さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

鶴田吾郎 デッサン

2023年07月23日 | 美術・絵画
   肘を突いた左腕の上におとがいを乗せて、嫣然と微笑む若い女性。ぱっと見たところ美人画の範疇に属する絵のようであるが、仔細に見てみると、なかなか凝った絵だということがわかる。作者は戦前、戦中に著名だったリアリズム系の洋画家。よく知られた代表的な戦争画の一つを描いている。  右目と左目の大きさがちがうようにみえるのは、指で片頰の皮膚を押し上げているからである。そのせいもあって目の下の陰影の濃さが異なっている。また、微笑のせいで鼻の下の唇が歪んでいるように見えるのも、照れていただろう女性に右を見るようにうながし、緊張で引きつっていたかもしれない顔に動きをもたらす仕掛けがあるからである。実際にこの絵と同じポーズをとってみると、手の当て方にしても相当に人工的だということがわかる。  両目の下の縁に頭の中で線を引いてみてから、鼻から顎にかけての線を下に下ろして引いてみると、普通に正しい十字が現れる。顎のあたりがやや歪んでいるように見えるのは、こちらの錯覚だと気がつく。半世紀近い歳月を経て、当初施されていた赤色がとんでしまっているので、色でカバーしていた部分は消えてしまっている。  モデルとなったこの女性は、いったいどこの国の人だろうか。目と眉の間が狭いので、フランス人だか、日本人だか、インド人だか判別がつかない。この絵とは別に1960年代にインドのダージリンのあたりに行って描いたデッサンを私は入手しているが、それよりも紙の劣化の度合が激しいので、さらに古くて戦時中に東南アジアの人をモデルとして描いたスケッチのひとつかもしれない。日本人だとしたら相当にエキゾチックな顔である。波打っている髪の量は豊かで若々しく、頬のやわらかさまでもとらえた顔の描線は、いかにもみずみずしい。

林武 フイレンツヱ

2023年01月28日 | 美術・絵画
「フィレンツェ残照」と題が付されている林武のコンテと水彩による小品を見る。
これはコンテと水彩によってえがかれた色紙サイズの小さな絵である。それなりの経年劣化を被った中古品で、約四十年以上の歳月を経たものだ。額裏にフジヰ画廊取扱いのシールがある。絵をみると、河を行くボートを押し流すようにして川水が下ってゆく。その向こうに斜めの反り橋が見えている。ここに描かれているのは、<時間>的なものであると今の私は思う。最近になって、林武の滞欧最新作が巻頭に紹介されている一九七〇年の「みずゑ」を手に入れて、代表作のひとつであるエッフェル塔の図版を見た。この頃が日本の「洋画」にとって一番いい時代だったのではないかとその時にふと思った。

 この絵は、黒く描きこんだコンテの線描の上に二色、青灰色と淡彩の赤色が薄くのっている。画面右手の川岸に見える建物の壁面は、細部が多めの線に塗りつぶされていてよく見えない。けれども、何日か壁にかけて折々眺めているうちに、不意にその塊のように描かれた建物の「感じ」が、納得のできるかたちでこちらに伝わってきたのだった。そうして、若干の経年劣化のために少しだけ元の画面より暗くなっているとおぼしいこの絵が、もともと持っている雰囲気の明るさのようなもの、一種の日常感覚のようなものの把握を同時に受け取ることができるようにも思った。

 そのむかし私は高校の美術部で絵をかいていた。それで美術科あてのポスターをもらさず目にできる環境にいた。高校二年生のときに竹橋の近代美術館で開かれた林武展を見て、私はとても強い印象を受けた。林武の絵の持っている緊密な構図と、それを支える生きることへの意欲のようなものに感動し、私はしばらく林武ばりの絵をかくことに熱中した。展覧会を見てからその頃刊行されていた中公新書の林武著『美に生きる』を読み、その構図論のとてつもない主張に驚いたのだった。構図論だから徹底的に空間の処理にこだわるものであることは言うまでもない。

 しかし、一九七〇年のヨーロッパで画家が見ていたのは、時間的なものでもあった。この流れる水を描いた小品に見られるような、動く時間と、それを固形物によって永遠化しようとするヨーロッパの文化が持つ根源的なエネルギーの当体を画家は自分の肉体を通過させながら描こうとしていた。彼の代表作のひとつであるエッフェル塔は、フランスの文化そのものが持っている力が、物と化して突出したものであるように思われる。

 翻って日本では、それは富士山だ。日本文化のなかにおける永遠なるものの象徴として、この画家が富士山を選んだことには必然性がある。そこに動いているのは、あくまでも力動的なものと、その力動的な表現への関心である。すべての静止した状態のものは、内側にその存在物のみが持つ時間的な力を把持している。林武はそれを描こうとした。現在に顕現している永遠の相、つまり美なるものをつかむこと、それが画家に課せられた使命であった。

 林武には、一般の美術愛好家向けに企画された大判のデッサン集のセットと、石版画のセットがある。デッサン集の方は、官能的な印象の強い絵が多くあって親しみやすいので、どこかで再版したらいいと思うが、そもそもああいう絵の好みがいまの日本人の間にどれだけ残っているのか、とは思う。数年前に七千円で買った中古のデッサン集の絵の方は、何枚か交換用のマットを注文して作って、取り替えて見ることにしたのだが、ほとんど元手のかからない趣味で、そんなことをしていると気が紛れる。石版画の方は、きまじめな冷え冷えとした印象がある作品が多くて、額装してある二十号大の貫禄あるものがときどき中古でネットに出るが、厳粛な感じを受けるものだ。絵を写真版の画集を見るようにみるのではなく、自分のなかの正面をみる視線を一度編み直した「観る」態度にかえすことがもとめられる、とでも言えばいいだろうか。

 林武の絵は、余白の部分についての徹底的な思考があり、それは言い換えるなら存在や生命といったものに向き合う時の焦点・中心点についての思考でもある。そういう点で近代絵画・近代芸術の仕事は終わったわけではないのであって、近年のようにそれを軽々に忘れ去ってよいようなものでもないだろう。

森田茂 「ベニス」

2023年01月15日 | 美術・絵画
 夕映えの寺院や塔が、黄金の輝きを発している夕暮どき、建物の屋根や壁から反射した光が、空の色と反照し合いながら、わななくように震え、この都市を特徴づける運河の水面の光をきらめかせている。塔や伽藍の間からあふれ出した光は、空の光彩と一体化して反照し合っている。画家はその光の交響を大胆な力強いタッチで鷲掴みしている。からだの中から、皮膚と血管、目と指先を眼前の風景に溶かしこむようにして、筆を動かしている。だから、画家の肉体は、この絵の中にありありと生きて溶け込んでいる。

 もしかしたら人は、画面中央左の塔が明らかに左に傾いていることを奇異なことと思うのだろうか。それを言うなら、画面中央右側のドームの建物も、注意して見ると右に傾いているのである。ここにあるのは、遠近法でもなく、画面の主知的な構成への関心でもない。眼前にきらめいているベニスの街全体から受ける印象を、直接に表現しようとする強い欲求があって、何とかしてそれを伝えようとして即興的な精神を発動した結果こうなった、というような画面なのだ。近年の高齢者中心となりつつある公募展の大半の絵に乏しいのが、こういう精神である。

 色彩の基調をなしているのは、緑と黄色である。こんなふうな緑の使い方は、私は見たことがない。大胆で独自である。黄色も絵の具のチューブから画面にじかに押し付けて定着したのだろう。所によってすさまじく盛り上がっている。その一筆一筆が、自己存在を証明する出来事へと転化している。または、そうあらねばならない、という意思をもって迷いなく色としての絵の具が置かれている。

 別の日に。しばらく見ないでしまってあった絵を取り出して黄袋を払うと、たちどころに燦爛とした色彩と絵筆の調子が目を打って来た。それは生の躍動感となって、微動し、反射する光となって、風景をゆらぎの相のもとに開示している。だから、画面のなかに静止しているものはないのである。

栗原信

2021年05月01日 | 美術・絵画
昨日はある雑誌を見て不愉快になったので、そうだ音楽でもかけよう、とスマホを取り出してハイドンのピアノ・ソナタをかける。Jean-Efflam Bavouzet の演奏である。

コロナで人と会うことが制限され、東京で開かれていた会合はほぼ壊滅した。ズームの会議にも何度か出席したが、ひとの言葉が、ただの情報になってしまうような気がする。これは私だけかもしれないが、何かやっていて、上の空のような感じがしてならないのである。語られていることがみんなフィクションになってしまっているような、実感のとぼしいものに感じられて空しい。だから、野菜をきざんだり、木の枝を切ったり、雑草を抜いたりしていると、そういう手を動かす仕事のありがたさを強く感じる。

 今日は連休初日だが、要するに普通の土曜日であることにかわりはない。起きてから買い物に行き、米とパスタを買ってきた。パスタを四人前茹でながら、朝食に昨晩のカレーの残りを一斤の六枚切りのパンを二枚焼いたのにつけて食べた。そのあとで実りはじめたトレイの苺に水をやり、バナナを一本食い、プチトマトを五、六個口に放り込んでから、空けていなかった部屋の雨戸をあけ、トイレに行き、昨日やってもらった水漏れの修理の結果、水道メーターが動いていないかどうかを外に出てメーターで目視確認した。それから壁に釘でフックを打ち付けて、大きいので壁に掛けておくほかない栗原信の油彩額を設置した。

栗原信は、茨城県の画家で、ペインティング・ナイフで描いた油彩の風景画に特徴がある。二紀会の会計などをつとめたという。市場価格は低く、絵は大きさや油彩、水彩の区別なく、どれも二万円から三万円台で取引されている。私のような貧乏美術愛好家でなかったら目を付けない絵だろう。ネットのオークションをみると、その二、三万円目当ての贋作も出ているようだ。私が購入したのは、藤田画廊のシールが破れかけた裏貼りの紙に貼ってあった「金閣」を描いた二十号で、写真でみると垢抜けない田舎臭いものに見えるのだが、実物は金閣という美そのものを形象化しようとする画家の虚心な意志と意欲が感じられるのである。

私はその前にもう一点、二十号の大きな「山門」というタイトルの絵を入手していたのだが、これは画家が六十二歳の時に描いたものである。つまりは今の私と同じような年齢の時の作品で、木立の奥の寺の山門らしき建物は、老いの時間と死の入口を形象化したもののように見える。目に見えるものを描いていながら、自分のなかにあるものを描くのだと画家は言っていたそうだから、具象画ではあるけれど、一種の象徴的な絵といってよいであろう。これは額のガラスがなくて、同じ茨城県出身の永瀬義郎の本で読んだ生のジャガイモを使用するやり方で画面を洗ってみたが、あまり汚れてはいなかった。いかにも地味な絵なのだけれど、後期印象派の大家の絵と並べても恥ずかしくないものだと私は考えている。
 

竹田厳道『観る聴く 一枚の絵対話集』

2020年07月18日 | 美術・絵画
 ネットにウィキペディアという百科事典様の検索システムがあって、いろいろなことが説明されているので、けっこう便利だし、私も常々お世話になっている。けれども、たとえば本書の刊行者である竹田厳道さんの項目はないし、ほかに例をあげると、一時期書家の比田井天来という名前を検索しても何も出て来ないことがあった。その分野の人が気がつかないと、いつまで経っても項目とならないのがウィキペディアである。私は画商に対する評価を美術史の問題としてして取り上げる人がいていいと思う。それは日本の戦後の文化史の問題ともなるだろう。

 私は『一枚の絵』という雑誌を店頭で買ったことがない。けれども、この対話集には、いろいろなことを教えてもらった。ところどころ噛み合っていないやりとりもあるのだけれども、この本には、新聞社出身で絵画の割賦販売を成功させたこの人でなければ引き出せなかったような発言がたくさん見えるのである。画家の本音のようなものを、実に上手に引き出している。本書によって、私の知らなかった多くの画家と出会うことができたし、敬意を覚える芸術家を発見することもできた。実に勉強になる本だった。

 竹田厳道さんのいいところは、自分の戦争体験を踏まえて、懇意の画家に沖縄平和祈念館の絵を書かせる仲介をした仕事にもあらわれている。すでに健康を害しながら祈念館のテープカットに立ち会っている写真を「一枚の絵」のバックナンバーで確認した。確かにみすず書房で本を出してもらえたりはしないだろうが、もう少し顕彰されたって良さそうなものだ。

 美術の大衆化との接点として、最近私が興味を持ったのが、東郷青児がデパートに大きな壁画をかいたことだ。あとは戦後のビヤホールの開業第一号となったニュートーキョーが有名な画家たちに絵皿を描かせて、それを景品としている。ついでに興味深い材料を並べてみると、原精一が週刊誌にのった裸婦群像写真の振り付けをしているものがある。これなどは実におもしろい。

※翌日に一部記事を訂正し、追記しました。
 

瑛九という画家のこと

2020年05月23日 | 美術・絵画
 インターネットのおかげで、自分の知らなかった画家の絵の写真を見ることができるようになった。オークションで瑛九の版画は比較的安価だから、私のような資力の乏しい者でも買うことができるのはありがたいが、それは裏を返せば瑛九の知名度が低いということを意味しているだろう。詩歌にかかわる人たちと私は瑛九のことを話題にしたことがない。それは自分が知らなかったのだから仕方がないが、何だかとても損をしてきたような気が今はするのだ。

瑛九の版画には、本体と影とが、男女のかたちをして絡みあったり、一人が二人に、二人が一人になっているという図柄が多い。これが人ではなく、動物や植物が主体になっている場合もある。シュールリアリズムの手法に拠りながら、鏡像関係のなかにある自己とその生活の形象化ということを試みている。ちょっと見ると、ピカソやミロやロベルト・マッタの模倣ではないかというような図柄が多いのだが、そこから出発して1960年に48歳で永眠するまで独自の自己展開する運筆法のようなものを編み出していったことが読み取れる。

その多くはきわめてエロス的な図柄なのだが、作品行為の基調に諧謔を好む闊達な精神が息づいていて、遊び心にあふれている。何よりも、自己というものが、他者や自然、それから自らの内なる無意識のようなものに反射して、自己愛は他者への愛に通じ、他者への愛は自己愛に反転するといった堂々巡りする生のなまなましい(ぐちゃぐちゃの)現場を、繰り返し飽くことなく描いているのが瑛九の版画作品というものであると私は言いたい。要するに瑛九の版画は、きわめて文学的に解釈できる要素を持っていると言えるし、また文学その他の表現に対して示唆するものを多く蔵している。

今日、注文してあった『現代美術の父 瑛九展』(1979年小田急グランドギャラリー)という展覧会のカタログが届いた。それを見ると、瑛九の友人である福井県の木水育男という人の文章が収録されている。友人への手紙のなかで画家は次のように述べている。

「僕は我々の現実を一つの理想、あるいはイデオロギーで批判しようとするよりも、その中ですべてを肯定して生きようとします。つまり日本を批判し他によいものがあるという風に精神を傾斜させるよりも日本の中に生きることを大切にするのです。」

この手紙の言葉は、瑛九の版画の画面に横溢する明るさと、軽快で楽し気なユーモアの底にある思いを直接的にあらわしている。端的に画家の生きる姿勢が表明されている。

戦後すぐ共産党に入党し、数ヶ月で離脱している。自由美術協会をやめたあと1951年に「デモクラ―ト美術協会」を組織。1952年に宮崎から浦和に転居した。そうして同じ年にデモクラ―ト美術協会の会員に加藤正、河原温、利根山光人、靉嘔、福島辰夫、山城隆一、細江英公、磯部行久、吉原英雄、池田満寿夫らの新人を迎えた、と年譜にある。そうして同年には、久保貞次郎、北川民次、室靖等と創造美育協会を設立した、とある。何という絢爛たる名前に囲まれていることか。

私の瑛九への関心は池田満寿夫からたどって行って出会ったのである。池田は1976年3月号の月刊「プレイボーイ」のインタヴューで、瑛九という啓蒙家に薦められて版画を始めたと語っているが、私はこの「啓蒙家」という言い方に池田の瑛九への評価が読み取れると思った。客観的に説明して言っているようでいて、どこか敬意に乏しい。記事を読みながら芥川賞を受賞して絶好調の頃の池田満寿夫の鼻息の荒さを思い起こした。

2020年の現在、人間や動物や植物をひとしなみに「性」的存在として一元的につかんで、その営みのすべてをカリカチュアライズし、反語的にとらえながら、同時に肯定してゆこうとする瑛九の版画の描法の意義は、きわめて高くなっているように思われる。その画面は愉快だけれども、決して安易な楽観にだけ彩られてはいない。抱き合う男女や動物たちは、あらわによじれ合いながら植物的な生態をとって投げ出されている。瑛九のエロティックな版画は、詩人や精神科医の新婚家庭の壁にかけることもできる気がする。

年譜を見ていたら、短歌の分野では歌人の加藤克巳が歌集『宇宙塵』に瑛九のエッチングを飾画として入れているのが目についた。さすがに芸術的前衛を自称していただけのことはある。加藤克巳も再読されるべき作者の一人だろう。何十年も経たのちに過去のものが新しく見えてくるということは、どの分野でもある。

原精一、古沢岩美 戦時下の日常

2020年04月27日 | 美術・絵画
 戦時中の日本の国についてのイメージを持つのは、なかなかむずかしいことである。たまたま『出征将兵作品集 戦線点描』という本を手にしたので、少しその本の話をしたい。非常時と言われる時代に、心の余裕を失わずに、確かな平常心を持ちながら、こういう本をさり気なく作って出していた人がいたということに感銘を受けたからである。発行者、日本電報通信社出版部 桝居伍六。昭和十七年四月一日発行。

 私の当初の目的は、原精一のデッサンをみることであった。166 ページに、「木石港の少女」というコンテと鉛筆を用いたらしいデッサンが掲載されており、髪の毛を無造作に頭の後でまとめた中学生ぐらいの年頃の少女が、大きな目を見開いて右側を向いている姿をクロッキーしている。「於木石港2、16」と作品の左隅に書かれてある。原精一の戦中デッサンは、戦後も再評価されてその展覧会が企画され、カタログも出た。原が亡くなった時に洲之内徹は追悼文を書き、それは最後の著書に収録された。原が戦地で描いた戦友たちの姿や、ビルマの人々の表情のスケッチは精彩に富んでいる。

原の絵の左のページには、国分一太郎の「未来亜細亜伝承童話骨書」という片仮名の短文が載っている。おもしろいので、試しに新仮名遣いで引いてみたい。

「よしよし、いま話してあげるから、おとなしくやすむんだよ。
 むかしむかし、おおむかしのことであった。じんむてんのうさまきげん二六〇〇年ごろのことだというから、ちょっと、かんじょうもしきれないとおいむかしのころだよ。
 そのころはなあ、このアジアも、いまのように、ひとつではなくてなあ、たくさんのくにぐにが、ばらばらにわかれていたそうな。一番つよい、くには、この日本だったが、よそのくには、たいてい、イギリスとか、アメリカとかいうくににいじめられていた。うん。アメリカやイギリスは、どこにあるかって。さあ、どこにあるか、いまもあるか、おっかさんも、よくしらないがねえ。むかしは、そんなくにが、このアジアまできて、アジアのひとをふしあわせにしていた。ちょうど、そのころ、しなには、たいへんばかなたいしょうがいてなあ、ニッポンにてむかいした。ニッポンは、このアジアを、りっぱにしようとすすめたが、そのばかなたいしょうはきかなかった。いくさは、はげしくなった。ばかなたいしょうを、イギリスだのアメリカだのいうくにが、たすけた。そのたたかいで、うちのそせんさまも、せんしした。どちらがかったかって。わかるじゃないか、こんなアジアができてるもの……。そのいくさのとき……(未完)。」

 当時の「八紘一宇」のイデオロギーを童話風に仕立てただけの作文にみえるが、末尾の三行は、決してただのハッピーエンドにして書かれておらず、「うちのそせんさまも、せんしした。」という一文がしっかり書かれているところに注意してよいだろう。

 この本は、いさましい戦闘シーンを描いた絵が一枚も収録されておらず、中に収録されている絵は、どれも平和な戦地の日常生活を記録したものばかりである。これは他の陸軍美術協会等がかかわった戦争記録画集の類とは著しく性格を異にしている。むろん日本の国策によるアジア諸国の統治がうまくいっていることを印象づける性格を強く持つ書物ではあるのだけれど、この本をめくってみて感ずることは、戦争の中にも続く日常生活の確かさと大切さへの静かな訴えが本書にはあることである。

 昭和十七年前半までの日本の国民には、まだ精神的な余裕があった。それが右の本からも見て取れる。これよりもう少しあとになって刊行されたものでは、画家の古沢岩美の『破風土』(昭和十七年十一月刊)がある。この本も画家のかかわった本らしく、たくさんのスケッチを収録している。そうして本の最後に載っている文章は、ドゥリットル隊の空母による初の東京空襲後の防空演習のようすを、カリカチュアすれすれの筆致で描いたものである。古沢の本のタイトルと表紙絵の装丁から読み取れるメッセージは、微妙である。当時としては、かなりきわどかったのではないかと私には思われる。古沢は1937年に「地表の生理」というシュールリアリズムの手法で廃墟を描いた絵を発表しているから、よく当局がこの本の刊行を認めたものだ。本の検閲をした担当者は、「地表の生理」を見ていなかったにちがいない。後年古沢はインタヴューに答えて次のように言っている。これは後付けの言葉ではないだろう。

「最初に独立美術展に出した「地表の生理」という絵があるんだが、凄い酷評を受けた。「こんな酷い絵が芸術だとしたら私は生きていたくない、古沢は懊悩過多だ」なんて書かれた。でも、まもなく戦争で日本にもそれ以上に酷い現実が起こった。僕は原爆なんか落ちる何年も前に描いたんだ。そういうことを考えてるから楽天家ではない。こんな馬鹿なことをやってると、今にこんなことになるんじゃないかと描いただけ。ふっと何かの拍子に先が見えることが、僕にはある。」  『一枚の絵』1991年1月号 10ページ

古沢の「地表の生理」は、時代精神への芸術的な抵抗を示したものとして、今日高く評価されるべきものである。

話を『戦線点描』に戻す。戦争中の生活についてのステレオタイプなイメージから自由になるためには、やはり当時のものに直接触れる必要がある。雑誌や本の表紙の絵は歴史の大事な資料と言える。

岡村桂三郎展 異境へ

2018年05月09日 | 美術・絵画
 平塚市美術館の岡村桂三郎展を見て来た。天井まで届くような大きな板のパネルが並んだ洞窟のような展示空間である。お寺の境内にいるような、また山中に正座しているような気分にさせられて心地いい。身長の三倍はあるかと思われる大画面が、屏風のかたちに並んで置かれており、美術館では懐中電灯を持って子供達と探検する催しも開かれているとあった。

 その画面は、貼り上げた杉板を下作業としてバーナーで黒焼きし、その上に日本画の岩絵の具を塗りこんでから彫り上げるという作業を繰り返して作り上げられている。モチーフとなっている巨大な龍や霊獣や大魚の鱗、さらには超越的な第三者の「目」が、数えきれないほどたくさん散りばめて画面に彫り込まれており、呪術的であると同時に聖性を感じさせる画面は、ダイナミックで力強い。

 タイトルをカタログから書き写してみる。群山龍図。百眼の魚。地の魚。龍ー出現。龍ー降臨。白象図。渦巻く。降り注ぐ。夜叉。南冥の鳥。北溟の鳥。瑞魚。海神。陵王。地神龍。眠蛸。五部浄。百鬼。北溟の魚。迦楼羅と龍王。迦楼羅。

 何か非常に詩的な感興をそそられるものがあると感ずる。ほかに初期の作品が数点展示されていたが、『荘子』の神話世界や、インドの神話にでてくる聖獣のようなものがタイトルとなっていることがわかる。迦楼羅(かるら)は龍を食べる鳥である。作家は地水火風とお経のようにとなえながら鱗や目を彫っていたのではないだろうか。手作業の跡は徹底的に即物的であり、表現されているものは霊性・聖性という空気である。
 
 数日前にNHKの映像で深海の動物たちの様子を撮影したものを見た。岡村桂三郎は映像のような極彩色を用いずに、現実の深海魚をも絵に描いてしまっているのだと今思った。

くまのもの 隈研吾とささやく物質、かたる物質を見て

2018年04月24日 | 美術・絵画
 東京ステーションギャラリーで開かれている「くまのもの」展に行ってきた。電車の吊り広告で知ったので、間に合ってよかった。5月6日までである。隈研吾は、対談集『つなぐ建築』のなかで、肌理のある都市や建物ということを、アフォーダンスの理論の紹介者である佐々木正人と語り合って居たが、昔の東京駅の煉瓦を間近に見えるかたちで保存している東京ステーションギャラリー自体が、「肌理」のある展示場なので、隈研吾の展示にはまさにぴったりである。
 
 私は桂離宮や日本の茶室の写真をながめるのが好きだが(なかなか行かれるものではないので)、隈研吾の作ったもの、作りつつあるものには、そういう日本の伝統とつながる要素があるということがよくわかって、今度の展示はとてもおもしろかった。実際展示されているもののなかには、現代の茶室への提案がいくつもあった。茶室というのは、煎じ詰めると、少ない構造物によって囲まれた〈場〉、精神的な磁場にほかならないのであって、隈の提案する〈建築〉というものは、周囲とつながりながら、一時的に囲ったり包んだりすることによって生ずる〈場〉を、〈モノ・もの〉によって演出するもの(こと)でもあるのだ。

 私は二月に信濃町駅で下りて建設途中の国立競技場を見に行ったが、全体の感じも高さも周囲と溶け合っていて威圧的ではないし、周囲を圧する宇宙船みたいな建築物にならなくてよかったと心から思ったのである。現状は赤いクレーンの姿も含めて、建築途中の姿がすでにアートそのものである。クリストという建物をまるごと布でラッピングしてしまうアーティストがいたが、建築途中の競技場は、クリストの作品にも似通っていて、「くまのもの」を見に行った人は、ぜひ建築途中の競技場も見に行かれたらよい。できれば人が少ない休日の朝早く。

 建築には、何よりも心のゆとり、余裕、隙間のようなものが大切だ。吹き抜けていること、風が通り、光が通り、周囲の変化に微細に反応してゆくことができる構造物であること。つまり、生きていること。変化の相を映し続けることができるような壁面であったり、天井であったり、ファサードであったりするということが理想だ。だから、これは人間のこころの位置取りにかかわってくることなのだ。隈研吾(的なもの)に示唆されて、日本の建築や都市が変わって行くことが大事である。いま「くまもん」が大人気だけれども、「くまのもの」も人をなごませるような微笑を呼びこすものとなっていくとよい。