さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

永井祐『広い世界と2や8や7』

2021年02月21日 | 現代短歌
 帯文に穂村弘の「永井祐の/登場によって/短歌が、/目の前の世界の/見え方が、/変わってしまった。/もうもとには/もどれない。/なんてことを/してくれるんだ!」とある。最近、盛田志穂子の『木曜日』が復刊されたが、盛田を最初のうちから高く評価したのも穂村だった。あの時の惹句は、「裸足で来やがって」だった。コピーとしては、なかなか素敵だし上等である。私の知る人では、ほかに中澤系の例の三番線快速電車の歌を不朽のものにしてしまったのも彼だ。今度の永井祐のための帯の言葉は、穂村がほとんど自分のことを言っているみたいで、「永井祐」のところに「穂村弘」の名前を入れたらそのまま穂村の全歌集に使える。要するに感性が先立つタイプの作者を見逃さないというところが、穂村弘の直観力のようなもののいいところで、これだけのお墨付きみたいな言葉があれば、とにかく信用して読める内容なんだな、ということはわかるだろう。だから、私がここに何か書く必要はないのかもしれないが、以前「現代短歌」の土屋文明と佐藤佐太郎の特集で、永井祐は編集部の見立てで若手の「土屋文明を読みましょう派」のような役割を振られていて、おや、永井さんは土屋文明がおもしろいんだ、と思って、何やら慕わしい気がした覚えがある。私の駄文も載ったのだが、この時はパソコンの具合が悪くて依頼された分量の半分しか書けなかった。ついでに書いておくと、もし現代における土屋文明の系譜、というようなものを考えるとしたら、私はその筆頭が斎藤斉藤だと思うので、今度特集する時は、この二人に「土屋文明をぶった斬る」というようなタイトルで対談してもらったらおもしろいだろうと思う。正、反、合で弁証法的に短歌史というのは継承されなくてはならない。そこのところがわかっていない歌人が、師匠筋の話ばかり書く習慣は、いい加減にやめにしたいものだ。だから真野さんがやっている「現代短歌」のいろいろな特集についての実験は、私はいいと思う。話が脱線したので元に戻る。

  プライベートがなくなるくらい忙しく踏切で鳩サブレを食べた

  スマホのなかちらかしているわたしでもお菓子は余るから配ります

  一人カラオケ わたしはなぜかしたくなく君はときどきやっていること

 永井祐の歌をはじめて読むというような読者のために、と思いながら三首ほど引いてみた。こういう日常の「あるある感」のようなものを平易にすくいあげる感覚に対する共感を最初の接点にして、永井祐の奇妙な曲線的な世界に入っていくといいかもしれない。それでも二首目などは仔細に見ると、「スマホのなかちらかしているわたしでも」と「お菓子は余るから配ります」のつなぎの「でも」が不思議で、「整理して断捨離して、ということが苦手な私でも、余分なものはちゃんと処分しますよ」ということを言っているだけなのに、両者を結びつける発想が、ん? どうしてこうなるんだ? という感じを呼び覚ます。つまり、
この歌は、われわれが事物に言語を介しつつ向き合った時に不断に知覚し続けなければならない「異和感/ズレた感じ」を再度意識化して、そこにもともと生じていたはずの「くすぐったさ/痛痒さ/きもちよさ」を刺激して、活性化させる力を持っているのだ。

  公園のトイレに夜の皴が寄る わたしが着てる薄過ぎるシャツ

  マスカットは秋の食べ物 秋になると色んなもの上にのるから

 こういう歌をみると、特に二首目の作品をみると、正面から行くのではなくて、搦手から、というのがほとんど体質化しているようにも見えるけれども、一度構成して作ってから省いてゆくということもあるのか。とすると、そう言えば、最近どこかの雑誌にジャコメッティの彫刻を見て居るとかきたてられるものがあると書いていたから、かなり自覚的かつ方法的なところで、「現実のかたち」みたいなものに、永井祐には気になって仕方のない感性の領域があるのだろう。ただ、あまり微弱なものばかり集めすぎない方がいいのではないかと思う時はあるので、それは一応書いておくことにする。

  冬の街あるいてゆけば増強された筋肉みたいなダウンジャケット

  目をつむり自分が寝るのを待っている 猫はどこかへ歩いていった

  真夜中はゆっくり歩く人たちの後ろから行く広い道の上

 最近私は絵に凝っているのだが、絵をかくようなひとに永井祐の歌はけっこう示唆的ではないかと思うので、そういう人にもおすすめしたい。これらの歌は、読むとすぐに空間のある絵が見えますね。

  公園へチーズバーガー持っていき暗くてみえないベンチにすわる

  半月は爪の根元にあるのかな 夜道をワイシャツであるいてく

 先ほど搦手から、と言ったがこれはネガ・ポジを反転させる詩法とでも言おうか、それでも絵は見えていて、いわゆるリアリズムの手法では無理な絵になるのだけれども、ちょっと読み手としては見入ってしまう、というか、そんな感じの歌ではある。
 
さて先程「永井祐の奇妙な曲線的な世界」と言った部分にさらに言及してみたい。

 この道をいったりきたりするだけの人になりたい風がつめたい

  メールしてメールしている君のこと夕方のなかに置きたいと思う

 二首続けて引いた。なぜ、こう思うのか? という歌の起こり、抒情のきっかけが、よく見えないのたが、だからと言って、共感できないものではなくて、「この道をいったりきたりするだけの人になりたい」ということは、わかる。そういう孤独な意志を空中に放り投げているような自分と、「メールしている君のこと夕方のなかに置きたい」という、やや強引な相手を無理にも自分に引き寄せたいと思うような自分とが、同時的に同一の自分としてここに示されている。

  二百年生きるペースで生きていく 玄関に階段がある家

セロテープカッター付きのやつを買う 生きてることで盛り上がりたい

  午前中に雨 30分LINEする それでは令和でもよろしくね
 
1月が何回も来てほこりのようにかさなる友達のエピソード

老人になったら何をするんだろう 床に紙コップを置いてみる

 こうしてまとめて目についた人生や生そのものについての歌を引いてみると、何となく思い出すのは辻潤とか高橋新吉とか、大正期のダダイストのことで、あとは尾崎翠の小説なんかこの人は好きだろうなあ、と思う。だから、気になる本や文章やモノのことを散文として書くということを通して永井祐さんはきっと豊かなものを今後手に入れていくことができるだろう。もうひとつ。偶然ということについての哲学的な詩を作って行けば、余人の追随を許さないところで生きていけるだろうし。余白の作り方と言葉の愛嬌みたいなものは、まだまだ磨きがかけられる気もする。コロナに対抗するには、「二百年生きるペースで生きていく」のが大事なんですね。ありがとう、永井さん。
▽左右社刊、1600円+税。 ISBN 978-4-86528-005-0C0095

笹川諒『水の聖歌隊』

2021年02月12日 | 現代短歌
 コメントしようと思いながらそのままになっている歌集はたくさんあるのだけれども、今日ポストに入っていたこの歌集をめくってみて、今の若手歌人の修辞のレベルの高さに圧倒されるというか、多少鼻白むというか、とにかくジェラシーも含めて、これはとてもかなわないという感じを持つことが多いのだけれども、その一方で、短歌が自問自答の性格を持った文芸型式であるとして、「きみたちはみんな零コンマ一秒答えが早いんだよ」と、いつも思うということがあって、そこで、言い方は悪いが、この人はこの後修正がきくなと思う人には、とりあえずエールを送っておけばまちがいがないだろう、というような打算が働くのが嫌で、かえってコメントせずに放置して居たりするということがあったりするのだけれども、作者にしてみればそれはたまったものではないだろうと思うので、多少反省して、今後はもう少し早くコメントいたします、と言っても約束を果たせるかどうかはわからないので、今日は、たまたまこの本についてコメントしようと思い立ったから、こんな感じに書きはじめた、のであります。決して思い上がって言っているのではありません。私はこの本を読まなければならない、と思った瞬間にその本を読むのがいやになる、という厄介な性格の人間なのであります。それで、「テアトル梅田」の章の四首を引く。

  フランス語を学びはじめてしばらくはきみが繰り返したジュ・マペール

  強弱に分けるとすれば二人とも弱なのだろう ピオーネを剝く

  雲を見てこころも雲になる午後はミニシアターで映画が観たい

  風は好き 横断歩道の向こうまで誰かが蹴った落ち葉が渡る

 この二首目を引いて内山晶太さんが解説しているのだが、私の思うに、この歌はその前の歌と一緒に読んだ時にその味がさらによく観取できる歌なので、私はフランス語は大学の第二外国語の授業以来御無沙汰の人間だけれども、一首目の俵万智ふうの初句からの入り方の歌があって、そのあとに二首目の「強弱に分けるとすれば」の歌が続けて出て来るあたりに、まるで芭蕉連句のような敏感な呼応の仕方があって、このひとはセンスいいなと思ったので、ご本ありがとう、と私はツイッターはやらないので、挨拶と祝辞もあわせて、このブログで書くことにしました。
 それにしても四首目なんか実にうまいよね。こういう歌が、ごろごろ出て来る歌集なんだから、こたえられないです。

稲葉修『鮎釣り海釣り』

2021年02月06日 | 政治
 私は釣りも動物飼育もしないが、雑書漁りのなかで、時々これはと思う本にぶつかることがある。古書で何となく買って置いてあった箱入りの本を、これはなんだったかな、と思ってめくってみると、思わぬことが書いてあったりする。ああ、あのロッキード事件の時の三木内閣の稲葉法務大臣か。今はウィキペディアという便利なものがあって、日本紳士録からはじめて図書館で調べる手間が省けるけれども、この人のことを取材して小説に書いたらおもしろいだろうなあ。直情径行、でも筋が通った一言居士で、折々の発言のいちいちが刺激的で機知に富んでいる。今の時期にふさわしい金言を引いてみよう。

 「民主政治は為政者の特権、すなわち民衆に分かち得ぬタブーと為政者の贅沢に因って亡ぶ」
という意味のことをモンテスキューがいっているが、今の日本の政界にとって、これほど強烈な警告があるだろうか。(略)

政治家の平均生活水準が一般国民の生活水準よりもはるかに贅沢で、両者の道徳水準は政治家の方がはるかに下であるというのでは、国はもつものではない。 
                           同書173、174ページより

 昭和五十七年四月の「あとがき」をみると、「日本の水をきれいにする会」が来年十周年を迎える、とある。釣り好きは趣味と実益(国土の保全という政治的な目的)も兼ねていたわけである。いま思い出したが、水の学会には、現天皇も皇太子時代から関心を持続しておられる。


部屋内の各所崩壊についての漫談

2021年02月01日 | 日記
 今更のように思いついたのだが、横積みにしてある本のタイトルは、付箋に何か言葉を書いて、それを少し飛びだすようにして見えるようにしておけばいいのだ。一冊の本をさがすために、今日は三度も同じ場所の本の山が崩壊した。それで、最後は堅牢に煉瓦を積むように組み上げた。と書いているそばから、いまビールの缶の袋が山巓の頂上から落下して、本どもがいきなり話しかけてきた。

「きみは、ほどよく煮えた高野豆腐のおいしさを知らないな?」
「いや、そんなことはありません。その出来立てのおいしさも、よくわかっております。ですから、私を責めないでください。」
「ううん、わかってないな。こうなったら、きみは死刑だ。」
「どうか、そ、そ、それだけはごかんべんを。この上は、そちら様のカキフライの割り当てを倍にして、最後に残ったひとつを二等分になんてケチなことは決して申しませんから、今後は全部そちらにさしあげますから、どうかこの場はご容赦、くださいな。」
「わかった。今回にかぎって赦してやろう。」

 ‥‥なんかもう、疲れた。あほらしくてやってられない。みし、みし、みし、ずるずるずずー、どーっ。ど、ど、どん。どたん。隣の山もついでに崩壊したりして。くそう‥‥。なんてことだ。

「いいか、かっぱ巻きは、あれは芥川龍之介の河童をイメージして食べてはいけない。かっばは、せいぜいかっぱなのだから。まあ、黄桜の広告の河童が妥当な線だ。」
「はい、わかります。自殺したくなるような絵は、いけません。そうですよね。それにしても、世間のかっぱ巻きは、どうしてあんなに小さく切ってあるんですかね。お通夜で出る河童巻き、おいしくないですね。」
「調子にのって、縁起でもないことを言うんじゃない。こういう国難の時期だからこそ、すがすがしいことを考えなければ。」

 もう寝ないと、あしたに障るので。みなさま、どうぞ気を付けて明日からもおすごしください。あとは、今後も食料自給率と出生率を上げるためにがんばりましょう。