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さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

なんだかね

2025年07月21日 | 寸感
 日本は「差別禁止法」がないので、公的な場所でのヘイトが野放しになっている。それにたまりかねて、ヘイトの被害にあっている人々が声をあげて、国ではなく市政のレベルで条例を作った。それで裁判にも負けて、川崎にいられなくなったレイシストが、今度は矛先を川口のクルド人たちに向けて、誹謗中傷のかきりを尽くしている。というのが、日本の一部のひとたちのイタい生態で、そういう風潮にのっかって、選挙演説中に党首が「チョン」発言をして、笑いながら「あ、言っちゃいけなかったんですね、このことば」みたいなノリでへらへらしている。恥ずかしいとはおもわないのかなと思うが、選挙でたくさんの議席を得てしまったから、無視できないわけで、なんだかね。あらゆる差別を肯定する言動は、人倫に反するものである。
そこから再出発しないと、レイシストのマイナスのオーラに日本の文化が汚染されてしまうような気がする。実にいやな選挙であった。

我が新作

2025年05月18日 | 現代詩
いまのところどこにも発表のあてもない詩を以下に。タイトルは「ぶっと芭蕉」

ぶっと芭蕉            さいかち真

ぷつん、と
さっき留めておいた梱包材のテープのバンドの
はずれる音 がした。
ぷつん、といって
さっき、とめておいた梱包材のテープのバンドのはずれる音のあとに
光るカワセミがよぎる
までの時間を
待った。 という嘘

AIのせいで
陽の翳りに、紫雲が舞い
日当たりには 粘土の羊があふれています。

  がらん、どん と、

空から粘土の羊が落ちてきて
春の、ふかふかの畑土がへこんで
そのへこみが、ずいーんと二メートルも深くなって
そこから蝶が飛び立つ までを
待っていたいと 思います。
という

の嘘

  何を信じたらいいんだい?
  ああ
  何を信じたらいいんだい?

くだら銭(ぜに)ぃの、くんだら銭ぃの、
プレ世界変革の、ミス水芭蕉の。
その憔悴の、その小水の、尖(さき)で
(きみに変換できるわけがない)と言いながら
待っていた 橋の上
ちょろ、ちょろと
したたりやまぬ小便小僧のおちんちんからほとばしる小水の先に
大きな虹が、あの世まで届く虹が
かかった。
わけがないだろ!

  がらん、どん と 
  糞石が

空から落ちてくる響きがして。
それはそれは、
大きな野糞のような
大石ではあった。その変革の
ノリノリの はげたか馬の

  大穴だ!



ブログの移動の予定

2025年05月04日 | その他
 ずいぶんと御世話になったこのグーグル・ブログのサービスも今年度中に仕舞うということなので、アメーバ・ブログに引っ越しをすることにした。データは、近日中に一括して移動してから、カテゴリーを整理し直す予定である。それで、今後このページにアクセスした場合は、リンクのあるアメーバ・ブログに飛ぶことになるので、このブログを見ておられたみなさまは、ご承知おきください。

 このブログのシステムを維持して来られたスタッフのみなさん、本当にありがとうございました。


嵯峨直樹『塔TOWER』

2025年05月03日 | 新・現代短歌
 少年の頃読んだ科学の雑誌の記事に、夜空の暗い星をみるには、明るい星のようにまともに見つめてはいけない、目の焦点からはずして隅の方から視野に入れると不意にみえて来るでしょう、というような文章があった。これは嵯峨直樹さんの歌集を前にして、何か書こうと思ったときに思い出したのだった。そうして、いま見直したら歌集の末尾に近い所に次のような歌があった。

   とりかこむ淡い気配に気づいたが見たら消滅するから見ない

嵯峨さんが現代の社会現象と、それに対応する自分や他者の心身の(たいていは反射的、無意識的な)動作の現れに向かおうとするときの態度というのは、右のような眼の隅から中心に視点の中心を動かすような、周縁から包み込むようにとらえる方法に発しているのではないだろうか。それは、たとえて言うなら天使の立ち位置であり、事象の渦中にあって、きわめて当事者に近接(同情・共感)しつつ、同時に離れているという絶妙な批評的ポイントを保ちながら、世界の傷ついている者の肩のあたりで羽根風を送っている姿である。

作者は、ひりひりするような罪悪感をもって世界に存在することの意味を受け止めながら、社会と人の集団が、擬制的に生み出された公共的な場において、見事に機能させている微細な権力の絡まり合いの実相を、そこに生成するよじれ合った機械と肉のかたまりが発出する波動としてとらえ、そこにもたらされるモノのかげ(光・影)を詩的言語をもって全的に把握しようと努める。薄絹の紙に描かれた素描は幾枚も重ねられ、ひとつの「感じ」は連作のなかで角度をずらしながら言葉の光線を当てられて、その陰影を徐々にあきらかにしてゆくのである。

「番組」と題した一連より

  複雑な影をまとった肉体におと響かせて吊るされている

  もえているかわいい死体にぶらさがりともに未来を夢みるようだ

ここでユーフォーキャッチャーのなかのキャラクターのようなイメージに形象化されているのは、無慚なすがたをした「未来を夢見る少女」のような存在である。かわいいのに、それは火に燃えている。
ただし、作者の作品において「もえている」ものは、現実に火で燃えているのではなくて、内的なかがやきをもって照らし出せされているという意味合いのものもあるから、注意を要する。※
同じ一連の前の方の歌を引く。
 
  血の匂い帯びたささやき濃くなってひとつの黒い袋になった

  つぎつぎとはじけて死んでいる顔の群れがみつめるきんのかたどり

この黒い袋は生身のヒトの肉体の比喩的なイメージのような気がする。そうして、ただちに、どうしてもこの黒い袋は、死体の入った袋というイメージにつながってゆく。それは、ここ数年の間にウクライナやガザやシリアなどの紛争地、戦地で殺されている人のイメージにつながってゆく。「きんのかたどり」は美しい。うつくしいが、それを見たものは、すなわち死者となる。
同じ一連の後半に入って。

  遠空のヒト型兵器が呼応するとても小さくきみが笑うと

  ためらいのない目に見られ口ごもる空にまたたくヒト型兵器

一首目の「きみ」はドローン操作者だろうか。これはドローン兵器のことのようでありながら、「ヒト型兵器」という言い方には、ドローンだけではないアニメのキャラクターのような感じも持たせているから、この一連全体をゲーム空間のことのように読む余地も残している。そうして読者がそう思い込んでしまえば、この一連のもたらすひりひりするような原罪的感覚は消えてしまい、一篇は消費されて終わるということもあり得る。その程度のソフィスティケーションは一集全体に施されている。 
「結ぼれ」という一連のはじめから四首を続けて引く。

  室内はあかるい水に濡らされて青いデジタル文字のぎとつき

  破損したプラスチックが散らかっていないあしたの昼は眠くて

  くずかごに住んではいないくずかごでないかのように振る舞うかぎり

  加害する予感にあわく傷ついて小雨の音に囲われている

食べものというものは、どれも微小な毒を含んでいて、われわれはそれを組み合わせて食べながら毒を排出しているから生き続けていることができる。極端なことを言ってしまえば、そういう意味でなら、生きて食べ物を生産して売り買いするということは、誰もが毒を売りつけあっているということでもある。人を傷つける、他者に対して加害するということは、同様な生きることに伴って必然的に強いられる生の重たるい一面である。しかし、作者は次のように言う。同じ一連の歌。

  傷つける傷つけられるくらいなら無音に光る傷でありたい

さらにこんな歌も。

  うれしさの広告でいい死んでいる絆でみんな手をつなぎたい

まだ書こうと思えばいくらでも書けるけれども、言い過ぎてしまいそうだからこのぐらいにしておこうと思う。以上、このブログをみるひとが、嵯峨作品を読み解く参考にしていただければうれしい。

注※ 「燃えている」の例歌として。
後ろ手に家族の燃えている家のドアを閉めればしら雪のまち

この歌の場合、それは関係性の喩であって、前後の作品をみれば、冒頭で論じた戦場や火災現場を想起させる一連の「火」とは異なっている。

よし原といえば

2025年04月13日 | 本 古書
 NHKの大河ドラマが吉原を舞台としているので、ドラマの二回目以降は、ほかのことをしている方が楽しいので見ていないが、何となく書くことにしようと思ったのが以下のことだった。

 村松梢風の自伝的な小説『女経』は、書名の通り女性遍歴を連作短編としてまとめた放蕩記であるが、経は「経験」の経であるとともに、「お経」の経でもあるのかもしれない。
 お経をあげる、というのは、とむらう気持ちを含む。申し訳ない、すまなかったという気持ちもあるのである。とは言いながら、男性優位社会のいい気な書き物であるという一面があることは、仕方がない。それは、そういう時代であったのだ。だいたいものを書き始めたきっかけが、お金に窮して吉原での経験を書いてみたらどうかというところから始まったというのだから、すさまじい。

この本の装丁を担当しているのが棟方志功である。その古書が意外と安価だし絵に興味のあるひとはごらんになっては、というのがひとつ目。

 もうひとつ放蕩記でものすごいのが岩田専太郎で、私はこの画家の絵は中学生の頃に「毎日新聞」の画集の広告をみてうっとりしたのが焼き付いているから、本人の自伝をみつけた時はうれしくてならなかった。遊ぶ金を作るために挿絵をかいていたというところが、村松梢風などと似ている。

 あとは、詩人の金子光晴が画家の英泉について書いた文章のなかで、明治時代以降にも残存していた江戸文化についての偏愛を語っている。これは、平凡社の古い美術の叢書に入っていて忘れがたい文章だ。

 吉原に発する文化のことをイメージしたかったら、上記三冊に加えて、女性の側から描いたものとして瀬戸内寂聴の『女徳』などもあわせて読んでみるといいのかもしれない。