さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

藤原龍一郎『赤尾兜子の百句』

2021年06月05日 | 俳句
 ブログの更新をしないうちに、ひと月ほどたってしまった。書きたいことは多いのだが、まとまった時間がとれず、そのままになってしまうことが多かった。コロナのせいではなく、私の怠惰が最大の原因のひとつである。

 本書の副題は「異貌の多面体」である。私が赤尾兜子の名前を最初に知ったのは、永田耕衣の『名句入門』か、それに類する文章によってであったかと思う。ある年齢に達した著者が手掛ける書物として、もっとも望ましいかたちのもののひとつが、こういう本であろうと思う。本を見た瞬間に「ああ、いいなあ」と思わず声に出た。若い頃に影響を受けたものや、師筋の作品について掘り起こしてみるということは、老年に入った創作者がもう一度自分の生の深部を活性化させて、生き直すことにつながる、とても大切なことなのである。

 「 機関車の底まで月明か 馬盥   『歳華集』
                          
 兜子の詩論に第三イメージ論がある。 兜子自身が、その第三イメージの代表句として挙げる一句。俳句の技法の二物衝撃は二つの具体物を組合せることにより、新たな事物の関係性を発生させる。一方、第三イメージは具体物ではなく、イメージ二つを配合し、三つ目のイメージを顕在化させるもの。月光の中の機関車と馬盥、それぞれのイメージの複合から何が生れるか。イリュージョンのリアリティを獲得できれば、第三イメージ論は成功ということになる。」 27ページ

 昭和四九年、赤尾兜子の主催する「渦」に入会し「数々のものに離れて額の花」「神々いつより生肉嫌う桃の花」といった赤尾兜子の形而上的な句に強く惹かれる。」と巻末の著者略歴に記してある。

 「 数々のものに離れて額の花    『歳華集』

 『歳華集』中の傑作の一句。強烈な孤絶感覚が漲っている。(略)「数々のもの」とは日常の中のあれやこれやであり、ひいては森羅万象すべてから意志的に離れる主体。それを支える額アジサイの花の密集。虚無の極致の一句である。」 36ページ

 わたくしの惰眠を覚まさせるのにふさわしい一書であった。


                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

 

山口誓子『遠星』

2018年09月13日 | 俳句
生きているのに毎日が忌日であるような、そんな方がおられる。それなのに、不思議とその毎日を明るくすごしている。それはなぜかというと、短詩型にかかわっているからである。あるいは、文学を読み続けているからである。これが文学、短詩型の効用というものである。これは芸能も同じだ。文学や芸能には拡散作用というものがあるので、そうしたいろいろな気分が伝播し、共感の場に抱きとられやすい。

何かを日々悼む気分で文字を読む(詠む)ような人に親和性の高い俳句というのは、あるだろうと思う。たとえば、山口誓子の『遠星』はどうか。

山口誓子の句集『遠星』(昭和二十二年刊)を読んでいると、海辺で病気を療養しながら日録的に作り続けた作品が、じわじわとこちらの読みの感覚を懐柔して来て、読者も自然と作品のなかでいっしょに生き始めるようなところがある。日々をよろこび、自然の生きものにやさしいまなざしを投げかける作者は、自ずと生き、かつ生かされている。むろん山口誓子らしく核となる自己は確固としてあるのだけれども、どこかで自然の中に自己を溶解させ、「放下」している。そこに尽きせぬ俳句型式自体の持つ魅力があらわれている気がする。

とりわけ小動物、蟹や、ちちろ、ツクツクボウシ、象虫、蟻地獄など、昭和十九年から二十年にかけての日本の海辺に住めば日常的に目にしたであろう生きものたちの姿が印象的である。この頃は猫ブームだが、蟹や象虫や蟻地獄をみてなごむ文化をみんなが取り戻してほしい。こちらは一文もお金がかからないから。

神これを創り給へり蟹歩む

穀象を蟲と思はずうち目守る

直截でへんに構えたところがない即吟、日常吟の集積は、敗戦前後の苦難の日々を、自らも病臥するなかで肯定的に生きた記録ともなっている。その辺をうようよ歩いている蟹に対する作者の気持の寄り方が、何とも慕わしい。

わが見るはいつも隠るゝ蟹をのみ

江の穢れ蟹はいよいよ美しく

 ※「穢」に「よご」と振り仮名。

溝遁ぐる蟹ありわれの行く方へ

 ※「方」に「かた」と振り仮名。

集中には有名な句がいくつもあるから、これを見れば、ああ、という方はおられるであろう。引いておくと、

海に出て木枯歸るところなし

炎天の遠き帆やわがこころの帆

こういう高名な句はそれだけで鑑賞するに値するが、この句集の持つ滋味というものは、千句以上もある句の世界に身も心も浸しながら、作者と同じ目の位置で、触覚的に捉えられた万物、生きとし生けるものの生動するリズムを体感するうちに自ずから伝わってくるものなのである。少年少女の姿も野性的ではつらつとしている。

早乙女ががぼりがぼりと田を踏んで

少年の跣足ひゞきて走りをる

 ※「跣足」に「はだし」と振り仮名。

おしまいに、全体に夏の句が多いので、夏らしい句をいくつか引く。

帆を以て歸るを夏のゆふべとす

くらがりの手足を照らすいなびかり

 ※ 9月17日に至らない文章に気がつき、前文を削除した。

三井甲之の手紙

2018年03月27日 | 俳句
一太郎ファイルの復刻。「未来」の松山大会があった頃の文章である。この頃は「みぎわ」に三井甲之についての斉藤真伸さんの連載もあって、それを側面から盛り立てるつもりもあったか。後年の超国家主義者に化けてしまう前の甲之について一本をまとめることは、決して無意味ではない。

読みへの通路 その四十六
 三井甲之の手紙    さいかち真

子規記念館の「子規と鉄幹・晶子」という展示を見て来た。城下の古書店で、虚子碧梧桐生誕百年祭実行委員会刊の『碧梧桐とふるさと』という昭和四八年刊の小冊子を拾い出して、帰りの空港のロビーで見ていると、こんな一節が目にとまった。

「八月二十二日。晴。
 甲之君来書中に「俳句新傾向の事小生門外より真の味ひは相分り不申候へども積極的方針と開展の生命の活躍せることは分らずながらうれしく存候空間的調和の輪郭の整頓よりも時間的節奏の内容の動揺にフレツシユの生命の横断面を見むとすると同時に同時的外物の関係よりも継起的(生硬の訳語)人心の感動を現はすに印象的技巧の誇張と省略とを以て、力ある表現をなさんとする点に於て善き意味に於てのモダーンの精神を得たるものとして俳句史上重要なる意義あらんとひそかに考え居候」とある。一読過したのみでは意味が受けとり難いが、再三繰り返して読むと、甲之君の言はんとする意味が略推察される。例之ば

灘光り打ち浴びて解夏の僧と在り

といふ句を説明して、単に解夏の僧と居る時に灘が明るう夕日の反射か何かで光つた、と、冷静に客観的に叙するに満足せず、其灘光りと元来は没交渉、自分の心とに、一種の交渉ある如く感じて、「打ち浴びて」と強めていふのが、即ち冷静に見れば無関係な二つの事実を、熱情的に交渉のある如く結びつけるのが、旧来の俳句には多く類を見なかつた例だなどというてゐたけれども、これらが「空間的調和の輪郭の整頓よりも時間的節奏の内容の動揺」を叙する一例と見れば、如何にも早わかりがする。それに「灘光打浴びて」といふ調子なども、「印象的技巧と省略とを以て力ある表現をする」好適例である。」(『続三千里』)

手紙を寄越したのは三井甲之。河東碧梧桐の伊予遍歴は明治四十三年。晦渋な用語の問題は措くとしても、ここに見られる俳句の「新傾向」にまつわる両者の理解の水準には驚くべきものがある。

俳句について注記しておくと、上五の「灘光り」は、「光り」が動詞的に見えるが、「灘光」と名詞的に受け取るべきだろう。つまり、「灘光(を)(私が)打ち浴びて」という意味。「解夏の僧」というのは、俳句の季題で、夏安居つまり夏の修行を終えた僧のこと。作者は、ゆったりと緊張を解いている僧と並びながら、海面にするどく反射しながら射す強い日の光を、まともに頭から浴びている。

 手紙をざっと意訳する。「俳句の新傾向の事は、わたくしなど門外漢のため真の味わいは分かりませんが、そこに積極的な方針があり、いきいきと切り開かれつつあるものが存在するということは、よく分からぬながら、うれしく思って見ているところであります。それは、空間的調和をもとめて物事の輪郭を整頓して示すことよりも、時間的節奏の内容が動揺する相に、フレッシュな生命の横断面を見ようとするのと同時に、同時的な外物の関係の描写よりも、継起的(生硬な訳語ですが)人心の感動を現はすことに重きを置いて、印象的な技巧の誇張と省略によって、力ある表現をなそうとする点において、いい意味においての近代的な精神を獲得したものとして、俳句史上重要な意義があるものだろうと、ひそかに考えているところであります。」

 伊藤左千夫らの離反によって雑誌「アカネ」をつぶされた三井甲之と、後々守旧派の巻き返しに会う碧梧桐は、その文学意識において今日を先取りしていたのだった。

中村草田男『火の島』

2018年02月09日 | 俳句
 中村草田男の『火の島』を見つけて買って来る。  

ラヂオの銃聲看板さむく相對す    中村草田男

 街角でたまたま店の奥に置いてあるラジオの音が聞こえて来たのである。作り物ではなく、ニュースの中継であろう。看板は商家の生活を暗示する。初句の早口の字余りが、ただならぬ感じを伝えている。制作年月日を確かめたら何に取材したかがわかるが、それはおく。言葉がいきなりこちらを打って来る感じを言いたかった。

三日月へ乙女の聲は落ちず上がる

 これは歌をうたっているのだ。そのようにとりたい。口語脈である。たぶん同時代とこれまでの三日月の句に対して緊迫している。さらに何よりも己の内側の下降しようとする者に対して、緊迫している。

冬濤の最後躍りぬ懸崖へ

叙景句だが、むろんここでも落下願望は猛々しい。危機をのぞきこもうとするロマンチシズムでもある。

優曇華やしづかなる代はまたと来まじ

 昭和の時代を生きている人の実感であろう。優曇華という言葉は、何か永遠性とつながっていくような、尊い仏性のようなものを連想させるところがある。

戰記なれば殺の字多き冬日向

※「殺」に「さつ」と振り仮名。

 この句集の刊行は、昭和十四年十一月。やまない日中戦争が重苦しくのしかかり、戦争の記事は日常の一部と化してもいる。

犬いちご戰報映画観る暇なし

 これを見ると草田男もけっこうあぶないところにいたことがわかる。私が手にしているのは昭和十五年の四版だから、その頃まではまだこのぐらい言っても良かったことになる。次は「火之島三日」と大きく章立てして「伊豆大島行」と小題がある中から。

火の島は夏オリオンを曉の星

火の山は夏富士を前戰を背

※「戦」に「いくさ」と振り仮名。

 火の山は活火山の三原山である。「背」から直接太平洋と対米戦争を読むのは、かえってつまらない。戦のことを忘れて見ている、としたいが、三原山自体が燃える火そのものだから、やはり戦争は離れられない。「爆音と夏日火口に底ごもる」という世界である。

霧ひらけばたゞ柱なす日の噴煙

灼け岩へ杖さしおろし人降りる

満目赭し飛ぶゆゑ蝉は見えしのみ

 嘱目の力作がドキュメントとして並ぶ。おしまいに霧が出ているおかげで虹の贈り物まで見ることができた。

濤音を負ひ火の山の虹を仰ぐ

※「濤」に「なみ」と振り仮名。

 これは、三原山火口の圧倒的な景色によって観念を吹き飛ばし、それによって等身大の作者を取り戻そうとする試みだったろうか。もとよりそうした観念の所有のない現代の大方の読者には、無用の悩みであるかもしれないが、草田男の代の知的な人々にとっては、ほぼ死活問題であった。同時にいまここに引いた作品から安易に反戦の志などは読み取らない方がいいだろうと私は思う。少なくとも行く先を憂えるという関わり方であって、そこを出られない時代の制約があった。そういう緊張感が伝わって来た。直近の週刊誌の記事をみると、四月に開戦の可能性があるという。今日の新聞をみると、政府は韓国滞在者にメールで緊急に安否が確認できる連絡システムの使用を呼びかけるという。破局的な株価の暴落が予想される戦争などもってのほかだが、政権の延命のためには何をしでかすかわからない国の元首が心配だ。「ラヂオの銃聲看板さむく相對す」などという句は見たくない。

 ※今見たら『火の島』が『火の鳥』になっていた。火の、と打ってから、一瞬何か考えたためにこうなってしまった。文章を書く時には眼鏡を外すので、こういうことも起きる。哄笑された方もおられよう。ま、ご愛嬌というところで。 


中村草田男『蕪村集』

2017年07月05日 | 俳句
 何日か前に岩波文庫の『蕪村句集』をめくっていたら、

  述懐
椎の花人もすさめぬにほひ哉   与謝蕪村

という句が目に入った。この句については、中村草田男が『蕪村集』(大修館書店1980年刊)で注釈をつけているのを、一月ぐらい前に買った古書の中にみつけてあった。今日は初蝉の声を聞いたから、すでに椎やら柘植やらの花の時期は過ぎているのだが、椎の花に我が身を重ねるというのは、相当に鬱屈した自意識なのであって、草田男のような大自意識家がこれをどう説いているかという事に興味がわく。

[訳] 仮に花に身をたとえるならば、自分はまさに椎の花。世の人に賞美されるような派手な魅力を持ち合わしていない。しかし、好ましいにおいでなくとも椎は椎独特のにおいを格段に強く発しているように、自分は天から賦えられた自分の性能を自分なりに発揮してゆくばかりである。 
                     (『蕪村』211ページ)

 訳の最後の「自分は天から賦えられた自分の性能を自分なりに発揮してゆくばかりである」という言葉が、いかにも草田男である。謙遜してはいるが、相当な自負がなければ、「天賦」などという言葉は使えない。

認められたくて、自分を人に認めさせたくて焼けつくような若い頃の野心や功名心というものは、人生のスパイスである。その願いは、多くの場合叶えられない。文学というのは、また、そこから始まりもするのだということが、年を重ねてからようやくわかる。わかる前に、やめたり、死んでしまったりする人もいる。

年をとっても、何の悟りもない事を「徒に馬齢を重ねる」と昔の人は言った。現代の日本人がこの言葉を言うと、何だか動物に対して失礼ではないか、と私などは思うものだが、こんなことを言うと怒る人もいるかもしれない。

草田男の文章に話を戻すと、この句に対してはなかなか辛口である。引いてみる。

「「椎の花」を持ってきたのは、芭蕉の、

  先づたのむ椎の木もあり夏木立

の句と、同じく芭蕉の、

  世の人の見つけぬ花や軒の栗

の意味するものを一つにして、その上へ自己の想念を通わし託そうとしたのでのであろうが、宿命の自覚の上に築かれる真の決意、諦念の上に立ち上る真の覚悟というような切迫の気はほとんど感得されないようである。この句は「述懐」より「感想」に近い。 」 (以下略) 

といった具合で、酷評である。しかし、私はこの句は、梅雨前後のおもしろくもない気分と、人生不遇の感じを、うまく重ねて詠んでいると思うのである。でも、「人もすさめぬ」というのが、ゆるいし、弱い。他に迎合している気息まで感じられてしまうのかもしれない。続くページには、次の句がある。これまた、今にぴったりの句だ。

 秋立つや何におどろく陰陽師   蕪村

※七月十五日に文章を手直しした。帰宅してシャワーを浴びてから、昼間の猛暑のせいかすぐに寝てしまって、夜中に起きだした。七月のつごもりにまた手直しをした。

武藤雅治『花陰論』

2016年06月22日 | 俳句
 梅雨の頃というのは、四月に始めたことが一通り軌道に乗って安定してくるかわりに、多少疲れが出てくる時期でもある。ここにあらためて皆様のご健康をお祈り申し上げる。

 武藤雅治さんの歌集『あなまりあ』というのが届いて、今度の歌集は、なかなかいいのではないかと思ったから、知人と二、三人でやっている読書会のテキストに選んで、けっこう丁寧に読んで話し合った。ところが、その本が白くて薄い本なので、どこかにもぐってしまって捜しても見つからない。そのうちに去年同じ著者から届いた俳句集『花陰論』が出てきた。分かち書きの句である。ふたつ引いてみよう。

木陰を
抜け
影が少し
ずれてゐる

六月や
樹々のしづくの
ごとき
人影

 「人影」には、「かげ」と振り仮名がある。淡い。分かち書きによって、陰翳が強調され、ひとつひとつの言葉が持つ響きのやわらかさが、痛ましいまでに顕わとなっている。何でもない言葉が、イメージの映像をきちんと結んで息づいて、気配のようなものを伝えることができている。

『あなまりあ』については、別にまた書いてみたいが、これは、最近の武藤氏の歌集では出色のものだろうと思う。管見では、この歌集の前の歌集の抄出でひどく通俗的な歌が引かれていた。そういうところで、一人で一匹狼的にやっている歌人が、あまり好意的に扱われない場面を私は何度も見たことがある。まったく短歌というのは、自分の間尺に合ったところでしか読めないものではあるのだ。