さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

近世と近代をつなぐもの

2020年07月26日 | 近代短歌
※ 以下は「美志」に掲載したもの。

近世と近代をつなぐもの
〇はじめに
 本稿は、試みに江戸時代後期の歌人香川景樹と明治・大正時代の歌人尾上柴舟の瞑想的な歌、さらに中村憲吉を例にとりながら、近世和歌のなかに見られる、伝統的な語彙によった思弁的な歌と、西欧詩の世界を知ったうえでの近代の象徴主義的な〈「こころ」を見る「こころ」〉をうたった歌とを、一つの系譜としてつないでみようとする試みである。
 短歌詩型において〈近代/前近代〉の断絶を強調することには、今日ほとんど意味がない。近世の歌人たちの歌をちょっと読んでみただけでも、それは違うのではないかと思われる。短歌型式による「こころの動き」の記述という、この詩型が実質的に担ってきた側面に注意しながら短歌史を見ようとすると、〈近代性〉の表徴とされた「自我」や、「写生」ということばは、いたずらに断絶ばかりを強調するもののように思われる。〈近代性〉の表徴を、素材の新しさに求める例として、たとえば橘曙覧について、かつて伊藤嘉夫は、何首か作品を引いたあとで、「そこには堂上の残糟も万葉の詰屈もない、ひろびろと開けた近代性が見えるのである。」と述べていた。
 *(『和歌史・歌論史』昭和四四年桜楓社刊、和歌文学講座2)
 ここで言う〈近代性〉とは、歌を作る姿勢において、発想や素材や語彙についての制約を設けない点を評価して言われたものである。こういう広義の〈近代性〉への言及は、むろん大切な観点ではあるのだけれども、現在ではあまり知的な興味をそそるものではなくなっている。今という時代はさまざまな理由によって〈近代性〉を問題にする視点そのものが魅力を失っているからである。
本稿は〈内観〉というかたちで確立された主体・主我の意識を〈近代性〉の表徴としてとらえ、その起点のひとつとして香川景樹の作品を置いてみようとする試みである。もちろん「こころ」の歌は、古代から連綿と歌い続けられているわけだから、私がここで〈近代性〉の表徴とするのは、〈「こころ」を見る「こころ」〉の意識的な対象化が、自覚的に為されているかどうかということ、それが自律した方法として作者の意識に上っているかどうか、ということを目安とする。香川景樹の場合は、別に示す「桂園一枝講義」の内容をその方法意識の証左とするものである※注一。ここではその実作の方をとり上げる。
 話を進めると、斎藤茂吉の「長塚節の歌」という文章は、「アララギ」の合評『長塚節研究』の巻頭論文として執筆されたもので、節の初期の作品から順に解説をしている。茂吉は長塚節の最初期の歌について、「中学生の頃から独りで歌を作りはじめ、従来の歌風即ち桂園流に近いやうなものを作つてゐた」のが、子規の運動に出会って一段と進化した、というように書いている。ここで茂吉の言う、節が学んだ「桂園流」は、管見では、伊藤左千夫も含めて、調べというところでは、相当に初期の「アララギ」の中に溶け込んでいる。それは茂吉すら節の初期作品が発掘されたものを見てから、当初はあいまいに言っていたものを事後的に承認せざるを得なかったほどに(「長塚節の初期の歌」という文章)、強い影響を受けていたものである。
子規の宣言は、短歌の革新をもたらしたが、子規の弟子たちは、むしろ「旧派」和歌を十分に咀嚼していたからこそ、あらためて「万葉」調をもこなすことができたのである。(と言うより、景樹の『桂園一枝』自体のなかに「万葉」調の歌も入っているのであるが。)
茂吉の「万葉」尊崇の記述と、「万葉」集との出会いによる断絶の強調は、そのおもしろさは別にして、今日になってみると、近世和歌研究の上では批判的に乗り越えなくてはならないものの一つであり、あまりにも党派的かつ非寛容でエキセントリックなものにみえる。しかし、その影響は大きく、初期「アララギ」同人と「旧派」和歌との関係は、ほぼ意図的に見ないようにされて来たという過去がある。その証拠に伊藤左千夫にしても、根岸短歌会に参加する以前の和歌についての研究はほとんどない。
 以下は、右のような問題を考えるための簡単なスケッチでもある。本題に入る。

〇「思ふこと」の歌

一 思ふ事ね覺の空に盡きぬらむあしたむなしきわがこゝろかな         香川景樹

※以下景樹作品の引用は岩波書店の旧版古典文学大系『近世和歌集』に拠った。

掲出歌は、夢中のもろもろの想念が、朝の光に照らされると消え去ってしまうことを惜しんだ歌である。いわゆる「旧派」の作者として、正岡子規の批判の前に権威を失ったとされる景樹に、こんなにも近代的な歌があったことを最初に言っておきたい。ここで〈近代的〉と言うのは、「思ふ事」への注視から、〈内観〉によって空漠とした想世界を対象としてとらえることに成功し、きわめて抽象的な「わがこゝろ」の想念それ自体を歌の素材としている点である。
 これと対比して、次に読もうとする尾上柴舟は、リルケの詩などのヨーロッパ文学を媒介として自己形成を成し遂げた近代歌人であるが、同様な想念を素材とした作品を多く作っている。引いてみる。

二 夢にゆく心をりをりかへるらしまたも世界の物音を聞く            尾上柴舟

三 現世(うつつ)より呼ぶともいかで帰らめや夢の女の来てさそふもの      『白き路』(1914年)
 ※『尾上柴舟全詩歌集』より

 一首目は、眠りとも瞑想ともつかぬ忘我の時間から、はっと覚めて現実に戻る刹那を詠んだ。二首めは、今まさに夢の女に呼ばれている最中なのに、どうして戻って来ることができようか、と去り難い思いをのべている。夢の女は、夢の通い路を通ってやって来るのだろう。ここには西欧詩の浪漫的な世界を短歌型式の中に落とし込むなかで、和洋の融合した独特な世界が創出されている。この歌では、和歌の〈調べ〉が全体の下敷きとなって、深いところで作品の想世界の成立に作用を及ぼしているのである。柴舟については、のちほどまとめて触れることにして、これからしばらく景樹の歌について述べる。

四 月見むと明(あけ)たるまどの燈(ともしび)のきゆる心はこゝろありけり     香川景樹
 
月を見ようと思って自分が窓をあけたところ、部屋の燈がふっと消えた。それでは、燈も月を愛でようという風雅の心を同じく持っているのだな、という内容の歌。岩波の旧版古典文学大系『近世和歌集』の頭注には、「禅の影響がみられる」とある。ふだん自分の内面に集中している人が、たまたま感興を催す事物に出会ったという空気が、この歌からは感じ取れる。校注者は、禅と関連させているが、ここで見出されている「こころ」は、外界に向かって働く感覚の作用それ自体を対象化したものだ。機知に解消されてしまいそうに見える歌ではあるが、そこだけに目をつけて「古今」調だと言っても仕方がない。こういう心の動きへの注視は、やはり〈近代的〉なものを含んでいる。

〇景樹の歌の新しさ
 
五 しらがしのみづえ動かす朝かぜにきのふの春の夢はさめにき       

六 けふ見れば花の匂ひもなかりけりわか葉にかゝる峰の白雲
 
 「しらがしのみづえ動かす朝かぜ」も、「わか葉にかゝる峰の白雲」も実景であろう。それなのに、どこか非現実的な光線に照らし出されているような気配がある。この歌を読む時に、強いて西行や定家の古歌を本歌として意識する必要がない。これは自立した想念の歌になっているのである。「夢はさめにき」という内心の動きそのものに、作者の興味が注がれている。
 二首めも、「わか葉にかゝる峰の白雲」という、まぶしい風光を前にしながら、むなしさに似た思いにとらわれている作者の現実の感傷が、作の主眼となっている。しかもここに実現している蒼ざめた象徴詩的な作品の風姿は、「新古今」の頃の秀歌と比べてみても見劣りしない。注意すべき点は、右の二首が、中世的な滅びと無への傾斜の中で現世の迷妄より「さめ」、有なるものへの執着が「なかりける」ことを志向するのではなく、朝と新緑という生命の力が全面的に展開しようとしている刹那をとらえたうえでの幻滅の感覚が暗示されていることである。この点を強調した論を私はあまり見たことがない。香川景樹の歌の真に新しい部分は、こうしたところにあると私は考える。さらに引く。

七 かぎりなく悲しきものは燈(ともしび)の消えてののちの寝覺(ねざめ)なりけり
八 つくづくともの思ふ老(おい)の暁にねざめおくれし鳥の聲かな
 
ここまで来ると、現代歌人の歌と言ってもいい出来で、類歌を多く目にして来たうえで読んでみても、一首めの三句めから四句めにかけての転換は秀逸であると認められる。眠りの浅い老いというものを痛切に嘆じている二首めの歌の茫漠とした悲しみは、読む者の心をうつ。
 次の三首は、斎藤茂吉が「近世歌人評伝」に引いて、比較的好意的に論評しているものである。

九 おぼつかな木間(このま)に見ゆる三日月(みかづき)も散るばかりなる木枯(こがらし)のかぜ  
一〇 燈(ともしび)のかげにて見ると思ふまに文(ふみ)のうへ白く夜は明けにけり

一一 しぐるるは霙なるらし此ゆふべ松の葉しろくなりにけるかな

 茂吉は、一首めについて
「『三日月も散るばかりなる』はやはり骨折った句で、相当に観入しているけれども、『散る』とまでは云はぬ方がよからんか。」
と言い、二首めについては、
『文のうへ白く夜は明けにけり』は実際を見てゐておもしろい句である。」
と手放しにほめ、三首めについては、
「『松の葉しろくなりにけるかな』は、景樹流のいいところを持ってゐるが、上の句は悪い。たとひかういふ言ひまはしをするにしても、万葉歌人の方が余程質実で厭味なく歌つてゐるのである。」
と批評している。ここでは、茂吉が六首並べて論評したうちの半分を引いた。右の歌については、本文の後半でもう一度触れる。

〇中村憲吉の作品と香川景樹の歌

 さて、明治三十年代の尾上柴舟とほぼ同じ時期に、想念と、眼に入る事物の印象とがせめぎ合う領域に注視しながら歌を詠んだ歌人として、中村憲吉の名をあげることができる。次に引く歌は、一種の中間的な心象の領野への持続的な精神の集中がもたらしたものではないかと思う。先に、

四 月見むと明たるまどの燈のきゆる心はこゝろありけり

 という香川景樹の歌に言及したが、次に引く中村憲吉の歌は、いかにも近代的な装いのある点は措くとしても、大きく言うと、景樹らが見出した「こころ」の記述の仕方の延長線上にある作品と言っていいように思う。

一二 ともし灯は際限(はて)なきかたの暁にふとさそはれて沈むことあり       中村憲吉

一三 空(そら)とほくもの思ひ居ればそはそはと軒のもの屑(くづ)ゆれて来るかな

一四 ともすれば面にうすく夜の髪のかかれるかにも手に拂ふかな

一五 巷には影うすれつつ陽(ひ)のまへを人ゆけりしがなほも行きつつ 
       ※『馬鈴薯の花』より
   
一首めは、景樹の、「一〇 燈のかげにて見ると思ふまに文のうへ白く夜は明けにけり」の大正版である。歌としては景樹の歌の方があいまいなところがなく、輪郭のくっきりとした歌である。憲吉の方は、四句めの「ふとさそはれて」が擬人法で、そこは目新しい印象を与える。長塚節の小説『土』などを見るとわかるが、擬人法を洪水のように使用し出したのは、近代小説である。憲吉自身は「旧派」の歌にはほとんど関心を持たなかったと回想に書いており、研究者たちもそれをそのまま信じて憲吉作品を読んで来たのだが、果たしてそうだろうか。
私は憲吉の「一二 ともし灯は際限なきかたの暁にふとさそはれて沈むことあり」という作品は、景樹の「四 月見むと明たるまどの燈のきゆる心はこゝろありけり」という歌を徹底的に咀嚼したところから出て来たものだと考える。灯と暁の光とが伯仲した時間帯をとらえたという点で、両者は等しい。いったん意識の底に沈められている景樹作品があって、それをおのずから超えようとして二、三句目の「際限なきかたの暁に」という句が引き出されているのだと私は考える。二、三首目の歌の結句の「かな」は、万葉調の「かも」でなくて景樹の歌の結句の口癖である「かな」である点にも注意したい。これは表現の無意識で出たものだ。
右に引いた中村憲吉作品の二首めは友人の死に衝撃をうけて作られた連作のうちの一首である。しかし、一、三、四首目は、事実的な背景を種明かしすると、遊郭に泊まった晩とその翌日の(ものだろうと推測される)所在ない思いを具体的な事柄をぼかしながら歌ったものにすぎない。けれども、できあがった作品そのものは、どれも深みがある瞑想的なものに仕上がっている。ここで実際の背景を確認したことによって、単に憲吉が事実を韜晦した歌を作ったのにすぎないとするのは、卑近で作品の品質を見ない読み方である。これらの作品の品質の高さというものに顧慮する必要がある。 
二首目の三、四句目の微細な把握には、中村憲吉の繊細な感性が浸透している。初句の「空とほく」は、上田敏の訳詞にもあるが、近代の翻訳文体が入っているようだ。二句めの字余りのあとの「そはそはと」というオノマトペは俗語であり、これも近代小説などから来ている言葉の使い方ではないかと思われる。それにしても、結句の「軒のもの屑」という表現に見られる描写の単純化は、非凡である。
 三首めは、前夜の女の髪の毛の感触を想起しているのかもしれないが、空中を浮遊する「ささがに」の糸を詠んだもののようでもあり、自分自身の額にかかる髪の毛をかきやっているようでもあり、また読み方によっては、夕闇そのものが顔のおもてに降りてくるような不思議な感覚的把握である。初句の入り方は、景樹の「おぼつかな」に似て、虚辞に近い。繊細な言語の感覚だけをもとに手探りして作っている象徴主義的な作品である。気になるのは、憲吉が尾上柴舟の歌を読んで影響されたのではないかということだが、そこはわからない。
 四首めは、黄昏か曇天の雑踏を行き来する人影を詠んだものだが、景樹の〈幻滅〉のかわりに、ここには〈憂愁〉があると言ってよいだろう。二句めの「影うすれつつ」というとらえ方に、うっすらと虚無的な気持がにじんでいる。放蕩の余韻さめやらぬ朝の気分を詠んだ歌としてもおもしろいが、一首はもう少し深読みを誘う繊細さを持つ。ここには、群衆への暗黙の批評の気持も投影されているようである。そうして、その群衆のはかない営為をとどめ得ようのないものとして受け入れようとしているということも、この歌からは読み取れる。「人ゆけりしが」という屈曲した言い方のニュアンスをくんでいくと、右のように読めるわけである。この「人」に自らと前夜の女の姿をも含めてみているというように読むことも可能である。
このように想念と歌の調べとを同調させながら、あるとしもなき事柄を歌にするということは、高度に意識的にならなければ作品化することはむずかしい。自らの意識の相をひたすらのぞきこみながら、事物と意識との緊張した関係を短歌の〈調べ〉に載せることのおもしろさに目覚めた者にのみ可能な作品世界なのである。
私見によれば、右に引いた憲吉の〈内観〉の歌の間近なところに香川景樹作品に典型的にあらわれた近世の和歌があった。それは、繰り返すが、〈言葉〉、つまり歌語への技術的なこだわりとともに、〈こころの動き〉それ自体への関心に発して歌が作られるということを動機として持つということを意味していた。それはむろん「玉葉」・「風雅」などの中世和歌の世界ともつながっているが、たとえば桂園歌風の至極と言われた「埋火」の歌に対する感受の仕方として、同時代の多くの読者に共有されていたものである。だから、私はここに奇論を立てているわけではない。
ここにあるのは、美の価値基準の移動である。景樹の自作解説である「桂園一枝講義」からもわかるように、景樹がその点にきわめて自覚的であったということは、幾度強調しておいてもよいだろう。そこに広義の〈近代〉があったと言っていいが、同時にそれは、「もの思い」の表現という点で、長い日本語の言葉の運用の伝統に密接に繋がったものでもあった。短歌を素材中心に見たり、〈写生〉という方法の導入をもって近代とそれ以前とを鋭利に切り分ける態度は、そこにわかりやすくて、同時に歪んだ物差しを持ち込んでしまった。また、そのために色眼鏡によって景樹の仕事の意味の正しい評価をできなくした歴史が成立し、固定してしまった。
続けて憲吉の代表作のひとつである次の歌と景樹の作品とを比較して読んでみたい。

一六 今よりははとりをとめら新桑(にひくわ)のうら葉とるべき夏は来にけり     香川景樹

一七 篠懸樹(ぷらたなす)かげを行(い)く女(こ)が眼(まな)蓋(ぶた)に血しほいろさし夏さりにけり        中村憲吉

景樹の歌には、まるでドイツ・ロマン派の詩のような初々しい感覚がある。また「万葉集」の東歌に拠るイメージも借り物ではなくて、当時の農村の実景が彷彿とするのである。
憲吉は景樹の「をとめ」の歌を知っていたのではないか。むろん憲吉の作品の方がずっと現代的で官能に訴える要素を持っているけれども、無意識のうちに景樹の歌を下敷きとしていると私は思う。と言うよりも、知っていたからこそ、技巧の粋を凝らした換骨奪胎を試みたのだ。現代的な装いのもとに歌い直すことによって、彫心鏤骨の作が可能となったのではないかと考える。
これを両者の「万葉」悟入の度合が、伯仲したものだったことの証左としてもいいのだけれども、この後の例の方はあまりにも直観的で本論の読者には同感しにくいものかもしれない。でも「ともし灯」の歌については、ほぼ景樹の歌との関係はまちがいがないと私は思う。二首の間には表現の深化というものが存在するからである。むろんそれが、「写生」の理念が介在したからこそ成し遂げられたものなのだということは、認める必要があるが、こうして絵の具を塗り重ねるようにして深められていく表現の深化の相を、私はおもしろいと思う。これは深部に食い入った影響関係というものである。
景樹の歌を初期「アララギ」同人は表現の叩き台として大いに活用したというのが、私の仮説である。これは長塚節のように証拠が判明な場合は別にして、当事者たちが口をぬぐっているだけに証明のむずかしい事柄だから、せめて作品を意識の歌の系譜において連続するものとして結び付け、位置づけてみようということである。 

〇尾上柴舟の想念の歌

 最近になって私は、平成十七年刊の全歌集によって尾上柴舟の歌にまとめて触れることができた。また、遅まきながら玉城徹の『近世和歌の思想』、『昭和短歌まで』のような論考の価値がわかって来たのであるが、「アララギ」歌学の洗い直しによる近世・近代短歌の連続性の見直しは、まだまだ手つかずの部分がある。(※注二)
 さて、ここまであまり尾上柴舟の歌に言及しなかったので、少し話を戻してみたい。

一八 なつかしきおもひ湧く日は市に立ちもの乞ふ子らもしる人のごと
一九 見つむれば空のはてより何物かわが眼(め)のまへに落つらむがごと
二〇 夜はながし何とも分かぬさまざまの象(かたち)帳(とばり)に流れながれて  
       尾上柴舟『静夜』(1907年)

 これらの歌が明治四十年に刊行された歌集の中に収められている、ということが、私には新鮮な驚きだった。昭和に入って散文の文芸において自覚されたような、〈意識の流れ〉の表現として〈こころ〉の動きをつかむということを、自然主義の理論の影響下にありながら、柴舟は自ずから成し遂げていたのである。抽象的な「物象」と、それを写す受容体としての「感官の動き」それ自体が、歌の素材になるということを、どうして柴舟は了解し得たのか。
 私は柴舟の右のような歌を、単に近代西欧文学の洗練を受けた結果として読むのではなく、日本の中世和歌以来の花や月、空や雲にまつわる歌語の抽象化の蓄積の果てにあるものとして読んでみたいという誘惑にかられる。むろんその触媒として西欧の詩があるのだけれども、短歌史における、うねるような歴史のダイナミズムを意識することが、現代短歌を豊富化するために必要だと考えるからだ。柴舟の仕事の意味については、師筋にあたる落合直文や佐佐木信綱の歌業との関係や、金子薫園ら同志的な歌人との関係も見る必要があるが、それは本稿で扱いたい内容の範囲をこえている

〇翻訳文体と歌語とのかかわり

短く概説すると、柴舟が近代歌人としては珍しく西欧詩の翻訳から出発したという経歴には、大きな意味がある。彼のハイネの訳詞において、従来の歌語の蓄積が生かされているからである。後年の高安國世のハイネ翻訳と比較してみるといいかもしれないが、いわゆる「星菫派」という評語によって見えなくされたものはたくさんある。明治期において翻訳文学の語彙が持っていた深い意味について、短歌の分野において考えてみる時に、森鷗外をはじめとする浪漫派系の人々の仕事の意味は大きい。また、佐々木信綱編の『歌の志を里』(明治三五年刊)や、『和歌詞の千草』(もと弘化二年、明治二十六年積善館再刊)などの指南書類の果たした役割も大きい。鷗外が奇抜な「わが百首」(※注三)を発表する一方で桂園派だったということは、無視できない要素の一つである。西洋文学の翻訳に先立つものとして、漢文だけではなく蓄積された歌語を整理した書物が存在したのであり、そこに目を配る必要があるのだ。
ここで柴舟の出発点にある訳詩の一節を引く。

おのが涙のしたゝらば
麗しき花咲きぬべし
おのがなげきの響きなば
鶯の音となりぬべし
  「おのが涙」
*   *
すみ上りたる月影に
隈こそなけれ浪のうへ
少女のうなじわがまけば
こゝろ空なり諸共に
「澄み上りたる」
  尾上柴舟訳『ハイネノ詩』より

 明治三十四年刊の訳詩集から引いた。七五調で、語彙は、涙も、鶯も、澄み上る月影も、古典和歌のものである。柴舟の訳詩は、今読むと何やら古色蒼然としていて、さして興味をそそられるものではない。ところが、翌年に出た第一歌集『銀鈴』には、この西欧詩の翻案のような歌がいくつも並んでいるのに、今日これらの歌を読む時には、そこに見られる擬古的言語の運用を一種の新しさとして感じ取り、〈異化〉された詩的言語とみるような読みの感覚が発動されるのである。つまり、おもしろく読める。

二一 老杉の夢にかたらくわが思ふ君が柩とならむ日やいつ

二二 連れてこし羊を森に見うしなひて立てば楡の香身に迫り来る  
            『銀鈴』(1905年)

 一首めはハイネの詩の直接的な翻案と見なすことができる。二首めも和歌の文脈からこんな素材が出てくるとは、到底考えられない。この翻訳調をくぐることによって、柴舟の歌は独自の視覚を手に入れることができるようになったのである。その淵源にベースとして「旧派」和歌が存在したということに着目することは、近代詩の研究では普通のことでも、近代短歌の分野では普通のことではない。そこに断絶を強調する従来の近代短歌史と、子規の宣言の衝撃がいまだに影を落としている。

〇〈意識の流れ〉の主題化

二三 見よ一つわが眼を中に砂山の痩松どもは列つくりをり

二四 大空の春の緑にとけ入りてうつすものなきわが瞳かな
               『永日』(1909年)

 二首ともどこか理詰めのところが感じられる歌だが、短歌で哲学の現象学をやっているような感じの、不思議な詠み方がみられる。一首めも二首めも、〈「 対象を見ている私」を見ている私〉が自然に向かう、という構造を持つ。
一首めは、「砂山の痩松ども」のひょろついた「列」を、あまりにも自分の内心の屈託と懸け離れたもののように感じてしまっている。一つまあ、見てやんなさいよ、あの姿を、という突き放しがここにはある。これを近世和歌的な機知と同一視するのはちがうだろう。
 二首めは、春の緑という生命の奔流に圧倒されている自分の「瞳」を、あたかもそれが緑に吸引されてしまったかのように捉えて、対象との相即的な関係の中に投げ出されている自らの感官のありようを表現している作品である。右の二首は、

一九 見つむれば空のはてより何物かわが眼のまへに落つらむがごと     『静夜』(1907年)
             
 という作品のような、〈意識の流れ〉の把握への関心を用意したものだと言うことができる。柴舟の作品には、現代の自意識短歌の先駆と言っていいようなところがある。この歌と先に引いた中村憲吉の一三、一四番の歌とは、いかにも相似的である。むろん柴舟は景樹の歌は読んでいただろう。
しかも、この系譜の作品を柴舟は自分の中で熟成させて行き、ついには次に示すような歌にまで到達したのである。

二五 人しれずわれに垂れたる黒き幕心しばしばうかゞひてみる   
尾上柴舟『日記の端より』

 大正二年(1913年)刊の歌集『日記の端より』には、瞠目すべき表現の深化が見られるように思う。前人未到の「心」の歌として、私は右の一首を高く評価したい。「黒き幕」は西洋詩の受容から来た暗喩であるけれども、下句の「心しばうかゞひてみる」という、自身の心の内側と〈内観〉によって対面する姿は、主体の不安感と所在なさを〈気分〉として暗示する実存的な作品に仕上がっているのである。
私はこの文章の前の方で、香川景樹の、

九 おぼつかな木間に見ゆる三日月も散るばかりなる木枯のかぜ

 の初句を虚辞だとのべたが、この「おぼつかな」ですませていた部分にこだわると、明治の新風のなかの、柴舟の歌が用意されて来るのではないかと思う。
 景樹の右の歌を解説すると、激しく風に吹かれ、木の末が揺れて打ち合う隙間に三日月が見え、その薄暗い月光は、ちらちらと幹を照らしながら飛散している。そこでは、木の枝の隙間に見える三日月までが、散りはてるかのように動いて見えるのである。「おぼつかな」の句は、三日月の不安定な姿の描写句でありながら、尾上柴舟による作者自身の幻惑される視覚を同時に示す歌まで、今一歩のところに来ていると言えないだろうか。
 念のために書いておくと、短歌作家としての柴舟は、時に佳品をものしつつも、大正時代に入って徐々に後退して行き、だんだん凡庸な歌を多作するようになっていった。かわりに書家・仮名研究者としての仕事の占める割合が大きくなって行くのであるが、それは本稿とは特にかかわりがない。同じ時期に刊行された『平野萬里全歌集』によって確かめることができるが、多くの浪漫派系の短歌作者たちは、自然主義と、「アララギ」の歌壇制覇と、その後の口語短歌の大きな波などに洗われて、それらの大波に埋没し、個のかがやきを減じていった観があることは否めない。
 以上の記述を方法論として対象化してみるなら、修辞論というよりも題材(モチーフ)の扱い方、特に描写における自意識の関与の仕方という視点から近代短歌史に補助線を引いてみたのである。
 
※注一 『桂園一枝講義』の口語訳全文は、当方のブログ「さいかち亭雑記」に掲載した。本論は十年ほど前に書いたものの改稿である。
※注二 岩波講座「短歌と日本人」『短歌と批評』所収の山田冨士郎による論文は、「アララギ」歌学批判の歴史的な確認として再読に値するし、常に踏まえられなくてはならない文章である。
※注三 森鷗外「我が百首」には、岡井隆の魅力的な注解がある。『鷗外・茂吉・杢太郎 「テエベス百門」の夕映え』




























『武術と医術』 甲野善紀・小池弘人の対話

2017年06月25日 | 近代短歌
 私はこの本をあらゆる分野の表現者のための手引き書として読むのである。

本人はいいと思っていても、よそから見たらぜんぜんだめである、というようなことは、表現の世界ではしばしばあることで、それを防ぐためには、謙虚なこころがけをもって、専心他者と関り続けるほかに手立てはない。

 とは言いながら、人間というのは弱いもので、自分が高く評価されたり、ほめられたりする場に固着しがちなところがあり、武道ではこれを「居つき」と言うそうだが、要するに「居ついたら」終わりなのが、表現の世界というものなのだが、一定の型がある方が何かと便利ではあるし、型を唱えられる程度に熟達すれば、その道の権威として通用するのが世間というものだから、自分の権威を守る方に走ってしまうのが、凡庸な人間の常である。だから、本音でものを言う人は、しばしば世間的には「異端」となる。

 礼儀作法にしてもそうで、礼は固定しているから礼である、と人は思いがちなのだけれども、本当にそうだろうかと考えてみると、時には「無礼」な方が礼にかなっているということもある。孔子が現代日本の就職斡旋のための礼儀作法講座をみたら天を仰ぐのではないか。

 …というようなことを、いろいろと考えさせられる本が、甲野善紀と小池弘人の対話集『武術と医術 人を活かすメソッド』(集英社新書2013年)である。

 表現というものは、ふだんから対面の場で本音をぶつけあっていないと、自家中毒に陥ってしまう。このことを私はネット好きの人には常に言って来た。この本では、負の「縮退」に陥らずに「創発」してゆくには何が必要か、というようなことが話し合われている。ネットで高得点のものをずらっと並べてみせたらせんぜんおもしろくなかった、というようなことも時には起こり得るわけだから、<道具>も「場」も、過信は禁物だ。それは武道で禁物の「居つく」ことになってしまうということなのである。



 

糸川雅子『詩歌の淵源 「明星」の時代』に関連して

2017年06月14日 | 近代短歌
 四・五十代以上の人間が与謝野晶子の歌を読むとしたら、どこが入り口になるだろうかと考えると、まずそれは『みだれ髪』ではない。ところが与謝野晶子に関心を持つ人は、たいてい若い頃の晶子について読んだり書いたりするのに労力をとられてしまうから、よほど晶子にこだわる人以外は、だいたい大正から昭和にかけての歌に関しては、選抄ですませるということになってしまうのではないかと思う。この流れを変える必要がある。

 やはりそうかと、あらためて思ったのが、本書の末尾にある次の文章である。

 「自我の詩」をもとめて出発した「明星」であった。その「明星」の申し子のような与謝野晶子が、自身の晩年において、世界に対して自己を突出させるのではなく、景のなかに自己の心情を融け込ませようとする境地で作品を多く残していることについて、そこに重ねられたであろうひとりの歌人としての晶子の時間の重さを感じ、同時にまた、明治、大正、昭和と流れた近代短歌の時間をも思わせられるのである。 
    (一八三ページ)

 この言葉を出発点として、著者には後期の晶子の歌についても何か書いてもらいたいと思ったことである。その際にはぜひ、晶子の高弟というか実質的な同伴者と言った方がいい平野萬里の仕事についても、あわせて書いてもらえるとありがたい。
 
 晶子が亡くなったあと、戦時中に平野萬里が出した追悼の選歌集があるのだが、私はこれによって晩年の晶子の歌に対する目を開かれた。また与謝野晶子という歌人に対する深い敬意を抱くようにもなった。

 私は本書のなかでは、若書きの茂吉の「塩原行」の歌と五十代の晶子の歌とを比較した<『心の遠景』の「旅の歌」>という論文にもっとも興味を覚えた。だから、念のためにことわっておくと、この一文は本書の書評ではない。

 最初の問いにもどると、五十代の人間が晶子に接近するとしたら、若者(わかもの)には縁遠い『心の遠景』の「旅の歌」や、『白桜集』などがいいのだろうし、何と言っても平野萬里の選歌集がいいと私は思うのである。あれは岩波文庫あたりで再刊してもらいたい。

北原白秋『白南風』 近代短歌鑑賞

2017年05月27日 | 近代短歌
朴の花白くむらがる夜明がたひむがしの空に雷はとどろく
  ※「朴」に「ほほ」、「雷」に「らい」

二句目「白くむらがる」ということばで、花の盛り上がるようにかたまって咲く感じが伝わってくる。「夜明けがた」のまだ薄暗い一時、朴の木の生えているあたりだけがぼうっと白くあかるく見えている。その場の荘厳さをきわだたせるかのように雷鳴がとどろく。自然が「私」に挨拶をしているかのようである。

生けらくは生くるにしかず朴の木も木高く群れて花ひらくなり
 ※「木高く」に「こだか」

「生けらくは生くるにしかず」とは、どういうことか。生きているもの、命あるものは、生きるより以上のすばらしいことはない。こんなにも生命の輝きに満ちている存在と出会うことができるのだから。「朴の木も」の「も」という助詞は、生命は、命あるもの同士身を寄せ合って、一斉に同じよろこびの歌をうたうのだ、というような意味を持っているだろうか。「生けらくは生くるにしかず」。生き難い思いをかかえて生きているから、こう言うのである。

光発しその清しさは限りなし朴は木高く白き花群
 ※「発」は「さ」、旧字。「朴」と「木高」、「花群」に「はなむら」

みずから光を発するかのように、陽光が射して、花が光った。その瞬間を見ている。「その清しさは限りなし」。清らかな花のうつくしさである。

    木俣修選 新潮文庫『北原白秋歌集』(昭和三十五年三月刊)