たとえば竹馬にのる子供のように/想いもかけぬ新鮮な高さが目撃されていたりする」というイメージは美しい。「虚無」の空ではなく、「新鮮な高さ」があるのだ。それはすがすがしく、秋の空のような清澄な理念の高さとして見えるものなのだ。

 二連目の「ぼく」は、「人が死ぬとき/ぼくは涙をながさない」と言う。唐突に人の死が出て来るが、この詩集の冒頭の詩は、「村上一郎氏の自死に」と、題に言葉が添えられた詩から始まっている。また、祖父の遺影に、と言葉が添えられた詩もある。「ぼくは涙をながさない」というのは、非情だからではない。ここに、「それはぼくが/楽器のように鳴ることばかり/考えているせいでもあるのだが」と、涙をながさない理由が示される。ぼくが「楽器のように鳴る」とは、どういうことだろう。それは、以下に示される。

簡単に言うと、それは、なにものかへの情熱を保ち続けるということである。夢を捨てない、ということである。今日の香港の抗議デモに参加している人々のように。だから、「全身で鳴りはじめるピアニスト」たらんとしているのだから、「涙をながさない」のである。

たとえばその人は
めくらの国家の一隅で
燃える手足を持っている
はげしい情動に堪えて小刻みに
真夜中のピアノを弾いてゆく
生きいきとくるしみはねる千の黒鍵に
やがて大波も来るだろう
ひいてゆく激怒のような波の後には
すみきった悲しみが
塔のように
その人の姿勢を証明するだろう

 この詩は、戦って目の前で死んだ人たちのために捧げられたものだ。

ここで現実の巨大台風のもとで恐れおののいているわれわれの頭の中には、小さなハリケーンすら吹いていないことを、あらためて思いみるのである。徹底的に消費化して、理念を手探りすることを忘れたスマホ人間の群れにこの私も溶け込んでいる。私にひとの事を言う資格はない。けれども、こういう詩を読んでみようと思うことはある。それだけだ。

念のため、現実のハリケーンに備えてたったいま働いでいる人々に敬意を表します。

雨中待聲

2018年05月26日 | 現代詩
 今日は詩をひとつ。

雨中待聲                     さいかち真

   さみだれの雲間の軒のほととぎす雨にかはりて声の落ちくる  慈鎮『玉葉集』より

狙って 狙われたところに
それが来るはず

でも 君らをどうやって助けたらいいのか
私を カイカワレ ウリウリラレ 
取引に出て行く 
わが娘よ 息子たちよ
克つために…

君らが狙ったところに きっと来る
香ばしい一杯のコーヒー
のような通知
それがきっと 来るはずであったのだが
届けられたものは
雨あられのような銃弾とガス弾だという
そんな西の国もある

ほとどきすの声にまぎれて
露にまみれた知らせが きっと来るはず
木の間を抜けて あかるい小窓の
光またたくほとりまで 
待つことにしよう 
雲間よりほととぎすの声とともに
届くはずのものを


嶋岡晨「一つの家具」

2018年05月20日 | 現代詩
嶋岡晨「一つの家具」      『弔砲』平成十三年 獏の会刊

 最近のさまざまな報道を見ていると、これはなかなかぴったりと来る詩なので、引いてみよう。

一つの家具   嶋岡晨

椅子がつぎつぎに 待っている
かける人びとを しかしどの椅子も
腰をおろしたとたん 崩れるのだ
汚れに敏感な雪のように

ときに 椅子は
たちまち人をかき削る
製氷器のように
氷いちごだ! 溶けやすく
椅子は 人事だ 奪われやすく
――まれに 強力接着剤がぬってあり
一生くっついて 離れない

だれも電気椅子とは呼びたがらない
が 似たような場合が しばしばだ。

  ※   ※        
 椅子に坐った瞬間に崩れる椅子というのは、なかなか意地が悪い椅子である。「汚れに敏感な雪のように」というのだから、椅子は「汚れ」がいやなのである。あんたなんかに坐ってほしくないね。汚れた不潔な人間に敏感な椅子だ。この椅子は良識が豊富なのか、それとも潔癖症?

 二連目は、もっとすごい。「製氷器のように」坐った人を削ってしまうのだ。葉山嘉樹に『セメント樽の中の手紙』という小説があったが、あんなふうにセメントになるのではなくて、「氷いちご」にされてしまう。これは、長時間労働のはてに過労死するようなものだろうか。テレビ画面に映し出され、報道機関のカメラによるフラッシュを浴びている人たちの顔を、いまここで思い浮かべてみてもいいかもしれない。

 次の「強力接着剤がぬってあ」る椅子というのは、古いコントにもありそうな場面だが、「一生くっついて 離れない」のは、実は悲劇以外の何ものでもない。けれども、人はその地位に恋々とし、たとえば一度権力の味を知ったものは、なかなかそれを手放そうはしない。 

 三連目。坐ったとたんに死刑宣告に等しい目に合うような、「だれも電気椅子とは呼びたがらない」椅子というのも、この頃は目にする機会が多いような気がする。たとえば某国の国会にも、そんな椅子がひとつはありそうだし、それ以外の場所でもこのおそろしい椅子は、大活躍の模様である。




江田浩司 現存(プレセンシア)の羽ばたき

2018年02月17日 | 現代詩
 江田浩司の詩歌集『ピュシスピュシス』(2006年刊)の中から一篇の詩を引いて何か書いてみることにする。詩の題は、「現存(プレセンシア)の羽ばたき」。 
※印のあとには、小さな画面で読んでいる人のために振り仮名を示した。

現存の羽ばたき  ※「現存」に「プレセンシア」と作者による振り仮名。

その一連目。

焼け焦げた記憶の欲望に
襲われた数多の私が
衰えた幾世紀もの願いに宛てて
無数の手紙を書き送る

注釈。 自分がいま願ったり考えたりしていることは、過去に多くの人が願ったり、考えたりして、かなわなかったことの集積の上に立っているので、私の今は、痛ましいそれらの記憶の上に生れて存在しているのだ。そこでは、心身を備えた今の「私」の存在と、今の「私」の「言葉」とを、過去の記憶のすべてのイメージに重ね合わせることができる。これはあらゆる作家の創造のシステムと同じ構造を持つものだが、そのような世界観によって、これらの詩は書かれている。だから、私は過去に手紙を書き送るように、また、私自身の過ぎ去った時に向けても、そこで消えて行った言葉をなぞるように、私の言葉を書く。それが「現存」の意味である。

二連目。

慄き、薙ぎ倒された私の顔   ※「慄」に「おのの」と作者による振り仮名。
影が蝟集する切断面      ※「いしゅう」
痙攣は絶え間なくつづく
狡猾な夢が横貌を見せている    ※「よこがお」

注釈。 だが、そこで「書く」ことによってあらわれて来る「私の顔」は濃密な影の濃淡によって、くっきりとは見えないものに統合され、または分割されたりなどしており、かたちあるもののようでいて、夢によって、夢のなかで掻き混ぜられるもののような、曖昧なかたちをしたものでしかない。

  三連目。

熟れた風が水を織る
楕円が巣食う湿った顔
死の意匠は身を沈め
歌は私の暗がりに立ちどまる

注釈。 この一連は、なかなか美しい。「熟れた風が水を織る」というのは、夏から秋にかけての蒸し暑い温度の風だ。そのような生の時間の風に、水面が布の表面のように微細な波で罅割れて、波が動いてゆく。そのように、「私」は語られる。または「書かれる」。または「歌われ」て「私の暗がりに立ちどまる」。その「私」の「顔」は、「楕円が巣食う湿った顔」だ。楕円と楕円、またもうひとつの楕円が、重層し、絡み合いながら「私」らしきかたちを形成している。そこに「死の意匠は身を沈め」ている。数多の楕円をたったひとつの円の像に形成する時は、私が死ぬ時だ。だから、「死」はいつもその時を狙っている。

  四連目。

声から洩れる
光の中に立ち止まる
雨の階段をバラバラな影が
すべってゆく

注釈。 三連目までの、やや読み飽きた感じがしないでもない既成の重苦しい詩語を用いた詩句から、この一連は飛び出してさわやかである。声というのは、自分の声だけとはかぎらない。とりわけ他者の声である。声には、常に明るさがある。どんな時でも声になった時には、声はひろがることによって、閉ざされた「私」から外へ、外へと出ようとする性質を持つものなのだ。だから、声は「光」を持つと言ってもいい。その光に一瞬恍惚とする。と、影が逃げていく。立ち去って行く。影が、出ていく。階段を「すべってゆく」。それはひとつの影なのか、いくつもの影なのか。

  五連目。

青白い記憶の脈拍
光の蠕動に呑まれてゆく貌   ※「ぜんどう」
砂埃にまみれた無残な風が
ゆらゆらと海を越える

注釈。 それらの無数の「影」は、「私」、この場合は無数の「私」の記憶の中で、光に呑まれ、光に束ねられて、そこに幾多の「貌」が溶解してゆく。消え去ったイメージの総体が、風に吹き飛ばされて、大地を超え、さらに「ゆらゆらと海を越える」。一個の「私」の物語は、地球大の「記憶」の物語へと伸びあがり、拡大してゆき、脈を打つ。

 三連目のおわりの二行がやや型通りなところがあって、五連目で「砂埃にまみれた無残な風が」「ゆらゆらと海を越える」の、「無残な風が」という把握が、抽象的で物足りない。やはりもう少し具体的であってほしいと感ずる。全体の統一は損なわれていないが、一篇の詩としての完成度が高められたかわりに、犠牲になっているものがある。作者は、ここから必然的に、更にここのところを具体的に言うために、心を砕くことになる。それが、第7章のような、とてつもない作品群を生んでゆくのだ。    
 ※翌日に少し手直しをした。この項、つづける予定。