さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

諸書雑記 年あけの雪

2024年01月14日 | 本 美術
 古書で、しかも安価だから何となく買った、というような本が手元にたくさんあって、それが身辺に溢れ出してとっても邪魔なのだけれども、拡げてみると結構おもしろかったりするものだから、また元に戻したりなんかして、一向に本の山が片付かない。それがだんだん寝る場所にまで迫って来たので、仕方がないから年末に思いきって四〇リットルのビニール袋に入れて、それを十袋ほどを引きずるようにして車の後部座席に積み入れておいた。年が明けてから紙袋をたくさん買って来てそれを整理し直し、その半分を倉庫に持って行き、残りの本は元の部屋に戻した。それでもまだ手元に転がっている雑書のタイトルを以下に書きだしながら、何か書いてみたい。

・遠藤知子編『吉行淳之介 心に残る言葉』(1997年 ネスコ/文藝春秋刊)
その「編者あとがき」より引く。 

「吉行淳之介が嫌ったのは、なによりも重々しいこと。好んだのは、繊細な機知、批判精神と一体になったユーモア。軽薄さをすすめているエッセイも多い。今、日本には重々しさはどこにもなくなったといってよい。笑いも豊富である。しかし、吉行淳之介の考えていた鋭い軽さとは、なんと違うことか。」

・永野健二『バブル』(2016年 新潮社刊)
 この本の「はじめに」の二ページ目に次のような一文がある。

 「40年刊経済記者として市場経済を見続けてきた私の信念は、『市場は(長期的には)コントロール出来ない』ということである。」
 
 昨日今日の株高を報ずるニュースを聞いていると、この人の警告の言葉を今こそ読み返した方がいいのではないかと私には思われる。著者によればグローバルな資本主義は10年周期で危機を繰り返す。2013年の安倍政権の発足が著者の言う新たなバブルの開始時点とすると、そろそろ十年を過ぎるころなのである。

・芳賀徹『文明としての徳川日本』(2017年 筑摩書房刊)
 日本の人口が江戸時代レベルまで減ったとしても、その気になれば豊かな文化を維持創造することは可能である。それを教えてくれるのが、本書に登場する江戸時代の人々である。まずは日常の消費の質を見直すところからはじめるといいだろうと思う。生のたのしみに繊細な工夫をめぐらせるということである。好奇心や関心、インタレストというものを消費一方にだけ誘導しないことが大事なのだ。

・藤田久一『戦争犯罪とは何か』(1995年 岩波新書)
 現在の世界情勢のなかでプーチンとネタニヤフを同列のものとして論ずることはできない。それが同じように見えてしまうのは、彼らの軍隊が、民間人、とりわけ子供達とその母親の多くを容赦なく巻き込んで殺しているからである。でも、それを「戦争犯罪」と認定できるかどうかは、抽象度の高い「議論」となる。彼らの残虐な行動をどういう根拠に基づいてわれわれは「戦争犯罪」と呼ぶことができるのか。外交や戦争を論ずるということは、なかなかたいへんなのだ。

・加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(平成二十八年 新潮文庫)
・平井啓之『テキストと実存』(1992年 講談社学術文庫)
・真保裕一『栄光なき凱旋 上・下』(2009年 新潮文庫)

・喜多昭夫『青の本懐』
 簡素で読みやすい本のつくりに感心。二首引く。

  若き友よりの手紙の一節に「小さな物欲を供養する」とあり

  折鶴を黄金の紙にもどしつつ願ひをひとつ帳消しにせり

 二首目の歌の「黄金」には「こがね」とルビがある。北陸は浄土真宗がつよい地帯だけれども、真宗では、欲というものは抱いてもかまわない、そのかわりにすぐわすれなさい、と説く。喜多さんの歌にあらわれている倫理的なもののなかに、そういうものがあるように私には感じられる。喜多さんの歌が持っている機知的な要素は、自分も含めた世間のひとびとの心の内側に生ずる認識のまちがいや勘違いのようなものに気付かせるために、あえて今在るものをそのものの安んじてある位置から動かそうとするものだ。そのため多少臍が曲がっているところがあるが、別にふざけているわけではない。これは吉行淳之介の説く軽薄さに近いものだ。

  道のべに赤茄子の轢死体を見て作中主体は歩み去りにき

   ※「作中主体」に「さいとうもきち」と振り仮名あり。

〇別の話を。
 湘南海岸公園駅の近くに画廊が在った。今日三岸節子のリトグラフをそこでまとめて見た。三岸のリトグラフは、写真やネットで見たことがあるものの実物をこれだけたくさんまとめて見たのは、これが初めてだ。どれも状態がいいので感心した。この画廊とは関係のないところで、たまたま大磯でも展示があるらしい。行ってみるかな。

よきひとのよきことについて

2024年01月06日 | 本 美術
 

 年末に拡げてよんでいるうちに、いい感じの風があたまのなかに吹くような気がした本として谷川俊太郎とブレイディみかこの往復書簡『その世とこの世』がある。岩波の「図書」に連載されたものだというが、最近「図書」はみていなかったので、すべて初見のものである。それがよかった。谷川さんの詩は、「朝日新聞」に連載されている詩を折々みるのを楽しみにしている。どれも自身の亡びや老いを見つめる日々のなかで書かれていることがよくわかる詩で、本書の詩とそんなに大きなちがいはないのだが、一つとりあげてみると、「その世」という言葉が出て来る詩がおもしろかった。「あの世」と「この世」のあわいにある「その世」の世界。芸術とか、美というようなものは、みんな「その世」とかかわりが深いものなのかもしれないと思う。「その世」についての思念は、日本語がひらく世界だ。

 年末に書庫に出かけて、気になった本を何冊か抱えて戻ってきた。そのうちの一冊が坂出裕子著『無頼の悲哀 歌人大野誠夫の生涯』(二〇〇七年 不識書院刊)だった。大野誠夫は、生まれてすぐに里子に出され、やや大きくなって引き戻された生家では義母から邪魔者として育てられ、その親の口利きで就職した一流会社に勤務することを潔しとせずにあえて辞して苦難の生活に踏み出し、しかし病気がちで生活は不如意のまま、結婚に破れ、愛子とも別れ、意地と短歌への思いをよすがに苦難の人生を歩んだ。しかし、黙して語らず、晩年に近い頃の自伝ではじめて自身の幼少期以来の苦難と秘密を明らかにした。その残された短歌作品をもとにして、過不足ない解説を加えてゆく筆者の手際がすばらしい。大野が若い頃絵描きになりたかったが挫折したくだりと、そのことが短歌作品のなかに色彩語が多く用いられていることと関連していることについての指摘には説得力がある。

 これは備忘であるが、『開化期の絵師 小林清親』の著者であり、歌人でもあった吉田漱さんについて、青木茂という人が『書痴、戦時下の美術書を読む』(2006年 平凡社刊)のなかで追悼の文章を四ページほど書いているのをみつけた。小林清親の本については「ああ、こんなのが書けたら死んでもいいだろう」と思ったという。
これは吉田さんに歌誌「未来」に載せるためにインタヴューをした時にうかがった話だが、戦後すぐの頃に、義務制の美術の時間を一時間では何もできない、二時間はとらなくてはいけないと言って、文部省と掛け合ったことがあるという。吉田さんは戦後の美術教育のためにも仕事をしたのである。美術家でもあった吉田さんのスケッチは手堅いオーソドックスなもので、プロ画家でも通用する腕前だった。その作品の陶板は土屋文明記念館に飾られている。「青幡」に載った吉田さんの土屋文明についての文章や講演記録は一本にまとめる必要があるが、「アララギ」も土屋文明も歴史の地層に埋もれてゆきそうな昨今であるし、実現可能性は低そうだ。
 
 昨年は画家の野見山暁治さんが亡くなって、私も「ユリイカ」の十年前の特集をたまたま手に入れたので読んだが、野見山さんという人のおもしろさ、スケールの大きさがよくわかった。ついでに読んだみすず書房刊の『ベイリィさんのみゆき画廊』という本をみると、近くにいた女性ファンの心理もよくわかる。

 全然関係ないが、病院や市役所やマンションのエントランスに絵が年に四交代ぐらいで常時かけられていたら、日本の文化ももう少し良くなるのではないかと私は思う。若手の美術家の作品も、そうやってレンタルでぐるぐる全国を回遊してゆくシステムを作っていけば、いいのではないだろうか。(うしろ暗いレンタル絵画ではないですよ。)
特に美術大学(の学生たち)などが教育機関(壁面が多い!)と連携して音頭をとって、展示場所の設置とその維持管理をしてゆくというようなことを、プロジェクトとしてやっていくこと。現代はインターネットもあるし、戦後すぐの瑛九らがデモクラート美術協会の活動を通してやろうとしていたことは、充分実現可能である。

 年末につい買ってしまった絵。大きめなので、ときどきしか飾れないが。宮田重雄作「カーニュ風景」。

連休中雑記

2023年05月04日 | 本 美術
この数ヶ月、ジェフ・ベックのアルバムを聴くことが多かった。いまはベスト・アルバムのなかの「The Pump」が聞こえている。
 
昨晩は職場を五時に出て、通勤の中継駅の改札を出る時に、連休の谷間らしい独特のふわっとした雰囲気のあまり緊張感のない、いつもよりもゆっくりと歩く群衆の流れに包まれた。

19時40分から映画『トリとロキタ』を見た。観客は十人ほどだったが、衝撃的な幕切れに、エンド・ロールを前に誰もがじっとしたまま、一人を除いて立ち上がらずに、凝然としていた。折しも入管法が国会では審議の終盤を迎えていた。雑誌『世界』の五月号に監督へのインタヴューが掲載されていて、そこでは友愛(アミティエ)の物語だと彼らは語っていた。

今日は、昼頃一度職場に出かけた。明るい陽光のもと、グラウンドいっぱいにコートが作られて、若い人たちが競技の勝敗をかけて走り回っていた。それは神々しいほどの明るさだった。ガラス窓越しに年老いた警備員がそれを見守っていた。

夕方に気になっていた梅の徒長枝を切った。これで隣家の窓から家の前側が見えやすくなった。そのあと、「現代短歌」の茂吉歌集『つきかげ』特集を読んだら、なかなかおもしろかった。没後七十年で著作権が切れるということも「後記」の文章で知った。やはり著名な歌には、それだけの牽引力があるのだということも、あらためて思わせられた。

 目のまへの賣犬の小さきものどもよ生長ののちは賢くなれよ  斎藤茂吉
      ばいけん      せいちやう  かしこ
 
 暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの
あかつき はくめい 

連休前に電車のなかで読んでいたのは、小杉放菴の『池大雅』だ。昭和十七年十二月刊で(三千五百部)と奥付にある。池大雅の伝だけでなく、「線」、「硯と墨の話」というような文章も付録として収められていて、有益である。絹も紙も裏を打てば三割ほど墨色が出て来る、とある。

これは古書の「えびな書店」で買った本だが、同店からは今泉篤男の著作集なども買うことができた。今泉篤男の美術評論は、今後も再読・味読に値するのではないかと私は思う。あとは、最近青空文庫で小熊秀雄の美術評論を見つけたが、これもなかなか詩人らしい鋭いもので、モディリアニについての一文などは感嘆のほかない。

身めぐりの本

2023年01月03日 | 本 美術
 年末に例によって片付けをしていると、岩波新書の黄色版の鹿野治助著『エピクテ―トス -ストア哲学入門-』が出てきた。それをしばらく読んでから、新刊で買ってカバーがついているためにタイトルのわからない本を拡げたら、みうらじゅんの『人生エロエロ』だった。その取り合わせに一人で爆笑したのだけれども、どっちも名著ですよ。

 同じ書店の棚に並んでいた正津勉の『つげ義春論』の赤い方は買って読んだのだけれども、下巻をまだ読んでいない。たしか、みうらじゅんの本を買ってしまったせいではないかと思う。いま検索してみたら、正津さんと谷川俊太郎さんの対談による鶴見俊輔と詩を語るという本も読んでいるのを思い出した。正津さんは「山」にまつわる本もたくさん出している。

 山と言えば、山好きの歌人が一人亡くなられた。来嶋靖生さんだ。数回しかお会いしたことはないが、拙著の『香川景樹と近代歌人』の活字本の書評を書いていただいた。そのあと一度だけ和歌文学会で発表した「『桂園一枝講義』」口訳」の手製版冊子をお送りし、返事の葉書をいただいた。来嶋さんは一文字のタイトルの歌集が多かった。私は高所恐怖症なので、登山は活字で読むだけであるが、山を見るのはすきで、それを思うさま絵にかいてみたいと思いながら人生の年月をへてきてしまった。今年はどこかで機会をみて来嶋さんの歌について書いてみたいが、手元に本がないので今日はできない。

 山の絵というと、戦前の世代だと足立源一郎がいるけれども、この人の若い頃の『春陽会画集』に掲載されている女性をかいたモディリアーニ風の絵が、もし現存して居るなら、私はぜひそれを見てみたいと思うものだ。だぶん、まちがいなく空襲で焼けてしまったのだろうが、背景の市松模様の壁の模様は和洋の意匠をみごとに折衷したもので、戦後の林武の女性像などの先蹤をなすものと言ってよいものだろうと思う。

 昨年は、ナカムラクニオという人が『洋画家の美術史』という楽しい本を出して、自分の持っている安価なリトグラフや、もしかしたら贋作かもしれない絵の写真を、「どうなんだろうね」なんて言いながら、堂々と本に掲載して楽しそうに語っているのをみて、我が意を得たり、というか、同好の士がいるものだなあと思ったことである。バブル時代のばか高い美術品相場と比較して、いまは「洋画」が文学全集と同様の運命をたどっているのだけれども、自分の好きなものを見つけたらそれを手に入れられるわけだから、貧乏な美術愛好家にとっては決してわるい時代ではないだろう。ただし、自分の収集品が、手に入れた時と同様に、いずれは二束三文で叩き売られてしまうかもしれないということについても覚悟しておかなければならない。大成してのちの梅原龍三郎が「洋画家」と呼ばれることに抵抗を感ずる、と述べたことがあるが、そうは言いつつ油彩を主として描くのが「洋画」であるということは否めない。

 何日か前に画像を上げた栗原信の絵は、処分品価格で手に入れたもので、いずれ画家の出身の県の施設に寄付しようと考えているものだが、気に入っているので手離せない。一辺が一メートルもある古い大きい絵はきらわれるので安い。このほかに紙が経年で変色しているのを上から売り手が白色を塗ってしまったスケッチなども購入したが、そういうことは本当にやめにしてもらいたいものである。そのむかし梅原龍三郎が「骨はたしかに自分のものだけれども」と語っていたことがあるが、ネットではその手のものがけっこうある。あとは本体の絵は自分の手元に置いておいて、その拙い模写をこころみた油彩も買わされたが、しばらく見ていてたのしくないので、やられたな、と思った。ペインティング・ナイフを用いた描き方と、オーソドックスな写実的な画風は真似しやすいと思われるのだろう。栗原作品にはヨーロッパの景勝地の複製の工芸画がたくさんあって、今では考えられないが、昭和三、四十年代にはそれなりに需要もあったものらしい。私は三点ほど見たが、まだあるかもしれない。

 栗原が描いた戦前の中国大陸の風景画は、軍事郵便葉書で大量に発行されたものが、いまはネットに出ている。それをみると、当時から画風はあまり変わらない。大陸在住の日本人が家財一式残してきたもののなかに栗原の絵も含まれていただろう。いまはネットの時代だから探索可能な気もするが、そもそも栗原の絵はどちらかというと地味だから、値もつかないし、目先のきらびやかなものが幅をきかせている今の時代に、どこがいいのかわからないかもしれないのだが、私はおもしろく感じる。
栗原は井伏鱒二といっしょに雑誌を出していた時期もあり、このブログで前に少しだけ言及した井伏の『徴用中のこと』にも名前が出ている。栗原は初戦の頃のシンガポール攻略戦に武器を持たずに従軍して本まで書いたが、前線取材で弾雨にさらされて危うく死にかけている。同じ従軍画家でも戦後になって田村孝之介や宮本三郎のように脚光を浴びはしなかったが、再評価されてもいい画家である。
 後年のスケッチをみると、ごく一般的な描線を持ちながら、後期印象派的なマチエールへの関心が一貫してあって、特に構図へのこだわりがある。写実的な画風に見せつつ、注意してみると、どの樹木や電柱もしばしば斜めに傾いている。木だけでなく、道や地面、河川の見え方に逆三角形を用いた構図を好んで配するところがあり、栗原の描く河川は多くが湾曲している。そして日本人の画家らしく余白についての独特の感覚がある。当時は「和臭」と言ったらしいが、そこのところでどこまで意識的でいられるかが、当時の「洋画」家の在り方を大きく規定した。それは今でもそうかもしれないのである。
もっと連想の糸を引っ張るつもりだったが、だんだん眠くなってきたので、この辺でやめにする。明日から出勤の方々、よい一年にしましょう。

散読備忘記 付随して平塚美術館の展示について

2022年05月08日 | 本 美術
 私はなんとなく文章を書き続けるということが好きな人間なので、読むということも好きだけれども、書いているときの方がさらに調子がいい。近年は、何を読んでもおもしろいので、気分に任せて本を衝動買いする。そういう本について何か書けば、おもしろいのかもしれないが、世の中にはコメントがあふれているし、私にできることは、自分の比較的得意な分野について書くこと以外ないのではないかと思ったりもするのだが、だいたい誰が読んでいるかもわからないものを書くのは、弔砲。  ※「弔」の字を後日訂正しました。

というタイトルの詩集が嶋岡晨にあったな。朔太郎にも大砲を撃つ詩があったけれども、あれはだいぶ性的なニュアンスの漂うものだった。

私は1977年頃、高校生時分に林武の展覧会を見に行って衝撃を受けた人間である。だから、近代洋画や戦後美術への好みは死ぬまで捨てられない。今やっている平塚美術館の最新の展示が、「削る絵、ひっかく絵」というのもので、所蔵の井上三綱と鳥海青児の作品を中心にした展示だった。井上三綱は村上春樹の「騎士団長殺し」に出て来る画家のモデルなのだそうである。この展示には、近いうちにもう一度行きたいと思っているのだが、諸方で話題になった山内若菜さんの絵が二点、南の壁一面に並べて良いコンディションで展示してあった。原発事故で殺処分された動物たちへの思いを表現してきた作者の「刻の川 揺」を見に行こうと思ったのは、「図書」の三月号に紹介されていた作者の文章を読んだからである。

図書館から林芙美子の全集を借りて来て読み始めた。『風琴と魚の街』はそのむかし旺文社文庫で読んだことがあるが、今度読んでみると、記憶している部分は皆無に近かった。近代文学館の復刻本で『放浪記』を読んで、林芙美子の作品を読んでみたくなったのである。今日は全集第三巻の冒頭の「稲妻」を読んでみると、古着屋を営んでいる小商人の生態の描き方などは、本人が子どもの頃から苦労しているだけあってうまいものである。こういう日本の小説には、世界に通用する普遍性があると私は思うものだ。

それで、「本の雑誌」という月刊誌があって、買いたいと思うけれども小遣いの都合からなかなか買えないのを、ときどき古書でみつけて買ったりするというようなことがあり、最近そのバックナンバー(去年の十月号)の中に見つけておもしろかった文章が、老眼で本がよみにくくなってきたので、Siriに『三体』を読んでもらったら、ほぼ「脳トレ」に近い事態が発生して面白かった代わりに、不思議な疲れ方をしたという ミミ中野 さんの体験エッセイだった。私はスマホでSiriに何か言われても拒否し続けている人間なので、こういう目にあうことはないのだが、機械に好きな本を朗読してもらって、それを聞きながら眠れる、というのは、高齢化社会向きのサービスだな。ミミ中野さんが試した時点でのSiriでは、それはだめだったとして、十年もしたらもっと性能が向上して、こういう体験はできなくなるかもしれない。

ちなみに私が最近やってみたいのは、自分で詩などを朗読してウェブにあげるというものだが、どうなんだろうね。寺山のビデオ・レターみたいなやつ。ユーチューブの方が早いか。けれども、「自撮り」という言葉が、私は嫌いで仕方がない。また朔太郎にもどって、彼らが自涜(これは略字
で「じとく」の「とく」)と呼んでいたものに近いことを公衆の面前でブロガーと呼ばれる人達がやっている。中には差別と「逆張り」で自分を売っている人もいるという。この「逆張り」というのも、しかし、いやな言葉だなあ。 
     ※後半の二つの段落は、6月18日に編集し直して、追記しました。

雑記

2021年08月30日 | 本 美術
〇水上勉という作家がいて、ずいぶん人気が高かった。晩年の料理や焼き物についてのエッセイが、私などはリアルタイムで読んで楽しかった覚えがあるが、このひとの美術や画家についての文章もなかなかなものであることに最近気がついた。特に幼い頃京都に住んで、身近な等持院のなかの一室に画室を設けていた小野竹喬についての文章や、永瀬義郎の版画について美術の雑誌に二ページ見開きで書いた短文などが最近調べ物をしていて目に付いた。同様に井上靖にも、この人の場合は学芸部の美術担当の記者だったから本格的だが、その記事と取り上げた絵を合わせた目録のような本があるのは、井上靖ファンならご存知かもしれないが、私は井上の『天平の甍』と『しろばんば』が中学校の推薦図書だった世代である。ちなみに『しろばんば』は三部作で続編があって、『夏草冬濤』までは読んだが、旧制高校で柔道に打ちこんだ時代のことを書いた三冊目を読んでいない人はけっこう大勢いるのではないかと思う。これは、すでに御退職された皆様、読まないで死んだら損ですよ。

 現代美術の場合も、そういう本が作れるはずなのだが、本というよりも今は電子出版の方が現実的だと思うが、そういうかたちの美術評論なりエッセイ集なりというものを、読んでみたい気がする。これは本の方は活字だけで、絵の方はウェッブに飛べるようにリンクができている本なら可能な気がするが、どうだろうか。建築についても、同じことが言える気がする。
 ファッション雑誌にしても、コンパクトな薄い冊子が毎月か毎週手元にとどいて、画像の方はスマホで見る、みたいな、そういう雑誌がこれからはあっていいと思うが、どうだろう。全部が電子データというのはつまらないし、紙の上に定着して印刷してあるからこそ良さがわかるという性質のものも、世の中にはある。活字のおいしいところはきちんと残して、両者を上手に組み合わせていくことが「エコ」につながる、というような、そういう雑誌がほしい。

 ついでに書いてしまうと、電車のなかでスマホをつかって漫画を読んでいるひとを見ると、私のような旧世代の者は同情を禁じ得ないのである。漫画の絵の細部や紙の感触を味わって読まないで、いったい何がおもしろいのか、というのが最大の疑問である。むかしの『少年マガジン』『少年サンデー』のような大判の漫画雑誌で漫画を読む時と、スマホで漫画を読む時の漫画の絵や、ストーリーの理解のしかた、興味の働き方にはちがいがあるのではないかと私は思っている。線や面のテイストについての感覚が、微妙にちがって来ているはずである。たとえとして適切かどうかはわからないが、それはジブリとキメツの絵の違いのような感じなのかもしれないとは思う。

 私がウェブにつないだ瞬間にあらわれる美しい画面を常々目にしつつ危惧することは、ああした美麗なピカピカの画像に日常的に馴れてしまうと、実際の事物のくすんだ、すすけた現実の在り様についての感受性が鈍るのではないかということである。絵でいうとマチエールということだが、そこのところでの身体性からの剥離と言うか、身体性からの離脱、養老先生ふうに言うと、極端な脳化の進行は、あまりいいことではないような気がするのである。ウェブのピカピカの画像と親和的なコンセプチュアル・アートはだから駄目なのであると、私は主張したい。

 ついでに日頃の憤懣をぶちまけると、多くの現代アートに較べたら、マチエールについての原始的な感覚という点では、二十世紀初頭のフォーブと「洋画」の方が、まだしも表現としてまっとうだし人間的である。また伝統的な和紙に描いた日本画の方がはるかに高級である。つるつるのプラスチックな創作物を私は嫌悪する。大半の現代アートに対しては、王様は裸だ、と言えばそれで済むと思っている。

 こういったもろもろのつるつるピカピカ傾向に対する治療薬としては、江戸時代の俳諧を読んだり、明治時代の本を読んだりすることが、文系人間としてはいいのではないかと思うが、そのほかに趣味として仮名の手習い、盆栽、生け花、お茶、パッチワーク、編み物、手話の勉強など、総じて身体性の高い分野に、動物としての人間にとって必要な生きるためのビタミンを分泌する力があるように私は思う。

 

室田豊四郎について

2021年08月14日 | 本 美術
〇室田豊四郎画集 『MUROTA』(昭和60年刊)発行者 北川耕二 印刷所 採光堂
撮影 長谷川洋治 200冊刊
跋文
猪熊弦一郎 「室田君の画業を思ひて」於ホノルル 1985  
 「… 室田君が画業半世紀展を開くことをきかされた。」
田近憲三  (無題)
植村鷹千代 「自選回顧展に際して」
 「… 昭和16年に新制作展に出品することになった発端については、作者の述懐によると、当時彼は応召によって中支で軍務についていたが、そこへ従軍画家として来合わせた猪熊弦一郎、故佐藤敬両画伯と識り合い、その時の猪熊弦一郎のすすめが契機になったということである。」

後記「私の絵」
「… 帝国美術学校に入学して学校騒動で杉浦非水先生を擁立して多摩美を創立し4年生の3学期に徴兵猶予がなくなって大阪の8連隊へ入隊して満州へ行った。昭和12年の春である。北満国境を転々と楽しかった。」
「2年満州にいて陥落直後の中支の漢口へ移った。4年間現役を勤めて現地に高級軍属として残った。絵は満州時代から外出の時に良く描いた、漢口へ移ってからは報道部勤務だったのでよく絵を描くことが出来た。司令官たちに贈るためのものもあった。1年古兵に那須良輔さんがいた。除隊した後は日中文化交流の為に絵を描くことが仕事だったので良く描いた。当時漢口には岡本太郎、古沢岩美さんらが兵隊で居た。英米撃滅絵画展を開いて最終日後片付けをしていると空襲があって家が焼けてしまった。」
「焼ける前漢口の私の家は文化人のたまり場になって居て、良く集った。覚えているのは高見順、檀一雄、百田宗治、石黒敬七、萩原賢一さんだった。」
「馬の絵を描き始めたのは、1972年新制作に出品した5点の中4点が馬で各新聞で取り上げてくれた。特に田近憲三先生から激励された、抽象を始めてから鳴かず飛ばずにくさっていた時だったので大変嬉しかった。」







司修の本から 藤田嗣治 宮本三郎 田村孝之介 古沢岩美 原精一 室田豊四郎 まで

2021年04月04日 | 本 美術
戦争と近代日本の画家たちについての断想

 小雨のぱらつく遊歩道を、今朝がた何となく飲み始めてしまった焼酎の水割りのために昼の二時までねていた布団を丸めて起きあがってから、司修の本を少し読んでから、歩こうと思って家から外に出て、買い物がてら舗道を駅の方角にゆっくり歩いていると、咲き出したさつきの植込みの横に五、六本のヒメジョオンがうなだれていて、でもその寄り合って生えているシルエットが実にうつくしく感じられたので、へたに派手な赤や白の色彩を散らかしているさつきの木よりも、自分はこっちの方が好きだなと考えて、昔から、それこそ子供の頃から雑草を敵視して来たことに思い至り、何なんだこの価値観は、というようなことを漠然と考えながら、道路わきの別の花も何もない草が生えている所まで歩いてきて、みると、やっぱり美しくないな、と思いながら道路を渡り、胡瓜と茄子とちくわとオレンジ・ジュースを買った。何だかよくわからない思いつきのような買い物だが、一応冷蔵庫の中に残っているものとの取り合わせは考えていないわけではないのだけれども、梶井基次郎の小説みたいな適当で趣味的な感じがして、最近の買い物のなかでは梶井のいわゆる「好きな」部類の買い物だった。それで、司修は、

「開放の日」とは、フランスがドイツから解放された日である。末松はそのような日の感慨を書くことはない。これは末松だけの問題ではないだろう。この時代の日本人がもっていた幻影が支配していたのではないか。藤田嗣治も、高田博厚も、ヨーロッパの近代思想を取り入れながら、けっして自分が破れた、国家が破れたという思いには至らなかった。当然の感情であろうかとも思う。しかし、事実を把握できないということは悲しい。
              『戦争と美術と人間』2009年12月白水社刊

と書く。どうなのかなあ、司が取り扱っている末松正樹と藤田嗣治と高田博厚は同列に扱えるものなのだろうか、というのが、まっ先に頭に浮かんだ疑問である。

 この一年ほど私は二紀会系の画家の戦後の画業を調べていたのだが、藤田を筆頭にして、宮本三郎も田村孝之介も、フランス人だったら戦後は銃殺ものだろうという気がしないではない。このなかで藤田だけは美術市場における市価が異様に高く、また人気もあるのだが、藤田嗣治が陸軍美術協会の出した戦争画集に日本の画家の代表格で書いた文章の現物を見てしまうと、その鉄面皮ぶりに言葉を失うところがあるので、どうも好きになれない。戦後幾年間の宮本三郎の裸婦の(安い茶色の絵の具しか手に入らなかったせいもあるが)きたならしい茶色の肌の色と、すぐにまた白い肌の裸婦を描くことができた藤田とでは、無神経の度合がちがうと思う。宮本がその後展開する華麗な色彩と装飾的な画風には、戦争によって一度崩壊した精神を何とかして立て直そうとし、戦後の時代を生き直そうとする意欲がみえるけれども、その分その華やかな色彩には、画家の受けた痛手と苦しみが滲んでいるように見えないではない。だから私には宮本の絵の色というものがうつくしく見えない時がある。藤田には、そういう悩みが少しも感じられない。

 ついでに書くと、宮本と共に二紀回の領袖となった田村孝之介は、その職人気質において藤田と共通するところがある。田村が戦後ピカソに熱中したあたりに、彼なりの遅い人間精神への目覚めがあったと言えないことはない。しかし、藤田と等しく、田村にはすぐれた自分の素描の腕への酔いがある。それが両者の限界で、マティスに「デッサンが上手すぎる」と言われて、その言葉を脳裏に刻んで帰って来た猪熊弦一郎の方が、同じ戦争画をものした罪は免れないとは言いながら、一日の長があるだろう。戦後アメリカに渡って抽象画で新境地を開いた猪熊は、一度自分の過去を清算する必要に迫られていたと言えないことはない。猪熊の抽象画はなかなか魅力的であり、また現在の市価も高いが、彼の作品はアメリカで売れれば日本でも売れるという美術品評価・流通機構のなかで引き回されている日本の美術界の象徴のような存在ではある。

 彼らの残した絵がなかなか美しくて魅力的であるだけに、第二次世界大戦と日中戦争、それから大東亜戦争をはさんだ近代日本美術を人間精神の営みの問題としてとらえ返してみると、もやもやとしたやりきれない思いが湧いて来る。

 多くの応召した画家のなかには、原精一や古沢岩美がいる。両者とも戦場の弾雨の下をかいくぐった古強者で、困難な戦争の時代を生き抜いた生き証人である。戦争による廃墟の姿を1938年の時点で描いてみせ、祖国の将来を予言した古沢の作品は、今日高く評価されてよい。戦後の古沢岩美はエロティシズムを追究して権力に抵抗し、日中戦争を描いた画集を出してゴヤの向こうを張ったが、古沢には、洋画版岩田専太郎のようなところがあり、戦後の風俗画家のイメージが強すぎるので、そこはもう少し丁寧に見てやりたいと私は思う。何しろ生きて帰って来て戦争の惨禍を描いたのだから。

 原精一は戦後、裸婦画と飲酒の世界に耽溺していったが、師の萬鉄五郎譲りの、大正時代に発した逞しい生命主義のようなものを戦後まで持ち伝えた。原は中国戦線のスケッチを戦争画集として出版したりして時流に乗っていた面があるけれども、兵隊の階級は伍長とは言いながら一兵卒の立場に近く、天皇に見せるための天覧画を描くために特別機を仕立ててもらって戦場を回ることができた宮本や田村や猪熊らとは立場を異にしていた。そうして原が餓死とマラリアのビルマ戦線からしぶとく生きて戻れたのは、画家としてビルマのひとたちと親しく交際できた人間の魅力によるところが大きい。戦争協力と戦争中の地位や待遇の関係は、そんなに小さな問題ではない。

 高田博厚については、森有正との共通点と違う点などを比較しながら論じてみたらいいとは思うが、私の手に余る。「藤田嗣治も、高田博厚も、ヨーロッパの近代思想を取り入れながら、けっして自分が破れた、国家が破れたという思いには至らなかった。当然の感情であろうかとも思う。しかし、事実を把握できないということは悲しい。」という司修の批評について、違和感を残しつつも、今は書くべき言葉が見当たらない。美術のことを調べはじめると宿題ばかりが増えて来る。

 私が最近発見した画家としては、「猪熊弦一郎に師事した」とヤフー・オークションで売られていた室田豊四郎(氏名が一字ちがいの日本画家のことではない)が、日中戦争中に中国で陸軍美術からうまく離反した稀な例であると思う。彼の絵は、陸軍美術協会の出版物の中に入っていない。この人の人間性については、戦後何十年もたってから「人民日報」に載った室田を慕う中国人の文章が検索で見られるから、関心のある人はそちらを参照してほしい。日本の美術市場では値がつかないけれども、室田豊四郎の絵を持っている人は、その絵を大切にしてほしいと思う。自己の良心に則って戦争画の世界から離れた画家がいたのだということを、我々は覚えておく必要があるし、室田の心優しい童画風の世界の持つ意味を考えてみなければならない。

小高根二郎『棟方志功 その画魂の形成』(昭和四十八年刊)

2016年05月24日 | 本 美術
 五十代以上のひとで棟方志功の名前を知らない人はいないだろう。けれども、いまの高校生や大学生の多くは、案外知らないのかもしれない。倉敷の大原美術館や東大駒場前の日本民芸館で出会う、という人もいるだろうが、あの強烈な「わだばゴッホになる」というセリフや、版画制作時の熱狂的な姿は、われわれが共有すべき歴史的な記憶のひとつなのではないだろうか。

  その棟方伝説の成立を丁寧にたどって書かれたのが、若い頃から棟方に親しんだ小高根二郎の著書である。棟方本人の書いたものや、いくつもの証言に拠りながら、その間をつなぐ著者の文章は、豊穣なひらめきに満ちており、評伝と言うよりは伝奇小説に近い。そもそも棟方の存在自体が、逸話のかたまりのようなものなので、この和製ゴッホの天真爛漫かつ純粋な生涯をたどりながら、文章自体が自ずから歩行のうちに必然的に舞踏を演ずることになっている。そうしてここで主役になっているのは、棟方志功という芸術家だけではなく、近代日本の「美」と「芸術」という神なのである。