さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

中島裕介『polylyricism』

2022年12月18日 | 現代詩 短歌
 今度二冊同時に刊行された中島雄介さんの歌集は、作者が短歌で何をやりたいのかということを明確に示したものである。ここには私詩としての短歌の特性を踏まえたうえで、容赦なく自己を対象化し、さらには戯画化しながら、自意識の酔いを排除しつつ語ろうとする先鋭な構想力を持った哲学の語り手がいる。それは、現代に生きる者の世界観と言い換えてもいい性格のものだ。また、短歌型式を新たな詩の容れ物として展開するための納得のいく方法の提示がある。この二冊の遊びごころに満ちた作品集は、塚本邦雄や土屋文明と同様に短歌を通して文明・社会批評を為していこうとする精神を多分に保持している。作品集全体の底に上等なビター・テイストのクリティカルなチェレスタのような音がトレモロのように響き続けているのだ。第一歌集をみた時に私はこの作者を見誤った。自分が何をしようとしているのかがわからない人ではないかと思ったのだ。しかし、それは完璧にまちがっていた。身内に対しては酷評を話していたので、もしかして作者の耳にも入っていたかもしれない。まったく申し訳ないと言うほかはない。

 私は入手したその日のうちに『polylyricism』の方を読了し、もう一冊は翌日から拾い読みして楽しんでいる。いまはまだその途中である。今日はだから、平仮名で読んで、ぽりりりしずむ、の方の作品に触れる。まず最初の章の作品に触れようと思ったのだけれども、いま見たら、栞で私が現代の若手のなかで最大級に評価している歌人の井上法子がこの連に言及した文章を書いているようだ。それで、次の章の「安全だが安心でない」の章の作品に先に触れることにしたい。三首引く。

  ナポリタンを頼めば食品サンプルのように手元でフォークが浮かぶ

    ロバート・ラウシェンバーグ「消去されたデ・クーニングのドローイング」
  音声だけをYouTubeから抜き出した叫びだきっと描かれたのは

  雪解けのコンクリートにあらわれる砂礫の波と砂礫の波間

 以上でD難度クリアーを認定します、というところ。実にうまい。ただし、この人は寡作だから、短歌ジャーナリズムの編集者は、作者のペースを確認してから依頼するべきであろう。別にあせる必要はないのだ。これは、長年薄味に薄められた連載大作群を読ませられて来た者としての率直な思いである。

 ここで最初の一連について書いた文章を出すことにする。

 十四首目の「九月一四日(金)まずい、この調子では本当に毎日作ってしまう」という詞書を読んだときに、私は「あれっ」と思った。ここでは、毎日トリビアルな日常嘱目の事物をとりあげて短歌作品を作ることについて、作者はどうやら抵抗を感じているらしい。
 そもそも日常の些事を取りあげて毎日のように短歌を作ることは、歌人にとっては当たり前のことではないのか。そのことに抵抗を感じている作者って、いったいどういう短歌の作者なんだろう! ここのところで、作品創作についての意識・在り様というものが、まったく従来と異なっている、もしかしたら真逆なのかもしれないということに気がついて、私はそのことがとても面白かった。そうして、ここには同時に作者の「写実的短歌システム」への批評的なからかいと「照れ」があるということも感じられたのである。

 あとは、この作品集の別の側面に少しだけ触れることにしよう。二首引く。

 あいそぱらめとりっくぱらいそあられとりっくらいそーむおいありがたがれよ

 アクセルが(バーニラバニラバーニラきゅうじんバーニラ)戻らなかった

 これらの歌のきっかけとなった事実的な背景について、ふだん短歌関係のSNSメディアにほとんどアクセスしない私でも思い当たることはあるのだけれども、この歌集についてのコメントでそれを書いても仕方がないと私は考える。端的に言うなら、作者は見事に飛んで来た球を打ち返していると思う。それもなかなか痛烈に、である。それで充分ではないか。私の場合は、何十年も経てのち、成長した自身の娘を含む肉親から自身の過去の不合理かつジェンダー的な言動の数々を糾弾される日々を送っているので、まったく身につまされるようなところがあった。作者が血を流しているぶん、世代的にどうしても年長のところに居る者は皆、腰骨を折られて蹲るほかはないのだけれども、花田清輝がそのむかし言ったように、「私」の「私」などというものは、犬にくれてやればいいのである。もう一冊の方は、そのあたりの覚悟の持ちようというものを問いかけて来る作品集だと言うことができるだろう。

須田覚歌集『西ベンガルの月』

2022年12月10日 | 現代短歌
 須田覚歌集『西ベンガルの月』2020年、書肆侃侃房刊 をめくる。インドに赴任して駐在員として働いている人の歌集である。

・合掌をすればかならず合掌すインドの民は僕を受けいれて

・笑顔には笑顔で返す歯を見せて言葉通じぬ作業員には

・罪のない技術者のまま死にたいと鉄を相手に過ごす一日

・「なぜここで生きているのか」目が覚めて生産遅延の対策を練る

・「我々にインド文化は変えられぬ。でも変えようよ工場5S」

 ※ 傍注に「5S」は「整理、整頓、清掃、清潔、躾」の頭文字で、工場改善活動の基礎とある。

同じ一連から引いた。ここには、異民族の中に入って懸命に生きる日本人技術者の友愛の感覚がうたわれている。貧富の格差が激しいインド社会ではあるけれど、この国に入ると絶対的な平等感覚が求められるところがあるのではないかと思う。その一方で、工場の現場では、一般の労働者と経営側の職制としての立場とは厳然として異なる。そういう同僚の姿も、それに連なる自分の姿も見えている。だから、三首めのような歌も作られる。

次に街を行く歌を引く。

・コインひとつ缶に落とせば騒ぎだす物乞いたちが集まってきた

・背は曲がり前足は伸び四つ足で歩く人間 近づいてくる

・手を叩き痩せたヒジュラが寄ってくるトールゲートがまた渋滞で

 旅行でインドに来ているわけではないから、「しまった」とか、「またか」とか、日常のトラブルのひとつとしてインドの習俗が感じられる瞬間はあるだろう。けれども、ここに流れているのは、困った出来事を微苦笑しつつ受け止めている作者の姿である。それはインドに来て学んだ平等感覚から発するものである。そういうインドの文化への敬意と愛着のようなものが、次のようなスケッチにも滲んでいる。

・忙しくCAたちが行き来する残り香だけが僕の救いで

 インドの国内線の飛行機の乗務員は、日本の航空会社のように完璧に装われれていない。とにかく皮膚感覚がまるでちがう。ここには表面的にだけでも好ましいCAなどというものは、存在しない。「残り香だけが僕の救いで」というのは、孤独なユーモアである。

ウクライナでの戦争のために、それ以前に出たこの歌集の中の戦争についての歌に目が行く。

・戦争に勝ち続けてる国のこと敬うように英語を話す

 インドは国境線をめぐって一年中隣国と小競り合いをしている国である。
ここで英語を話しているのは、どこの国の人なのか。わからないが、英語を話すことに誇らしい気持を抱いている人物らしいことは、わかる。しかも、その人物は、自分が所属している国は「戦争に勝ち続けてる」と思っているらしい。アメリカはベトナムで負けているし、先のアフガニスタン撤退だって負けと言えばそう言えるかもしれない。イギリスは世界中で勝ったり負けたりする歴史を経つつやって来た国だ。しかし、括弧付きで「勝ち続けてる」「英語」の国と言えば、やはりアメリカ以外には思い当たらないような気もする。そういう「英語」に威力を感じる感性に対する違和感をもとにして一首が組み立てられているということは、わかる。そういう人の話す「英語」の調子に反応している作者がここには居る。しかしこれがインド人だとしたら、私にはよくわからない。おもしろいけれども、もう少し背景がわかる歌が両脇に置いてある方が良かったかもしれない。
 
・白地図に仮で描いた国境を挟んで人は殺し続ける

 これは、よくわかる歌だ。この歌集についての話はここまでとする。

話はかわるが、たかが英語とは言いながら、東京都のスピーキング・テストをめぐる経緯を見ていると、うんざりした気持ちになる。そのうちスマホなどのアプリで会話ができるようになるはずだというのに、英語で話すことを入試の中で重視して、受験生に無用な負担を強いている。英語は道具なのだから、流暢に話すことを求められる専門家と、それ以外の専門分野に注力しなければならない人たちとを区別するべきである。すべての中学生に一定以上の英語の「スピーキング」の能力を求める必要など、ありはしない。これまでの記述式テストだけで十分に英語の能力は判定できていたのに、業者に利益誘導をするためとしか思えないスピーキングテストをどうして導入する必要があるのか。会話に時間を割くおかけで長文読解と文法の勉強のための時間が減ってしまって、かえって難しい英文を読む能力は下がっていくのではないだろうか。さらに、中学校の段階に加えて、小学校の段階でも問題が生じている。母語の獲得は十五歳までである。母語としての日本語が確かなものになる以前の小学生の段階から英語のスピーキングを教えてどうなるものでもない。それなのに低学年から英語の学習を必修とするという愚策を大々的に推し進めている。基本となる日本語の勉強の時間を減らしてしまえば、その結果は、総合的な学力と思考力の低下につながるであろう。英語をめぐる日本の教育行政は根本的に舵取りを誤っているし、亡国的な政策である。

日記

2022年12月06日 | その他
 夜中にサッカーをみていたせいか、目が冴えて眠れないので、先日床下から発掘した小林秀雄の本などを引っ張り出してみていたら、ますますねむれなくなった。頂門の一針、という言葉があったが、小林などを読んでいると、見せかけのもの、総じて体面にこだわる生き方を人がとらざるを得ないことが、ばからしくなる。やっかいなプライドと自意識過剰に発する虚栄心や、はったり、そういうものもうっとうしくなる。それで一週間前に自分が描いた文章にがっかりして、少し直してみたのだが、大して変わりばえもしない。それにしても、文字の薬を飲んだのだから寝ないといけないな。今から一時間でも寝ることにする。明日は仕事をがんばりましょう。