さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

木俣修研究会『木俣修読本』

2019年03月30日 | 現代短歌

 このところ木俣修関係の書物の出版が続いている。いずれも外塚喬氏やその関係者による出版である。私は先日、たまたま木俣の歌集『愛染無限』を手に取ってひらき、その一部を地域でひらいている短歌会の講義で紹介した。そこでは、毎回さまざまな歌人の作品をとりあげる。時間がないばあいは全員でいくつかの章を音読するだけの時もある。会に参加しておられる方々には高齢の方が多い。そこでは、短歌は生身の人生を詠むものであるし、また日々の哀歓を託してこころやりとするためのものである。木俣修の歌は、そういう要求があるところで模範とするに足るものを備えている。
 
 私自身、還暦を迎えて仕事もいったん退職の辞令をもらったりする年齢になってみると、木俣修の歌は、にわかに自らの処世というようなものに照らして読む価値が増して来たのである。本書は現在の歌壇の著名な論者たちが、こころをこめて木俣の生涯の仕事を概観しており、広く大学や公共の図書館などにおいて架蔵することを求めてよい内容となっている。

中でも、まず第一に篠弘の「木俣修における「老い」」という一文に示されているような老いと向き合って生きる姿勢という観点から、木俣作品は一般に紹介されてよいであろう。二つ目は、「木俣修というと私にはとりわけ挽歌の印象が強い。」という書き出しの、小林幸子の「悲しみを拠り所として」という文章に端的に示されているような、妻子を失った悲しみを抱く人々に木俣の作品は直接に届くはずである。ここを入口として木俣修に出会い、あらたに読みはじめる読者は潜在的に無数に存在するのではないか。

 さて私自身は、栗原寛の「修とけもの」という一文に引かれている次の歌、

けだものはいづくにひそむ熊笹の深きしげみにおほはるる渓    『歯車』

というような歌の調べに感応するところがある。「けだもの」「いづく」「くまざざ」「深きしげみ」というような一つ一つの言葉が、言ってみれば、ごわごわ、ざらざらしたその響きによって、何か荒々しい感情を風景に向かってぶつけていて、こういうやり場のない思いを抱えた「けもの」の所在を形象化してみせた作者の手腕、内観の姿勢というものを思うのである。

 私が感心したのは、清水亜彦の「用語法小考」という一文である。「夏暦」を裏返して使った「冬暦」という独特の用語法にふれながら、上田三四二の木俣作品評価の変遷と、上田が木俣に影響されて書いた作品を指摘した。一九五五年の時点でその作品に不満をもらしていた批評家が、一九六九年には肯定的な評価に転じている。のみならず『遊行』の「冬暦」十首、小説集『夏行冬暦』におさめられた小説に上田の木俣への思いが読み取れるとする。

「…語彙レベルでの拘りが、木俣作品の本質を際立たせ、その多作を繋ぐ「緒」の役割を果たしているのは、確実だと思われる。」(清水亜彦)

清水の文章は、私が若い頃に感じた木俣作品のやや物足りないもどかしい部分と、それをはるかに凌駕して訴えて来る諸々の作品の持つ衝迫力について、みごとに解析してみせてくれている。年齢を重ねて来たからこそわかる部分というものが、確かに木俣作品にはあるのだ。

 ※ 冒頭の一文に脱落があり、いま手直ししました。4月14日追記。


吉田恭大『光と私語』

2019年03月26日 | 現代短歌
  恋人がすごくはためく服を着て海へ 海へと向かう 電車で

 何か言おうと思って栞の文をちらっと見てみるが、なんか自分とは入り方がちがうなあ、と思う。あとがきを見てみると、「生まれ育った鳥取を出て、10年経った。 演劇と詩歌の両方に携わりながら、死なない程度に働いている。」とある。演劇、という言葉を思った途端に、ふっとこの歌が入ってきた。私は歌集をはじめから順番に読まない。これは演劇的だ。この歌をもとに一幕の芝居が書けそうだ。

 ぞうがめの甲羅を磨く職人の家系に生まれなかった暮らし

 日雇いの仕事が飛んで平日のあなたと動物園に向かった

 トラのいる檻でボタンを押して鳴るさびしい時のトラの鳴き声

行間に差し込む光のように微笑が生まれてくる、この文体はなんだろう。若者はみんな、空しくてさびしい。それでよい。同じ一連の末尾の歌。

 明日の各地の天気予報がつぎつぎに届いて電話の電池が切れる
 
 百年を経て平日の晴れた日にあなたと亀を見にゆくんだよ

 この二首の間に、デザインによる鼠色がかった茶色の帯の、文字がない一行分の一本線がある。連作として読むのでないと、前の歌は少し淡すぎるし、後の歌もやや言葉がわかりすぎる。ここは私のような読者を相手にしていないのかもしれないが。別の章を読む。

  一年、また老人に近付いて、引いた歌の数ばかり増えて、私のコートは
  赤くないけれど、両手を空に向けて差し出す。

この「引いた歌の数ばかり増えて」というのが、歌人以外の読者に対してひらけていない気がする。この言葉の三ページ前には、次のような言葉がある。

  都電には老人が多い。老人は地下鉄に乗れない。彼らは次、
  地下に潜る時は埋められる時だと信じている。

でもねえ、老人も、きっとさびしいはず。私は昨夜、偶然手に入れた「月刊漫画ガロ」の1975年11月号の唐十郎作、篠原勝之作の「糸姫」を見て仰天していたのだ。何しろインパクトがちがう。そういう時代だったんだなあ、と過去の疾風怒濤の時代を今とひき比べて思いみるうちに、疲れて熟睡してしまった。私は昨日退職の花束をもらったのだった。まだ働くけどね。また別の章を読む。

 祝日のダイヤグラムでわたくしの墓のある村へ行く

こっちは、芝居になりそうだ。故郷への帰還の一連。

 河口から遡っても会えなくて潮の匂いで錆びてゆく腕
 地図を正せばもう消えている場所だろう  こんなにも猫しかいない

これは墓地がみつからないのである。ページの隙間が、心地いい。山本浩貴+h(いぬのせなか座)による装丁がこれはうまくいっている。もう一ヶ所同じ一連から引く。

 海に沿い小さな港 隧道を抜けるたび小さな船を見る
 暦では水母に埋まる海岸を誰かかわりに歩いてほしい
              諸寄、居組、東浜、岩美

これを読んで思う事は、日本語というのは、ごく自然に道行き文になるような生理を持っているのだということだ。地名がそういう記憶の古層を揺さぶるのである。いろいろな創作のためのポケットがありそうな作者だ。

「ゲノム編集食品夏にも 厚労省部会報告 多くは審査不要」「毎日」3月19日6面について ※追記9月22日、12月25日

2019年03月21日 | 暮らし
最近思う事は、国会でいま何が審議されているかというようなことについて、新聞をいくら読んでもほとんど書いていないということだ。「水道法」(水道事業に海外勢も含めた民間事業者が参入することを可能とした)にしろ、「漁業法」(地元漁協の優先的な漁場についての権限をうばった)の改正にしろ、編集デスクがトピックとして取り上げることに決めたことだけが、わずかに載っていたにすぎない。

 昨年の「種子法」(コメなどの主要産品の種子の研究管理を公的機関が保障する義務をなくして自由化した)の撤廃については、私はその時期にあまりニュースに注意していなかったので事後に知った。これらの規制撤廃は、アメリカをはじめとする外国の政府・資本の要求、ТPP条約の締結などと深く関連しているだろう。

 これに加えて、認可権を持つ官庁がどういう判断を下しているのかについても、いちいち新聞やテレビで丁寧に報道がなされるわけではない。3月19日の新聞を見ると、遺伝子組み換え技術によって登場する新たな産品については、監督する官庁が審査してそれが通ればすぐにも流通可能なのだそうだ。これは医薬品よりもずっと緩いと言わざるを得ない。

 近年のゲノム編集技術の飛躍的な発展によって、簡単に遺伝子編集が可能になった。しかし、遺伝子の操作の過程で発生するリスクが十分に検証されているわけではない。

 遺伝子を切り貼りする過程で、がんの発生等につながる有害なタンパク質が生成されることになっても、それはすぐにはわからない。何でも新しいことに飛びついて、すぐさまそれを産業化しようとする態度の危うさについて、われわれはもっと自覚的であるべきだ。自分の子や孫が知らないうちにガンのリスクにさらされているとしたら、安閑と座って茶飲み話ばかりしているわけにはいかない。

※ 追記。 9月20日の新聞によると、9月19日に、ゲノム編集された食品について、その表示義務がない、ということを正式に決定して発表してしまったようである。いたずらに不安をあおるつもりはないが、もしもの健康被害の可能性があるものを、一監督官庁の判断で強行してしまっていいのか。
私にはまったく理解できないし、許せないと思う。ラグビー・ワールドカップ初戦勝利のかげで、こういうことがやられている。と言うより、あえてこの日にぶつけたわけか。

※ 追記。 この問題についてのすばらしい参考図書が刊行された。それは、山田正彦著『売り渡される食の安全』(角川新書)である。これを読むと、種子法を廃止して、国家の根幹である米の種子についての農民の権利を奪い、日本の利害と日本の国民の健康を考慮しない行政当局のなりふり構わぬ海外資本への擦り寄りの姿勢が見えて来る。

一ノ関忠人『木ノ葉揺落』

2019年03月20日 | 現代短歌
 人間の経験のなかには、時としてそれに向き合っていることがつらくて、どうしたらいいのかわからなくなるような出来事があるのである。著者は、自身の病気や、師の思わぬ早逝、親しい歌友たちの痛ましい死といったことに堪えながら、ずっと過ごして来たのだろうと思う。

 それだから余計に、近親の不幸も同じように受け止めて、じっとこらえて歌にしている。短歌は、そうした人生をしのいで生きてゆくなかでの〈ねばり〉のようなものを人に与えてくれる詩型でもあるから、著者が本集を刊行できるのは、まちがいなく短歌のおかげである。

  アスファルトの狭き亀裂に草みどりあかるき色にいのちが動く

 こういう心の動き方は、自分が徹底的に圧伏されるというか、打ちひしがれた経験のある人ならではのものだ。そうして、凡庸な歌人なら、結句は「こころがうごく」というようなものになるはずのところで、作者は「いのちが動く」と言った。ここに、この間の幾年にもわたる著者の苦しみと、そこから抜け出てきた経験の総量から得たものが端的にあらわれている。

  相模国分寺伽藍の址の芝はらに夕色ひろがるわれ立ち舞はむ

 これは実際に、何となく舞いに近い動作をしてみたのではないかと思う。詩歌のこころの躍動は、〈わざおぎ〉の躍動と等しいものがある。

  ザクロの木の若葉の芽立ちあかくして並び立つわたしのいのちに映える

 これも病者としての経験の中で切実に深まる思いから歌われている。

  一団のひかりがつつむ普請現場若きいのちの汗が飛び散る

  夜の闇のそこのみ光り横溢するモダン東京を滅ぼすために

 環状線などの道路工事現場を見て作った歌である。私もあの工事現場の活気と、力いっぱい鶴嘴を打ち下ろしてアスファルトを叩き割っている姿をみて感動したことがある。自身が弱っているときには、なおさら神々しいほどのエネルギーを感じることだろう。だから、この歌集のテーマは「いのち」であり、生きる力である。そこから逆に死をうたうことも可能になっている。

  裏切りは戦国の倣ひと人は言ふ然れど武田家の滅亡さびしき

 ※「滅亡」に「ほろび」と振り仮名。

  子すずめが音符のやうに跳びはねるたのしきところ自転車停めて

  畔道に踏み入ればたちまち飛びだしてすずめの連吟 よるな、くるなよ

 右の二首も作者が雀と常々対話しているから作れた歌だと思う。雀のものの感じ方は、何となく人間に近いところがある。これは、雀が人間の近くで共生しながら身につけた人間の感情との類似性だと私は思う。だから、彼らは礼儀正しいし、義理堅いし、教育熱心である。雀については、これ以上書くと、眉唾に思われてしまうのでやめるが。

 松代は倉田千代子の墓の町 川遡り寺に行き着く

 松陰の四時の説など言ひつのり益なきことと夜灯消したり

  ※「四時」に「しいじ」と振り仮名。

 一首目は自裁した友人についての歌だろう。二首目は、姉の詩を悲しむ妻への心寄せの歌。吉田松陰のあの文章は、最後まで人を励まし、慰める言葉であるのにちがいない。

 還暦を迎えると、どうもにわかに〈死〉が視野に入って来るようだ。それは、病気をしていればなおさらそうだろう。けれども、歌の発するところは、常に生命の揺らぎが生ずるところである。生きるものの輪郭は、濃くなり、また薄くなりして、千変万化の変貌をみせる。そこをとらえるのが、歌の妙味である、作者は、そこのところに十全に通じているのにちがいない。

 今日たまたま拡げた本に、ビルマ戦線で従軍した画家の手記があった。書きぬいてみよう。

「……時々ね、大きい葉っぱを見ると思い出すのだ。それが何の木で、何という葉っぱか分からないけどね。大きい葉っぱが2枚あったんです。葉っぱがあるなと思ってね見てた、確か二枚あった。1枚が落っこちたのかね、たった1枚になったのね。そこにかくれてダメになったのよ、人事不省に。そしたら太陽が動くたびに影が動くんだね。そういう自然の、地球の神秘を体得したとでもいうのかな、だからおそらく人事不省になっても無意識のうちにときどき影を日影の方へ動いていたんだね。それでビルマ人に助けられたんだ。」 足立朗 (『原精一・戦中デッサン展』図録解説)






このブログの固定読者のみなさまへ

2019年03月16日 | お知らせ
 このところ、私のブログの固定読者の方には、御迷惑をおかけしている。財界と中教審の意向を受けた文科省の愚劣な新しい学習指導要領についての厳しいコメントを見て、心が癒されるような人は、世の中にまずいないはずである。しかし、繊細なものを守るために、猛々しい言葉を用意しなくてはいけない時というのもあるのである。

 今日は私は、自分の娘の卒業式で大学の学長の方とお会いして、少しだけお話しすることができた。

 文科省と言うよりも、やはり中教審を通して財界の意向がダイレクトに学校に押し付けられて来るのが、いちばんこたえるとおっしゃっておられた。以前は社員教育でやっていた内容を、その余裕がなくなったから、大学に押しつけてやらせようとしているのは、スジがちがうのではないか。というようなことをおっしゃっていた。私もそう思う。

 今度の学習指導要領改訂で小中高と順に押しすすめて来た流れが完成する、と文科省の担当官は述べている。

 新しい高校の教科書を中学校の教科書を参考にして作ってください、と担当官は言っている。例の中学校で大きな採用数を誇る光村図書の「伝え合う」なんとかいうタイトルの教科書などがイメージできる。

 私は確信を持って言うが、今後の日本における、もっともすぐれた表現活動・創作活動の担い手は、多くがあの教科書に対して違和感を抱いたり、あの教科書によって教えられることに嫌悪を抱いた人々のなかから出てくるであろう、ということである。

 私はひねくれ者なので、あの「伝え合う」という言葉が大っ嫌いである。これは、わかる人には、わかってもらえるであろう。

 


 





谷岡亜紀『言葉の位相 詩歌と言葉の謎をめぐって』寸感

2019年03月11日 | 現代短歌 文学 文化
この本は、親切な大学四年生の先輩が、後輩の新入生に対 して文学やこれからの学園生活についてレクチャーしてくれているようなところがある。短歌の修辞やその作り方についての、きわめて専門的かつ玄人的な知見を、平易な言葉に置き換えて説明してみせているところに、本書の行き届いた特徴がある。

その分、谷岡亜紀という短歌作者の持っている混沌とした面についての文章は、本書の編集に際しては意識的に抑制されていると言ったらいいのかもしれない。何となく無頼なイメージのある谷岡亜紀という歌人が、実は細心で律儀でしかも親切な教師的資質を持っている人だということがわかるのが、本書のおもしろいところである。

 本書のタイトルともなっているⅠ章の「言葉の位相」の章に私はあまり食指が動かなくて、後半の文章の方に強く興味をそそられたのだった。それで後半についてコメントすると、玉城徹の『茂吉の方法』がわからない、と言う人も、本書のⅡ章所収の「斎藤茂吉の映像性」、「短歌と深層心理 描写詠の可能性」という文章に見える茂吉の歌の解説はわかるだろう。きわめて明晰にわかりやすく斎藤茂吉の「方法」を解説してくれている。

 同様な性格の文章として、Ⅲ章の「舞踏する文体、または文体のキュービズム 韻文詩のレトリックをめぐって」もなかなかいいと思った。同じくⅢ章の「佐佐木信綱の〈新しさ〉」や、「折口〈釈迢空〉と戦後」などは、印をつけておいて自分が今度信綱や、迢空を読む時に参考にしようと思ったものである。

内容未知数の「論理国語」から高校生・受験生を守る方法

2019年03月06日 | 大学入試改革
※ この文章は一度出してから消したのですが、先日都内の私立高校の先生方の何人かとお会いしたところ、だいたい私と同じ見解のようだということが確認できたので、再び公開の設定にもどします。

 学校現場は、来年度以降の新入生にカリキュラムを示す必要にせまられている。

しかし、「論理国語」の教科書は、きわめて実験的なものになることが予想されるうえ、文科省のきわめて恣意的な意向に左右された内容となることがすでに予想されている。

教科書の現物が未知数である以上、現在の段階で「論理国語」を選択するのは、きわめて冒険的であると言わざるを得ない。

したがって、以下は、私の提案であるが、二、三年生では「文学国語」を選択し、評論分野、「論理」的な国語の分野は副教材を用いて行うものとする。カリキュラムの字面から不安を抱く保護者にむけては、「新設の「論理国語」は内容に不安が残るため、本校では論理分野の対策としてこれこれの教材を用意しています」と補足説明をつける、というものだ。

一年生対象の「現代の国語」は、はっきり言って生徒たちの食いつきが悪くてどうにもならないことが予想できるから、現場の教員は従来の手持ちの「国語総合」の教材を自作プリントしてしのぐことになるであろう。

「文学」があるから、かろうじて文字を読んでくれている生徒たちがいる、ということなど、文科省の秀才官僚諸氏にはわからないのだから、仕方がない。

それから、日本文芸家協会は、声明を出すだけではなく、文科省に対して公開討論を要請すべきだと私は思う。

あとは、日本文化の未来のために、この大滝一登という人の発言について、権力相手にビビることなく、みなさんがちゃんとコメントすべきだと思います。