雨戸を開けた時に本が崩れて、それを積み直したときに鼻先にこの本が来たので、書名が目に入った。緊急事態宣言が出て、見知った飲食店が次々と店をたたんでいくような危機的な状況のなかで、みんなが、それぞれの現場で、生活の中で、「いとしい一日」を生み出していくほかに、今という時をすごす仕方はないのだろうと、あらためて思い、それから本の表紙の薔薇垣に囲まれた自転車の写真をながめて、ページをめくりはじめると、いきなり作者の高校時代にタイムトリップして青春の時間に引き込まれる。
好きになるのを否めない聖子ちゃんカットが起立、礼して揺れる
オバちゃんであることをまず確認してプレイボーイをそっと差し出す
雲図鑑いろんな雲があふれてて僕のからだは雲になりたい
マッチ箱ひとつが柩となることを死んだ蛍が教えてくれた
聖子ちゃんカットは、むろん松田聖子の髪形。プレイボーイは雑誌名。輸入物はマジックで消した部分があって、バターでこするとそれが消えるという話をためしてみたけれど本がべとべとになっただけで駄目だった、というような当時の青少年の笑い話もある。てれくさいのだ。雲図鑑の歌もマッチ箱の歌も実に上手い。
家族みんなはらたいらさんに全部賭けおじゃんとなったクイズダービー
三章までは楽しく読んだが、四章に「リュウへの手紙」という一連が来る。リュウは岡井隆のことである。この本が出たのは2017年十一月だからまだ岡井さんの生前だ。それに歌人の名前や短歌の催しが出て来る歌は、だいたい読み流したい気がしたのである。それだけで作者の軽妙なユーモアは自立しているのに、歌人の名前が出てくると、余計なものがまつわりつくような気がして、いやだ。せっかく「いとしい一日」を見つける手がかりが見つけられそうだったのに、ちょっとふざけすぎではないか、と思いながら、
喜多さんって、もずく酢みたいな人ですね あらいやーん ゆやゆよーん
というような歌を見て思わず噴き出す。「みんな消えちまえ。」という詞書のあとに、
短歌史に生き残りゆく幾人をナウマン象のごとくに思う
という歌を同じ一連に見出して、確かに言われてみれば、そうだなあ、と思う。けれども、こういうことは言わなくてもいいことなのかもしれないとも思う。どの道、大きい象も小さい象もみんないっしょですって。短歌も文学も二十世紀に隆盛をきわめたものが、表現とその享受のシステム自体の変化のなかで滅びかかっているわけだから。この瀬戸際でどう戦うのかが、問われている。
キキとララ星をふりまく棒切れをかたみに鳴らしさよならしたの
※「棒切れ」に「スティック」と振り仮名
この「かたみに」は「互いに」の意味。けれど、ひらがなだと「形見」とか「片身」という字が背後にチラつくようで、なかなか切ない。
さっきまで着ていた服が燃えている あなたに気づいてほしかったです
この歌がある「鳥居ならここにゐます。」の一連はわるくない。さて、「いとしい一日」の一連は、と言うと、定年退職まであと幾年の作者だとわかる歌があったりする。でも、作者のユーモア精神は意気軒高たるものだ。
スライムを壁に投げつけ遠ざかる そういう人にわたしはなりたい
妻と娘に聞いたら、何それ、とちょっと笑ってから、スライムが流行したのはだいぶ前だし、という返事。私は、けっこういけてると思うけど。
はつあきの光のなかを歩みくる母に抱かれたみどりごは我
だから、ここはおちゃらけたりはできないところなので。大事なところだし、別にてれる必要もないのだから。
好きになるのを否めない聖子ちゃんカットが起立、礼して揺れる
オバちゃんであることをまず確認してプレイボーイをそっと差し出す
雲図鑑いろんな雲があふれてて僕のからだは雲になりたい
マッチ箱ひとつが柩となることを死んだ蛍が教えてくれた
聖子ちゃんカットは、むろん松田聖子の髪形。プレイボーイは雑誌名。輸入物はマジックで消した部分があって、バターでこするとそれが消えるという話をためしてみたけれど本がべとべとになっただけで駄目だった、というような当時の青少年の笑い話もある。てれくさいのだ。雲図鑑の歌もマッチ箱の歌も実に上手い。
家族みんなはらたいらさんに全部賭けおじゃんとなったクイズダービー
三章までは楽しく読んだが、四章に「リュウへの手紙」という一連が来る。リュウは岡井隆のことである。この本が出たのは2017年十一月だからまだ岡井さんの生前だ。それに歌人の名前や短歌の催しが出て来る歌は、だいたい読み流したい気がしたのである。それだけで作者の軽妙なユーモアは自立しているのに、歌人の名前が出てくると、余計なものがまつわりつくような気がして、いやだ。せっかく「いとしい一日」を見つける手がかりが見つけられそうだったのに、ちょっとふざけすぎではないか、と思いながら、
喜多さんって、もずく酢みたいな人ですね あらいやーん ゆやゆよーん
というような歌を見て思わず噴き出す。「みんな消えちまえ。」という詞書のあとに、
短歌史に生き残りゆく幾人をナウマン象のごとくに思う
という歌を同じ一連に見出して、確かに言われてみれば、そうだなあ、と思う。けれども、こういうことは言わなくてもいいことなのかもしれないとも思う。どの道、大きい象も小さい象もみんないっしょですって。短歌も文学も二十世紀に隆盛をきわめたものが、表現とその享受のシステム自体の変化のなかで滅びかかっているわけだから。この瀬戸際でどう戦うのかが、問われている。
キキとララ星をふりまく棒切れをかたみに鳴らしさよならしたの
※「棒切れ」に「スティック」と振り仮名
この「かたみに」は「互いに」の意味。けれど、ひらがなだと「形見」とか「片身」という字が背後にチラつくようで、なかなか切ない。
さっきまで着ていた服が燃えている あなたに気づいてほしかったです
この歌がある「鳥居ならここにゐます。」の一連はわるくない。さて、「いとしい一日」の一連は、と言うと、定年退職まであと幾年の作者だとわかる歌があったりする。でも、作者のユーモア精神は意気軒高たるものだ。
スライムを壁に投げつけ遠ざかる そういう人にわたしはなりたい
妻と娘に聞いたら、何それ、とちょっと笑ってから、スライムが流行したのはだいぶ前だし、という返事。私は、けっこういけてると思うけど。
はつあきの光のなかを歩みくる母に抱かれたみどりごは我
だから、ここはおちゃらけたりはできないところなので。大事なところだし、別にてれる必要もないのだから。