さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

南木佳士『医学生』

2016年07月31日 | 現代小説
 読みおえて、ほのぼのとした気分になった。1993年刊でカバー装画は、舟越桂。それだけでも捜してみる価値はあるかもしれない。本の背の部分に文藝春秋70周年と印刷されている。南木佳士には、岩波新書で若月俊一の伝記を書いたものがある。

私はここ数年、看護医療系の学生の小論文指導をしているのだが、その際には若月のもとで活動していた鎌田實の文章を必ず読ませて、長野県で起きたことの意味を考えさせている。若月俊一に興味を抱いて、わざわざその懐に飛び込んで行ったという事からだけでも、南木佳士は相当の変わり種だろう。あとは、そういう人間に対する好奇心の持ち方がいかにも小説家の資質を感じさせる。

南木佳士がどんな医師を理想としているかは、この本を読めばわかる。作者は医師を志望する学生たちにこれを読んでほしいと思って書いたのではないかと思う。小説の前半は、医学部の生活のドキュメントと言えなくもないのである。養老孟の本でしばしば話題になる人体解剖というのものがどういうものか、多少知る事ができた。

また、医師を志望するのでなくても、第一志望に受からなかったり、自分の目標を見出せなかったりして悩んでいる若い人たちに、学生生活というものの持っている意味を考えてほしいと思って、作者はこの小説を書いたのではないかとも思う。そういう意味では、この小説は、南木佳士なりの「ビルドゥングス・ロマン」である。

登場人物のうちの一人が、雪合戦の最中に三階から落下して積もった雪のために命拾いする話は、たまらなくおかしい。それを聞いた助手が黒板に加速度の計算をしてから教授に報告に行くという話も、この小説の語りがカリカチュアライズされたものだということを意識させる。あまり真剣に読みすぎてはいけないのである。

失恋、望まぬ結婚、誰にも聞いてもらえない不遇の感覚。いいではないか。第二志望、大いに結構。そこで自分の道を見つけていけばいいではないか。世間には、医学部系の志願で挫折する人も多い。この小説の等身大の自分の人生の道を見つけなさいよ、という作者の暖かいメッセージは、等しく読者の心に届くことだろうと私は思う。 

篠原勝之『骨風』

2016年07月27日 | 現代小説
 「毎日」の今週の本棚で紹介されているのを見て、読みたいと思いながらそのままになっていたのだが、先日古新聞を整理していたら著者の顔写真が載っている記事が出てきた。

それで、藤沢のジュンク堂に行って、現代文学の棚のサ行のところでこの本を見つけて、すぐに帰りの電車のなかで読み始めた。書かれている内容は、どれも懐かしい。「ゲージツ」に憑かれて生きてきた人間の、自由と引き換えに背負わなければならなかった苦難が、淡々と語られる。読み進めるうちに深沢七郎の名前が出て来た時に、ああそうか、と思った。私は篠原勝之の書いたものを読むのは、これがはじめてである。

 常日頃、神経過敏で流行に敏感な人たちとつきあっていると、こういう作品の存在を無条件に肯定したくなる。私の知人で際限のない疑心暗鬼と被害妄想にとらわれてしまっている不幸な方がいるが、そういう人には、篠原さんや、篠原さんの師である深沢七郎の書いたものを読んでみたらどうですか、と言ってあげたい。よくわからないが、心が休まるのである。たとえば南伸坊が置いて帰った二十三年も生きた黒猫の話。三日間抱き続けた猫の心臓の鼓動が停まって、その体はだんだん冷たくなり、

「前肢は伸びをするように前に、後ろ肢は思いっきり後ろへと伸びた。(略)天翔る格好の厳かなオブジェだった。」

という文章を読んで、無私の充実と無限のやさしさとが感じられたのである。われわれが生きていることの無意味を掬い上げ、また救う言葉の確かな手触りがあるのである。

玉城徹歌集『馬の首』の一首

2016年07月23日 | 現代短歌

いづこにも貧しき路がよこたはり神の遊びのごとく白梅        玉城 徹

 これは、現代の詩歌に通じている人にはよく知られた歌集巻頭の歌であるが、「いづこにも貧しき路がよこたはり」という句のあとには、散文だと「その道を私が歩いてゆくと、目に入ってくるのは…」にあたる言葉が省略されている。つづく「神の遊びのごとく白梅」という句は、上句の情景描写を補うものであるけれども、読んだ印象は、いきなり二物衝撃に近い形で、ぬっと「白梅」というモノが突き出されたような驚きをもって感受される。歩行する作者とともに、読者も白梅に急迫されるのである。

 この接合の仕方は、俳諧における連句の技法を用いたものである。むろん一首の眼目は、「神の遊びのごとく白梅」という大胆秀抜な直喩にある。「白梅」そのものが、神の遊ぶ姿のように見えるよ、と言って白梅の美しさをたたえているとしたら、木の精などが登場する能の世界への連想をかすかに牽いている作品と言えるだろうか。また別解では、神が遊びとして「白梅」の花をこの地上の随所に咲かせているよ、という大きな見立ての歌のようにも読むことができる。そうすると、これは伝統的な和歌の世界の発想の仕方に近づくことになる。

 しかし、「左岸の会」の研究誌に示された新資料によって、これらの直喩を用いて作られた歌の多くが、「世界」と名付けられた一連の中にあったことが明らかになった。おそらくは、ハイデガーの実存哲学への濃厚な親炙のなかでこれらの作品は構想されていたのである。ハイデガーは、詩的な修辞を介して、言葉によって「世界」そのものと出会おうとするのが詩人の仕事だと言っている。作者は、自らを言葉の祭司と化して、この世界の真実で真正な生の時間の生ずる瞬間に出会わせるべく、一種の儀式として、短歌という定型詩の音楽的なリズムをもて扱っているのである。

 そこでは生活や世俗の出来事の諸事断片は、いったん「生」の事象の総体を構成する緒要素としてばらばらにされ、一定の美学の統率する織物として意識的に編集し直されるのである。歌集『馬の首』は、そのような徹頭徹尾観念的な<美>への没入のありようを、自ら解析しつつ、現実の世界の断片の中から歌(詩)が言葉によって生成する無垢なる空間を幻視しようとする試みであったと言えるかもしれない。日本語の「短歌型式」によってそれが可能だと信じたところに、玉城徹の大野心があったとも言えようか。
  ※「左岸の会」の研究誌に掲載した文章を大幅に改稿して示した。


綾部光芳歌集『水泉』 2

2016年07月17日 | 現代短歌

冬の身もこころも固くなるならむもの言ひしのち呆然と立つ
ほんたうに敵となるのか幾人か遠巻きにしてひそひそ話す
註文の来ざるを言ひゐし方代のことばに実感ありしあのとき
弄翰を自ら審査し大賞と為したる顧問の書家は罷めたり
  ※「弄翰」に「ろうかん」と振り仮名。あまり出来の良くない書、というほどの意味。

 これは人事の歌である。歌壇や結社、それだけではなく地域の文化的な活動に携わっていると、時には種々の軋轢が生ずることがある。言ってしまってからでは遅いのであるが、 文句を言った相手は以後こちらを敵とみなして向かってくる。こちらは一人、あちらは徒党を組んで多くの人を率いている。つらいことだ。でも、それが何であろうか。つぎの歌のように、信じられる師があれば、われわれはそうした日常の煩悶を乗り越えられる。

<好き歌は明晰 清韻 生命ぞ邃き>と喜典先生しみじみ言はる
  ※「好」に「よ」、「邃」に「ふか」と振り仮名。

ここに言われている橋本喜典の歌自体が、まさに「清韻」であり、泉のようないのちの湧きあがりが感じられる高雅なものである。本集のタイトルである「水泉」は、おそらく作者が幼時から親しんだ飯能や秩父の田野の湧水のことであり、また、いまここに自分が生かされている、そのような生命の源に触れんとする願いを含意として持つのでもあるだろう。 
 しかし、作者は自他への批評的なまなざしを忘れはしない。

目眩ましの言葉ならむや減染と言ふべきところを除染と言ふを
誰も彼も歌ひしのちに一斉に潮引く行為かつてありにき
衛ぎ得ずメルトダウンになりたるを想定外で済まさうとする
  ※「衛」に「ふせ」と振り仮名。「衛」の元の字は「行」の中が「韋」ではなく「吾」。
放射線のとびかひゐたる過ぐる日よ南から北へと風吹きやまず

 今年になって明らかになったように、社長の指示で東電は「メルトダウン」という事実認識を、わかっていながらあえて公表していなかった。当時の交通機関は、計画停電の影響で一部は歩いたり自転車を利用したりしなければならない状況であった。風に吹きさらされながら、私も通学の学生さんたちの背中を見ながら、朝晩停まっている区間を歩いた記憶がある。だから、このことは歌い残しておかなければならないのだ。

忽然と姿消しゆく特権を八十歳代は手に入れにけり
いまもしも憶良がをれば最新の医療を受けて蘇らむか
アンドロイドばかりの歌壇さうなれば歌集をつくるヒトゐなくなる

 これをみると、なかなかしゃれっ気のある作者であることがわかるだろう。作者からすると、もしかしたらこの私も「アンドロイド」の徒かもしれないが、「ヒト」ならば生老病死にまつわる諸苦からのがれられないわけで、そこは楽観している。最後に秩父の歌を引いてみたい。

あく山と呼ばれてきたる武甲山湧きたつ霧は疵隠しゆく
切つ先の鋭き刃にてざつくりと斬りたるごとし秩父の溪は
武甲嶺の真上よりせり出してゐる雲の眩しきまでに雷抱へをり


綾部光芳歌集『水泉』 1

2016年07月17日 | 現代短歌
 飯能に生れ育ち、五年前から秩父に越して暮らしているという作者の第七歌集。緑の豊かなところに隠棲しているかたちだが、世間の出来事や、自他の在り様を問う作者の言葉は、きりりと引き締まっていて、批評的な含蓄に富む。

旧居には思ひ出多しちちははもはらからも妻も住みてゐたりき
わがつひの日を思はむかいつぽんの椿を剪れば血噴く思ひす

「ちちはは」も「妻」も、もうこの世には居ない。転居にあたって遺愛の木を切ったのだろう。哀切な歌である。

たまものの新蕎麦の香をしみじみと味はひゆくにきみを想ふも
壮年と晩年の妻を想ふときそれぞれ滝のやうに響かふ
調子にはのるなと天よりこゑのあり妻の声かも目覚めてみれば
恋しきは手の届かざる地にをりて匂ひも届き来ざる晩秋

 決定的に失ってしまったあとでも、常にその人と対話をすることができるなら、その人はうしなわれていない。作者は、折々に「天よりこゑ」のようなものに触れているのだ。

錯乱に抑への効かぬもの言ひを自他痛め深き傷負はすなり

 これは私も身近の人から聞いたことがある場面なので、周囲の痛みはいかばかりかと思う。人はそう簡単に老いもせず、また死にもしない。話の通じなくなった相手とやりとりを重ねるごとに傷は深まるのである。つらいことだが、こうやって見つめて歌の格調のなかにつかみ、詠懐の詩とするのである。


岡井隆著「森鷗外の『沙羅の木』を読む日」

2016年07月16日 | 現代短歌 文学 文化
 このところ、岡井隆の近刊『森鷗外の『沙羅の木』を読む日』を毎日少しずつ読んでいる。何しろ明治時代の古い詩についての話だから、引用されている詩の内容が少しでも頭に入って来ないような時は、そこで読むのをやめて翌日にまわすことにしている。せっかくの岡井さんの本だから、急いで読むなんてもったいない。帰宅後の体をごろりと畳の上に横たえて、部屋の隅に積んである蒲団に頭をあずけながら、じわじわと読む。

鷗外の詩だけではなく、同時代の詩人の詩が引いて比較される。翻訳詩とは、新たな創作詩(のようなもの)である、というのが著者の一貫した主張である。いい、わるいを見分けながら、叙述は進む。それに歩調を合わせて、読者の方も自分の感性を調律してゆくのである。だから、すぐれた詩人の文章は、楽譜のようなものである。読む方がいい音を聴こうとしなければ、見ようによっては古色蒼然とした詩句は、砂を噛むようなものであろう。

批評の対象となっているのは、どれもが強い刺激のある詩ばかりではない。けれども、文語が苦手な読者にも十分に気をつかった、著者の丁寧で親切な叙述を通して伝えられるのは、ひとつひとつの言葉の響きに耳を傾け、比喩の効果や、言葉の矢が向かっている先を特定しながら読んでいくことの、愉楽である。読むことの純粋なよろこびである。


小林敬枝『私の水脈』(「こえ」第60号」)

2016年07月11日 | 現代短歌
酔っぱらって書いているうちに寝てしまって、意味不明の文章がアップされていたのに驚愕した。皆様にお詫び申し上げる。そのまま寝てしまったので、一日意味不明な文章が出てしまった。おまけに、この歌集について書いたのではない文章の一部がくっついていました。作者には、本当に申し訳ありませんでした。

 タイトルの「水脈」には、「みお」という振り仮名をつけている。私はこの方の歌を「こえ」の特集によって知った。久しぶりに、世間的にはあまり知られていないけれども、自分の目の高さでじっくりといい歌を作っている人がいるのだな、とうれしくなって取り上げたくなったのである。

言わざりし言葉も積みて無蓋車よ時の彼方へ去りてゆきたり
苦しみの砂礫をぬけて透きゆけるわれを流るるわが伏流水

 掲出歌には、何かすがすがしいものが感じられて、好感を抱いた。

おそらくはわが生のかぎりつかうらん角の薬匙ははつかにひかる   
  ※「生」に「よ」、「薬匙」に「やくひ」と振り仮名。 
営業をやめればただの大ガラス太陽に向かい隈なく拭けり

 仕事にかかわる歌がなかなかいい。


田井安曇歌集『山口村相聞』 改稿

2016年07月09日 | 現代短歌
 この本は、古書で買って積んであったものなのだが、ある時水に浸かってしまったのである。物置きとして借りている古い一部屋の二階の水のパイプが破裂して、不動産屋から電話が入り、見に行った時には何百冊かの本が駄目になっていた。それでも、あまり水をかぶっていなそうな本を車に積んで持ち帰り、夏だったので車(貨室の広いワゴン車である)に入れたまま乾燥させてみようと考えたのだが、やっぱり駄目で大半の本を廃棄した。それでも捨てなかった本のうちの一冊が、この歌集である。

はだかにて臥ているアダムイブ二人おのもおのもの沈黙に照る

 「臥ている」は、「ふしている」と読むか「ねている」と読むか。「おのもおのも」は「各々」を荘重に言った句法。沈黙している二人の姿が、苦々しい(にがにがしい、ですよ)思いを抱えて背中をそむけあう夫婦の姿を思わせる。もう一首、アダムとイブの歌があった。

アダムといいイヴといいあうまはだかのよろこび一つ天はゆるさず

 この後に絵画を詠んだ歌を配して韜晦しているが、歌の意味は、たぶん、好きになった女性がいたのだけれども、何もしないうちに別れてしまった、というような複雑な事実的な背景がありそうな気がする。一冊を読んでいると、ほとほと自分の身勝手に困惑し、われとわが行いに天を仰いであきれている男の姿が見えてくる。と言ってはみても、妻なる女性の目は厳しくて、そういう男を易々と許しはしないのであったか。作者の私生活に詳しい人ならいろいろと言いそうだが、私はそこを詮索する趣味はない。

念のために書いておくと、むろん上の歌が出ている一連では、キリスト教の厳しく<性>を抑圧したあり方を題材としているのである。けれども、繰り返しになるが、そういう事柄を通して、歌われているのは、作者自身の<性>にまつわる苦しみなのである。上の歌に続く作品は、次のようなものである。

感性をやわす<性>とぞ 童貞にあらぬ聖の宣いにける  
      ※「聖」に「ひじり」、「宣」に「のたま」と振り仮名。
大いなる乳房の女横たわり天使を描かざりしクールベ
      ※「女」に「おみな」と振り仮名。
西空の茜するころほのかなる<性>もちて天使の集い来れよ
人魚でなくてよかったのかどうか斯がなくば精神はもっと屹立するか
      ※「斯」に「し」と振り仮名。
くらやみの中の触覚のするどけれ女体男体という束のある
胸の辺の二つ隆起を子に属すものと教会ははやく決めにき

 半分だけ引いた。これだけだって相当に満たされず懊悩している気配は感じられるだろう。よって、私は最初に引いた「はだかにて臥ているアダムイブ二人おのもおのもの沈黙に照る」を、田井安曇の秀歌の一つとして称揚してみたいのである。



高橋睦郎歌集『待たな終末』

2016年07月03日 | 現代詩 短歌
 跋文のおわりに著者自らも言うように、終末感の濃い作品集である。日常についての詩が、そのまま「形而上」詩であるような詩をこころざした、と同じ文章にある。洋の東西の神話に出てくる語彙をふんだんに呼び込みながら、のびのびと平明にうたっている。その円熟した豊かな詩想の湧出には、畏敬の念を覚えるほどだ。 

 冒頭の一連には、早く父に死に別れ、母も家を出てしまって親族の家を転々とした幼年期が語られる。言葉を友として育ち、そこから詩人となる下地を作っていった著者のさびしい生い立ちを起点として、一巻は必然的に作者がこれまでに経めぐった読書と、思索と、旅の記憶を辿り直すものとなるのである。同時にそれと重ね合わせるように、宇宙全体、人類と生き物の総体を思う壮大な詩の屏風絵を、作者は我々の前に展開してみせる。

旅のむたうたひ捨てこし詩くさのさもあらばあれ旅は続けり  85  ※振り仮名。詩(うた)、「うたくさ」は名詞。引用にあたり、「詩」が脱字になっていました。訂正してお詫び申しあげます。

フロオラやファウナやいづれ慕はしき蔭細やけきフロオラをわれは 106  ※細(こま) 
あな世界終んぬとこそ立ちつくす身はすでにして鹽の柱か  138
世の終り見ゆる時代に盛年生きむ若き君らをわがいかにせむ  176 ※時代(ときよ)、盛年(さだ)

 これは誰も容易には真似できない独特の擬古的文体である。生あるものを愛してやまない詩人の晩年の思念を占めるものは暗い。けれども、その詩想を根底から支えている数々の神話や、ギリシアの詩、それから「聖書」の物語などの諸々のテキスト自体が、無限の明るさを持っていて、それらの光源に照らされるとき、詩は人智の持つあかるさに輝きながら、残されたこの一時を燃え続けようとするのである。

 詩の言葉が光を発することにより、漆黒の闇のなかに浮き上がる扉がある。著者自装とおぼしい一巻の装丁自体に、その思い・願いがこめられている。書物のかたちをとった詩碑が、『待たな終末』であるのだ。

井上法子歌集『永遠でないほうの火』 2

2016年07月03日 | 現代短歌
 承前。同じ一連を読んでゆく。

紺青のせかいの夢を翔けぬけるかわせみがゆめよりも青くて
翠雨ぬけてきみのほうから飛び立ってきたのだというこころに ここに
もう一度 のぞきこむこのまなうらに真っ青な羽ばかりうつるよ

 「かわせみ」は、恋人の暗喩として読む。また、瞬間に成立するするどい詩美というものの代名詞でもあろうか。同系色の絵の具を塗り重ねたような一首め。「紺青のせかいの夢」なのだから、<「世界」は「紺青」である>という「夢」を見ているのである。そこを翔けぬける「かわせみがゆめよりも青くて」なのだから、「夢」で見ていたよりも、さらに「かわせみ」は青かった、というのである。修辞のなかにある論理が強い歌だ。意味は、「かわせみ」の「恋人」と出会ったみたら、言い換えると「世界」の世界性にまともに立ち会ったみたら、私は強い感動にさらされたのだということだろう。

 三首めも修辞のうえでの論理性は、かなりきつくて、「新古今和歌集」の恋歌並みに理詰めである。「もう一度 のぞきこむ」の「のぞきこむ」と、「このまなうらに真っ青な羽ばかりうつるよ」の「このまなうら」は、「このまなうら」に両方から言葉が掛かっている。<青い色のかわせみを見ている私>の目の奥を、「もう一度 のぞきこむ」わけだから、何というか、自分で自分の目の奥をのぞいているような不思議な感じを受ける。こういう歌の骨法は、山中智恵子などから得たものだろうか。このあとも架空の相聞の相手との対話は続くのであるが、「真っ青な羽ばかり」目に見えるということのなかには、至高にして不毛である、という一つの詩美のあり方の含む問題がある。そこは、次の歌で上手に転調する。それに青の同系色の抒情歌というのは、読んでいる方も飽きるから。

ぼくたちのひたくれないの心臓をはべらせ薫風がやってくる
あかねさす瑞花を、春を見送って乗り遅れても拾える風だ
(ぼくは運命を信じない)たましいの約束だからきっと歌える

「瑞花」に「ずいか」と振り仮名がある。ここで読む方が少し眠くなっているのを起こすように「ぼくたちの」と持って来るあたり、「あかね」を出して転調してみせるあたりには、配列の妙を感じる。ただ、上の一首めの「ひたくれないの心臓」も「薫風がやってくる」も既成の詩語の通貨だから、「心臓をはべらせ」というように「はべらせ」でつなぐところがやや短歌的で、うまくまとまって見えるだけに、私はあまりほめたくないのだ。三首めの結句、「きっと歌える」で、これもうまくまとまっているのだが、もう少し刺激がほしいと、私などは思ってしまう。