さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

中津昌子『記憶の椅子』

2021年05月04日 | 現代短歌
 休みの日は雑用をすることが多くなる。庭木の枝を切ったり、手つかずのままになっていた本の整理や片付けをしたりしているうちに、積み上げた本の中から掘り出し物を見つけたりする。それで、また拡げて読み始めた本のうちの一冊は、中津昌子さんの歌集だ。
 短歌というのは、読んでいると、作品を介して、こちらの周囲の沈黙と作者の周囲の沈黙とが響き合うようなところがある。また、作品のなかにあって、うまく詩として掬い上げられた時間は、修辞の秀抜さや、選択された語構成の説得力の把持している質の高さのようなものに拠っているので、すぐれた作品ほどこちらの内側にある未知の感じかた、あるいは意識していなかった思考や感覚の使い方を認知させることができる。たとえば、

  ベランダに一段下がって出るときに時間揺れたり若き母おり

という巻末の歌。ベランダに出たのは自分だけれども、その一瞬に、かつてベランダに出て洗濯物か何かを干そうとしていた母の姿が、記憶としてよみがえる。その母の姿は若い頃の母であり、自分もその時間に戻っている。四句目の「時間揺れたり」というのは、足が一段下に降りるときの身体感覚で、その揺れが記憶を現在の時間に一度に引き寄せて、ありありと若い母が自分のなかによみがえっているということなのだ。

  鉢合わす牛車もなければぼうぼうとこのはつなつを立ち尽くしつつ

  かなしみの噴き出すような白躑躅 口はつぐんでいなければならぬ

 二首並んでいる。一首目はもちろん「源氏」の車争いを踏まえている。作者は京都の人だ。祇園祭では現実の牛車を見ることができる。

  夏さえやがて枯れてゆくからマラカイトグリーンに光る爪を並べて

  地響きのように花火の音がするビルの間を駆けぬけながら

  だんだんにとうめいになってゆく父がながき手のばし夕刊を取る

 激しすぎるものではないが、内側に抑えた情念をぐっと把持していて、それに対応する景色や事象をつかんだ時に、ぱっと手に取ってみせる。それが歌人だ。特に女性はそういうところが得意だ。「夏さえやがて枯れてゆくから」というのは、むろん自身の加齢を意識している。そこに「ビルの間を駆けぬけ」る「地響きのよう」な「花火の音が」聞こえる、というのは、存在の底に在るエロス的なもののほとばしりなのであって、そういう瞬時に自己を解放してくれる大きなものに、作者のこころは常にひらかれていると言ってよいだろう。

  たぐり寄せる時間の帯はたわみつつ糸杉が風が光がちらばる

  糸杉の花言葉は死 少年がかるがると朝の水たまり跳ぶ

 これはローマのカラカラ浴場やポンペイの壁画を見たりする旅の一連にあるが、気づいてみると作品集の全篇に「時間」についての歌が散りばめられている。この少年は、現実の少年であるとともに西脇詩のなかにでてくるような小年でもあるのだ。

  ねむれるだけねむりつづけて藻の色のふかみどりひく顔を起こせり

  死者なれば憚ることなく名を呼ぶに木賊は青くかたまりて立つ

 たいていの人間は、かなわぬ思いや果たせなかった願いを反芻しつつ、泥のように眠って後悔を忘れ、あらたに死者として目を覚ますというようなことを繰り返しているのだ、ということが、年をとるとわかってしまったりするので、私はこういう喪失感をのべた歌々に、いたく共感した。次に冴えた叙景の歌を引く。

  橋脚はさびしきものか朝の陽が裾をひろげて流れてゆけり

  徳利口のあたりにふわりと雲湧きぬ どこへでもゆけよおまへは好きに   

 擬人法はそうだと感じさせないぐらいの歌がよい。一首目は、光と影の映りかげんを絶妙にとらえている。二首目は熊野の旅の一連のなかにあるから、那智の滝の歌だろうと思うが、こういう外し方はなかなかない。

  母の死の内側なのか 足垂らすちいさな流れに水がゆらめく

  雪雲を吸い込む胸のひろやかにわたしのことはわたしがわすれる

 こういう歌は絵のイメージがみえれば、それでよい。私は、流れにむかって足を垂らしているのは、「私」が付き添っている母であると解釈する。歌集の後半は特に、老いた父母の時間についての歌が増えて来る。あらためて歌集のタイトルである「記憶の椅子」という言葉に注意を向けてみると、椅子はそこにすわっていた人の時間の総体である、夫や友人や、とりわけて老いたる父と母の生活時間の総量を引き受けて、淡々とそこにある。だから椅子は時間の容れ物だ。「わたしのことはわたしがわすれる」という事は、裏を返せば私の記憶の中に残っているものを私は決して手放さない、ということでもあるのであって、そういうふうに読めるというほどに私も歳をとったのだ。人生は空しくもなくもなくもない。

久保田登『手形足形』

2021年05月01日 | 現代短歌
 今日は大気が不安定で、夜の七時すぎになって何度目かの雷鳴が響く。午前中はずっと体が重いのを押して動き回っていたが、昼の三時過ぎには何だか体がだるくて、寝そべることにして、手元の本を取り出してめくっているうちに、何となく気が休まって、親しい気持が湧いてきたのが、本書である。

  湖の浮子のめぐりにしきりたつ波は浜まで至ることなし
   ※「浮子」に「ぶい」と振り仮名。

  愛恋といふ言葉明治期のものなりと辞書にありしを渚に思ふ

 たちまちに目を射るというような歌ではないのだけれども、ある年齢に達した人間の思うこと、諦念とか断念と言ってしまうと強すぎるが、それに近い、うっすらとした過去の時間の過ぎ去り感への存念のようなものが、全編を流れる気分として感じられる。

  閉校となりしは昭和四十年代潟分校もわが分校も
   ※「潟分校」に「かたぶんこう」と振り仮名。

  明け方の湖岸を照らす何の炎消えそうになりまた盛りあがる

  夜の更けに机の縁より現れてつくづくと我を見てゐる守宮
   ※「縁」ニ「ヘリ」ト振り仮名。

  雲の湧く辺り平野の北の果て父母の墓おぼろに見ゆる
   ※「父母」に「ちちはは」と振り仮名。

 著者は群馬県桐生市に生まれ、大学も群馬大学を出て長く地元で教職に従事したという。

  秩父より志賀坂峠を越えて来てなほ深き山の村に入りゆく

  風吹けばそぞろ小石が落ちて来る山の荒れ人の荒れとはかういふことか

  自信なく一生の過ぎむなどいふな燃え立つばかり庭の風樹は

  「苦しくとも生きましょう」とは添削に添へたる言葉誰のためのことば

 自分で読む人のたのしみというものがあるから、引用はこのぐらいにして、おしまいに一首。

  日々あかく膨らむ莟老木の枝垂れ桜がわが肩に触る

 集中には木俣修の歌碑が津波で流されなかったのを幸いに、有志の手でそれを移築する歌が出て来るが、

  児童らの手形足形ちりばめて泳ぐ鯉のぼり校舎の空を

 という歌からは、戦後ヒューマニズム、善意のひとたちの輪がいきいきと時代を彩っていた日本の国の一時代というものを、あらためて思い出させられたのだった。

 以下は私事を書くが、小学校一年生の私は、ラジオ・ドラマの「スーホーの馬」を絵にかき、その絵が外国に渡ったと聞かされた。児童画の国際交流というものがあったのだ。それから学校の体育館の舞台で、「たつのおとしご」の公演を見た。龍だったおかあさんの頭からすっぽりと龍のお面が外れると、きれいな女の人の顔があらわれた。あの不思議。子供の感性を育てようと、芸術による情緒教育を当時の川崎市の、末吉小学校だったが、そこの先生たちは取り組んでおられたのだろう。子供に残酷なものを見せるときには手続きがいる。そういうことを忘れた現在の業界のひとたちの酷薄な内容のアニメなど、私はまったく好きになれない。昭和三十年代生まれの感傷と言われてもかまわない。私よりもっと年上のひとたちの感覚によって、私などは育てられた。私はそのことを感謝している。

栗原信

2021年05月01日 | 美術・絵画
昨日はある雑誌を見て不愉快になったので、そうだ音楽でもかけよう、とスマホを取り出してハイドンのピアノ・ソナタをかける。Jean-Efflam Bavouzet の演奏である。

コロナで人と会うことが制限され、東京で開かれていた会合はほぼ壊滅した。ズームの会議にも何度か出席したが、ひとの言葉が、ただの情報になってしまうような気がする。これは私だけかもしれないが、何かやっていて、上の空のような感じがしてならないのである。語られていることがみんなフィクションになってしまっているような、実感のとぼしいものに感じられて空しい。だから、野菜をきざんだり、木の枝を切ったり、雑草を抜いたりしていると、そういう手を動かす仕事のありがたさを強く感じる。

 今日は連休初日だが、要するに普通の土曜日であることにかわりはない。起きてから買い物に行き、米とパスタを買ってきた。パスタを四人前茹でながら、朝食に昨晩のカレーの残りを一斤の六枚切りのパンを二枚焼いたのにつけて食べた。そのあとで実りはじめたトレイの苺に水をやり、バナナを一本食い、プチトマトを五、六個口に放り込んでから、空けていなかった部屋の雨戸をあけ、トイレに行き、昨日やってもらった水漏れの修理の結果、水道メーターが動いていないかどうかを外に出てメーターで目視確認した。それから壁に釘でフックを打ち付けて、大きいので壁に掛けておくほかない栗原信の油彩額を設置した。

栗原信は、茨城県の画家で、ペインティング・ナイフで描いた油彩の風景画に特徴がある。二紀会の会計などをつとめたという。市場価格は低く、絵は大きさや油彩、水彩の区別なく、どれも二万円から三万円台で取引されている。私のような貧乏美術愛好家でなかったら目を付けない絵だろう。ネットのオークションをみると、その二、三万円目当ての贋作も出ているようだ。私が購入したのは、藤田画廊のシールが破れかけた裏貼りの紙に貼ってあった「金閣」を描いた二十号で、写真でみると垢抜けない田舎臭いものに見えるのだが、実物は金閣という美そのものを形象化しようとする画家の虚心な意志と意欲が感じられるのである。

私はその前にもう一点、二十号の大きな「山門」というタイトルの絵を入手していたのだが、これは画家が六十二歳の時に描いたものである。つまりは今の私と同じような年齢の時の作品で、木立の奥の寺の山門らしき建物は、老いの時間と死の入口を形象化したもののように見える。目に見えるものを描いていながら、自分のなかにあるものを描くのだと画家は言っていたそうだから、具象画ではあるけれど、一種の象徴的な絵といってよいであろう。これは額のガラスがなくて、同じ茨城県出身の永瀬義郎の本で読んだ生のジャガイモを使用するやり方で画面を洗ってみたが、あまり汚れてはいなかった。いかにも地味な絵なのだけれど、後期印象派の大家の絵と並べても恥ずかしくないものだと私は考えている。