このところ木俣修関係の書物の出版が続いている。いずれも外塚喬氏やその関係者による出版である。私は先日、たまたま木俣の歌集『愛染無限』を手に取ってひらき、その一部を地域でひらいている短歌会の講義で紹介した。そこでは、毎回さまざまな歌人の作品をとりあげる。時間がないばあいは全員でいくつかの章を音読するだけの時もある。会に参加しておられる方々には高齢の方が多い。そこでは、短歌は生身の人生を詠むものであるし、また日々の哀歓を託してこころやりとするためのものである。木俣修の歌は、そういう要求があるところで模範とするに足るものを備えている。
私自身、還暦を迎えて仕事もいったん退職の辞令をもらったりする年齢になってみると、木俣修の歌は、にわかに自らの処世というようなものに照らして読む価値が増して来たのである。本書は現在の歌壇の著名な論者たちが、こころをこめて木俣の生涯の仕事を概観しており、広く大学や公共の図書館などにおいて架蔵することを求めてよい内容となっている。
中でも、まず第一に篠弘の「木俣修における「老い」」という一文に示されているような老いと向き合って生きる姿勢という観点から、木俣作品は一般に紹介されてよいであろう。二つ目は、「木俣修というと私にはとりわけ挽歌の印象が強い。」という書き出しの、小林幸子の「悲しみを拠り所として」という文章に端的に示されているような、妻子を失った悲しみを抱く人々に木俣の作品は直接に届くはずである。ここを入口として木俣修に出会い、あらたに読みはじめる読者は潜在的に無数に存在するのではないか。
さて私自身は、栗原寛の「修とけもの」という一文に引かれている次の歌、
けだものはいづくにひそむ熊笹の深きしげみにおほはるる渓 『歯車』
というような歌の調べに感応するところがある。「けだもの」「いづく」「くまざざ」「深きしげみ」というような一つ一つの言葉が、言ってみれば、ごわごわ、ざらざらしたその響きによって、何か荒々しい感情を風景に向かってぶつけていて、こういうやり場のない思いを抱えた「けもの」の所在を形象化してみせた作者の手腕、内観の姿勢というものを思うのである。
私が感心したのは、清水亜彦の「用語法小考」という一文である。「夏暦」を裏返して使った「冬暦」という独特の用語法にふれながら、上田三四二の木俣作品評価の変遷と、上田が木俣に影響されて書いた作品を指摘した。一九五五年の時点でその作品に不満をもらしていた批評家が、一九六九年には肯定的な評価に転じている。のみならず『遊行』の「冬暦」十首、小説集『夏行冬暦』におさめられた小説に上田の木俣への思いが読み取れるとする。
「…語彙レベルでの拘りが、木俣作品の本質を際立たせ、その多作を繋ぐ「緒」の役割を果たしているのは、確実だと思われる。」(清水亜彦)
清水の文章は、私が若い頃に感じた木俣作品のやや物足りないもどかしい部分と、それをはるかに凌駕して訴えて来る諸々の作品の持つ衝迫力について、みごとに解析してみせてくれている。年齢を重ねて来たからこそわかる部分というものが、確かに木俣作品にはあるのだ。
※ 冒頭の一文に脱落があり、いま手直ししました。4月14日追記。