さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

二冊の本

2022年03月31日 | 
※ 次の日にいやになって消してしまったのだけれども、オーウェルの名前や木村浩が紹介している名前を知らない若いひとたちもいるのだろうから、絶対におすすめですということで、この文章を一部訂正のうえ復活することにした。

 どうも手詰まり感がひどいのは、誰のせいでもなくて。今年度も今日で最後だし、まあ、まだあと一年は生き延びられそうだと、ほっと一息ついておられる方が、もしおられるとしたら、その方は少なくとも私の敵ではありません。

それで、ネット上の書き物でいくら気のきいたことを言ったって、たかが知れているのだけれども、ひねくれ者の私が、先日取り出した二冊の本の名前をここに書いてみたら、何かの参考になるならいいかなあ。

その二冊というのは、ジョージ・オーウェル『空気がほしい』じゃなかった、『空気を求めて』という小説と、

木村浩『ロシア文学遍歴』であります。これを読むと、ロシア語学科を廃止してはならないということが、よくわかります。

※ 誤解を招くおそれがあるため、おしまいの五行ほどを削除しました。 4月7日。





自分で考えるには

2022年03月28日 | 
 このブログの年頭所感ではじめた、自分の根幹にとどいた言葉を繙く、ということを続けることにする。今回も鶴見俊輔の対談からの引用である。

 「私が戦争体験から得たことというのは、一つはこういう考え方なんだ。大学を出ている人が簡単に転向して、学歴のない奴のほうに自分で考える人がいる。渡辺清とか、加太こうじとか、小学校しか出ていないような人のほうに、自分で思想をつくっていった人がいる。
 こういう考え方は、親父とずっとつき合ってきた経験からでもあるんだ。(笑 ※注)
親父はまさに、一九〇五年以後の人なんだよ。小学校からいつでも一番で来て、一高英法科の一番だったから、人間を成績ではかっちゃうんだ。だから、一高より二高のほうが下、東大より京大が下だと思っていたんだ。
 こういう人間は、「つくられた人」なんだ。自分で「つくる人」じゃないんだよ。スピノザが「つくられた自然」と「つくる自然」という区分を『エチカ』で言っているんだけど、それとおんなじなんだ。明治維新から一九〇四年までは、自分で明治国家をつくる人たちがいた。だけどその後は、明治国家でできた体制によって、つくられた人たちばかりになった。
 つくられた人たちは、自分で考える力はないんだけど、学習がうまいんだよ。近代化するには、こういう人間を養成することが必要だったんだ。だけど学習がうまいと、脇が甘くなっちゃうんだ。教わっていないこととか、試験に出ない範囲のことが出てきたら、そのまま溺れちゃうね。」
         『戦争が遺したもの』二〇〇四年新曜社刊より

※注 鶴見の自身の父親についての言葉は辛辣である。別の箇所から引く。

小熊英二「それで、自分は親米派でアメリカに知られているからということで、米軍が入ってきたら総理大臣になれるつもりでいらっしゃったんですか。」
鶴見俊輔「そうそう。ああいう人がいちばんしょうがないね。そういう優等生の愚かさっていうものを、やっぱり戦争体験が教えてくれた。一高の英法科を一番で卒業して、東京帝大を出ていないとまともな人間じゃないという考えの人なんだ。そして自由主義が流行れば自由主義、軍国主義が流行れば軍国主義で、いつも先頭を切って一番になる。 だいたい一番の人間は、一番になろうとするから一番になるんだよ。私と小学校の同級生だった永井道雄は、すごく優秀なんだけど、二番なんだよ。なぜかっていうと、一番になろうとしないからなんだよ(笑)。単純なことなんだ。一番になる奴は、一番になりたい人間なんだ。」

 あの原発事故の際に「想定外」と言う言葉が言い訳として使われて、さまざまなかたちで揶揄されたり嘲笑されたりするということがあった。東電の経営者も技術者も、ここで鶴見が言っている「勉強のできる」人たちだから、「想定外」という言葉を言い訳にしたのである。学習しなかったことは、すべて「想定外」ということで、砂に頭を突っ込んで危険なことから逃れようとするアヒルみたいに、責任逃れの方便として「想定外」ということを平気で主張していた。あの時のにがにがしい思いは、忘れようもない。例の「計画停電」という原発の必要性を国民にアピールするためのインチキな対策のおかげで、駅を何区間か歩いたり自転車に乗ったりして、電車に乗っていれば減らせたはずの余計な被爆を強いられていた事に後から気づいて、私は猛然と腹が立った。当時はまだセシウムが風に舞っていたのだから。あの原発事故は、自分の頭で考えられない無能な秀才が津波対策の工事費をケチって引き起こした人災だから、そういう秀才による被害という点で大東亜戦争とまったく同じ図式である。東条英機も陸大の優等生だった。ただの秀才は「つくられた人間」だという鶴見の言葉は金言である。自分の守備範囲の外の事柄については、自分の頭で考えることができないから、大局の判断をそういう人間に任せることは危険なのである。

※ 高校新科目では、課題として政府白書の根拠を問うなんていうものを出したらいいかもしれない。別のところから統計資料を分析するための情報をもって来るという勉強ですね。どういう方法があるだろうか。

林和子『ヒヤシンスハウス』

2022年03月26日 | 現代短歌
 午前中に家の雑事を片付けてから、ちょっと寝そべって時計を見ると、もう十二時である。手元にずり落ちて来た本を少しずつ読む。まず粟津則雄の『沈黙に向きあう』を手に取る。この随想集は折々に適当なところを拡げて読んでいる。今日は草野心平についての文章が目にとまった。二〇年あまり「歴程」の同人としてつきあったという。粟津がかかわったという、いわき市の草野心平文学館には私は行ったことがない。別のページをめくると、こんな言葉があった。
「われわれは単なる個性をこえた価値と向かいあうことによってはじめて真に個性的になりうるのだが、人びとはそういう価値のありかを見失っている。」
恥ずかしい話だが、還暦をすぎてそろそろ自分の人生の終末が見えはじめたところで、ようやく私には「単なる個性をこえた価値」のようなものが問題になってきているので、それは文芸にかかわりを持っている者としての、自分の興味や思考の移り行きと深まりということも関係している。また、最近では近代の日本の絵画史の変遷の一部に目を注ぐことによって呼び覚まされた疑問と関心を、実践的には日々実際に絵を描くということを通して実地に検証しているというようなこともあって、私の部屋には、二週間に一回程度のペースで架け替えられる絵のための壁面がある。一枚の絵(複製も含む)を架けて眺めながら種々のことを思うのである。

さて、その次に手に取ったのが『ヒヤシンスハウス』(二〇二〇年3月刊)で、朝のうち庭の日陰に植えられているヒヤシンスの花芽がようやく色づいてきたのを見つけた。ヒヤシンスというと、小学校の頃に水栽培のポットを教室の後に並べていた光景を思い出す。昭和三十年代生まれの子供にとってはおなじみの光景なのだが、いまの小学校ではどうなのだろうか。
浦和の別所沼公園のほとりに立原道造設計の「ヒヤシンスハウス」を実現した人たちがいて、著者はその運営にかかわりがある人だという。昭和二十年代に沼のほとりに神保光太郎が住んでいて、その縁で同地を訪れた道造が構想した図面をもとにして建てられたこぶりの別荘である。これはスマホの検索で見ることができる。

 道造のベットの端に少しだけ掛けてよいかと振り向く少年

巻末にある二年間広島の学校に通った頃の同級生への挽歌と追想の一連がとてもよい。一連のタイトルは「昭和の春 平成の春」である。

 広島の冬は風花舞いやすく制服の肩にふれて消えしよ

 東京タワーのてすりに休むわれ十九歳のぞきこみて笑うきみは夭折
 ※「十九歳」に「じゅうく」と振り仮名。

私自身も大きく世代を問われたら、昭和の戦後の世代の人間と答える。ここでの制服はセーラー服だし、女子高生にミニスカのイメージはない。モノクロの卒業アルバムと、手書きの手紙。肩に手をかけて寄り添う旧友たち。鉛筆削り。砂消しゴム。……。青春の思い出は切ない。その思い出に生きることは、老年の時間を豊かにもするのである。思い出は繰り返し取り出すことのできる宝物のようなものなのかもしれない。その時に生きていた人は、たしかに今もその追憶の中で生きているのである。

 上野駅から動物園まで息切らし走りはな子に会いし春あり

これは上野動物園の象はな子の死を聞いて作った歌である。続く一連の歌。

 上野駅、戦災孤児らの屯してわれのみ庇う父を厭えり

 幼きわれの持つ一切れのパンにさえわらわらと寄りくる裸足の子たち

 「あの子たちは、あの子たちは…」問うわれに父は答えずただに急ぎき

 ボロを着て倒れていた子、母さんと叫ぶ子 泣き泣きその脇通りき

 父母を戦争で亡くせし悲しみはひしひしと伝いき幼き胸にも

上野動物園の象の死を悼む歌に続いて、噴き出すように幼時の追憶が甦る。戦災孤児の姿は、私の年代では実地に見たことのない情景であるが、私自身は幼時に渋谷の駅に降り立った時の一番の思い出が、駅の地面の真っ黒に踏み固められた土の色、その強烈な黒色である。舗装されたり、別の具材で覆われる以前の国鉄(分割民営化される以前のJRの呼称)の駅には、地面の上にじかに駅舎がある感じがあった。今はどこも何となく宙に浮いているし、構造上も立体化されて地面より高いところか地下にあることが普通になった。
作者が目撃した上野にも同様に舗装されていない真っ黒な地下道があって、そこに汚れた戦災孤児たちがいたのだろうと、私なりに想像するのである。

山木礼子『太陽の横』

2022年03月12日 | 現代短歌
この歌集は前に読もうと思った時に自分のコンディションがわるくて内容が頭にはいってこなかったので、そのままにしていた。ずっと気になっていたのだが、今日はいい感じに読めたので、書いてみることにする。
最初に読んだのは、後半の第Ⅱ部である。ずっとなじんて来た現代短歌の文体で書いてあるので、私にとっては読みやすい。たとえば、

 帰るたびまづジャケットを掛けられる椅子の背のやうに求められたい

これは大人の男女の愛の歌なのだけれども、少しだけ奇抜な比喩が、読み終えてみると、それはいかにも落ち着いた言葉の選択であるように受けとめられて、なるほどそういうものが、安定した男女の関係の理想なのだなと思わせる。

 春の雨 尿するとき抱きあぐるスカートは花束となるまで
   ※「尿」に「ゆまり」と振り仮名。

初句の「春の雨」が効いていて、なんともうつくしく、はなやかである。体操ならE難度という作品で、「春の雨」はしずかなものだから、やはり子供のこととして読むべきか。

 婚や子に埋もれるまへの草はらでどんな話をしていたんだつけ

 縫ひ目のない世界に暮らす 濃紺のただ一枚の布きれのやうな

人間がある関係のなかにいるということは、その関係のなかでほとんど埋没しきって、いくつかの役割を引き受けながら力を尽くすということだから、そこでは自意識というものが多分に滅却されやすい。毎日が夢中であるというような、そうした日々のうちにあって、自分の居場所がよく見えない、という閉塞感を「濃紺のただ一枚の布きれ」と表現する感覚は、さすがにするどい。

第Ⅰ部は、「あとがき」の文章によると雑誌連載の作品である。子育ての局面における作者の自意識がもみくちゃになった所で格闘する言葉のはたらきに気をつけて読めばいいのだが、前に読もうとした時はどうもそれができなかった。

  ツイッターに書かれることを恐れつつ怒りやまざり昼の車内に

今の時代は、考えて見れば多くの人がツイッターのような「だんびら」(ふりまわすと危ない凶器)を持っているとも言えるので、私もこのブログに書くにあたってはつねづね注意しているところで、この歌の気分はよくわかる。一首の内容は、恐る恐る批判的なコメントをだしてみたものの、あとでそれに対する反撃が来るのがこわい、というところだろうか。同じ一連から引く。

 ベビーカーをずり落ちてゐる片足にひそかに触れる老いた手のある

 届きたる長い手紙はうつすらと仕事やめよと読みうるやうな

 三年をともに過ごして子はいまだ母の名前を知らずにゐたり

一首めは、電車の中などで、気付いてみたら無断で子供の足に触れている人がいたという歌なのだけれども、下句の四・三、三・四の語句の調子の持っている低声のくぐもるような響きのうちに呼び込んでいる気分というものが、ここにはある。二首目は、産休中の会社からの手紙だろうか。作者は歌の言葉を発しつつ泥沼のような葛藤の多い育児の日々をたたかっている。
三首目、思わず笑ってしまう。体でつかみ取ったユーモアという感じ。

 おしまいに何げないけれどもセンスの感じられる歌を第Ⅱ部から一首引く。

 冷房にあたればそよとそよぐ髪 屋根のしたにも風上がある

※ 一度投稿したのち、同日夕方に一部の文章を手直ししました。

天をめぐるあれこれ

2022年03月11日 | 
〇飯島耕一の『白紵歌』(はくちょか)という小説を読んだ。2005年7月ミッドナイト・プレス刊。土方歳三好きの人というと、没後しばらく膨大な蔵書の隙間で行方不明になっていた草森森一がいるが、この本をめくっていくと、おしまいの方で飯島もだいぶ土方に心を寄せているのがわかる。当時放映していた大河ドラマの土方や近藤の姿がいただけないとも言っている。日野龍夫の荻生徂徠論に感心していて、このあたりはおもしろいのだろうけれども、私は不勉強のまま放ってある。話題に供せられるのは、其角と江戸漢詩と西鶴。忠臣蔵。柳沢吉保。其角については別に一書もある飯島らしい、自分の打ち込んでいるものに関する話題を詰め込んだやや長めの短編小説なのだが、若い頃の異性との思い出を織り交ぜながら、語られているのは、老年になって慕わしく感ぜられる性的なもの、自分とっての女性的なものへの感謝と慈しみの念である。古稀の年齢の人間が、性的な存在としてある人生の歳月をまるごと肯定して書いた、人生との和解の書とでも言おうか。末尾に突然出て来る問いかけ、「失われた天」という言葉には、詩人の現代の文明全体、それから現代日本の文明社会に対する根源的な批評が見えるのだが、それは酔っ払いの歓談と壮語の間にふわふわと漂うような思念として語られるのである。そこで孔子の言葉として、主人公と同じ酒場にいたアメリカ人の酔客のことばとして語られる字句を引いてみよう。

  「孔子は〈治める〉と、(朋友を信じる)という二つの言葉を与えた。(死後の生活)についてはなにも言わなかった。(極端に走ることは誰にもできる。的を外して射るのはやさしい。まんなかに堅く立つことはむずかしい)と言った。(品性を欠いてはその楽器を奏でることはできない)。そしてこう言った。(杏の花は 東から西へと風に揺らぐ   
わたしはそれが散らないようにつとめた)。泰山のごとくあれ、きみたちよ。天はすく真近にあると知れ。きみたちの中にあると心を尽くして知れ。」

「杏の花は 東から西へと風に揺らぐ わたしはそれが散らないようにつとめた」‥‥
美しいことばではないか。孔子の言葉としつつ、これは飯島訳の孔子の世界である。つまり飯島耕一の詩である。

〇それで思い出したのだが、私の出身中学の校歌は草野心平の作詞だったのだ。ここでも「天」がキーワードになっている。

日輪は 天にあまねく
見はるかす 丹沢箱根
その上に 堂々の富士
朋がらよ 眉上げよ

あの清さこそ われらが心
あの高さこそ われらが理想
長後 長後 われらが母校
おお かがやく未来

今調べたら、作曲は芥川也寸志である。驚いた。なんと豪華な校歌であったことよ。
ほるぷ出版刊で一冊本の『草野心平』という「日本の詩」のアンソロジーがむかし出ていて、その表紙に草野の描いた白い活火山の絵がみえる。それは太古の噴火する富士の姿ではないかと思うのだが、その噴煙は太い棒のような塊にえがかれており、天空には日輪が高くかかっている。草野の詩をそのまま絵にしたような、大柄で空無の力を秘めた絵である。

〇火山というと、梅原龍三郎の古い美術全集の箱に描かれている絵があるが、あれも私は好きだ。集英社の廉価普及版の「現代日本美術全集」で、いま見たいと思って探したのだが行方不明なので、検索してみたらあった、あった。噴煙がトナカイの角みたいにかいてある。大人の稚気満々という感じもするし、酔っぱらって「泰山を思え」と語る道人のような風格もある。
小林秀雄がその梅原を話題にした文章が『小林秀雄 美と出会う旅』という本に載せられている。新潮社のムックで、これは梅原を扱ったページにはのっていない。画廊主の吉井長三が書いた「最後のセザンヌ」というセザンヌを扱った章にあった。引いてみよう。

 「浅間山を描く梅原先生のお供をした時の話をしたことがある。――浅間に向ってイーゼルを立てたが、先生のカンヴァスはいつまでたっても白いままである。空はすっかり晴れわたっている。今日はよく見えますね、と声をかけると、いや、あんまりまだ見えない、といわれる。翌日は曇っていたが、少し描かれた。今日は昨日よりぼんやりと、ぼけていますね、というと、梅原先生は、「いや、今日は実によく見える」――。小林先生は即座に「それが梅原のイデ(Idee)だ」といわれた。「見えるものではなく、見えてくるものを描く。それが梅原さんのイデなんだ。」それは、そのまま小林先生の “絵を見ること“ につながっているように思う。」同書60ページ

 時間のない日曜画家からすれば夢のような呑気なエピソードであるが、こういう行きかた、生き方というものが確かに存在したのだ。問題になっているのは、やはり、こころの位相なので、見る、見える、という言葉の使い分けのなかに、幾重にも錯綜し反照し合った洋の東西の芸術観の混淆とその独自な熟成がある。

 梅原がはじめてルノアールの許を訪れて絵を見せたら「君はまるでスペイン人のような色を使う」と言って感心されたという(『天衣無縫』)。日本にいるうちから「白樺」などで紹介されている写真版のルノアールの絵のファンになっていた梅原ではあるが、君には色彩の感覚がある、と言ったルノアールは、やはり梅原の資質の根幹にあるものを正しくつかんでいたと言うべきだろう。小林秀雄が梅原のあの赤色、と言った赤。上野の美術館にある北京の天壇を描いた絵にしても、緑とともにあの赤の使い方が、人を芯から揺り動かすようなところがあって、有名な緑色の裸婦にしても、なんであんな絵が描けたのかがよくわからない。あれらの絵は、単なる意匠というようなものによってできたものではないと思う。 

〇夏目漱石の『それから』に父親が床の間に掛けている軸に「誠は天の道なり」という言葉が書いてあって、主人公の代助はその言葉を嫌悪して毒づくのだけれども、江戸時代の思想を簡潔に一行で要約するとしたら、この言葉になるのではないだろうか。私は若い頃は作者の漱石と代助とをつい重ねて見てしまいがちであったが、漱石自身はこの言葉に単なる反発以上の思いを持っていたはずで、父祖のそういう思想に反発を抱く代助を十分な痛みを持ちつつ破滅させるように描く漱石には、知性の持つ残酷なまでの激しさというものがある。

〇草野心平にもどって、草野の詩において、天と日輪はセットになって存在するものとしてあった。

〇「人、人、人しかないこの現代日本に、果たして〈天〉は回復されるでしょうか。」(飯島耕一『白紵歌』) 

〇近世の日本人が受け取った「天」を説いたのは朱子学である。私は『中庸』を読んで、これは一種の洗脳システムだなと思った。「天」を言う以上、宋学を避けて通ることはできないが、宋学には非合理と合理とをつなぐ不思議に詩的なレトリックがある。哲学思想と言うよりも詩的なファンタジーの側面があるようだ。

※ このあとの一段落分の文章を削除しました。 3月12日。

永田典子さんのこと 季刊「日月」2021年4月号

2022年03月05日 | 現代短歌
手元に季刊「日月」の2021年4月号が出て来たから、こういう機会にでもないと書けないので、書くことにする。まず永田典子さんのページを開く。ネットで検索すると、永田典子さんの同姓同名の政治的な有名人がいるうえに、ふつう歌人で永田さんというと永田和宏、河野裕子夫妻、ならびにその子らのことを思い浮かべるから、一般の人にはかなりまぎらわしいだろう。本題に入る。

2021年4月号の「日月」の永田典子さんの「父の出征」という一ページの随想文には、僻地の小学校で教える父への召集令状が来たときの思い出がかかれている。父は村で一人目の出征兵士であった。

「僻地の子供達の教育改善を唱えて師範学校に入った父にすれば、その主義主張のゆえに「イの一番に召集された」ことを万事承知であった。だが父は何も言わずに出て行った。」

ここで「その主義主張のゆえに」「イの一番に召集された」という時代的な背景は、現代ではもうわかりにくいのかもしれない。危険思想の持ち主と目されるところがあったのだろうと思う。

「父は最後まで人も通わぬ鉱山跡や木地師の部落などの分校で子供たちと学び、丈余の釣橋を渡って六帖一間ほどの教舎に寝泊まりして教職を終えた。」

「丈余の釣橋を渡って六帖一間ほどの教舎に寝泊まりして」という簡潔な文章がいい。一昨年ネパールの僻地の学校の映画が、現代日本でもしずかに評判になったが、それと同様の現場で働き、理想に殉じた作者の父への崇敬の念が伝わって来る。

同じ号の永田さんの短歌作品を引く。

庭先の大輪の花くろずむとわれのまなこのあしたおどろく

朝、庭先の椿の花をみたら、ふいにそれが黒ずんで見えたという。体調異変のきざしを告げる歌である。


  夏の蚊帳広きめぐりをひたすらに逃げてゐし身よ十三の夏

  子を持ちて知る愛ふかし、愛されず育ちし一世いまにし昏き
   ※「一世」に「ひとよ」と振り仮名。

二首つづけて読むと事情が推察される。蚊帳を吊る家もいまはないが、折檻しようとする母からぐるぐる逃げ回ったということなのだろう。蚊帳を持ち上げてつかまえるには時間がかかる。追いかける方はすぐさま自分の気分を晴らさないと気が済まないからぐるぐる回ることになるわけである。内田百閒だったか水上滝太郎だったか忘れたが、近所の芸事の師匠さんがその女弟子を折檻する悲鳴が定期的に聞こえて来るという文章があった。現在言うところの虐待は、昔は折檻という言葉で表現されていた。

  指を噛みぐみの木下にたたずみて父を恋ほしと泣きゐし少女

この少女は、作者自身のことである。哀切な作品である。

「日月」の編集には、作者の生き方がひとつの表現行為として現われ出ていた気がする。一度だけ私の方から歌会に挨拶にうかがったことがあるが、その時にかなり長い時間会話を交わした記憶は私にとって大事なものとしてある。「日月」は私がつねづねその玄人好みの文章に敬意を払っている清水亞彦や、福島の歌で知られる三原由起子をはじめとして、永田さんの娘さんの朋千絵、それから十谷あとり、黒沢忍、浅川洋、青沼ひろ子ほか個性的な作者を多く集めている雑誌だった。同誌には、特に幾人かの旧世代の歌人に依頼して回想を書かせた記事があったと思うが、あれは埋もれさせるのはもったいない気がする。