さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

自著についてのおことわり

2016年05月07日 | 古典
 昨年私は、『香川景樹と近代歌人』という本を私家版で出して知人にくばった。それから知人の御好意で、電子本としても出すことができた。

 その本の中に、「一首のなかに描写的な視点の誘導があり」という言葉がある。もう七年近く前に万来舎のホームページに出した近世歌人についての連載では、「能動的な描写句」という言葉を使って書いたのだった。私なりに工夫した表現である。

 それが、ある場所にそのまま使って書かれてあった。私より先に活字になっているので、何もコメントしないでいると、私が真似したことになってしまう。弱った。

 これは、私の名誉のために書いておくのであるが、参照したなら参照したときちんと書いておいてほしかったと思う。ただ、多少同情して書いておくのであるが、無我夢中でものを書いていると、読んだものがそのまま自分の考えになってしまっているということは、ある。知らないうちに影響されているのである。この手の話題は、ある種の人々が好む性格のものであるが、私はそういうことがきらいなので、あとで指摘されたら、このページをみてくださいと言うために、ここに書いておくのである。

※一度消したが、西部氏の新著(遺著)をみて復活させることにした。なかなか、世間に生きるのはむずかしいことである。ネットの環境は、それをさらにむずかしくしている。

『源氏物語』雑記 

2016年04月26日 | 古典
 何年も前の事だが、私は通勤電車の中で『源氏物語』を読んでいて、年甲斐もなく亢奮して来て弱ったことがある(宇治十帖である)。傍訳のついている新潮の日本古典集成本でだから、これは別に私の古典読解力を自慢していることにはならない。もっとも最近になって例の岩波文庫本を手に取ってめくってみたら、結構いい気分になることができたので、それなりに年季を積むということは、読解力の向上につながっているのだろうとは思う。

 私の以前の職場で、定年退職された数学の先生が、がんの診断を受けて、なぜか死ぬ前に一度『源氏物語』を読みたいと急に思って、一念発起してカルチャーに通いだしたという話をうかがったことがある。その方が、酒の席ではあるが、私は特に専門でもなんでないのに、しきりに頼りにして質問をされるので、その時は面映ゆくて弱ったのだが、以来私は、日本人が死ぬ前に読んでおかないと死んでも死にきれないもののひとつに『源氏物語』がある。アメリカ人には、こんなものはない。ということを、若いアメリカ系ドクトル並びに、ごくまれに出会う官僚予備軍の諸君には、言う事にしているのである。
 
 だいたい現代の日本政府の愚かな政策の大半は、アメリカ留学によって、洗練または洗脳されたひとびとによって形成されているのであって、これだけは、さしてエリートの事情に詳しくない私にもわかる。英語が読めるだけの猿どもよ。なあんて、英語が苦手の私が言っても詮無いことで…。その一番わかりやすい例が、この何十年かの経済政策と教育政策である。

 それで、『源氏物語』の話に戻るのだけれども、当たり前の話かもしれないが、『源氏物語』の最大の読みどころは、中に出て来る和歌の情緒を読み味わうところにあるのであって、その注釈にある引歌(典拠となった引用歌や、本歌取りのもとになっている歌)も併せて楽しまないと、楽しみを極めたことにはならないのである。その点で新潮日本古典集成本はいいと思う。

 ここまでが枕で、このあとに続けて何か書こうと思っていたのだけれども、チリ産赤ワインを飲みながら書いていたら酔っ払ってしまった。それで、本文の小題は「源氏」だけれども、私は本当に「源氏」には詳しくない。今思い出したのが、某大学の入試問題で、匂宮が浮舟を見つける場面を出題していたのだった。必死の受験生たちに匂宮の放蕩の現場を読ませるなんて、ずいぶんだよなあ。読んだ瞬間に〇〇したら合格、なあんてね。最近はこの手の話題に向くと、何でもセクハラと言われるので、困る。ひどい時には「あなたの顔がセクハラだ」とか平気でいうんだから、ひどいよなあ。