さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

松村正直『樺太を訪れた歌人たち』

2017年08月24日 | 短歌 歴史
 手にしてちょっとめくってみてから、いつ読もうかと思って置いてあったのだが、やっと読む時間がとれた。まじめに書かれたいい本だなあ、というのが一番の感想だ。特に、連載時の文章のあとに各章ごとに置かれた「追記」という短文が奥行きをもたらしていて、評論集としてあるけれども、自由で随筆的な雰囲気を呼び込んでいるところがとても気に入った。歴史を語る時に一つの座標軸となるような場所でありながら、ほとんど振り返るべき<歴史>として思い出されることがあまりなかった「戦前・戦中」の<樺太>は、<満州>と同様に、記憶と遺物と残された印刷物によって再現されるほかないものなのである。それは、きわめて現実的でありながら、でも現実の外側に外れていきたいという、一種の隠遁志向のような情動を常に胸の底にあたためているとおぼしい著者にぴったりの対象だったのではないかと思われる。

 今回私は終章の「サハリン紀行」から読み始めた。そのあとで第一章から丁寧に読むことにしたのである。そこで先にのべたように「追記」の文章のおもしろさに感心した。たとえば、

「奥鉢山の松村英一の歌碑について、本文では「こうして歌碑の場所は無事に決まった。しかし、はたしてこの歌碑は実際に建てられたのかどうか。時代はこの時期、大きな曲り角に差し掛かっていた」と記した。実際に建てられたのかどうか確認できなかったのである。しかし、その後、新たな資料が見つかり、この歌碑が建てられていたことがわかった。」

 こういうところが、いいと思う。しかし、本書の読みどころは、短歌を読みながら、「北見志保子とオタスの杜」の節でシベリアに連行されて非業の最後を遂げたにちがいない少数民族の人たちに言及するところや、それからガイドとして案内してくれた文さんの父親が、何と日本人が帰国したのちも現地に置き去りにされたサハリン残留韓国・朝鮮人の娘であったという話など、歴史の傷口に期せずして触れてしまうところにあるのだ。それをおおげさにならず、淡々と記述する著者の落ち着いた文章のおもしろさが、今回はよくわかった気がする。

今後も「追記」は書いていってほしいし、著者には同様の場所を手掛かりとした本をこれからも手がけてもらえたらいいと思う。鉄道旅行、山めぐり、温泉めぐり、まだまだ松村さん向きの仕事はありそうな気がするが、台湾などいかがですか、とひとつ提案しておきたい。

江田浩司『岡井隆考』

2017年08月23日 | 現代短歌 文学 文化
江田浩司さんの『岡井隆考』が出た。江田さんの論考は、何しろむずかしいことが書いてあるうえに、こだわりの筋が特殊だから、これまで理解してくれる人が多そうには見えなかった。しかし、今度の本は、とにかく読みやすくなっている。各章の冒頭に「序」という文章が配置されていて、読者の労を省くための配慮がなされているうえに、研究論文的な章段でも、著者の対談中の言葉をはさみ込む、というような、読み手の好奇心をそそる仕掛けがたくさん施されている。

 戦後文学における「短歌」と「現代詩」との間にある差異を意識しながら、伝統詩である短歌に関わり続けることの意味を自他に問い続けた岡井隆という存在について、詩・短歌・俳句の全ジャンルに通じながら語れるのは、この年代では案外に江田さんぐらいしかいないのかもしれない。師の目指していたジャンル横断の志と野心を受け継ぐ者として、著者の自負するところは無きにしもあらず、ということだろう。

 本書はどこから読み始めてもいいと私は思う。何しろ索引まで入れると五六〇ページに及ぶという大部な書物だから、最初から読み通そうとしないで気になった章を先に読んでしまうというのでも、著者の主張はだいたい了解できる。江田ビギナーの人だったら、第一章のⅥ「詩における私性の問題」と、第三章の序に置かれた「韻文と散文のはざまに」をまず先に読んだらいいのではないかと思う。それから第四章の冒頭に置かれた「越境と融合」もいいだろう。ここから少しだけ引いてみることにしたい。

「短歌の革新性の内部に、詩歌のジャンルの境界を越境し、詩の表現を取り込んできたのが、岡井の創作の特徴の一つである。詩は短歌の革新性を主体的に推進させることに作用する。

 岡井において、詩と短歌は併行して創作されていたわけではなく、複数の線が相互に絡み合うように、歌集の内部で総合的な創作の達成に寄与していた。それは、定型詩としての短歌の限界値を意識し、見定めながら行われた。岡井の詩は短歌の詩的革新性のもとで磨きをかけられ、短歌とともにあることで、相互の表現の限界値を拡張したのである。それゆえに、詩自体の生命に、新たな可能性を開花させるものであった。

岡井の詩には、素材やモチーフや「私」性に関する双方向の交感が短歌との間に存在する。その点が専門詩人とは異なる、岡井の詩の特徴である。短歌と詩は「私」性を素材にした相互補完的な関係性にあり、自己還元的なモチーフが濃厚で、私的な劇性に満ちている。」   (江田浩司) ※25日記。文末の「私的」を「詩的」と間違って変換して引用してしまいました。おわびします。

 その通り、と私も思うものだ。戦後の第二芸術論による定型詩批判以来、長く「詩」人が、理由もなく「歌」人を蔑んだり、歌人の「私」性へのこだわりをばかにしたりして来た歴史が背景にあって、そこに岡井の詩への挑戦的な試行の理由のひとつがある。もう少し歴史的な経緯を考えてみると、江田はあまり言っていないが、「四季」派の詩人たちに対する戦後の革新的な詩人たちの徹底批判・「抒情」への批判というものがあって、近代詩の遺産全体、また特に音数律的なリズムを積極的に活用した詩に対して、それをどう継承し、生かしていくのかという問題が、岡井の問題意識の中には常にあった。

 それから詩と「定型」の問題。日本語による「詩」と「散文」のちがいは何なのか。ちがいがあるとしたら、それはどこに根拠があるのか。そういった問題を岡井隆の詩を通して具体的に考えているのが、本書である。そういう面からするなら、本書は一冊全体が定型詩論である、と言っても過言ではない。さらに岡井隆の詩的営為のすべてが、そのようなものとしてある、と江田は主張しているのだ。それも、私はすんなりと受け入れられる。そういう説得力が本書にはある。

 本書の論考の三分の一ほどは雑誌「Es」に発表されたものだ。さらに四分の一ほどは雑誌「美志」に掲載されたものだ。同人誌というものの大切さ、その意義を改めて思ったのである。





写真のある雑誌二冊から 雑感

2017年08月20日 | 
※しばらく消してあったが、復活させた。

「WIRED」という雑誌の28号に、坂本龍一に取材した記事がある。「ものづくりの未来」という特集で、この特集名も私はそそられたのだけれども、「音楽って、なんかうるさくて」という言葉からはじめるインタヴュー記事のセンスの良さは、なかなかのものである。  ※追記。今日21日に書店で検索してもらってやっと買って来た。この記事を書いたのは、KEI WAKABAYASHI という人だ。

 それで、その「WIRED」という雑誌名が思い出せなくて、書店で調べてもらったら、「ニューヨークの坂本龍一」という特集をしている雑誌が「SWITCH」という雑誌の四月号にあるようで、これじゃないなあ、なんて言いつつ、結局その「SWITCH」の九月号の方を買ってしまった。それは、荒木経惟撮影の宮沢りえのグラビアが載っていたからで、開いた瞬間に絶句。そこには、写真のハードボイルド、みたいな宮沢りえの姿があった。

 その余波からか、家に帰って、数年ぶりに部屋の本をどけて掘り出したピアノを即興演奏してしまった。鍵盤がひとつ鳴らない半世紀近く前に作られたカワイのアップライトなのだけれども、重厚・荘重かつ至純の音を出してくれる。ついでに余計なことを書くと、家にはほかに引っ越し後、数年間段ボール箱の後になっている足踏みオルガンがあるのだ。これは教会にあるようなストップ・オルガンで、その昔「時々自動公演」の二台オルガンを並べたパフォーマンスを見たあと、衝動的に欲しくなって注文して買ってしまったのだった。これも真ん中の「ソ」の音が出ない。我が家では、当分この二台を修理している余裕は無いのである。

 話を戻して、坂本龍一が音響彫刻の作品を叩いたりこすったりするための撥や刷毛様の道具の写真が、何というか、うっとりさせられるものだった。何かを表現をしている人の持つ道具には、表情・オーラがある。そういうものを普段から見てみたいと思っている。

 街に出て見ていると、たいていみんな、いろいろなものをすぐに写真に撮ろうとするけれども、写真に撮ると忘れてしまう、ということはないだろうか。体験を実のある経験として、生きる時間をきちんと受け止めることができないでいると、日常生活がすべて奪われた時間になってしまう。それは、避けたい。だから、落ち着いて「見る」ということがもとめられると私は思っている。

 写真を見るのも、何か感じるということができないと、ただ反応するだけになって、それはやっぱり経験にならない。セザンヌの絵みたいに、真剣な態度がないと、モノはあらわれない。写真にとるよりも、ノートやスケッチブックに下手でもいいから、絵にして描いてみた方が、自分のものになるということはある。  
 いそがしすぎるのが、やはり最大の問題だと思う。あまりにもいそがしすぎる現場には、いいことはひとつもない。余裕がなければ、劣化するのは早い。少しずつ工夫したり、修正したりする余地のない現場は、感性が疲労骨折してしまう。だから、いろいろなことに気がつくのが遅くなる。危機の兆候も見逃される。商売の場合は、たぶん儲けるチャンスも逃してしまうのだと思う。ゆっくりしていられないから、長い目で見た時には、客が離れてゆくのだ。そういうことがわかっていないで、目先のことだけで従業員も客も虐使しているような店を見ると、私は天邪鬼が胸のなかで暴れる気がする。少し話がずれた。

 十全に自分として生きていられれば、それでいい。音楽も、文学も、芸術全般がそのためにあるので、もちろん毎日の仕事もそういう部分がなければやっていられないだろうと思うのだが、苦労の骨を削るというか、そういうことが求められる現場は、そこらじゅうに見えていて、自分はとうていあれと同じことはできないと思う事が多々ある。こういう謙虚に見えるようなことを言って逃げているかな。

 私は、単に惰性でしかないもの、今の日本の官僚制みたいなものに敬意を払いたくない。商業というのは、本来そういうものではないと思うのだけれども、今は商業自体に官僚制的なものが入りこんでしまっている場所がある。それはあまり楽しくないのではないかと思う。

 つまり、遊びの要素。NHKドラマの「気賀」(もともとは「けが」と読みます)の楽市がいいのはそこで、あそこには商業の本来的に持って居る遊びや、詐欺に近いような、あぶなっかしい要素が生きている。もっとも定住を決めてしまった元盗賊、という場面はくだらなかったが。作っている当人たちがその意味を分かっていないというのも、面白い。たぶん動物的な勘であの楽市の場面をファンタジーとして演出したのだろうが、基本はまちがっていないと思う。利益の予測計算で多い所から手を付けるという習慣が、商売とか商業を楽しくないものにさせてしまっている。経営についての緻密化した理論なり手法なりを信じすぎるのもどうかと思う。

 私は、アメリカの効率優先とヨーロッパのスローと、両方の視点で考えるといいと思うよ、とこれから大学に入る学生さんには言ったことがあるが、何でも常に自分自身を相対化する視点を持っていないと、だめなのではないかと思う。

 ※夜になって文章を手直しした。21日にも直した。22日に見直し。雑誌名が逆になっていた。


『語る藤田省三 現代の古典を読むということ』を前にして考えたこと

2017年08月19日 | 地域活性化のために
 藤田省三が少人数の自前の寺子屋のようなセミナーで語った言葉を口述筆記として起こして、それに詳しい注と解説をつけたのが本書である。江戸時代の思想家、荻生徂徠について述べた一節が実におもしろいので引いてみる。

「そうすると、統治というのは何なんだい、ということになるわけです。仁とは何だということですね。儒学者ですから。そして仁の解釈が朱子学者なんかと違うわけです。朱子学者や普通の儒者は、仁というと慈悲の心だとか、大体心のことばっかり言うわけです。仁とは心のことじゃないのだ、憐れむ心だとかそんなもんじゃなく、客観的なものだと。即ち、仁とは面倒をみることなんだ、と。食えるようにすることなんだ、と。正業にちゃんと就かせること、それができなければ仁じゃないのだ、というふうに、非常にきっぱりしたところの、社会的行為として仁を定義するわけです。」 (藤田省三)

 〇つまり、現代でいうと、待機児童を百パーセント減らすとか、離婚した母子家庭の養育費を出さない元配偶者のかわりに国が一時立て替えする制度を諸外国並みに作るとか、介護施設で働く人の賃金が上がるように抜本的に制度を見直すとか、大学などの高等教育の奨学金の枠を見てくれだけちょこっと拡大するのではなく、もっと拡大するとか、介護の等級をもう一度見直して、先に軽度の人への給付を削減したこと(これが自民党が負けている原因のひとつ)を反省して、もう一度考え直すとか、新しい貿易協定によって農業者の実情・実態を無視したこと(これは今後自民党が必ず負ける原因のひとつ。だって、現場の話をぜんぜん聞かないでトップダウンで決めてしまったわけでしょう)を反省するとか、庶民が「食える」ようにする政策を、こまめに真摯に徂徠のように「俗情」に徹底的に通じることによって、実現していく必要があるわけである。   (さいかち亭主人補足)

「そういう心の中のことばっかり言っているから、道学者ふうに言っているから、侍が堕落する、つまり、修養主義とか修身主義はかえって堕落の表現だ、と言っています。(略)自分の堕落に対し自覚せず、統治が行われていないということを回避するものである、と。」 (藤田省三)

 〇このあたりは、最近の日本の国の教育者がらみの事件と照らし合わせて読める。 (さいかち亭主人コメント)

 「それでは、統治の回復にはどうすればいいかといったら、とにかく上役のご機嫌をとって、下役を叱り飛ばして、そんな役人世界のことをやっていては駄目なのであって、もっと下情に通じなければならないと言うわけです。」  
(藤田省三)

 〇これはいま潰れかけている東芝とか、実質的に一度つぶれた東電などの日本の大企業が、だいたいここでいうような「役人」社会になってしまった結果駄目になったのをみれば、よくわかる。みんなで朝礼をして、同じ標語を唱えて、という一体感を演出するというような、日本の会社によく見られる習慣が、事業がうまくいっている場合はいいのだけれども、悪くすると同調できないやつはだめな奴だという風潮を生んでしまって、結果的に異質な反対意見や疑問を言う者を排除する雰囲気を醸成してしまう。その結果、悪しき「役人」社会的な会社風土を強化する方向にそれが作用してしまって、会社が「役人」社会化したために滅びかけてしまう、というような望ましくない事態が生じてしまう。そこで必要だったのは、現実を正確に曇りのない目で見ることだったのだ。 (さいかち亭主人コメント)

「(略)中国の禹というのは治水事業をやった昔の伝説上の王様ですね、禹ほどの名人だって、治水するのに川筋を知らなければ、川筋がなければ治水なんか出来やしないわけで、碁盤に目があるように治水するためには川筋が必要だ、と、それと同じことだと言う。制度を根本的に立て替えなければ、統治、即ちこの社会状態を、社会問題を解決することは出来ないのであると言うわけです。統治というのは、別に内閣を取りまとめて、総務会や内閣を作ったりすることなんかではなくて、統治とは社会問題を解決することだという観点が、徂徠にはあるということがわかりますよね。」 (藤田省三)

 〇現代の「川筋」はどこにあるか。以下は、私の考えだが、徂徠の言うような、根本的な制度の「立て替え」のためには、要するに地方に財政の主導権を手渡し、地方の経済的な裁量権を拡大して、中央の自由にできる金の額を減らすこと、見てくれの、実はけっこう紐付きの「地方交付税」などのあり方を抜本的に見直すというような、大胆な政策の改編を行わなければ、もう日本全体が立ちゆかなくなっている。
 そうやって根本的な「内需」拡大策をとらなければ、どの道ジリ貧になって首都集中、地方の衰退・縮減ということは避けられない。
 若い人の地方移住を促すとかなんとかいう小手先の手法を弄しているだけではだめなのであって、根本的に地方に資財の動かし方の主導権を預けなさい、ということだ。それができないから、財務省をはじめとして、中央の「役人」は、これこそ最大の「抵抗勢力」となってしまっている。
 しかし、ここは中央も地方もニコニコできるシステムを作るのに越したことはない。「天下り役人」が左うちわではなくて、一心不乱になって働けるような現場を作る事、そういう「制度」をうまく立ち上げることができれば、かえって国全体の知恵の血液がうまくめぐるようになるのではないかと私は思う。 (さいかち亭主人コメント)

無限の示唆に富んだ本書を、ぜひみなさんも手に取ってみたらよろしいかと存じます。

※ 追記。 今日8月24日の新聞を見ていたら、今後地方の高齢者の持っている金融資産が、相続者の多くが大都市に住むために東京などに移動してしまい、ますます地方の金融資産が減って行くという予測が出ていた。いま『トリノの奇跡』という本を読んでいるのだが、フィアットが撤退したトリノが魅力ある都市として再生する条件のひとつとして、EUが投下した大量の資金がもとになっているということが書かれていた。地方都市を生かしもし、殺しもするのは、やはり資金なのであり、それが減っていくようでは地域経済の活性化なんておぼつかない。

自作紹介

2017年08月18日 | 現代短歌 文学 文化
考えてみれば、自分の短歌作品をこのブログに載せたことがなかった。
ここ二年程の歌の中から抄出する。


バラードしかかからぬ酒場に富士山のうしろの雲がのしかかり来る

『泥鰌庵閑話』読みつつ思ふ このところ減退したるものは何なる

妄想をモウゾウと訓み大き蛇山めぐりする里に佇む

里の女あかり持ち来るしののめの胸苦しきまで雲うねる見ゆ

大島が今日は見えたり大島は苦しむひとを常になだむる

監視され生きるのが楽 アイドルの声に包まれ眠るのが 好き?

猫の眼にカメラを仕込み女主人たとへば上戸彩を毎日見るにや

武器輸出解禁したり軽々と国是を捨つる動物(アニマル)の国

南沙諸島の埋め立てにより減る稚魚の膨大な影 ネットを覆ふ

文明史の真実なれば土地と水と荒れたる国は早晩ほろぶ







田丸まひる『ピース降る』

2017年08月13日 | 現代短歌 文学 文化
 田丸まひるのこの一冊は、人のこころの痛みをことばでくるみ、丁寧に包み上げて、そっと月影のさす棚の上にひろげているかのような作品集だ。この繊細な詩の輝かしさを前にして、私は読みながら確かな手ごたえを感じている。五月末にこの本が出たあと、すぐにコメントを出せば良かったのだけれども、ぱっと見ていいのはわかっているから、ゆっくり何か書いてみようと思ううちに、お盆になってしまった。装丁もいいし、構成も洗練されている。

 迎え火をたくことを思っていたせいか、母や叔父が出て来る夢から目覚めて、今朝私が思ったことは、ロスト・ジェネレーションと呼ばれた世代以降の日本の若い人たちは、それ以前の海外の文化・芸術から多大な影響を受けて、そこから養分を得ながら表現活動をして来た戦後世代(例をあげると、田村隆一とエリュアールの詩、中上健次とフォークナーやジャズ、寺山修司とフェリーニの映画、塚本邦雄とフランス文化、大江健三郎と何々というように、対になる一覧表ができる。)とは、根本的に立脚点が異なっているのだということである。語弊があるかもしれないが、前の世代の表現には、「もどき」の要素が常にあった。その分教養もあったのだけれども、あこがれの存在は常に海外にあって、どこかでそれをなぞることに快感を感じていた。そういう要素は、今の若い人たちの表現にはあまり感じられない。

 つまり、彼らの言葉は自生のもので、それなりに社会的に成熟をとげてきた戦後日本の中産階級的な社会文化の自壊する過程で、挌闘しながらつかみ取られたものだということだ。そうして、現代短歌の分野においては、このジャンルの中で自前で作り出された詩的言語のぶつかり合う<場>が、インターネットという技術的なツールを得てのち、それがうまく機能して各々の短歌作者の相互の関心を結び付けることに成功した。その成果としての、現代の若い世代の目覚ましいほどの登場ということになっているのである。

 水原紫苑が、直近の「現代短歌新聞」のインタヴューで語っているような事態、最近の若いひとたちの作品がすごいので、それに私も刺激された、という言葉が端的に示していることは、以上に述べたような背景を持っているのである。

 田丸まひるは、精神科医として現代の<こころの危機>の突端にいる。このことを織り込みながら作品集を読んだ方が理解がすすむということはある。でも、ここで強調しておきたいことは、そこで得た経験が本書においては十分に詩的に昇華されて表現されており、素材の生の衝迫力に支配されていないということだ。作品の持つ衝撃は、あくまでも作品の言葉から来る。この一冊は、相聞歌と作者の職業詠と言っていい性格の歌が混在する歌集なのだけれども、危機の現場から魂の詩的なレポートを届けているという点で、得難い真実性・リアルさを持っている。

 医師の歌というと、私の身近には重厚な思索派の歌人の渡辺良がいて、さらにその先には岡井隆の作品があって、これを田丸の歌と対照して読んでみたら、それなりにおもしろい論になるとは思うのだけれど、それぞれの世代には、それぞれの世代の課題があるのだ。一冊の歌集のなかで、田丸の世代の課題に向き合って読まれた歌はどれなのか、という観点からみた時に、やはり私の批評や読みは鈍るはずである。それは自分の仲間のもう少し共感力が高いひとたちに任せたいと思う。それで、私は定期的に読書会を行うことにして、私は私の興味の赴くままに語ればいいではないか、というような位置どりでいる。そろそろ作品の方にはいろう。

巻頭の六べージほど、特に何とも思わなかった。それが次の「可愛くて申し訳ない」の一連から、頭が慣れたというか、一気に引きずり込まれていく。この小題には、瀬戸夏子への挨拶があるかもしれない。一冊全体のなかにそういう要素が感じられる歌が散らばっているかとは思うが、私はそこのところは丁寧にトレースできる自信がない。こういうところは、現代における仲間同士の本歌取りと言っていいかもしれない。

こころには水際があり言葉にも踵があって、手紙は届く

脱ぎ捨てるものが足りない天井が鏡の部屋に逃げ込んだのに

 二首とも、「こころ」を詠んだ歌なのだ。そういう点を私は職業詠として読めると思う。

それなりのほどよい孤独ひとつずつふたりの夜の釦を外す

 二人の恋人たちがはだかになる場面だが、肉体と「こころ」の両方を重ね合わせながら「着衣」を脱ぐという、比喩の言葉のつなげ方が絶妙である。「ふたりの夜の釦」は、現代の掛詞であろう。

祈りとは家族映画に怯むときゆびのすき間に挟まれるゆび

雨は檻、雨はゆりかご 寒がりのきみをこの世にとどめるための

言い訳のところどころの関節が軋むつめたい夜のブランコ

 私が田丸まひるの歌に共感できるのは、比喩の材料となるものが、「夜のブランコ」や「ゆびのすき間に挟まれるゆび」というような確かな物としての手触りを持っているせいがあるだろう。心理的なものを扱う時に確固とした物体を持って来ることによって、イメージが焦点を持つ。

ほろほろと生き延びてきて風を抱くきみの感情のすべてが好きだ

 これに続く、詩とともに構成されている「あすを生きるための歌」の一連がいい。リストカットのある患者にむけて捧げた一連だ。生き難さに痛切に向き合うことの意味が、どきどきする心臓の鼓動となって、こちらに伝わってくる。

傷痕は表皮に残るだけというきみのたましいが終えるパレード

また明日を生きておいでよポケットのカッターナイフ光らせながら

 「ポケットのカッターナイフ」を「捨てよ」ではない。あくまでも「光らせながら」なのだ。これは感傷的な傍観者の立場ではない。ぎりぎりのところで相手を受け入れながら、危機の稜線に精神を均衡させる冷厳な目が、言い当てたこころの真実の<現前>の詩なのだ。

明け方のひとさし指はパン屑をぬぐい祈りの言葉をつづる

半年は死ねないように生き延びるために予定を書く細いペン

星ひとつ滅びゆく音、プルタブをやさしく開けてくれる深爪

こなごなだ。でも見えない。こころが硝子じゃなくてよかった。

ひとつまみの塩を小鍋に振るきみは冬に見つからないで生きてね

 ここでは、現代の若者の歌に共通するインフレ気味の修辞が、うまく事態の深刻さと調和していて、生き難いということの内実と修辞が支え合う関係にある。そこが脆弱ではないから、表紙の秀抜な絵のように、比喩の天使が羽根をはばたかせることができるのである。日本の文化の現在の到達点を示すものとして現代短歌が存在することを、この一冊は身をもって示している。    
  
※朝方に書いて、午後にまた文章を手直した。それにしても、こんな時代がやって来るなんて、私は夢にも思っていなかったのだ。

『桂園一枝講義』口訳 310-315

2017年08月12日 | 桂園一枝講義口訳
310
ふじの根(※嶺の当て字)を木の間木の間にかへりみて松のかげふむ浮島がはら
五五八 ふじのねを木間(このま)木間にかへり見て松のかげふむ浮しまが原 文政元年

□これは「中空」にあるなり。うたらしきのは、茲にのせるなり。
「浮島がはら」、原の駅の處なり。
○これは「中空」にあるのだ。歌らしい(出来のも)のは、ここに載せたのだ。
「浮島がはら」は、原の駅の場所である。

311
箱根山夕ゐるくもにやどからんふもとはとほし関はとざしぬ
五五九 箱根山夕(ゆふ)ゐる雲にやどからむふもとは遠し関はとざしぬ 文化二年 初句 イザサラバ

□此れは題詠「関路雲」の歌なり。少し「関路雲」にぴたりとせぬ故旅行の部へ入れたり。
「夕ゐる雲」は、夕べにしづまりたなびく故にいふなり。此の歌、旅人の難儀の体をよむなり。箱根は里とも云へり。大山の関でなければ、いはれぬなり。さて「宿をかる」といふことは、昔より明説なきなり。宿といふことをとくと会得すべし。
「や」は家なり。「と」は中間、空穴の名なり。「門」を「かど」といふは、「外(ルビ、そと)」の「と」也。通ふためにあけてある、ぬけてある処なり。明石のせと、淡路のせとなどは、間がせまきなり。港は水の流れ出づる海と川との境の名なり。「と」は物に行き当る詞なり。とどろく物どうし行きあたるなり。とんとんとするも行きあたるなり。
奈良の末より家のことをも「やど」といふことになりたり。「万葉」では戸口の事でないとわからぬなり。時代によるなり。「戸」は「口」なれども、家一軒を一戸といふが如し。
「万葉」に「やどの梅の花」「やどの呉竹」とあるは、戸口のところをさすなり。「やど」、「万葉」、「屋前」「戸前」とかけり。即ち今の庭前の類なり。
「やど」外にあるなり。家の前ならば庭前なり。それ故「万葉」などには「やどの庭」とつづくことは決してなきなり。今のみやこよりして「わが宿の庭白妙に雪」云々と貫之仰せられたり。段々に転ずるなり。それ故同時代でも土地によりては早くかはるところ(※ことろ、は誤植)とおそきとの差別あるなり。それは書にのこりたるだけは知らるるなり。
家持の歌に、わが宿に鷹をすゑる、とあり。家持の時分、半は今の京に入るなり。「やど」といはるるは、家居のことなり。
又「我が宿のすだれ動かし秋の風吹く」とあるは、家持よりも前とみゆるなり。いやしけれども家持と同様に「古今」に出せり。
さて「やどり」は宿入りなりや。「や」の「戸」に入るなり。
旅をすればいづくぞに「やどり」をせねばならぬなり。それ故旅ねすることを「やどり」となりたり。旅の詞のやうになりたり。ほんまは旅には限らねども旅のやうになるなり。「やどる」といふは、宿かるわけになるなり。

○これは題詠「関路雲」の歌である。少し「関路雲」にぴたりとしないものだから、旅行の部へ入れた。
「夕ゐる雲」は、夕べに鎮まってたなびくので(そう)言うのである。この歌は、旅人の難儀の様子を詠んでいるのだ。箱根は里とも言った。大きな山の関でなければ、(そのようには)言うことができないのである。さて「宿をかる」ということは、昔からはっきりとした説がないのである。宿ということをよくよく会得するがいい。
「や」は家である。「と」は中間、空穴の呼び名である。「門」を「かど」というのは、「外(ルビ、そと)」の「と」である。通うためにあけてある、ぬけてある処である。「明石のせと」、「淡路のせと」などは、間がせまいのである。港は水の流れ出る海と川との境の名だ。「と」は物に行き当る詞である。とどろく物どうしが行き当たるのだ。とんとんと(音が)するのも行き当たる(様子を言ったもので)ある。
奈良(朝)の末(の頃)から家のことをも「やど」と言うことになった。「万葉」では、戸口の事でないとわからないのだ。時代によるのである。「戸」は「口」なれども、家一軒を一戸と言うようなものだ。
「万葉」に「やどの梅の花」「やどの呉竹」とあるのは、戸口のところをさすのだ。「やど」は、「万葉」に「屋前」「戸前」と書いている。すなわち今の庭前の類である。
「やど」は外にあるのだ。家の前ならば庭前である。それ故「万葉」などには「やどの庭」とつづくことは決してないのである。今のみやこ(平安京の頃)から「わが宿の庭白妙に雪」云々と貫之がおっしゃった。段々に(意味が)転じてきたのである。それだから同時代でも土地によっては、早く(意味が)変わるところ(※ことろ、は誤植)と遅いのとの差別があるのである。それは書物に残っているものだけは知られるのである。
家持の歌に、わが宿に鷹をすゑる、とある。家持の時分に、なかばが今の京(の意味)に入るのだ。(ここで)「やど」と言われているのは、家居のことである。
又「我が宿のすだれ動かし秋の風吹く」とあるのは、家持よりも前とみえるのである。歌格が低いけれども家持と同様に「古今」に出ている。
さて「やどり」は宿入りであろうか。「や」の「戸」に入るなり。
旅をすればどこかに「やどり」をしなければならないのである。それだから旅寝をすることを「やどり」と(言うように)なったのだ。旅の詞のようになった。本当は旅には限らないけれども旅のようになるのだ。「やどる」と言うのは、宿を借りることになるのだ。

※「やかたをの-たかをてにすゑ-みしまのに-からぬひまねく-つきぞへにける」大伴家持四〇三六。
※「きみまつと-あがこひをれば-わがやどの-すだれうごかし-秋の風ふく」額田王「万葉集」四九一。

312
むさし野のはてのたま山たまたまに向ふたかねのめづらしきかな
五六〇 むさしのゝはての玉山(たまやま)たまたまに向ふたかねのめづらしきかな 文化十五年 二句目 玉ノ玉山

□むさしの国に山はなきなり。西に向へば富士が真白にみゆるなり。東にむかへば常陸の筑波山が真黒にみゆるなり。玉山、玉川のあたりの山なり。至りて遠きなり。
○むさしの国に山はないのだ。西に向えば富士が真白にみえる。東にむかえば常陸の筑波山が真黒にみえるのである。「玉山」は、玉川のあたりの山である。至って遠いのである。

313
津の国にありときゝつる芥川まことはきよきながれなりけり
五六一 津国(つのくに)にありときゝつる芥川(あくたがは)まことは清き流れなりけり

□此れは芥川にやどりたる時の歌なり。
○これは芥川に泊まった時の歌だ。

314
夕附日いまはとしづむ波の上にあらはれそむるあはぢしま山
五六二 夕附日いまはとしづむ波の上にあらはれそむるあはぢしま山 文政五年

□実景を見ればたれもわかるなり。住吉にて貝拾ひたる時のうたなり。日落ちかかりてまだ入らぬさきは、霞と日光とでとんと見えぬなり。日おちてしづむとまぶき(ママ)ことなきゆゑ、その時淡路島がりんと見ゆるなり。

○実景を見れば誰もがわかるのだ。住吉で貝を拾った時の歌である。日が落ちかかってまだ入らない先は、霞と日光とでまったく見えないのだ。日が落ちて沈むと眩しいことがないので、その時に淡路島がりんとして(くっきり)見えるのである。

315
鷗とぶちぬわに立てる濱市のこゑうらなみにかよひけるかな
五六三 鷗とぶちぬわに立てる濱市(はまいち)の聲うら浪にかよひけるかな 文化三年

□いづみに行きてよめり。「ちぬわ」、ちぬの海といへり。濱市、大市なり。そこに魚荷を皆持つとるなり。
「鷗とぶ」、肴をとり食ふつもりか、ことの外かもめが集るなり。いまのかも川、鳶があつまるやうなるものなり。
「鷗飛ぶ」、といふ詞もなけれども、ここは飛びたるが実景なり。又随分いうてよき詞なり。
○和泉に行って詠んだ。「ちぬわ」は、茅渟海(ちぬのうみ)と言った。「濱市」は、大市である。そこに魚荷を皆が持ち集うのである。
「鷗とぶ」は、肴を取って食うつもりか、格別にかもめが集まるのである。いまのかも川に、鳶があつまるようなものである。
「鷗飛ぶ」、という詞(歌語)もないけれども、ここは飛んでいるのが実景である。又随分(そのように)言ってもよい詞である。

※以上。このあとの「恋歌」「雑歌」「雑躰」についての講義はない。

小索引 番号は通し番号

仁斎 伊藤仁斎 57 76
蘆庵 小沢蘆庵 62
真淵 賀茂真淵 39 279
黒岩一郎 23 206 209
『桂園遺稿』 4 7 284
契沖 119 158
六帖 『古今和歌六帖』 (8 22 28 90) 117 139 149 186 230 281
正義 『古今和歌集正義』 25 69 86 106 116
土佐 『土佐日記』 165 243 307
『新学異見』 134
宣長 本居宣長 12 19 39 78 96 138 156
山本嘉将 1 62 69 191

後記 
 景樹研究の一次資料でありながら、句読点を付したテキストも現代語訳もなかった。こみいった語釈や談義を、濁点も括弧もないテキストで読む手間と苦痛は、ちょっと言いようもないものがあった。たとえば「やは家なりとは中間空穴の名なり門をかとといふは外(そと)のと也通ふためにあけてあるぬけてある処なり」というような文章を初見ですらすら読むには相当な訓練が必要だし、そもそも時間がかかって仕方がない。それで自分で何とか起こしてみようと思ったのが、六年前にこの仕事を始めたきっかけである。当初は慣れなくて苦しんだが、だんだん景樹の話し癖に慣れて来ると、仕事や休みの合間に隙を見つけては、ぼちぼち起こして文意を考えるのが楽しくなった。これも彌冨濱雄の仕事があったればこそである。また、正宗敦夫については、明治三十年代に景樹の歌を引きながら兄の正宗白鳥と楽しげにやりとりした手紙が残されている。この作業を通して私なりに大いにリスペクトをこめたつもりである。どなたか正宗敦夫の歌集を編まないものか。

 訳は、随所で談話の筋がはっきりするように言葉を補ってみた。おかげで景樹の歌の構造や発想法がよくわかった気がする。言及されている人物や典籍についての注は、まだ補う必要があるが、ともかく一度まとまったかたちのものをここに提出しておきたい。

※なお、ここで得られた所見は、今年度後半に和歌文学会で発表する予定である。見直しをして簡単な冊子にまとめようと思うが、ここまでで何か気付かれたことがあればメール等で御批正を願いたい。

由比の歌 香川景樹『桂園一枝』より

2017年08月12日 | 桂園一枝講義口訳
由比の歌。ここだけ分ける。

309
今宵もやまろねの紐をゆひのはま打とけがたき波のおとかな
五五七 今宵もやまろねの紐をゆひの浜打(うち)とけがたき浪の音かな 以上同上 

□これも行きがけなり。帰りがけのは「中空日記」にあり。こゝには多く行きがけなり。「ゆひの濱」の気色は、「中空日記」に出せり。古くは「太刀の緒とけてぬる人の」、又「下紐を解く」などいふなり。「紐」といふも帯に同じものなり。

○これも行きがけである。帰りがけのは「中空日記」にある。ここに(載せたもの)は多く(の歌が)行きがけのものだ。「由比の濱」の景色は、「中空日記」に出した。古くは「太刀の緒とけてぬる人の」、又「下紐を解く」などと言うのである。「紐」と言うが(今の)帯と同じものである。

※「中空日記」より引く。奈良女子大学附属図書館のホームぺージより。
「蒲原 を過て由比にとまる、さて此家の庭さきなる、汀の松などよくよくみれば、くだりつるとき、あまり磯ぎはの波さわがしとてやどりあへず、立出しやど也、さるはかたはらいたくおもてぶせなるこゝちすれど、かれはえ見しらず
  契をやゆひの浜まつかへりきて立よる蔭のなみを見るかな
はたしてこよひねられねば、ひるみれどあかぬ田子の浦といひし、古人の心をも思ひ出られて、やをら起出でみるに、月はいづくよりさすらん、波の上ところどころおぼろに白く、見なれぬけしきもめづらしきものから、いとすごきこゝちすれば引たてゝ入ぬ、いよいよ目もあはず
  あらためていかに枕をゆひの浜春より高き浪のおとかな
十二日、朝とく出て由比川をわたり、寺尾の松原をすぎて(以下略)」。
 ※ 引用に当たり濁点を補った。
現代語訳。
「蒲原を過ぎて由比に泊まる。さてこの家の庭前にある、汀の松などをよくよく見ると、街道を下った時、あまり磯ぎわの波がさわがしいといって宿泊に堪えず、立ち出てしまった宿であった。そういうことだから心苦しいし面目ない気持がしたが、宿の者は覚えていないようであった。

  契を結んでいたためだろうか、戻ってきて同じ由比の浜の松の木陰に寄る波をみることだ。

はたしてこの晩は寝られないので、昼に見て飽きることのない田子の浦(に夜も又)と言った、古人の心も思い出されて、急に起き出してみると、月の光はどこからさすのだろう、波の上がところどころおぼろに白く、見なれない景色も珍しいけれども、とてもぞっとした心持ちになったのでいそいで部屋に入った。いよいよ眠れない。

  あらためてどんな旅寝の夢を結ぼうか、この春の由比の浜は高い浪の音がすることだ。

十二日、朝早く出て由比川をわたり、寺尾の松原をすぎて(以下略)」。





『桂園一枝講義』口訳 306-308

2017年08月12日 | 桂園一枝講義口訳
306
ましらなく杉の村立下に見ていくへのぼりぬすせのおほさか
五五四 ましらなく杉の村立(だち)下(した)に見て幾重(いくへ)のぼりぬすせの大坂

□此れ即ち本坂越なり。「すせの大坂」、ことの外大なる坂なり。幅ひろくして至りて高きなり。深き谷を両方に見おろすなり。杉の梢を下に見るなり。猿など大なるが居るなり。即ち晴天に通りたるなり。段々上に上り峠に至ると深く下になるなり。猿などもはるかに下に飛び居るなども見ゆるなり。すせの坂といふなり。大なる坂故に「大坂」と景樹いふなり。「くぜの大坂」など例にしていふなり。

○これはすなわち本坂越である。「すせの大坂」は、ことのほか大きい坂である。幅が広く至って高いのである。深い谷を両方に見おろすのだ。杉の梢を下に見る。猿など大きいのが居るのである。すなわち晴天に通ったのである。段々上にのぼって峠に至ると、(今度は)深く下りになるのである。猿などもはるかに下に飛び居る様子なども見えるのである。「すせの坂」というのだ。大きな坂であるので「大坂」と景樹は言うのである。「くぜの大坂」などを例にして(そう)言うのである。

※佳吟。

307
思ひやれ天の中川なかばきてたゆたふたびのこゝろぼそさを
五五五 思ひやれ天(あめ)の中河(なかがは)なかばきてたゆたふ旅の心ぼそさを

□此れは京より江戸に行く道にてよむなり。「天の中川」は、天龍川なり。此れをこゆる一町前に村ありて小なる杉橋あり。此が京と江戸との真振分となり。それ故天龍川が調度半分なり。
天龍川、急流にしてまことにたゆたふなり。心細く思ふほどのながれ渡りなり。早きこと矢を射るごとくなり。棹の「かへさを」を持つて居る位なり。恐ろしき所なり。「中空日記」にも「再うたふ」と出せり。「たゆたふ旅」とかかるなり。それは舟の縁語なり。

○これは京から江戸に行く道で詠んだのだ。「天の中川」は、天龍川である。これを超える一町前に村があって小さな杉橋がある。これが京と江戸との真振分(本当の真ん中)であるという。それだから天龍川がちょうど半分なのである。
天龍川は、急流で本当に揺れ動いているのだ。心細く思うほどの流れ渡りである。早いことは矢を射るようだ。棹の「替え棹」を持って居る位である。恐ろしい所だ。「中空日記」にも「ふたたび歌う」といって出した。「たゆたふ旅」と掛かっているのだ。それは舟の縁語である。

※「中空日記」については、奈良女子大学附属図書館のホームぺージが便利。そこから引くと、「たらちねを思ふねざしの深かりし誠のはなは冬がれもせず。天龍川をわたる。さかまく流れいと早きに、さす棹弓に似て舟箭のごとし、思ひやれ天の中川なかばきてたゆたふ旅のこゝろぼそさを、となげきたる、春のこゝろも更に立かへりて、ふたゝびうたふめり。わたりはてゝ永田の松原をくるに、風はけしう吹て堪がたけれは、まづ浜松にやどりをもとむ。」とある。引用に当たり和歌に濁点を加えた。「中空日記」は「土佐日記」などの語り口を模している。本文中に置いてみると、景樹の即詠の非凡さがよくわかる。

308
沖つより夕こえく(「く」一字誤植)れば山松のこずゑにかゝるふじのしらゆき
五五六 沖津より夕越(ゆふこえ)くれば山松の梢にかゝるふじのしらゆき

□沖つを出でゝほどなくさつた峠にかゝるなり。実景なり。見る人は知るべし。夕べでなくともよけれども、調度夕べなりしなり。また夕べの方、妙(たへ)なり。
○沖つ(興津)を出て程なく薩埵峠にかかるのである。実景だ。見る人は知っているだろう。夕べでなくともよいのだけれども、ちょうど夕べであったのだ。また夕べの方が、霊妙だ。


気賀の関所の歌 香川景樹『桂園一枝』より

2017年08月08日 | 桂園一枝講義口訳
気賀の関の歌である。ここだけ分ける。

305
ことなくて気賀の関だにゆるせしを何を見付のさとといふらん
五五三 ことなくて気賀(けが)の関だにゆるせしを何を見附(みつけ)の里といふらん 文化元年 「袖くらべ」の内 初句、事なくモ

□此の以下雑なり。江戸に行きたる時、桑名荒井など船をきらひてわたらず。本坂越をしたるなり。其の時いなさ細江をわたりし也。此の本坂越をする時、けがの関を越ゆるなり。もとの本街道へ出ると、見付の里なり。何事もなく関守の處を通りて来たるに、何を見付けたぞといふなり。「事」といへば、いつもよからぬ事をいふなり。それ故「事なくて」といへば無難といふことなり。
○これ以後は雑の歌である。江戸に行った時、桑名、荒井などは船をきらって渡らなかった。本坂(の峠)越をしたのである。その時いなさ細江をわたったのだ。この本坂越をする時、けがの関を越えるのである。もとの本街道へ出ると、見付の里である。何事もなく関守の所を通って来たが、何を「見付け」たのかと言うのである。「事」といえば、いつもよくない出来事を言うのである。それだから「事なくて」と言うと無難ということになるのである。
  
※今年のNHK大河ドラマゆかりの地、気賀(※当時は「けが」と読んだ)をうたった香川景樹の俳諧歌である。まさに即興的な「雑」の歌で、景樹はこれに長じていた。