帯文に穂村弘の「永井祐の/登場によって/短歌が、/目の前の世界の/見え方が、/変わってしまった。/もうもとには/もどれない。/なんてことを/してくれるんだ!」とある。最近、盛田志穂子の『木曜日』が復刊されたが、盛田を最初のうちから高く評価したのも穂村だった。あの時の惹句は、「裸足で来やがって」だった。コピーとしては、なかなか素敵だし上等である。私の知る人では、ほかに中澤系の例の三番線快速電車の歌を不朽のものにしてしまったのも彼だ。今度の永井祐のための帯の言葉は、穂村がほとんど自分のことを言っているみたいで、「永井祐」のところに「穂村弘」の名前を入れたらそのまま穂村の全歌集に使える。要するに感性が先立つタイプの作者を見逃さないというところが、穂村弘の直観力のようなもののいいところで、これだけのお墨付きみたいな言葉があれば、とにかく信用して読める内容なんだな、ということはわかるだろう。だから、私がここに何か書く必要はないのかもしれないが、以前「現代短歌」の土屋文明と佐藤佐太郎の特集で、永井祐は編集部の見立てで若手の「土屋文明を読みましょう派」のような役割を振られていて、おや、永井さんは土屋文明がおもしろいんだ、と思って、何やら慕わしい気がした覚えがある。私の駄文も載ったのだが、この時はパソコンの具合が悪くて依頼された分量の半分しか書けなかった。ついでに書いておくと、もし現代における土屋文明の系譜、というようなものを考えるとしたら、私はその筆頭が斎藤斉藤だと思うので、今度特集する時は、この二人に「土屋文明をぶった斬る」というようなタイトルで対談してもらったらおもしろいだろうと思う。正、反、合で弁証法的に短歌史というのは継承されなくてはならない。そこのところがわかっていない歌人が、師匠筋の話ばかり書く習慣は、いい加減にやめにしたいものだ。だから真野さんがやっている「現代短歌」のいろいろな特集についての実験は、私はいいと思う。話が脱線したので元に戻る。
プライベートがなくなるくらい忙しく踏切で鳩サブレを食べた
スマホのなかちらかしているわたしでもお菓子は余るから配ります
一人カラオケ わたしはなぜかしたくなく君はときどきやっていること
永井祐の歌をはじめて読むというような読者のために、と思いながら三首ほど引いてみた。こういう日常の「あるある感」のようなものを平易にすくいあげる感覚に対する共感を最初の接点にして、永井祐の奇妙な曲線的な世界に入っていくといいかもしれない。それでも二首目などは仔細に見ると、「スマホのなかちらかしているわたしでも」と「お菓子は余るから配ります」のつなぎの「でも」が不思議で、「整理して断捨離して、ということが苦手な私でも、余分なものはちゃんと処分しますよ」ということを言っているだけなのに、両者を結びつける発想が、ん? どうしてこうなるんだ? という感じを呼び覚ます。つまり、
この歌は、われわれが事物に言語を介しつつ向き合った時に不断に知覚し続けなければならない「異和感/ズレた感じ」を再度意識化して、そこにもともと生じていたはずの「くすぐったさ/痛痒さ/きもちよさ」を刺激して、活性化させる力を持っているのだ。
公園のトイレに夜の皴が寄る わたしが着てる薄過ぎるシャツ
マスカットは秋の食べ物 秋になると色んなもの上にのるから
こういう歌をみると、特に二首目の作品をみると、正面から行くのではなくて、搦手から、というのがほとんど体質化しているようにも見えるけれども、一度構成して作ってから省いてゆくということもあるのか。とすると、そう言えば、最近どこかの雑誌にジャコメッティの彫刻を見て居るとかきたてられるものがあると書いていたから、かなり自覚的かつ方法的なところで、「現実のかたち」みたいなものに、永井祐には気になって仕方のない感性の領域があるのだろう。ただ、あまり微弱なものばかり集めすぎない方がいいのではないかと思う時はあるので、それは一応書いておくことにする。
冬の街あるいてゆけば増強された筋肉みたいなダウンジャケット
目をつむり自分が寝るのを待っている 猫はどこかへ歩いていった
真夜中はゆっくり歩く人たちの後ろから行く広い道の上
最近私は絵に凝っているのだが、絵をかくようなひとに永井祐の歌はけっこう示唆的ではないかと思うので、そういう人にもおすすめしたい。これらの歌は、読むとすぐに空間のある絵が見えますね。
公園へチーズバーガー持っていき暗くてみえないベンチにすわる
半月は爪の根元にあるのかな 夜道をワイシャツであるいてく
先ほど搦手から、と言ったがこれはネガ・ポジを反転させる詩法とでも言おうか、それでも絵は見えていて、いわゆるリアリズムの手法では無理な絵になるのだけれども、ちょっと読み手としては見入ってしまう、というか、そんな感じの歌ではある。
さて先程「永井祐の奇妙な曲線的な世界」と言った部分にさらに言及してみたい。
この道をいったりきたりするだけの人になりたい風がつめたい
メールしてメールしている君のこと夕方のなかに置きたいと思う
二首続けて引いた。なぜ、こう思うのか? という歌の起こり、抒情のきっかけが、よく見えないのたが、だからと言って、共感できないものではなくて、「この道をいったりきたりするだけの人になりたい」ということは、わかる。そういう孤独な意志を空中に放り投げているような自分と、「メールしている君のこと夕方のなかに置きたい」という、やや強引な相手を無理にも自分に引き寄せたいと思うような自分とが、同時的に同一の自分としてここに示されている。
二百年生きるペースで生きていく 玄関に階段がある家
セロテープカッター付きのやつを買う 生きてることで盛り上がりたい
午前中に雨 30分LINEする それでは令和でもよろしくね
1月が何回も来てほこりのようにかさなる友達のエピソード
老人になったら何をするんだろう 床に紙コップを置いてみる
こうしてまとめて目についた人生や生そのものについての歌を引いてみると、何となく思い出すのは辻潤とか高橋新吉とか、大正期のダダイストのことで、あとは尾崎翠の小説なんかこの人は好きだろうなあ、と思う。だから、気になる本や文章やモノのことを散文として書くということを通して永井祐さんはきっと豊かなものを今後手に入れていくことができるだろう。もうひとつ。偶然ということについての哲学的な詩を作って行けば、余人の追随を許さないところで生きていけるだろうし。余白の作り方と言葉の愛嬌みたいなものは、まだまだ磨きがかけられる気もする。コロナに対抗するには、「二百年生きるペースで生きていく」のが大事なんですね。ありがとう、永井さん。
▽左右社刊、1600円+税。 ISBN 978-4-86528-005-0C0095
プライベートがなくなるくらい忙しく踏切で鳩サブレを食べた
スマホのなかちらかしているわたしでもお菓子は余るから配ります
一人カラオケ わたしはなぜかしたくなく君はときどきやっていること
永井祐の歌をはじめて読むというような読者のために、と思いながら三首ほど引いてみた。こういう日常の「あるある感」のようなものを平易にすくいあげる感覚に対する共感を最初の接点にして、永井祐の奇妙な曲線的な世界に入っていくといいかもしれない。それでも二首目などは仔細に見ると、「スマホのなかちらかしているわたしでも」と「お菓子は余るから配ります」のつなぎの「でも」が不思議で、「整理して断捨離して、ということが苦手な私でも、余分なものはちゃんと処分しますよ」ということを言っているだけなのに、両者を結びつける発想が、ん? どうしてこうなるんだ? という感じを呼び覚ます。つまり、
この歌は、われわれが事物に言語を介しつつ向き合った時に不断に知覚し続けなければならない「異和感/ズレた感じ」を再度意識化して、そこにもともと生じていたはずの「くすぐったさ/痛痒さ/きもちよさ」を刺激して、活性化させる力を持っているのだ。
公園のトイレに夜の皴が寄る わたしが着てる薄過ぎるシャツ
マスカットは秋の食べ物 秋になると色んなもの上にのるから
こういう歌をみると、特に二首目の作品をみると、正面から行くのではなくて、搦手から、というのがほとんど体質化しているようにも見えるけれども、一度構成して作ってから省いてゆくということもあるのか。とすると、そう言えば、最近どこかの雑誌にジャコメッティの彫刻を見て居るとかきたてられるものがあると書いていたから、かなり自覚的かつ方法的なところで、「現実のかたち」みたいなものに、永井祐には気になって仕方のない感性の領域があるのだろう。ただ、あまり微弱なものばかり集めすぎない方がいいのではないかと思う時はあるので、それは一応書いておくことにする。
冬の街あるいてゆけば増強された筋肉みたいなダウンジャケット
目をつむり自分が寝るのを待っている 猫はどこかへ歩いていった
真夜中はゆっくり歩く人たちの後ろから行く広い道の上
最近私は絵に凝っているのだが、絵をかくようなひとに永井祐の歌はけっこう示唆的ではないかと思うので、そういう人にもおすすめしたい。これらの歌は、読むとすぐに空間のある絵が見えますね。
公園へチーズバーガー持っていき暗くてみえないベンチにすわる
半月は爪の根元にあるのかな 夜道をワイシャツであるいてく
先ほど搦手から、と言ったがこれはネガ・ポジを反転させる詩法とでも言おうか、それでも絵は見えていて、いわゆるリアリズムの手法では無理な絵になるのだけれども、ちょっと読み手としては見入ってしまう、というか、そんな感じの歌ではある。
さて先程「永井祐の奇妙な曲線的な世界」と言った部分にさらに言及してみたい。
この道をいったりきたりするだけの人になりたい風がつめたい
メールしてメールしている君のこと夕方のなかに置きたいと思う
二首続けて引いた。なぜ、こう思うのか? という歌の起こり、抒情のきっかけが、よく見えないのたが、だからと言って、共感できないものではなくて、「この道をいったりきたりするだけの人になりたい」ということは、わかる。そういう孤独な意志を空中に放り投げているような自分と、「メールしている君のこと夕方のなかに置きたい」という、やや強引な相手を無理にも自分に引き寄せたいと思うような自分とが、同時的に同一の自分としてここに示されている。
二百年生きるペースで生きていく 玄関に階段がある家
セロテープカッター付きのやつを買う 生きてることで盛り上がりたい
午前中に雨 30分LINEする それでは令和でもよろしくね
1月が何回も来てほこりのようにかさなる友達のエピソード
老人になったら何をするんだろう 床に紙コップを置いてみる
こうしてまとめて目についた人生や生そのものについての歌を引いてみると、何となく思い出すのは辻潤とか高橋新吉とか、大正期のダダイストのことで、あとは尾崎翠の小説なんかこの人は好きだろうなあ、と思う。だから、気になる本や文章やモノのことを散文として書くということを通して永井祐さんはきっと豊かなものを今後手に入れていくことができるだろう。もうひとつ。偶然ということについての哲学的な詩を作って行けば、余人の追随を許さないところで生きていけるだろうし。余白の作り方と言葉の愛嬌みたいなものは、まだまだ磨きがかけられる気もする。コロナに対抗するには、「二百年生きるペースで生きていく」のが大事なんですね。ありがとう、永井さん。
▽左右社刊、1600円+税。 ISBN 978-4-86528-005-0C0095