さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

考える時間を与えないでおいて「考える能力」を問うことについて

2022年01月17日 | 大学入試改革
※消してあったが復活する。

 今度の大学共通テストの「国語」の問題について、大方の講評は、解くための時間数が不足がちであるということだ。短時間のうちに大量の字数の文章を読み、そうして速い速度で問題を解かなくてはならない。問われるのは、事務作業の精密さと正確さであって、着想力や構想力や創造力ではない。まして「考える」〈能力〉など問うべくもない。さらに、こういうことの苦手な一部の天才系のひとたちをみすみす排除する出題形式であると言える。

※追記 「数学Ⅰ」の難問化が話題になっているが、予備校の先生は「現代文」などもしっかり勉強しよう、というアドバイスを発信しているけれども、これも要するに、こういうことの苦手な一部の天才系のひとたちをみすみす排除する出題形式であると言える。

 さらに、複数の資料、複数の文章という問題の外見も、それが「複数」であるということの必要性があまり感じられなかった。引っ込みがつかなくなったので、仕方なくアリバイ的にやっているようにしか見えなかった。フィクションの対話形式は、端的に言うならば、偽りの例文だから、それが規範的な重みづけを伴って流通してしまうと、日本語それ自体の劣化を招くことに結びついてしまう。

 社会とか社会性というものについて、それが人為的に操作可能であるという考え方、そういう傲慢な思い上りが、あの偽りの対話形式の背後にはある。それは自分より年下の、仮定された年少者の独創性とか才質とか、そういったものの軽視が先立って存在するから、平気でああいった悪文が書けるのだ。

 神奈川県の高校入試の国語の問題など、文科省の意向を忖度した奴隷根性見え見えの酷い会話体の問題が公表されている。あれは読んでみると実に不愉快で気持が悪いものである。しかもあの対話形式の文章には署名がない。リテラシー教育を言うなら、署名や書名、出典の記載がない記事はまず疑ってかかれというのが本道ではないか。



雑感 真鍋さんの言葉から

2021年10月09日 | 大学入試改革
 「私は調和のなかで生きることができません。それが、日本に帰りたくない理由の一つなんです。」
 真鍋淑郎さんはノーベル賞受賞の知らせを受けた後の日本人ジャーナリスト向けの記者会見でこう語ったという。

 この間の事情を、ずいぶん前に吉本隆明と沢木耕太郎とが話題にしていたことがある。

「吉本  
ぼくはこう思います。日本の一般的な学問のレベルがあるとしますね。そのレベルというのは、一種の場なんですね。その場というのが、学者なら学者を育てるわけです。だから、その場自体のレベルから、個々の人はどうしても逃げられないところがありますよね。その場が、もうまるで違うんだと思います。

沢木 
そうしますと、場というのは、たとえばどうしたら変化しうるんですか。

吉本
それは、こうするより仕方がないんです。つまり、個々人の問題となると、超人的にやるほか方法がないわけですよ。(略)」

 『達人、かく語りき 沢木耕太郎セッションズⅠ』(2020年 岩波書店刊)

 ここで、私はここでの沢木の「そうしますと、場というのは、たとえばどうしたら変化しうるんですか。」という問いに対しては、ひとつだけ私なりに実感として思い浮かぶ答がある。

 こうした特殊日本的弊害をなくして、「日本がうまれかわる」ためには、そうした日本の悪しき「場」の在り様を助長している有害な政府組織の改革が必須である。

つまり、認可と予算配分の権限を持っているがゆえに、自分たちは現場の人間よりも立場が上で、上意下達の指示を出す権利があるのだと勘違いしている官僚がとぐろを巻いているような組織、文科省を抜本的に改革しないかぎり、日本の学術分野における沈没は続くだろうということだ。

雑記  

2021年07月04日 | 大学入試改革
〇 いろいろと読んではいるのだが、私は多くのことに関心があるのと、仕事のための情報入力が必要なのと、単純に休息や気晴らしの時間もとりたいということがあって、そうこうするうちに、また間があいてしまった。その間にも、みなさんの作品集等をいただいたものがあって、そのコメントを書こうと思うのだが、数ヶ月前のものは埋もれて行方不明になっているし、三日前のものから書きだすというのも何か先に届いたものに対してわるい気もするし、ということで気おくれしているうちに、どんどん書かない時間が増えていって、結局何も書かないことになっているという、よくない循環に陥ってしまったのだった。

〇 深沢一郎の『ちょっと一服、冥途の道草。』という昭和五十八年刊の本があって、これをめくっていると、私のこういう文章自体がどうでもいいようなものだということに気づかされるのだけれども、残念なことに私は深沢一郎ではないし、六十歳まで生きて好きなこともやったし、うまいものも食ったから、そろそろ死んでもいいなどと言うことは到底できない。しかし、そんなことを言いながら心臓病を患って十年生きのびて七十歳になって書いた文章がこの本には載っていて、それを読むとほのぼのとした気持にさせられる。それは、日本の庶民がもともと持っている自他を突き放した、けんもほろろの明るい虚無感のようなものに触れる心地よさである。

〇 司馬遼太郎が須田剋太の没後の画集に寄せた一文があって、昭和十年代の後半に奈良に移住した画家が、大和三山を見て、あれは造った山ですか、と地元の人に訊ねた、という大らかなエピソードが紹介されている。文展の特選を二度もとりながら、戦後はその経歴を擲って抽象画に邁進するという画業の進め方も型破りである。それが「街道を行く」の挿絵で独特の具象的なモノの姿を描いて好評を博すようになるという運の廻り方が、なかなか愉快である。そういうことがなかったら、私はこの画家のことを知らなかっただろう。

〇 最近の歌誌「未来」を見ていると、伊吹純さんの歌境の深まりが切実である。老いの日々に向き合う姿が伝統的な「アララギ」の手法でとらえられているのだが、ひとつひとつの歌の言葉に、何かはっとさせられるものがあるのである。しずかな内観の歌である。

花の名を人の名をまた忘れたりこころの園にあわくたちくる  

窓外の景はいつもと変らねど水の澄みゆくごとき夕暮れ
                       2021年7月号

〇 伊吹さんと同じ名古屋方面の歌人と言えば、「未来」の水上千沙さんの夫の水上令夫の歌集が実におもしろかった記憶がある。お二人ともすでに故人だが、こんなにおもしろい歌を作る人なのに、短歌ジャーナリズムではとりあげられていないなあ、と当時思ったことだった。

〇 ついでに思い出したので書いておくと、最近「地中海」の椎名恒治さんが亡くなったが、この人の片山貞美の歌について書いた文章がすばらしい。以前「地中海」のホームページで読んで感心した覚えがある。前代の漢文の教養を持った歌人たちの持っている独特の言葉の感触のようなものは、水上令夫とか椎名恒治のような人々が立ち去ったあとは、味読する人もなくなって、消えてしまうものなのかもしれない。

〇 改訂された高校国語の一年生必修「現代の国語」の各社見本が出そろったが、多くは評論文の分野に傾斜している。そうして「言語文化」週二時間の中に古典「古文・漢文」と近代小説が押し込められた。どうしても「古典」を一定程度やらなくては入試その他に差し支えるから、その犠牲になるのは近代小説である。漢文も扱いが微妙になるだろう。短歌・俳句などを取り扱う時間は、一・二時間しかとれない。結果的に学校間格差が拡大する。文化的な格差のようなものの拡大も予想される。
これは、事前に声明を出した文芸家協会をはじめとする二十の学会、文芸関連団体の予想通りの展開となっている。こうして高校生が「文学」を学ぶ機会は大幅に失われた。今後お仕着せの「現代の国語」の授業を強制される現場の先生たちの苦労がしのばれる。と言うより、心の栄養となるような「文学」に触れる機会を奪われる若者たちの精神的な損失はどうしてくれるのだ、と私は思う。

二年生で「論理国語」を選択した場合、近代小説や文芸・芸術関連の随筆をほとんど読まないで高校を卒業する生徒たちが出て来る。二年生から理系と文系で選択を分ける学校が多いので、「理系」選択者ほどそうなる可能性が高いが、これは「理系」選択者の文学的教養の低下を招きかねない。一部の私立高校のエリートを除いて、「荘子」を読んで知的な糧とした湯川秀樹のような精神は出て来にくくなるわけである。

新科目「現代の国語」は、本来「総合学習」で取り扱うような内容のものを「国語」に押し付けている。統計やグラフの読み取りは、本来「数学」で教えるべき内容である。また「現代社会」や「情報」でも取り扱った方がいい要素がある。この新科目を「国語」科の教員だけに「丸投げ」しているのは、いかにも具合がわるい。
ここのところをきちんと整理していかないと、この編成の教科書で学んだ世代が「羅生門」も「山月記」も「こころ」も知らない、文化的教養に一部欠損のあるグループとして、先の「ゆとり世代」の二の舞になってしまう可能性はある。 

「日本文学」今月号

2021年03月14日 | 大学入試改革
 日文協の「日本文学」の今月の特集は、国語科教員は必読と思う。
 寄稿している野矢氏の言う事はよくわかるが、とても視野が狭い。私も野矢氏と同じく「国語」は言葉の運用の仕方や、文章と本の読み方を教える科目だという立場だけれども、野矢氏には現場で高校生たちと日々接している先生たちにもっとサーチしてからものを言ってほしいと思う。これから「文学的」随筆や小説が排除された、実用文だけの「現代の国語」を教わることになる、一年生で二単位しか国語の時間がとれない商業高校や工業高校の子供たちの身にもなってみてはどうかと言いたい。

※追記 ここに指摘したことは、すでに現実的に現場では困ったことになっていて、神奈川県の教育委員会は、必修の「現代の国語」と「言語文化」を履修したあとでないと、「古典」や「論理国語」などは履修できないと言っているため、一年でも二年でも二単位しか確保できない学校の生徒は、二年次に「古典」を履修できない、三年次に「古典」そのほかの科目を無理に選択させるのはむずかしいので、そうすると必修科目を履修したあとの積み上げの科目の選択の幅が大幅に限られてしまうということである。頭の固い教育委員会の姿勢に、現場では絶望がひろがっている。

※ この記事は、追記を足して2021年12月11日に復活しました。

「毎日新聞」9月15日の社説の訂正を 

2019年09月16日 | 大学入試改革
このブログの4月28日の記事に以下の文章を付記しました。

※ 追記 「毎日新聞」9月15日の社説で「論理国語」を問題にしてとりあげているが、「現代の国語」が問題になっていない。これは間違いだ。

「現代の国語」には文学を入れるなと文科省の担当官は言っている。

週に2時間しか国語の時間がとれない学校の生徒は、「現代の国語」のせいで一年生のうちは文学に触れられないことになる。


『尾崎一雄対話集』より

2019年08月24日 | 大学入試改革
「石の話」の章より

安岡章太郎 これは前に阿川には話したけれども、小林秀雄さんにうかがった話です。奈良におられたときに小林さん、志賀さんのところへ行かれたでしょう。小林さんそのとき学生か何かで、志賀さんが直吉さんかだれか連れて、どこか海岸へ散歩に行かれるとき、うしろのほうをついて歩く。志賀さんが貝がらか石か忘れましたけれども、海岸で拾いながら歩かれた。小林さんもそれをまねして拾う。うちへ帰って、志賀さんが床の間かどこかへ拾ってきた石をずーっと並べる。小林さんもついでに並べてみると、その石か貝がらか、志賀さんが拾ってきたやつは実際きれいなんだって。それに較べて自分のはだめだというんです。
尾崎一雄 それは石ですよ。
安岡章太郎 なぜ、そういう話になったかというと、「君は志賀論みたいなものを書いているけれども、そんなもの幾ら書いたってだめだよ」と小林さんは僕に言われるんだね。結局それは拾ってくる言葉、それが決定的なんだって。(略)
(略)
阿川弘之 (略)僕がソロモン群島へ旅した時、ガタルカナル島の海岸で拾った貝がらみたいなものを土産がわりに持っていった。僕はそんなものにあまり知識も興味もない。ところが、持っていって、「こいつはここに置いといてやろう」なんて居間のある場所に置かれると、それがぴしっと光るのね。
(略)
志賀先生の身辺にあったものは名品ばかりではない。それこそ、僕がガタルカナルで拾ってきた貝がらでもすっと置いてある。それがぴしっと所を得ている感じになる。それを非常に感じた。

※ ここに回顧されているような「志賀直哉的な直観」こそ、日本の文化の精髄なのであり、これと理科系分野の新たな発見や着想を得るセンスとの間には、同じ根っ子がある。ここに日本の文化が歴史的に培ってきた、繊細な感性がある。ここをないがしろにしたら、日本の文化の独創性が衰弱する。

※ しかし、この対談の文章と、先日書いた「片桐石州 二話」の原文とを並べると、いまの文科省推奨の「異質な要素の文章を並べた新テスト問題」ができそうな気がしますね。

※ 念のために書いておくと、二つの文章を並べて思考能力をはかるという、今度の新テストタイプの問題は、発達障害をかかえている人や、アスペルガー系統の人にはもっとも苦手な設問の筈である。これをあまり追究すると、そちらの傾向を持つ優秀な人が不利になる可能性がある。

私は親族に自閉症傾向の子供をかかえているので、本気でこれを書く。だから、新傾向問題の新テストには反対だ。これはまちがいなく障害者選別が強まるテストだ。

 課題を限られた時間の中ではできない、という人は、もともと試験社会の中では不利なのだけれども、今度の センター試験 改悪 によって、よりその傾向は助長されるだろう。天才排除、未知の有能な「人材」排除に寄与するばかげた難問化によって、どれほどの損害が生まれるのかは、計り知れない、というべきだ。

※ これもついでに言っておくと、文部科学省がいまやろうとしている、 小学校からの早期英語教育の導入 は、音声から入ることを主にしている うちは、まだ 被害 が少ない。 けれども、教育熱心な保護者が、それに 文字とアルファベット を塾などで 補習 して与えてしまうと、その子供は、ひとつの学習集団に一人と言うような高い確率と割合で生ずる 英語特有のディスレクシア になる可能性がある。

 塾が利益のために 文字とアルファベット を補習する傾向はとめられないだろう。そうすると、英語教育に 十分にお金をかけた子供 を悲劇がおそう可能性は高い。

耳ではわかるが、それが文字と結び付けられない、という「障害」になってしまうのだ。これは英語教育の「良心的な」専門家が、ずっと言ってきたことだ。(そうでない「英語教育」の「専門家」もたくさんいます)。まあそれは、子供を塾に通わせるお金がない家庭の子弟が、十年後に勝つ可能性が高くなる、ということでもあるのでした。


「高等学校国語・新学習指導要領」に関する見解の拡散依頼

2019年08月13日 | 大学入試改革
8月10日、日本文学関係16学会が連名で、高等学校「国語科」新学習指導要領に対する見解を発表しました。

(以下、引用)
「高等学校国語・新学習指導要領」に関する見解

 平成30年に告示された新学習指導要領において、国語科必履修科目は「現代の国語」と「言語文化」に、選択科目は「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の4科目に分かれているが、これらの科目を「論理的な文章」「実用的な文章」を扱うか、「文学的な文章」を扱うかによって区分する基準に対し、われわれは深い憂慮を覚えるものである。「論理」「実用」と「文学」とを対立概念として捉えることは元来不可能である。また、個々の教材を「文学的」であるか否かによって区分することもまた不可能である。
 日本語の歴史とともに歩んできた「文学」は、人間の存在意義や尊厳と関わる人文科学、社会科学全般と密接に関わっている。「文学」を狭義の言語芸術に限定し、囲い込んでしまうことによって、言葉によって新たな世界観を切り開いていく「人文知」が、今後の中・高等教育において軽視され、衰退しかねない危惧がある。
 上記の観点から、新学習指導要領の実施にあたっては、単位の認定、教科書検定等に際し、「人文知」の軽視されることのない、柔軟な運用を行うことを強く求めるものである。

2019年(令和元年)8月10 日

古代文学会/西行学会/上代文学会/昭和文学会/全国大学国語国文学会/中古文学会/中世文学会/日本歌謡学会/日本近世文学会/日本近代文学会/日本社会文学会/日本文学協会/萬葉学会/美夫君志会/和歌文学会/和漢比較文学会(五十音順)

観点別評価はやめられないのか

2019年08月04日 | 大学入試改革
「観点別評価」をやめられないか
☆ 以下は知人からのメールをもとに当方が書き直しました。

 やめてくれ、と言っているのに強制される。観点別評価というのは、ABCの並びで三段階の評価である。これをエクセルの標準偏差の関数を用いたブログラムによって十段階に変換していくようになっている成績つけのためのシートが作られた。例えばAAAAAなら10、AAAABなら9、AAABBなら8、AABBBなら7、ABBBBなら6というように。

 そもそも三段階で基準が作られている数値を、十段階に読み換える時点で無理がある。ちょっと数学をやったことのある人なら、いろいろなケースが頭に思い浮かんで「発狂しそう」になるのではないだろうか。観点別評価が導入された段階で、すぐに五段階評価に変えた現場もある。しかし、伝統的に十段階でやってきた学校は、急に五段階には変えられない。

このソフトを作った人は、「ABCの切れ目は、数値を入れて調整できる。また、観点ごとに重みづけもできるようになっているから、数字さえきちんと入れれば成績は自動的につくはずだ。」と言うのだが、そう簡単にいくものではない。例えばCAAABでは、どうなるのか。AACBBならどうなるのか。

観点ごとに三段階のABCの切れ目があって、その数値の境目が設定されていて、その観点ごとの重みづけの割合の数値がからむから、出て来た評価はこちらのイメージと異なっている。つまり、提出物や小テストの点がよくないのに、けっこういい成績がついてしまったり、逆に努力して提出物を出しているのに、定期テストの点数が観点の境目で下にあるために低い評価がついてしまったりする生徒が出てしまう。

これまでは単純に定期テストや提出物や小テストの総合点を輪切りにすればつけることができた評価が、このシートを使うと倍以上の時間をとられる。おまけにどうしても信用できないから、従来のやり方で一度評価を出しておいて、それを見ながら観点別のシートを修正するしかなくなった。ある人は、四度近く数字をソートし直して、やっと自分のイメージに近付いたと言っていた。これではまったく評価のための評価である。

当局の石頭には閉口させられるが、これを上意下達で現場に押し付けられてもはね返せない管理職が多い。指示だと言って文書がおりて来れば、やるしかないと思い込んでいる。その上に文科省がいて、新テストがらみの無茶な「改革」を強行しようとして現場を引っ掻き回しているのである。

近事茫々

2019年06月30日 | 大学入試改革
 先日某誌の子規の歌についての記録をみていたら、あまりにも不用意な発言がそのまま採録されていたので、おいおい、それはないだろう、と思ったが、人間というのは聴衆を前にしてアガっていると、けっこうおかしなことを口走ったりしがちなものだから、後のチェックは慎重にやらないといけない。

ネットの発言も同様で、特にツイッター上の発言は、瞬発的なものだから修正がきかない。編集者がいる前時代の雑誌のシステムには、いいところがあった。近頃はけっこう大きな会社の校閲でも、へたに下請けに出すとネットだけで調べて図書館に行かないツワモノがいるようだから、若い人のネット依存症には重篤なものがある。

たぶん資料を使って調べものをする楽しさを知らないから、ネットに頼るのである。大学のジャーナリスト志願の若者を育てる学科では、在学中に大宅文庫への研修を義務付けるべきだ。あとはくだらない語学留学なんかやめて、アメリカの公文書館に一週間通って何かレポートを作成することを義務づけるとか、そういうことに金を出すようにしてもらいたい。

それで、この間の文科省の動きについて、全国の大学人は、役人どもが新学習指導要領を材料にして利権を発掘して新たな天下り先を確保しているだけじゃないのか、と疑いの目で見ていることを官僚のみなさんは自覚したらよろしいでしょう。

「中央公論」の最近号では、英語の民間試験の導入などを含めて、文科省は新テストの実施を急ぐのではなく、いったん延期してはどうかという現実的な提言が為されている。これには私も賛成だ。また、多くの大学関係者も同意見のはずである。

一応、日本は民主主義の国なのでしょうから。


※ これを書いた翌々日に、「トーイック」の離脱が新聞報道されていた。だから言わんこっちゃない、と思ったが、メンツのある方々は、「強行」なさるのでしょう。今回の件で一番怒っているのは、むろん私立の先生たちだけれども、本当に激怒しているのは、受験生とその保護者たちである。被害者約2万人(1.8万人)といったって、みんな将来のエリートだから、こういう「行政」は、やってはならない見本として、反面教師、ということばが昔流行したけれども、若者たちは、決して忘れはしない、というところでしょう。高校生のみなさんは、ぜひ将来仕事についたらこのことを教訓になさってください。

※追記。すでに受験した「トーイック」の試験の結果は、新テストにも利用できるようになっているようである。

「毎日新聞」9月15日の社説の訂正を ※改題

2019年04月28日 | 大学入試改革
 ここ数年間にわたって、A県の教育委員会は、文科省の指示に従って、一単位あたり35時間の授業時間数を確保しなければいけないと言って現場に指示を出し、年間計画の提出と、一単位当たりの授業時間数の平均の数を正確に計算して嘘偽りなく報告する義務を現場に課した。

 その結果どういうことが起きたかというと、長期休業、つまり夏休みや冬休みや春休みの時間を削って授業時間数を増やしたり、行事を精選、つまり削って授業の時間を増やさざるを得なくなった。具体的には、順に列挙すると、かつては一日をつぶして外に出かけて芸術鑑賞会としてやっていたものが、ほぼ全滅した。それから学期に二日から三日を使ってやっていた球技大会の日数が半減するか、または廃止された。さらに、文化祭と体育祭を二つともやっていた学校が、多く隔年にせざるを得なくなった。また、それを回避するための苦肉の策として、文化祭の開催を九月一日とし、夏休みを削って以前は九月最初だった二学期の始業式を八月下旬に持って来るという奇策をとるほかはなくなった学校もある。また、従来の日程を変えたくない学校は、一時間50分だったものを、55分や60分や65分にせざるを得なくなった。

 一単位あたり35時間の授業時間数、ということが至上命令として現場に徹底されるのである。これが教育委員会というものの体質なのだ。上意下達。文科省では柔軟な言葉を言っているのかもしれないが、現場はこの通りである。

 その結果、どういうことが起きているかというと、A県に限らず、現実に教育実習生の人数が減っている。どこの県のこととは言わないが、「〇〇県はブラックだから志望しない方がいい」と実際に大学が指導している例もあると卒業生の学生から聞いた。 ※追記すると、A県では今年は採用試験の受験者が減っている。

 かつては長い夏休みがとれた学校の先生は、今は五日の夏休みが現実にとれない人が大勢いる。土・日などの通常の休日を別にして、年間で年休を一日しかとっていない先生が大勢いる。その筆頭が、実は管理職である。もっとも過労なのは管理職である。いつも七時半まで残って仕事をしていて、たいてい土・日も出勤している。それから「総括教諭」もたいへんである。仕事が大変だから、「総括教諭」になりたがる人数が減り、欠員があって補充がきかない。そのため制度自体が破綻しかけている。こういう状況のなかでの「一単位あたり35時間の授業時間数確保」という至上命令があるわけなのだ。

 みんなで楽しくない現場を作り出して、苦しんでいる。ただ、先生たちは真面目だから、声を上げない。「総括教諭」を辞退すると、次の転勤の時に報復人事がある、ということが、現場ではまことしやかに語られている。実際にそういう人事は存在すると考えられていて、「ますますなり手がいなくなっちゃうのに、何でそういうことをするかなあ」ということを、先日も何人かが昼食をとりながら話していた。もっともこれは都市伝説のようなもの
で、組合でもそんなことは事実として存在しない、と言っている。

 平成は、私の現場では、上の言う事にさからえないメンタリティーの役人が大きな顔をすることによる弊害が目に余る時代であった。私には、「令和」の「令」は、命令の「令」のように見える。令和は、平成以上に上意下達の空気が強まる社会となるのではないか。それを突破するものは何だろう。オリンピックのメダルの数だろうか。

 人生で何が大事かというと、お祭りのような「非日常」の時間のなかではない、ふだんの「日常」の時間なかで、どのように過ごしやすい生活・労働の時間を生み出してゆくことができるか、ということに尽きるのではないか。職場においても、働くことについての感じ方の感覚、かつて山本七平が言った「空気」に弱い感性を克服することが大切である。

 「アクティブ・ラーニング」ということを文科省が主唱した。すると、学校目標には「アクティブ・ラーニングを積極的に推し進める」という言葉が書き込まれ、「アクティブ・ラーニング」という言葉が独り歩きするのである。

 佐藤優は、近著『国語ゼミ AI時代を生き抜く集中講義』のなかで、「アクティブ・ラーニングも、単なる思いつきを発表したり、その場しのぎの意見を言い合ったりするだけの場になってしまっては、学びにとっては逆効果なのです。
 アクティブな表現は、パッシブな知識なしにはできません。」
と書いている。
つづけて「…学びにおいてもっとも基本となる「型」とは何でしょうか。それが本書のテーマである「国語」のいちばんの基礎となる力、すなわち「読む力」です。」とも書いている。

 これはX県の話だか、今度の新学習指導要領改訂をにらんで、「読む」「書く」「話す・聞く」の三つの目標を先に立てて、そこから逆算したシラバス(授業計画案)を提出せよという指示が教育委員会から出された。しかも、一つ一つの教材ごとに、これは「読む」ことを目標としたもの、これは「書く」ことを目標にしたもの、というように明示しなければならないのだという。仕方がないので、そういう形式のシラバスを作成したけれども、たとえば一つの文章を読んで、いちいちそこで身に付くものが「読む」力、「書く」ちから、「話す・聞く」ちからと分けられるような教材など、あるはずもないだろう。みんな有機的にくっついていて、本来分けられないのものをなんで分けようとするのか。ばっか、じゃなかろうか、というのが、正直な感想である。これを文科省とその意向を受けた(つもりの)教育委員会とがいっしょになって現場に強要している。絶望的に幼稚である。

現在文科省は、財界の意向を受けたかたちで、「現代の国語」週二時間、「論理国語」二、三年生で週四時間の教科書の中から「文学」を排除した教科書を作れと教科書会社に指令を出している。その先頭にいるのが、大滝一登視学官である。この人がかかわって作った新学習指導要領についての本はひどく出来が悪くて、読んだひとはみんながっかりした、使えない、と言っている。

財界のひとたちは、十代に文学、小説や詩を読んだりする機会を高校生たちから奪うことを恥ずかしいとは思わないのだろうか。若いうちに一生の心の栄養となるような文章を読むことが、何がわるいのだろうか? 

夏目漱石の「私の個人主義」などは、定番の教材すぎるから、「論理国語」にはのせられない、のせようと思うなら、「それなりの論理武装をしてきてください」と大滝一登視学官は明言したそうだ。耳を疑う暴言である。

知人からメールが入って、雑誌「現代思想」がこの件について特集をしているそうだから、明日は買いに行こうと思っている。

※ 追記 「毎日新聞」9月15日の社説で「論理国語」を問題にしてとりあげているが、「現代の国語」が問題になっていない。これは間違いだ。
「現代の国語」には文学を入れるなと文科省の担当官は言っている。二時間しか国語の時間がとれない学校の生徒は、「現代の国語」のせいで一年生のうちは文学に触れられないことになる。