さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

身めぐりの本

2023年10月25日 | 
 このブログも更新が滞ってから久しい。ひとつは戦争のせいである。ふやけたことを書く気持が完全に失せた。ところが、最近もうひとつの戦争が始まってしまった。もう、どうにもならない。何でもいいから、なにか書けばいいのかもしれない。
  
・『高啓』(昭和三十七年 岩波書店刊)
 元朝末期から明朝初期にかけての詩人だが、私には、その感覚はほぼ現代人と等しい気がする。今後も歴史の危機のなかで蘇る詩人の一人だろう。この詩人の詩想は、語彙の選択も含めて、本朝の昭和「アララギ」に近いところがある。歌人では、土岐善麿が一書をものし
た。

・「西瓜」第八号 四月号より
 作者が誰なのかわからないが、批評をこころみることにする。

 捨てるように後ろの席にプリントを手渡すやつが優しいわけあるか
                         バックヤード
 下手な歌だけれども、この人には調べがある。

・朝の汀を犬とともに散歩する朝影の膜に覆われながら
                         黒塚多聞
 自分の一回性を他者に向けてひらいてゆく力が、この人にはあるかもしれない。

・旋律はそこにはなくてドドドドドッと弾丸は降る花に街に人に
                         山川仁帆
 ガザの戦争が始まってしまったいま、何とも喫緊の感じがする作品。

・寒くない雪につつまれ温かく私は山をいつまでものぼる 長田尚子
 この人の歌の母音のあたたかさは、得難い魅力だ。

・ほのぐらき八手の玉よ水びたしのこころにひらくみづいろの傘
                         小野りす
 いずれ大成する作者でしょう。などと、自分の口がこわいけれど。

・私たちの間に二世紀挟まってさわりあえないおあいこ、またね
                         瀬生ゆう子
 どれもよくわかる。戦後日本は、指導者と国民との間で生活実感が共有できていた。現在は知らない。
 ここまで書いたところで、以下は無聊中に目に入った歌。

・ありうべき光をさがす放課後のあなたはたぶん詩の書架にいる  塩見佯

 正統派でやっていける筆力。ただし、初句の強さが作り物に見える。下句も、そういう目で見るとやや力み過ぎか。と言うより、一、二句は自分のことでなくて、「あなた」のことなわけか。だとしたら直球すぎるというか、文語なら「さがす」が「む」を使ってやわらかくできるのだけれども、口語だと直接に下の句にかかってしまって「ありうべき光をさがすあなた」が詩の書架の前にいるって、なんか当り前なストーリーになってしまってつまらない。

 ここで読むのをやめる。どれも上手だけれども、だんだん生の必然性のようなものがとぼしい気がしてきた。以下の作者の皆さまへ。すみません、眠くなったので。と、言いつつ、キイを打ち続けることにする。というのは、別に嫌味ではないので一応ほめて書いているつもりなのですが…。

・柴田典昭『半日の暇』
 冬ごもり春さりくればにこやかにしまらく見ざる老女あらはる
  挨拶の代はりにわが家の飼ひ猫の所在を知らせ媼去りゆく

 何か、老いたる天使という感じを受けるのは、どうしてだろう。

  くの一を演ずる二十歳の身のこなし迷ひのなきをうるはしみたり

 何とも切ないエロスの感じられる歌。いいなあ、と思って読んだ。

・「西瓜」第七号 
これ、すばらしい。以上。

・寺山修司『毛皮のマリー 血は立ったまま眠っている』(角川文庫 平成二十二年改版再版発行)
・辻まこと『画文集 山の声』(昭和四十六年 東京新聞刊)
 いまや消滅した世界についての証言という気がする。
・渡辺保『歌舞伎のことば』(2004年 大修館書店刊)
 学生のみなさんは、語学留学の前にお読みになったらいかがでしょう。
・中井久夫『清陰星雨』(2002年 みすず書房刊)
 「えんえんと質問するやつは日本にも外国にもいる。」
 「私は病院を訪問して『患者の顔色が悪い』と、他の何がよくても眉に唾をつける。」
・ニーチェ『善悪の彼岸』(1978年第9刷)

 ここでまた寝てしまったようだ。
16日の原稿を25日の今日にひらいてみたら、上のような書き物だった。

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