さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

秋山駿の長谷川泰子についての短文

2016年03月29日 | 現代短歌 文学 文化
 秋山駿の長谷川泰子についての短文が忘れがたい。最近は知らない
ひともいるのだろうと思って、ここに一節を引いておく。

 私は長谷川泰子さんに三度会った。

 一度目は、女の三つの生態を描く『眠れ蜜』という映画に、長谷川
泰子を主人公にした一話があり、彼女が熱海へ行く車中で信仰の話を
する、その聞き手の乗客の役が私に振られた。(略)

 振られた役は素直に演じたいと思うから、私は、まったく任意の単
なる乗客以上の者であろうとはしなかった。そこで、伊豆急の何とか
いう駅まで行ってロケをするのでほぼ半日以上一緒にいたわけだが、
文学の話なぞ一つもしなかった。ただ世間話をした。自分は潔癖症だ
ったから救世教の教えにとても素直になることができた、と長谷川さ
んが言ったときも、その「潔癖症」の内容に立ち入ることは止めた。
中原や小林の話が出てくるだろうと思ったからである。(略)

 茂樹さんの名付け親が、あの中原中也である。茂樹さんの存在は、
いつも漠然とだが私の気にかかっていた。明らかに中原中也の詩の
背後にある隠れた急所の一つだと、私は思っているからである。中原
は書簡集を見れば、遠い(※「遠い」に傍点あり、引用者注)「父親」
の役割を演じたがっているようである。してみれば、中原中也の詩に
はよく「子供」が出てくるが、その子供のイメージの祖型は、茂樹さ
んのところから発するのだ、と思われてならない。極端に誇張すると、
私には、中原中也の結婚と愛児誕生という行為そのものが、長谷川泰
子の行為の模倣といってはわるいが後追いの行為である、と、微かに
だが執拗に疑われるのである。(略)

 私は長谷川さんを見て、よかったと思った。或る無邪気さを深く持
っている人で、それは、彼女の生きる上での一種の勇気に支えられて
いる。その勇気を、可愛らしさとして表現しているのが、この人の女
としての才能であろう。(以下略)      「愛人」という役柄

           秋山駿『路上の櫂歌』(1994年小沢書店刊)

 肝心なところはわざと省いて引いた。

 小林の女性をめぐっては白洲正子の「むーちゃん」への追悼文があ
る。あわせて読んでみると、昭和時代の文学者の男女のやりとりのひ
とつのかたちが、多少は腑に落ちるようである。

 秋山駿の文章は、論ずる対象への敬意と遠慮が好ましく、いくつに
なっても学びたいところだ。 全部読んでいない詩集のような本なの
だが、よほど文学が好きな人なら、この本を手に取ってみたらいいか
もしれない。

瀬戸夏子歌集『かわいい海とかわいくない海end』について 2

2016年03月26日 | 現代短歌 文学 文化
 作品集の末尾の通常「あとがき」が来る位置に置かれている短編小説は、全体を読み解く鍵を与えてくれるものだ。思うに、作品の冒頭の雑誌の表紙の女も、電車の中で出会った若い女も、とりわけ謎めいた「ラ・プチット・ビジュー」も、<作者>の分身なのにちがいない。N個の<私>とでも言っておこうか。

「ラ・プチット・ビジューの悲しみは、決して私の悲しみではない。
 どれだけ私がそうなるように望んでも、決してその感情を私の悲しみにすることはできないのだ。」

ここでの「私」と「ラ・プチット・ビジュー」との関係は、<多重人格者>の二人である。そうしてその「私」に性的な多重性・複数性があるとしたら、問題はさらに込み入ったものとなるにちがいないと思う。

水星の性倒錯にやさしさが苦しくもない世界の次第で  
硝子にうつる強弱をまとった瞳がまた水星だけに味方していく  

作者は「水星」を受け入れていないし、そのまま認めたくないのだと思う。「性倒錯」としてあらわれているのは、作者でなくて作者の「恋人」・「配偶者」の「詩」である可能性もある。または、多重人格のもう一人の「詩」である可能性もある。「性倒錯」というのは、多重化した「私」をメタ化する装置として存在するのだろう。そうすると多重人格(この言葉は筆者が書いているのであって、作者は使っていない)もメタ化の装置である可能性はある。そのようにして現実の<作者>はテキストから析出されない。そのように読むのが筋である。そういう意味では、この作品集は従来の短歌的なものからまったく切れている。
あとがきの位置に置かれた短編小説で、「私」と外で吐いている「あなた」は、重なりつつ二人に分かれているけれども、「あなた」が現実の男性だとすると、「あなた」は<性倒錯>の語り手である「私」の「夫」か「恋人」であったりするのかもしれない。ここで<性倒錯>を持ち出したのは、現実の<作者>がそうであるということではなくて、たとえばそのような性的な不如意の感覚や、よじれた欲求を持っていなければ、これらの作品は書かれなかったのではないかと思うからである。これは鋭敏な生き方をしている人なら普遍的に抱く生の不如意の感覚のことである。エクリチュールを根底から支えている生の実感、「わたしは無罪で死刑になりたい」という言葉を作者に吐かせる根本的な理由のようなもの、それを想像しながら読むと、この作品集は痛切でむごたらしく、激しい苦悩を表現しているように読めるのである。これはまったくの誤読かもしれないが、そのように読んだ方が、言葉がこちらの胸に突き刺さる感じに見合っている。

あとずさり百合の模様に織り込まれまだ国際的ないただきとなる 

この「いただき」はドゥルーズの「プラトー」ではないかと思う。そうして作者はかなり濃いドゥルーズの読者ではないかと思う。

C級の瞳と電気の神話にふりむかないエンドロールを破壊したまま  
きみならば首を吊るだろう夕焼けに音楽ははじめに馴染んでく  

こんなにも絶望的であとがない情念の言葉を、連続的に吐き出し続ける感覚というのは、書くことによって死をまぬがれるという書き方を「詩」が要請するからだ。これは戦後詩ではむしろ常套的なあり方だったが、最近はあまり見なかった。このこと自体は、むしろ懐かしい既視感のようなものを覚えさせるものであるが、現在の文化状況、詩歌の置かれている状況のもとにこれを行うのは、このように断固として行うことは、言表の世界におけるひとつの抵抗である。この一冊は、言表が多様な<切断>であるような不可能事への不遜な賭けであると言ってもよい。そういう猛々しさは、ある。そのことに私は感動を覚えた。
         
        




瀬戸夏子歌集『かわいい海とかわいくない海end』 1

2016年03月22日 | 現代短歌 文学 文化
 私はヘーゲルの『小論理学』の一番はじめの<一>と<多>のところでつまずいた人間だから、私がドゥルーズを引用すること自体がそもそもおかしいのであるけれど、しかし、この(一見)難解な瀬戸夏子の歌集について何か書いてみようと思って、『千のプラトー』の文庫本をめくっているうちに、こんな一節が、とても新鮮に感じられた。

「多様体の原理。(略)多様体はリゾーム状であり、樹木状の疑似多様体を告発する。客体において軸の役目を果たす統一性はなく、主体において分割される統一性もない。たとえ客体において中断し、主体の中に「回帰する」ことを目指すだけのものであっても、とにかく統一性はない。多様性には主体もなければ客体もなく、たださまざまな規定や、大きさや、次元があるだけで、そうしたものはこの多様性が性質を変えないかぎり成長しえないのだ。」   『千のプラトー』(序)

 瀬戸夏子の短歌は、ここで言う「樹木状の疑似多様体を告発する」エクリチュールなのかもしれない。ドゥルーズの言うことを実践しているのである。私なりに言い換えてみよう。瀬戸夏子の短歌は、<よじれ>と<もだえ>の多面体を志しつつ、「樹木状の疑似多様体を告発する」エクリチュールなのだ。ここで私は、にわかに心に決めたのだが、このようなエクリチュールを支援するほかに、現下のわれわれのあらゆる閉塞状況を打開する手立てはないのではないか。あと、もう一箇所、引用してみよう。

「…われわれ人間はさまざまな線から成り立っているからだ。エクリチュールの線だけを問題にしようとは思わない。エクリチュールの線は、生命の線、運・不運の線など、他のさまざまな線と結び合わされ、これらの線がエクリチュールの線を変化させ、書かれた線の間〔行間〕の線になるのである。」              同(8)

 これは、まるで短歌の話をしているみたいな文章ではないか。ドゥルーズが短歌のことを知って書いたら、けっこうおもしろかったかもしれない。
などと…。しっかし、現代短歌、おもしろいなあ……。

吉田隼人歌集『忘却のための試論』について

2016年03月19日 | 現代短歌 文学 文化
 まず本を手に取って、表紙の絵に衝撃を受ける。次に帯の文に目が釘付けになる。

「この集が一基の墓標である以上、冥府に降った作者は遂にそのまま此岸に還ってこないということも充分に考えられる。…」

この文章は、本人が書いたのだろうか。急いで「あとがき」を斜め読みして、なるほど、そういうことか、と思う。しかし、ここでは、あえて引かない。

 現代短歌が、知的で鋭敏な人なら必ず参照していなければならない存在になりつつあるということを、この本ほどはっきりと示すものはないだろう。このブログのほかの記事にも書いたが、小説も含めて、文学が再び光輝を取り戻す時代がやって来ているのだ。それも、今が旬の作者たちが、ちょうど日本の戦後詩が盛んだった頃のように、あとからあとから次々と続いて、一斉に展開していこうとしているのだ。この現場に立ち会えたことを、私はよろこびたいと思う。吉田隼人は、短歌の分野における、その象徴的な存在の一人となるにちがいない。

 近年これだけ徹底した構築力と高度な修辞力をもって、己の生の痛苦を訴えながら、美意識の高みを示し得た若手の歌集があっただろうか。吉田隼人の歌は、ニーチェの言う血で書かれた文字であると私は思う。そうして冒頭のマラルメの詩の雅文体訳や、後半のグラックの『シルトの岸辺』からの引用からもわかるように、近代の日本文学と戦後詩の遺産のすべてを一身に引き受けて継いでいこうとする意志を抱きながら、それを実現してみせたのだ。

 さらに、この作者のいいところは、どの歌も現実の作者の日常生活の尻尾を完全に切り捨ててはいないところである。短歌の生理を受け入れて、無理にフィクションの方に言葉をねじ曲げようとしていない。そうして全体的にどの連作もとてもエロティックである。私はそのことにそそられる。深く、静かに…。

荻世いをら「私のような体」(「すばる」3月号)

2016年03月01日 | 現代小説
 この小説は、電車の中で読みはじめて、読みさすのがいやで電車を降りたくなくなった。先日の早助よう子の小説がおもしろかったのに味をしめて、文芸誌の小説をまともに読むことにしたのである。日本の現代小説って、こんなにおもしろいんだ。と、再び思った。この小説から学生の頃に読んだアルフレッド・ジャリの『超男性』のことをなぜかいま思い出した。先にことわっておくと、本文のタイトルの「体」は「躰(からだ)」の正字だが、文字化けするのでやむなくこの活字とした。

本作の主人公Aは、場の文脈の読めないところがあるボディビルダーで、「自分の命より自分の肉体を大切にしている」種族の一人である。この号で小説は一応短編として終わっているものの、主人公のAがそののち詩を書くようになったといういきさつまでストーリーをたどりきっていないのが少々残念だった。だから、連作の短編の一部のような気配もしないではない。

ともにボディビルダーの主人公AとそのライバルBは、エッシャーのだまし絵のように前景が後景に入れ替わるかたちで、交換可能な人物である。しかも二人はスカイプでつながっている。Aは筋肉増強剤否定派、Bは肯定派で、二人の議論は妙によじれた平行線をたどる。AはBの紹介で入って来た後輩がBのスパイなのではないかと疑心暗鬼になったりする。Aはストーカー事件を解決する会社の会長の傍らで働くことになり、そこでAは無類の活躍をするのだが、物語の最後には、その会長自らが、最悪のストーカーと化してしまう。これも入れ子細工のように相似形の人間の欲望を描いている。AとBの姿は、まるで現代の日本の国会の戯画のようでもあり、このシンボリックな自己愛物語の真の主人公は、現代の日本人であるのかもしれない。などと私も日頃の鬱憤をこんなところでぶちまけてみるのだが、この小説に出て来る人々の被害妄想的な思考のいちいちが常軌を逸しているのにもかかわらず、そのリアルさは、さもありなん、と思わせられるところがあって、要するにこの小説の登場人物たちは自己愛以外のモラルがない。これはほとんど現存の政治家の竹中平蔵などの姿と重なる。とまた鬱憤をぶちまけても許されるぐらいのカリカチュアライズする精神が旺盛な小説なのだ。この調子でピカレスク・ロマンをデフォルメしていけば何だって書けるだろう。

小説の場面のどれもが、微妙に既成のジャンル小説の場面を型として取り出しながらパロディ化しているところがあると感じる。集中にばらまかれる映画名や音楽についての蘊蓄は、そういう趣味の持ち主へのサービスともなるものだが、一方でそういうスタイルの著名な書き手の癖を取り込んだパロディーでもあってほしいので、単に筆者がそこでオタク的であるだけでは広がりをもたない気がする。

小説のラストの姿見が出てくるあたりは、出来すぎという気もしないではないが、心憎いほどの写像関係へのこだわりではある。ひとつだけ気になるのは、Aがアナボリック・ステロイドを使用していたことが途中で突然明らかになるのだが、その理由や動機がいま一つわからない点である。ホルモン・バランスが崩れてオフに体が女性化してしまう(ビッチ化と言っているが)という逆転の悲喜劇は、このカリカチュア小説のもっとも愉快なシーンであると思うが、そこに至るまでのきっかけや経緯が丁寧に書き込まれてない。これは既定の枚数以内にまとめるために作者がネグってしまったとしか思われないので単行本にする時は丁寧に詰めておいてもらいたいと思う。